ディアナウォーターと疑問

 ディアナに呼び止められ、メリッサは枕元に戻ってきた。


「化粧水の名前、ですの? 確かに決めておりませんから、決めてくださるならありがたいですわ」


 よかった。ディアナはゆっくりと、その名前を口にした。


「ローズマリーの化粧水と、繭の煮汁を混ぜた化粧水の名前、ディアナウォーターにしてくれない?」


「妹さんの名前でしたっけ? はい、喜んで」


「ありがとう」


 メリッサの答えを聞いて、ディアナはベッドに体を沈み込ませた。

 妹じゃない、自分の名前だ、と抗議しようと思う気もないほど、生理で消耗しょうもうしていることに、まぶたが落ちる寸前にディアナは気がついたが、すぐに眠り込んでしまった。



 ディアナが成長によって体調を崩すのとは裏腹に、絹製品の第一陣は順調に出来上がり、キーツの手によって売られることになった。


「皇太子様、売上は好調です」


「試供品を配った結果が出たな」


 回復後、宙に浮かぶセリカに見えるようにキーツの持って来た書類をめくりながら、ディアナはできるだけ低い声を出す。

 体は女に一歩近づいてしまった。変化をキーツに感づかれてしまったら。

 ディアナが不安を押し殺していることに気づかない様子で、売り上げの説明をキーツは続ける。


「はい。ディアナウォーターという、まゆを茹でた汁にハーブを漬けた酒で香り付けをした化粧水が、最も好評ですな」


「ふむ」


 ディアナウォーターが一番人気、と聞いて、自分が必要とされているような気がしてディアナは少し嬉しかった。

 まずは【ディアナ】という名前で、自分のことを思い出してもらうことができたら。

 まだ皇太子レーンとして振る舞わなければならないけれど、【ディアナ】という名前を知る人が増えるということだけでも、ディアナは自分を取り戻す第一歩を踏み出せたような気がした。


「すぐに悪くなる分、さっさと売り切らなければならないのもあって試供品を多く配布し、かつ安価に売ったのが功を奏しましたな。ただ……」


「ただ?」


「客の狙いを、娼婦しょうふと娼婦上がりの女召使いにしたせいで、貴族の奥様方にはあまり受けがよろしくありませんな。別の売り込みを考えなければ」


「え、どうして?」


 いい物なら売れる、とセリカは言っていた。

 セリカも、不思議そうに首を傾げている。


下賤げせんなものが顔につける怪しい汁を、高貴なわたくしたちがつけるわけにはいきませんわ、などと……あの高飛車どもは妙なことにこだわる」


『なるほど……女のプライドね。面倒だけど確かに気にする人はいるわね……家柄で張り合ったりとか……私の母も……』


 キーツとセリカがぼやく。悪魔のセリカにもママがいるのだろうか。昔は人間だったから、いるんだろうな。

 ディアナは詳しく聞きたかったが、セリカの存在は他人には秘密だ。

 ディアナはキーツとの会話を続ける。


「家柄で張り合う連中だ。だが、奥様方に売る必要はあるのか? 高級娼婦しょうふも愛用、と書いてあるじゃないか」


 ディアナは報告書を指差す。キーツは気まずそうな表情になった。


「そこは……皇太子様に後見こうけんしていただいているとはいえ、後ろ盾は多い方がいい。どんな貴族でも、奥様に泣きつかれて平然としているものなどおりませんよ」


「そんなものかな」


「案外、側室だったり、遊び半分だったはずの侍女にお願いされる方が効いたりもするものなのですよ。側室を狙って改めて商売をしてみますかね?」


「側室、かぁ……」


 側室、夫婦関係だけど、本妻ではない女の人。

 ママもそうだったのかもしれない、とディアナは突然ひらめいた。

 私とレーンは、乱暴者とはいえ王族のアルス様の子供だ。

 本来なら、王都のアルス様の屋敷で育ってもおかしくない。

 でも、私たちはノーデン領で、ノーデン領主にお金を出してもらって生活していた。

 アルスが子供の面倒を見ない父親失格の男だった、という風に切り捨ててしまえば結論が出るような気もする。

 それでも、ディアナは引っかかるものを感じた。


「キーツ殿、つかぬことをきいてもいいか?」


「なんなりと」


「貴族や王族が、側室の子の面倒を見ないことは、よくあることなのか?」


「……女の子ばかりで、自分も貧乏という貴族は、側室を捨てることがありますな。ただ、一人でも男の子がいれば、たいていは後継ぎの確保のために、多少無茶をしてでも面倒をみております」


「そうか」


 やっぱり何かがおかしい。

 できるだけなんでもない、といった風にディアナは返事したが、黒雲のように自分の過去に対して疑問が湧き上がってきた。

 レーンは唯一の後継ぎだった。

 なのに、アルスは支援しなかった。

 王都から来たのは、怪しげな貴族たちだけ。

 彼らのたくらみにママは乗せられて、ディアナは髪を切られ、レーンの身代わりとして皇太子になる羽目になったのだ。

 貴族たちや、アルスがなぜ自分たちきょうだいを支援しなかったのかの謎を解かなければ、いくらお金があってもディアナは【ディアナ】に戻れないかもしれない。

 顔色に出ていたのか、キーツが心配そうに声をかけてきた。


「皇太子様、なにか、気がかりなことでも?」


 ここは、話せる範囲のことを話しておいた方がいいかもしれない。

 ディアナは慎重に口を開く。

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