第8話 幸と玄二

 日向がロードバイクを購入してから数日が経ち、あの日以降日向は毎日ロードバイクショップ〈路流風〉に通っていました。

 毎日、ショップ開店時間の十時に店に行っては、ショップ隣の別棟にある更衣室でサイクルウェアに着替えてロードバイクを受け取り、一人の時は大抵サイクリングロード、二人の時には峠道などを走りに行っていました。

 ここでの二人というのは、勿論日向と佐久……ではなく風華のことです。

 佐久の春休みの店番は十時から。風華の店番は夕方から。つまりは必然的に日向とともにサイクリングをするのは風華ということになります。

 勿論風華にも予定はありますので、毎日とは行きませんが、ほぼ夏休みの全てを日向は風華と過ごし、佐久はジェラシー状態になっていました。まあ、最終的には店に帰ってロードバイクを返さなければならないので、毎日佐久とは会って話をしたりするのですが。


 そんな、すでに日常となっている日々が続いていた、ある日。

 明日は始業式があるということで、いつも早寝の日向が更に早寝で、二十一時には既に床に就いていたその夜、居間では二人の人物が、テレビや作業などを一切せずに何やら日向について話をしていました。

「明日から日向も高校二年生……早いものですねぇ」

 穏やかな表情で片目にかかっている黒髪をかき分けて対面する人物にそう話しかける人物は、浅神日向の母親、浅神幸あさがみさちです。

 今時珍しい和服に身を包み、髪を後ろで一つに纏めている和風美人。その見た目は日向が大きくなったらきっとこうなるんだろうな、と思うほどに日向に似たものがありました。

 そんな幸に対して、

「ああ。そうだな」

 そう短く、呟くように返す人物。

 彼は日向の父親であり、一家の大黒柱の浅神玄二です。その風格はまるで軍人、しかしその風貌はまるでエリート会社員。

 厳つい雰囲気で、この人が何の職業をしているでしょう、とアンケートを取れば80%は殺し屋と答えるであろうほどに着ているスーツがある意味似合う、そんな人物です。

 玄二は風呂に入るまで絶対にスーツを脱がず、オールバックは常に崩さないという自分なりのポリシーを有しており、この居間においてはやや異質な感じではありました。

 そんな玄二が、少し表情を曇らせ、そして一息置いてからこう言いました。

「日向は、何か隠し事をしている……」

 重い声音でそういう玄二に幸はコクリと頷き、

「そうですね。けど、悪いことをしてるわけではないと思いますよ?最近なんだか楽しそうですし」

「……たしかに、最近のアイツは明るい。だが、だからと言って悪いことをしてないとは限らないだろう。己が基準で善悪を判断出来る年頃ではまだ無い上に、日向は人に流されやすい。間違った者が日向に間違った知識を植え付け、それに日向が気づかずに従っているとしたら?過ちを過ちと判断出来ぬとしたら?そんなことがあれば日向は立ち直れない程の傷を負うことにならんとも限らない。なにより……」

 玄二は更に表情を曇らせ、血管を浮き出しながら、怒り混じりの小さな声で、

「家の物とは違うシャンプーの香りがした‼︎」

 その玄二の発言に、少々呆れ顔をする幸。

 また始まったよ、と椅子から立ち上がり、隣の台所へと向かいお茶を淹れる準備を始めました。

「そもそもがおかしい。毎日毎日図書館に行くと言っているらしいが、図書館に行ったにしては帰ってきた時の筋肉の疲労度がまるで運動をしてきたようだッ!更に手首や足には僅かにだか何かキツイもので身体を包んでいた痕がある……これはつまり……」

 玄二は身体を震わせ、次の言葉だけは言いたくないという風に歯を食いしばっています。が、遂に口にする覚悟が出来たのか、口を開き、実に小さな声でテーブルを叩きながら、

「男ができて……そういうことをしているという事じゃないのか……ッ⁉︎」

 何とか言い切った玄二。未だに身体を震わせながらも顔を上げ、幸の方を見てみると、

「ほっ」

 そこには和やかにお茶タイムを楽しむ幸の姿がありました。

「おい、聞いていたのか幸……これは極めて重要なことなんだぞ!」

 そう言って冷や汗を流す玄二に向かって、幸は、お茶を置き落ち着いた口調で、

「玄二さんは考えすぎなんです。分析をし過ぎてあらぬ方向へと思考が飛んでいます」

「む?つまりお前には分かっているのか?日向が何をしているのか」

「……まあ何となくは。でも悪いことでは無いと思いますよ?」

 そう言うと幸は再びお茶を飲み、「ほっ」と温かな音を口から出しました。

 その様子に、玄二は、「何と呑気な……」と呟きますが、よくよく考えれば、日向のことは普段から一緒にいる時間の長い幸の方が詳しいです。ここは、幸の言うことを信じてみるのも悪く無いかもしれない、そう決断し、

「……とりあえずは様子を観るとしよう。だが、少しでも変わったことがあれば私は日向を止め、敵を速やかに排除する。それでいいな?」

 誰とも分からない誰かに対して殺意剥き出しの発言ですが、幸は特段気にせずに慣れた様子で、

「いいんじゃないですか?まあ、敵が排除出来る人ならば、ですが……」

「む?それはどういう意味だ?」

「……いえ、なんでもありません」

 そう言って幸は父に立ち向かう娘の姿を想像して、ふふっと笑みを浮かべるのでした。


  ◇


 四月。それは一年の始まりの月です。

 一月から一年が始まったと思う人も多いでしょうが、新たな環境、新たな人に出会う時期といえばやはり四月でしょう。

 こういった新たなことに胸踊らせ、学生というのはテンションが上がるものですが、新たな出会いよりも昔からある安定を望む者も少なからずいるのでした。

 なのでその一人である日向は非常に幸運と言えるでしょう。


 咲月さつき高校校舎二階で、新二年生の二組の教室を探して一人の少女が周りをキョロキョロしていました。

 身に纏っている制服は他の女子生徒が着ているものと全く同じ紺色をベースにしたお淑やかなものですが、その頭髪は他の女子生徒とはかけ離れ、光り輝く黄金色で、その目は澄み渡る海で出来ているかのような見事な薄青色でした。

 まるで作り物。そう思うのも無理ないほどに派手な女子であります。まあ髪色は実際作り物なのですが。


 中々に教室を見つけられず困った少女は、急に片足を軸とし、三百六十度回転して廊下とその端に複数ある教室の位置関係をぐるっと把握し始めました。 一回転した少女はニヤリと笑い、そして大きく独り言。

「分からん!私は方向音痴なのだ!」

 がははははとそのまま大声で笑う自由奔放な少女。周りはそんな少女をやばい奴だと思ったのか、避けるように見ていますが、少女はやっぱりそんなの御構い無し。

 仰け反りながら更に賑やかに笑っていきました。と、

「ん?あ、ここか!なんだ私教室の前にいたんじゃん!」

 そう言って直ぐ横にあった距離にして30㎝の目的地に元気よく少女は飛び込んでいきました。

 そこで再びキョロキョロ。またも何かを探している様子でしたが、今度は比較的早く見つかったようで、その目的の人物に向かって、

「お。いたいた、——日向〜‼」

 手を振り、元気よく呼びかけました。

 その声に、本を読んでいた日向は微妙な表情をしながら顔を上げました。

「……いっちゃん…………」

「おうよ!今年は同じクラスだな!よろしくぅっ!」

 元気に挨拶しながら近寄ってくる少女——和田生加奈わだいかなに日向はやはり微妙な表情で「はい……」と返します。

 別に日向は嫌がっているわけではないのです。むしろ喜んでいました。

 今朝、クラス分け表を見て、本を読みながら教室で生加奈を待っているまでは。

「どうした日向ァ!元気ないじゃん?」

「……そりゃまあ……そうですよ。今年からはいっちゃんが一緒のクラスだぁーってワクワクして、そろそろ教室来るかなぁって待ってたら、突然変人の独り言と独り笑いが聞こえるんですもん。……そんな人にいきなり話しかけられたら……」

 自分まで変人だと思われる。

 そう言いたかった日向ですが、流石にそこまでは言わないでおこうと思ったのか、ため息だけで済ませます。が。

「ああ!日向まで変人みたいだもんな!あはははははは‼︎」

 自覚はあるんです。自覚はあるんですが、直そうとはしない、それが和田生加奈という人物なのです。

「……まあけど、誰も知り合いがいなかった去年に比べたらマシですかね……」

「だなっ。結局友達も出来なかったんだろ?」

「む…ぅ………」

 いやまあ、別に全く出来なかったわけではない。と言いたい日向ですが、それは友達の定義によります。

 たまに喋るのが友達なのか?ケータイアドレス持ってたら友達なのか?学校外で会ったら友達なのか?

 色々と考えていた日向ですが、不意に頭に豆電球が光りました。

「いや、一人いました……かなりギリギリですが……確かに……」

「…………?」

 と、日向がその人物を思いつき、逆に生加奈が誰のことを言ってるのか分からないでいると、噂をすればなんとやら、その人物は唐突に現れました。

 そしてその人物が一番に声をかけたのは日向に対してでした。

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