ママの彼氏をバレエで殴れ

まるでグヮルティエル

第1話 うれしかったことをおもいだそう

 私は合図を待っている。

 目だけで主役の動きを追い、音楽に耳を澄ませて。

 

 ふっと音がやんだ。

 

 再び始まった前奏が、とどろくような歌声を導く。

 終わりの見えないスタンバイ。いつまで待てばいいのだろう?

 

 息を殺しておけるよう、いつもの呪文で記憶の底を探ってみよう。

 

 うれしかったこと

 うれしかったこと……

 うれしかったことをおもいだそう



 そこは、がらんとした鏡の間。

 天井が白い光を放ち、高窓にはまぶしい青空が貼りついている。

 木製の手すりが二段になって、壁の端から端までレールのように取りつけてある。

 低いほうに手を置く。

 冷たさが心地よく、そのまま手をすべらせて歩く。

 高い窓から降りそそぐ光の帯に入る。思いがけない温もりに包まれて足がとまる。


 にわか雨の音に追われ、窓から離れた。

 カーテンが自然光を遮り、白すぎるシーリングライトが鏡をぎらつかせる。

 小さな子が続々と集まってくるので、少しずつ場所をゆずって鏡から一番遠い位置まで移動する。


 さっと脇を通り過ぎた背の高い人が、ずんずん前に進みでて、鏡の前できりっと半回転した。

 凛とした立ち姿。きゅっと上がった口角。両頬に縦長のえくぼ。

 これまで出会ったどんな大人とも違っていた。それがリョウコ先生だった。


「みなさん、こんにちは」

 リョウコ先生の声は、ハスキーなのにピリッと届く。

 私たちは不揃いで消え入りそうな声で挨拶を返す。

 予想に反して『もっと大きな声で』とか『もっと元気よく』などとは要求されなかったので、それだけでも先生のことが好きになってしまう。


 この特別な場所で特別な何かが始まるのだと思えて、期待で胸がふくらんだ。

 でも、最初の指示があまりにもありきたりなので、拍子抜けしてしまった。


「鏡で自分の姿をよく見ながら、まっすぐ立ってみましょう」


 当時の私はまだ幼かったけれど、日本の子供らしく、まっすぐ立って整列させられることには慣れていた。だから、おなじみの気をつけの姿勢をとって鏡を見た。


 巨大な鏡に映る自分の姿は、同じ年頃の少女たちからは奇妙に浮いて見えた。

 これが私の見た目かと思うと、恥ずかしくて消えてしまいたくなる。

 じりじりと足の裏を滑らせ、鏡の中で胸を張る少女の後ろに隠れた。

 ここでなら背筋を伸ばし、前を向いていられるかも。


「みんなとってもきれいよ」と、リョウコ先生の声がした。「もう少し、そのままでいてね」


 先生は小さな生徒たちの間に入っていって、ひとりひとりの肩や背中にそっと手を添えた。すると、女の子たちの肩の力が抜けたり、背中がまっすぐになったり、お腹が引っ込んだりした。先生は歌うように「そうそうそう」とささやき、さっとえくぼを浮かべた。

 花から花へ飛びまわる蝶のように軽やかな身のこなしで「そうそうそう」の祝福を授けながら正面に戻ってくると、「さあ、準備ができました」と朗らかな声で宣言した。


「もうすぐ、みなさんの頭のてっぺんに」

 ゆっくり右手を上げて頭頂を指差すと、重大な秘密を打ち明けるように声のトーンを落とす。

「小さな小さなバレエのかみさまがおりてきます」

 長い指で見えない糸を操って、頭を真っ直ぐに引き上げてみせる。

「頭のてっぺんから、身体をすっと引き上げてくれるの。そうするとね、自分だけで頑張るより、もっときれいな姿勢になるの。私の頭の上にもいるのよ。見ててね」

 ちらりとえくぼを見せ、お手本のように背筋をまっすぐにすると、ふわりと両手をおろした。 

 

 それが魔法の時間のはじまりだった。


 先生の身体が、すうっと伸びた。それ以上は真っ直ぐにならないはずの身体が。

 その姿は見る者を圧倒するほど美しく、みんなの口がぽかんと開いて「ほわぁ」と変なため息がもれた。

 

 魔法はこれで終わらなかった。


 先生の変化につられるようにして、ひとりまたひとりと生徒たちの身体が伸びていった。

 リョウコ先生はその瞬間を逃さず、一人の少女の前に魅せられたようにひざまずいて尋ねた。

 「頭のてっぺんから、キューって引き上げられる感じ、わかるかな?」

 女の子は、はちきれる寸前の笑顔で小さくうなずいた。


 私たちもみんな同じ表情をしていたと思う。

 ほんの少しの変化だけど、まるごと新しい決定的な経験。

 自分の力を越えた何かが、身体の隅々まで及んでいる感覚。


 最後に私の前まで来たリョウコ先生に、私も小さくうなずいた。

 きらきらした瞳でまっすぐに見つめられ、かっと耳が熱くなる。

 「とってもきれいよ。その感覚を忘れないで」

 そう私にささやくと、先生は滑るように鏡の前に戻っていった。


 私は大きな鏡に見入る。

 鏡の中の私が微笑んでいる。

 みんなとってもきれい。

 そこにいたはずの奇妙に浮いた外見の子は、もういない。

 

 バレエで身体を鍛えれば、生まれつきの見かけよりずっと人目を引く特徴を身に着けることができるのかもしれない。

 

 この発見は、幼い私にとっての本物の救いだった。


 頭のてっぺんに小さなバレエのかみさまがおりてくれば、いつだって少しは重力から自由になれるのだ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る