雪の女王

あめのにわ

雪の女王

 リカの入院は長引いていた。とはいえ、いつも寝たきりだったわけでもない。投薬スケジュールの谷間には、彼女はほとんど病人に見えないくらい元気そうに見えた。


 彼女の退屈を紛らわせるために、わたしたちはしばしば二人で連れだって病院の階下へ出かけた。


     ア メ ニ テ イ に 配 慮 し ま し た


 改築のお知らせ、というタイトルのついた目の前のポスターにはそう書いてある。私たちは時々その掲示板の前で立ち止まり、少しのあいだポスターを眺めた。


 ——アメニティってどういう意味? 


 わたしはなんとなく尋ねた。


 ——知らない。でもこんな感じでキレイにするってことでしょ。


 ちょっとぶっきらぼうにリカは言った。自分の知らない言葉について訊かれて、はっきり答えられないのが、年齢としの割には聡明そうめいな彼女の気に障ったようだ。

 彼女はわたしを尻目についとそこを立ち去って、回廊かいろうの角を曲がって姿を消す。わたしはあわててその後を追いかけなければならなかった。


 病院の改築作業はもう始まっていた。エントランスから会計までの部門はすでに建て直されている。新棟に入ると、壁紙は温かいベージュ色になり、まるでどこか公民館か美術館のロビーにいるようだった。わたしたち二人は時折その新棟を横切って、下の売店まで歩くのだった。


 旧棟の病室の壁は新棟とは対照的で、いまとなっては殺風景に感じられる、白く塗られたコンクリートだった。


 ——この建物も老朽化ろうきゅうかしてきたから、二三年後にはぜーんぶ解体してしまう予定なんだって。


 リカはどこか楽しそうに説明した。


 ——あっちの駐車場に新しい病棟が建って、こちらは管理センターと駐車場になるそうよ。看護婦さんが言ってたの。そしたら、いま、いるところは駐車場の上かな? わたしあのときここにいたのねって、空中を指さしたりして。


 そういってリカはくっくっと笑う。


 彼女の肌は白かった。すきとおるということばがまさに当てはまった。決して外に出ることのない、太陽の光とは無縁な肌。


 ——血液が薄くなっているからよ。コツズイヨクセイを起こしているから。


 窓際のベッドに上体を起こしたままで、リカは興味なさそうに説明した。


 ——でも、きれいじゃない。わたしうらやましい。


 彼女は応えなかった。かわりにガウンの袖をまくりあげて、ほっそりとした腕をかけぶとんの上に投げ出すように見せた。わたしはその腕にそっと触れてみる。冷たかった。夏の校庭で日焼けした私の肌との明度めいどの違いがくっきりと際だった。


 よく見ると、左腕内側にはいくつかの点滴針の注射跡が目につく。この身体はこわれものなのだ。わたしはそのことに気がついてしまい、急に何を喋って良いのか分からなくなった。するとリカはくすりと笑った。


 ——やっぱり、ハナは温かいわね。あの人とは違う。


 ——え? だれ?


 ——ううん、気にしないで。


 リカは笑って首を何度か横に振り、答えなかった。妙に大人びた言い方。それは家族の誰かなどではないことが、直観的に感じられた。


 まさかボーイフレンド。わたしは自分の考えに思わず失笑しっしょうした。そんな話は聞いたこともないし、ありそうにもない。病床びょうしょうにもそこまで親しそうな患者は見あたらなかった。


 きっと看護婦さんかお見舞いの誰かのことなのだろうと、わたしは何となく思い、それほど気にとめることはなかった。


 しかし、それはその誰でもなかった。


 そう。いまとなってはリカの病室に見舞いに来るのは、中学校のクラスメイトの中でもわたしくらいのものだった。

 二年前に彼女が初めて入院した時には、たくさんの贈り物や手紙が寄せられて病室はにわかにはなやぎを見せていたものだ。けれども年度が替わり、クラス替えが行われると、いつしか学校からの訪問者はほとんど途絶えてしまった。


 学校では誰もが忙しそうだった。毎日の授業やクラブ活動と塾。間近に迫った進学の話題。だれそれがつきあっているという他愛たあいもない噂や、昨日のテレビ番組のこと。そして迫り来る修学旅行の準備。そういったよしなしごとが、私たちの日常をほどよく埋めたてていた。長くその場にいないクラスメートのことが次第に話題に上らなくなってしまうことも無理はなかった。


 病室を訪れるのは、いつしかわたしだけになった。放課後に職員室を訪れてプリントをもらい、部活を終えてから、帰宅する途中でそれを病室に届けることが私の日課になった。届け物がない時であっても、ほとんど欠かさずにわたしはその日課を果たした。


 その頃になると、病室にあれほどたくさんあったみつぎ物もすっかり片付けられてしまい、部屋はもとの簡素かんそさを取り戻していた。


 ——ちょっとさっぱりしたかも。いつもお見舞いだと、気疲れしちゃう時もあるし。好きな本だけあれば十分よ。


 リカは強がりなのか、気をつかったのか、ベッドに横たわって目を閉じたまま、わたしに言った。


 時にはしばらく何度か面会できない日が続くこともあった。


 ——少し状態が悪くて発熱が続いているから……。ごめんなさいね。


 何度も見舞いをくりかえすうちにすっかり顔見知りになった若い看護婦は、申し訳なさそうにそう告げた。


 ——はい、大丈夫です。届け物だけお願いします。元気が出たら、見てもらってください。


 わたしは学校の書類をことづけてそのまま病院をあとにした。


 リカの状態は周期的しゅうきてきに悪化するようだった。彼女の説明によれば、それは投薬スケジュールに関係しているらしい。

 何日かぶりに顔を合わせたリカは、ベッドに横たわったままわたしに顔を向けた。ほほはやつれ、まぶたは少しむくんでいるようだ。


 ——あら、ハナね。今度も、なんとか生き残れたみたい。


 ——何言ってるの。いつものことじゃん。いつも一週間くらいたったら死ぬほど元気になってるくせに。


 わたしはわざと脳天気のうてんきに言った。


 しかし今度はいつもと違っていた。一か月ほど経っても、リカの体調は快方に向かわなかった。

 面会謝絶になることはさほど多くなかった。しかし、彼女はベッドから離れることはできず、二人で階下かいかに降りてゆくことも難しかった。

 その日もわたしはひとりで売店に降りてゆき、リカの読む雑誌を買って病室に戻った。


 ——レジメンが変わったからだって。


 ——レジメ?


 ——薬の種類のことよ。今までのがあんまり効かなかったから、変えたんだってさ。


 リカはけだるそうに言い捨て、ゆっくり上半身を起こした。肩まで届く黒髪は十分に手入れすれば美しくなるはずだと思われたが、いまは寝乱ねみだれ、汗に汚れていた。


 ——待って。きれいにしてあげる。


 わたしはらしたタオルで髪の汚れを軽くぬぐい取ってから、髪をくしきおろした。くしの歯にからまって長い毛髪が何本も抜けた。


 ——ありがと。熱があったから、お風呂入ってないの。汗臭いでしょ。


 ——そんなの。部活のヤツらの汚い洗濯物に比べたらはるかにきれいなものよ。


 ——そうね。まだグランドは全然暑そうだもんね。外は……


 リカはようやく乾いた笑い声をたてた。そして急に真顔になって、言った。


 ——ハナ。どうして毎日来るの。


 ——え? どうして、って。


 ——部活だってあるし、来年の受験の準備だってあるでしょ。そんなひま無いんじゃない。


 ——何言い出すのよ。


 わたしはむっとして言い返した。


 ——受験ならリカも同じでしょ。ここで一緒に勉強しようよ。そりゃ、私よりリカのほうが本もたくさん読んでるし、頭良いからハンディあると思うけど、そんな言い方ってないわ。


 リカは何も言わなかった。わたしはハッとした。そのときリカの目はわたしを見ていなかった。表情はどこかに置き去りにされたように見えた。

 わたしの鼓動は速くなった。けれども、わたしの視線を受け止めると、その表情は消えた。そして代わりにいたずらっぽい笑みが浮かんだ。


 ——ハナ。あなた、キスしたことある?


 ——はい?


 わたしは絶句した。


 ——まじめな話よ。部活とか、クラスに男の子いるじゃない。どう?


 ——どうって、言われても……


 唐突とうとつな質問に、最初わたしは面食らったが、そのうちにかーっと頬があかくなってきた。


 ——そ、そりゃ、バカみたいにかまってくる男子は何人かいるけどさ。小学生のガキみたい。そこまで好きになる相手なんていないわ。


 ——ふーん。そうなの。なるほどねー。


 リカはにやにや笑いながら、面白そうにわたしのうろたえる様子を眺めていたが、急に手を伸ばして、わたしの手を握った。


 ——じゃ、わたしとしよ。


 言い終わる間もなくわたしは手を引っ張られて、ベッドの上に倒れこんだ。ぎゅっ、とベッドのスプリングがきしむ音がした。


 ——危ない。


 そのままだと胸でリカの頭を押しつぶしてしまう。わたしはとっさに枕にひじをついて、リカのわきに斜めに横たわるかたちになった。


 ——何するのよ。


 当惑しながらわたしは抗議した。しかしリカは応えず、わたしの背中に手を回し、ぎゅっとそれを抱きしめながら、わたしの胸に顔を埋めた。わたしはため息をついて、わたしの腕の中でひんやりと息づくリカの頭をそっと抱きしめた。


 そのまま長い時間が経った。実際には数分もなかったかもしれないが、数十分にも思えた。ようやく、リカは顔を上げた。


 ——胸、大きいのね。


 わたしはふたたび赤面した。


 ——そんなことないわ。何言ってるの。


 ——わたし、太れないから。生理もここんとこずっと来ない。きっと病気のせいだと思うけど。


 ——何だ、そんなこと、……


 すぐに戻るわ、と続けようとして、言葉が続かない。リカを抱きしめた時、すでに気づいていた。腕だけではなかった。リカの身体はほそくせていた。胸、肩、背中……わたしとはあまりにも違う。

 いつもゆるやかなガウンの下にかくされていたので気がつかなかったのだ。いや、わたしが気づこうとしなかっただけなのか。


 リカは両手を上にずらし、そっとわたしの頭を抱いた。ゆっくりとリカの顔がわたしの目の前に近づく。


 わたしは目を閉じる。


 彼女の唇は冷たかった。触れ合っている長い瞬間、わたしの体温が彼女に伝わってゆくのが感じられた。

 わたしはそれが嬉しかった。いつまでもそうしていたいと思った。


 しかし引き離したのは彼女の手だった。うながされるままわたしは上体を起こし、ベッドサイドの椅子に座り直した。


 ——ありがと。つきあってくれて。


 リカは横になったまま言った。わたしは思わず否定した。


 ——そんなことない。わたしも。


 ——駄目なのよ。あなたじゃ。


 ——だって。


 わたしははっとした。リカが意味することに気づいたのだ。わたしの知らない、そして病院のスタッフ、友だちや家族の誰でもない人。それなのに、リカの肌に触れたことのある誰か。


 聞かないほうが良いかも知れない。しかしわたしの胸はいたんだ。いまのわたしは知らないことに耐えられなかった。


 ——聞かせて。


 少し躊躇ちゅうちょの後、わたしは思いきって言った。


 ——ききたい? ほんとに?


 わたしは何度も頭をたてに振った。


 ——いままで誰にも言ったことないわ。でもハナにだけは教えてあげる。


 リカは悪戯いたずらっぽく笑った。


 ——いつも、夜なの。……知ってる? 病室ここの消灯って十時なのよ。ほんとに早すぎ。ラジオも聴けないからつまんない。寝るしかないの。でもそのまま朝までいってしまえばいいの。そういうときもある。けどいつも必ず途中で目が覚めるわ。あの子が来る時には。


 リカは目を閉じた。そのまぶたの裏には、きっと私の見えない誰かの姿が映っている。


 ——気がついたら、そこのドアが開いてて、あの子がいるの。病院の白いパジャマを着た……そう、きっと女の子。前髪が長くて、顔は見えない。いつもそこに黙ってじっと立っているだけ。


 わたしは固唾かたずを飲んだ。その緊張を見てリカはどこかしら楽しげだった。


 ——でも分かるのよ。なぜか。何も言わなくても分かるの。右隣の病室の子。とてもさみしがっているから来たのよ。わたしと一緒にいたいから。


 ——それ。どういうこと。


 わたしの声はかすれていた。


 確認するまでもない。病室を出て右側には、非常階段に通じる施錠された扉があるだけ。その向こうに見えるのは、大きな糸杉の樹の樹冠じゅかんだった。


 リカは私の質問には答えずに続けた。


 ——その子、私よりももっと色が白くて、腕も細い。そしてわたしが待ってると、そっとベッドの中に入ってくる。


 ——その子いつも身体がとても冷たいの。わたしが温めてあげなきゃいけない。ぎゅっと強く抱きしめてあげたいけど、すごく華奢きゃしゃだから、ちょっと力を入れるとまるでくだけ散ってしまいそう。だからね、気をつけてそっとあたためてあげるの。


 いとおしそうにリカの白い腕が交叉こうさし、自分の胸を抱きしめ、すこしふるえた。


 ——そう。もちろん……あの子の唇も冷たいのよ。


 わたしの頬はかっとあかくなった。あの感覚がよみがえってくる。。そう言いたかったけれども、何も言えなかった。リカはそんなわたしにおかまいなしで続けた。


 ——抱き合っているうちに、わたしたち、眠くなってしまうの。そして目が覚めたらもう朝。その子はいつのまにかいない。まるで溶けるみたいに、どこかに行ってしまった。それだけ。おしまい。


 話は終わった。リカは私を見た。わたしもリカを見た。


 そのときわたしには全てが分かった。リカもそのことを分かっていたということを。ということを。


 わたしは急に泣きたくなった。でも泣くことはできなかった。そのかわりにこみ上げてきたのは、やりどころのない怒りだった。


 ——そんな子なんてウソよ。ただの想像じゃない。じゃなきゃお化けよ。あなたお化けなんか本気で信じているの? そんなはずない。しょせん、気を引くためのウソ。病人だからといって、そんなのずるいわ。それってただのわがままよ。


 わたしは少しでも抗議したかった。できるかぎり乱暴に、言葉を叩きつけるようにまくしたてたつもりだった。しかし出てきた声は、迫力の欠けた情けない涙声でしかない。


 ——ありがと。でもね。……


 そのとき、リカのほほえみはやさしかった。まるで母親が聞き分けのない子供に教えさとすように。


 ——ハナはわたしよりもあたたかいよね。わたし、お母さんにも、看護婦さんにもさわったことがある。みんな温かかったわ。わたしを温めてくれる人はたくさんいる。けど。


 そして、そっと目を閉じ、言った。


 ——わたしが温めてあげられるひとは、今はもうだけしかいないのよ。


 そこで彼女は永遠に口をつぐみ、ベッド脇の窓を見た。晩秋ばんしゅうの日は短く、外はすっかり暮れていた。窓ガラスに映り込んだ彼女の白い影は、いつまでも寄り添うように彼女自身を見つめ微動びどうだにしなかった。


 翌日、学校からの帰り途に、わたしは書類を持って病院に立ち寄った。しかし面会は謝絶しゃぜつされていた。シフトが違うらしく、いつもの看護婦もおらず、詳しいことも分からない。わたしは別の看護婦に書類をことづけると、どことなく浮き足だった院内の空気に追われるように病院を後にした。


 その翌日から修学旅行が始まった。新幹線を使った三泊四日の日程を終えて帰宅すると、その場で母親は私にリカが亡くなったことを告げた。すでに二日が過ぎていた。どうやらそのことは、旅行が終わるまで私にも学校のクラスメート達にも伏せられていたようだった。そうしてわたしが病院にゆく理由は無くなってしまった。


 ふたたびその病院に立ち寄ったのは六年後のこと、なにかつまらない用事のついでだったと思う。もちろんその時にはとっくにあの旧病棟は取り壊されており、跡形あとかたすら無くなっていた。

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