第2話 生まれつきの美人

 カーテンを閉めきった薄暗い部屋。

 斜め下からの青白い光に照らしだされる美しい横顔。

 頬にかかる髪を無造作にかきあげ、凍りついたように画面を見つめている。

 光の中に探しものが無いとわかると、いつものように「どうして」から始まる疑問が次々と唱えられる。


 いつものように私は黙っている。

 私の言葉は必要とされていないから。


 それでも、モニターの脇に置きっぱなしのコーヒーのことは気になって仕方がない。

 私が生まれる前からママが愛用しているマグカップには、大きな赤い文字でAとある。

 それが何の印なのかはわからない。

 少なくとも、ママのイニシャルではない。私のでもない。


 カップには朝食用に入れたコーヒーが半分くらい残っている。

 もうどうしようもなく不味くなっているはずで、そんなのは口にしてほしくない。

 熱いコーヒーを入れなおそうと、すり足でコーヒーメーカーの前まで移動したところでママに見つかってしまった。


「何もしないで。服が汚れるから」

 早口で怒られてしまった。


 コーヒーを入れるだけのことで、どうやったら服を汚せるのだろう。

 けれども、今日は特別な日だからと思いなおし、細く長く息をはいた。

 私がするのは待つこと。ママの準備が整うまで。

 もう余計なものは見ない。

 静かにゆっくり、つま先から思い出の海に沈んでゆく。


 うれしかったこと

 うれしかったこと

 うれしかったことをおもいだそう


「私の仕事は、なんでも屋」

 ママは自分のことを、よくこんなふうに言う。

「なんでもひととおりできるけど、ただそれだけ。専門家にはなれない。器用貧乏なのね」

 ママの仕事は、少なくとも仕事の一部は、英語の通訳だ。

 

 ここからの話はママのお気に入り。何度も聞かされて、そのたびに一緒に笑った。


 東京で美容整形外科学会が開催されたとき、招待講演のために来日した著名なドクターの通訳を務めたのがママだった。

 講演の通訳は、同時通訳者の仕事。

 ママの仕事は、そのドクターと、偉いけど英会話が苦手な人々との会話を成り立たせること。学会の開催中はずっとつきそって通訳。学会が終わると東京見物につきあい、家族へのおみやげ選びも手伝って空港へ送っていった。

 出発まで時間があったので、空港内のカフェで一緒に時間をつぶした。

 最後まで気分よく過ごしてもらうのも仕事なので、今回の講演を持ち上げたら、そのドクターがこう言ったそうだ。

「美容整形には限界があります。手術をすれば確かにきれいになるけれど、みんな同じような顔になってしまうのです」

 みんなと同じような顔なんて、まさに私の理想だ。大人になったら美容整形手術を受けよう。それで全ての不都合が消えて無くなるかもしれないのなら。


 でも、それはまだ先のこと。今はママの話で、ここからがいいところ。


「常に限界を超えようと努めてはいますが、神の創造する美しさには遠く及びません。生まれつきの美人には、美容外科医の助けは必要ない。あなたのような人ばかりの世の中になったら、我々の多くは失業ですよ」

 ドクターの声音をまねて重々しく言うと、ママはころころと笑った。

「専門家のなかの専門家が言ったのよ。あなたに美容整形は必要ないって」

 ママは『必要ない』のところで、舞台女優のように手をさっと振った。


「遠い将来、シミやシワをとりたくなったら我々のことを思いだしてください、って言われたから、こう返したの。

『では、もう予約を入れなくては。わたくしは、もう随分長く生きておりますもの。十歳になる娘がいますから』って。

 そうしたら『冗談ですよね?』って何度も何度もきくから『本当です』って答えたらね、彼はこうしたの」

 ママは胸の前に両手を広げ、両目をいっぱいに見開いて「オォー」と声をあげた。

「そうして首を振り振り『やはり我々は神の創造する美しさにはかなわない』って言ったの」


 ママと私の笑い声は一緒になって、冷たいソーダの泡のようにパチパチはじけた。

 ひとしきり笑うと、ママはさっきより大げさな身振りで声をあげた。

「ワァーオ!」

 珍しくおどけるママの上機嫌が嬉しくて、私は涙を流して笑いころげた。

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