大往生ーーあるいは一介の道具存在の独白ーー

地崎守 晶 

ある一本の傘の場合

 目の前には持ち主に不要とされた大小様々な道具、つまりゴミが広がっている。右を見ても左を見ても、一面そのようなゴミが身を寄せ合っているだけだ。彼らは今いる場所の匂いや狭さや暗さに不平一つ漏らすでもなし、苛立ちから益無き争いを始めるでもなし、皆ある種の悟りにも似た諦観をその傷だらけの身に纏っている。新品の時どれだけの値を付けられようが、現役で活躍していた頃どんな持ち主に使われようが、そんなことはもはや意味を持たぬと知っているからだ。ここにくれば皆平等であり、今この時となれば等しく忘却の定めから逃れられはしないと皆分かっている。慌て騒ぎ主への呪詛を呟いていたものも落ち着いたのか、沈黙を保っている。我々に許されているのは、持ち主の手にあった頃の記憶を鑑みることのみである。人間である諸兄はゴミ処理場に積み上げられた我々を見て道具の墓場という言葉を思い浮かべるかも知れぬ。だが私はその認識は誤りであると述べる。道具の最期とはもはや元の道具としての形を失ったときであり、処理場はあくまで葬儀場でしかない。墓場と言えるのは灰か残骸が埋め立てられる場である。中には部品の大半を再利用され新たな道具として生まれ変わるものもおり、死後の安息は彼らにはない。

 申し遅れたが、小生は青い布地を持つジャンプ傘である。柄の部分に黒ずみぼろぼろになった名前シールがかろうじてしがみついている。消えかけていてほぼ判読できないが、そこには小生の最後の持ち主だった少年の名前が記されている。小生の半生など諸兄の興味の対象ではあるまいが、折角このような機会を得たのだ、しばし小生の一人語りを許して頂きたい。

 小生はごく普通のジャンプ傘として工場にて大勢の同輩と共に作り出され、ごく普通の量販店の一角に並んでいた。小生を買って行ったのは福福しい主婦であった。彼女の家庭には元気な男の子が一人いた。彼はその当時小幼稚園という場所に通っており、雨天の日などは母君か父君が小生を差して迎えに行くことがあった。雨粒が降りしきる中、幼稚園の玄関先から小生の青い布地を見つけたときの無邪気な笑顔は、今も小生の色褪せた記憶の中で鮮やかに輝いている。彼が大きくなるまで、小生は主に父君の傘として仕え、時に母君に使われることもあった。

少し経つと、母君は自分の傘を新しく買ってきた。一目見ただけで、若かった小生は彼女の虜となった。なんと女性的で上品な形状であろう。飾り過ぎずしかし没個性に陥らぬ、質素かつ華やかな色と柄。曇天に映え、雨粒を弾くその伸びやかな姿。小生は新品であった彼女と同じ傘立てに収まり、出来うる限りの誠実さで彼女にこの身から湧き上がる愛を伝えた。彼女は幸いにも我が愛を受け入れてくれ、ありふれた一介の傘に過ぎぬ小生を我々が弾いた雨粒が行き着く先の大海にも劣らぬ深さで愛してくれた。

父君の顔を曇らせる土砂降りの朝は彼女が励ましと共に送り出してくれ、くたびれた彼と共にずぶ濡れになって帰り着くと温かく迎え入れてくれた。不思議なもので、たったそれだけのことで雨粒や満員電車や、数えきれない程の見知らぬ傘の間に押し込まれて蒙った疲労も倦怠も胡散霧消してしまうのであった。

父君が小生を携え、母君が彼女を手に取って小雨の下を寄り添って歩いた折、度々小生と彼女は互いの端を重ね合わせ、一点の不足もない逢瀬を味わった。

 やがて、子息にも傘が買い与えられた。鮮やかな黄色を纏ったその傘は人間の子にふさわしく先端も幼く丸まっており、持ち手も子供の手に合わせて小さい。傘立てにやってきたその傘を、小生たちは慈しんだ。小生も彼女も、小さな彼を我らの子とした。傘立てに三本収まり、小生は家族としての円満を全身で享受していた。

 我が子をくるくると回しながら水たまりを長靴で蹴立てて歩く子息姿を父君の傍で眺めるのは何物にも代えがたい宝であった。

 小生の幸福はしかし、長く続くことは無かった。子息が幼稚園を卒園する少し前の嵐の夜、母君は小生を携え、彼女を差して駅に父君を迎えに行った。暗がりの中、許しがたい程に激しい暴風に弄ばれた彼女は吹き飛ばされ、麗しい布地に張り巡らした華奢な骨を無残に折られてしまった。人間と違い、我々傘は自己を治癒する術を持たず、また人間にとって壊れた傘を修理するより、新しいものを買ったほうが安上がりで手っ取り早い。頭では理解してはいたが、変わり果てた彼女が破棄されるのを目の当たりにした小生は身も心も果てよとばかりに慟哭した。やがて新しく母君の物となった女性用の傘がやってきた。小生はその可憐さは認めたが、亡くなった彼女を忘れることが出来ず、随分と冷淡な対応をしてしまった。新品である彼女に全く非は無い。それどころか小生と我が子を受け入れ、想ってくれた。小生はそれに感謝しなければならなかったのに、ありし日の甘い思い出と喪失の痛みを引き摺って目の前の傘を正確に見ることが出来なかった。

 小生の愚かさを気付かせてくれたのは、皮肉なことに二度目の喪失であった。先に述べた通り、二本目の妻に真っ直ぐに向かい合えていなかった小生がある晩父君に伴して帰宅すると、忽然と我が子が消えていた。驚き慌てた小生に、気の毒に泣き濡れた妻は母君が我が子を捨てたことを話した。小学校という教育機関に通うようになっていた子息に、我が子は合わなくなっていた。人間の子供は驚く程に成長する。彼の身長に、手の大きさに、小さいままの我が子は相応しくなかった。たったそれだけのことで、どこも壊れていないにも関わらず。人間は我ら道具に引導を渡すことが出来る。亡き彼女の忘れ形見までも喪い悲しみに暮れる小生に、妻は黙して寄り添い、小生が彼女を愛していなくても、自分はずっと傍にいると誓ってくれた。小生はその時初めて真っ直ぐに彼女を見つめることが出来た。そして、我らの主である人間の家族を恨まないでやってくれても頼まれた。彼女の寛容な心に小生は徐々に惹きつけらるのを感じた。頑なに凍りついていた小生の心は、彼女の春の日差しの如き温かい心遣いに溶かされていった。二度目の妻がいなければ、恐らく小生は二本目の子息の傘も、三本目の母君の傘も受け入れることは出来なかったに違いない。

 新たにやってきた子息の傘を、妻の手助けを借りて小生は可能な限り温かく迎え入れた。そうして、かつてと同じとはいかないが幸せを取戻していこうとしていた。

 だが子息が中学校に進学した折、再び悲劇はやってきた。仕事先で突如倒れた父君は母君と子息が病院に駆けつけるとほぼ同時にその息を引き取ってしまった。五月雨が降りしきる中、小生は火葬場へと赴く父君に、これまで小生と共に雨の中を歩んできた主に黙して哀悼の意を示した。小生は傘立てに収まったまま、しばらく誰にも使われることはなかった。

 悲しみに暮れる母君と子息に呼応するように、その年は雨が多かった。二本目の我が子は、梅雨のある朝子息に伴って出かけたきり二度と帰らなかった。ずぶ濡れになって一人帰ってきた子息と母君の会話を聞く限り、我が子は「パクられた」て行方不明になったのだそうだ。他人の傘をこっそり盗み、何食わぬ顔をしている外道に対する怒りはあったが、何度味わっても慣れぬ痛みがそれを上回っていた。翌日のしのつく雨に顔を顰めた子息は、少し考えた後小生を手に取った。その日から小生は子息の傘となった。今度はパクられないよう、柄に彼の名前入りのシールを貼られた。そして小生は父君を喪ってなお逞しく日々の勉学と部活動に勤しむ彼の姿をつぶさに観察する機会を得た。その健気な姿を見守るうち、小生は知らず知らずの内に子息を二人の我が子と重ねていることに気が付いた。すると一層子息が愛おしくなった。子息は良い意味でも悪い意味でも大きく成長していたが、小生の中では彼はあの輝くような笑顔を浮かべた男の子のままであった。既に老いを覚え始めていた小生は何時破棄されるか、また最初の妻のように風に煽られて骨を断たれるか分からぬ身であった。それならば小生の全てを捧げて子息に尽くそうと誓った。

 しかし、中学生とはとんでもないことを考えるものだ。後ろから傘を股ぐらを潜らせて柄の曲がった部分で股間を引っ掛けて引っ張るなどと……。我々傘としてはあまり歓迎できない感触だ。諸兄も御子息には出来れば控えさせて頂きたい。

 父君を喪ったことで母君は忙しく働くようになり、子息は独りで過ごすことが多くなった。文句や愚痴をこぼしつつもへこたれることなく努力を積む子息を、小生は声を掛けることは出来ないが見守り、応援した。

 ゲリラ豪雨に打たれたり、雷に脅えたり、突風で裏返されたりと様々な場面で、子息と小生は供に歩んだ。子息は小生を肩と首で支えながら単語帳を捲ったり、可憐な少女を小生の下に入れてやったり、色々なことがあった。

 そして、高校受験の日。小雨が降る中、小生は子息に伴なって試験会場に赴いた。試験の終了を待つ数時間が数十年にも感じられた。子息の努力は小生の知るところであった。主を待つ他の傘達と共に、子息の成功を祈った。

 晴れやかな顔で小生を手に取った子息の顔を見て、もう何も思い残すことはないとそう思えた。小生の布地には穴が開き、そこから雨粒が漏って子息の肩にかかるようになっていた。合格の結果が出た後、小生はついに暇を賜ることとなった。

 小生の物語はこれだけだ。主の更なる幸福を願い、小生は永遠の眠りにつかんとしている。幸い、妻に別れを告げる時間も得ることが出来た。一介の傘としては、大変長く生きることが出来た。それは誇りにして良いと自負している。

 どうやら時間らしい。それでは、諸兄ともここでお別れだ。今まさに、小生は忘却へとこの身を躍らせる。

 ああ、嗚呼。窓からの陽光。老いた我が身を照らす。

 晴れの日というものも、こんなに美しいものだったのだな。

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