夕日が綺麗ですね。

キノ猫

追懐の空はオレンジ

 私の声は死んだ。

 自分の声に自信があったから、悲しい。

 代わりと言っては何だが、意中の相手との距離は格段と近くなった。

 立場的にも、距離的にも。

 同じ学校に通えた上に、隣の席になれたのだ。

 あなたが、私を初めて見たかのように、「よろしくね」と、微笑んだのを忘れられない。

 私は覚えているのに、あなたは忘れてしまったのね、と反射的に毒吐いた。私の事なんて分かる筈ないのに。

 それからは隣の席だからか、仲良くなるには時間がかからなかった。一緒に夕映えの美しい街を歩く仲にまでなった。

「どうしたの?早く」

 振り向き、尋ねたあなたは足を再び動かした。歩く度に揺れる影を追いかけ、あなたの用事が無い左手に手を伸ばす。でも、終わりを押し付けるようなわかれ道が見えてきたので、目的にたどり着けない右手を引っ込めた。実らない恋など、隠して仕舞えばいい。

「じゃあね」

 手を振り駆けて行ったあなたは、夕焼けの光の中へ溶けていく。

 私も、反対側の道を歩くことを始めた。


 一夜を跨いだ朝。カンカン晴れの太陽が主張していた。

 私は、勉強に着いて行くことに必死だった。文字や数字、歩いていける筈の無い場所の名前なんて必要の無い生活を送っていたのもあるだろう。

 分からない事があれば、その度ごとに、隣で鉛筆を動かすあなたに助けて貰った。あなたは嫌な顔ひとつせず、一から十まで教えてくれる忠実な性格だと知った。

 授業中、手紙を交換しあったりもした。その内容は、女の子特有である、「可愛いね」合戦。私は本音を伝えているのに、お世辞だと思われているみたいだ。その行為は女の私を見失わないようにする為でもあったのだが。

 また、「今日も遊ぼうね」の約束も手紙でした。

 図書室で本を読んだり、ブランコに乗って靴をどの位飛ばせるかを競ったり、グラウンドにある総合遊具で遊んだり……。遊んでいると、時間などあっという間に過ぎ去っていき、視界に差し込む夕日は、今日の終止符を打つ。

 無慈悲に通り過ぎる時間を惜しく感じながらも、通学路に二人の影が伸びる。

「ほら、もう、遅いよお」

 歩く歩幅が違うのか、私が歩くことに慣れていないのか、はたまたどちらもなのか、あなたとの距離ができるのは容易いことで、あなたはちょくちょく振り返っては軽口を叩きながら待ってくれる。

 私が小走りで隣に向かうと、ニコリと嬉しそうに微笑んでくれるのも恒例だ。

 夕焼けに溶けて、見えなくなってしまいそうなその笑顔に、幾度となく、きゅうっと胸が締め付けられる。私に笑顔を向け、待っていてくれるあなたが愛おしく、好きだ。

 足を動かす度に、楽しい時間の終わりを告げるわかれ道が近くなっていく。

「じゃあね」

 私に手を振り、去っていく背中にカメラのシャッターを押すみたいに、瞼を閉じた。色褪せないように、その瞬間を脳裏に焼き付けるように。そしてまた、刻んだ思い出をなぞるように。

 私達は無機質な住宅街に攫われるように、別々に歩みを進める。


 心が冴えなかった休日。

 昨日からずっと心臓が嫌な音を立てていたので、気晴らしついでに夕暮れに染まる公園へ向かった。

 まだ原型を留めている砂山のある砂場を挟んで、止まりかけている回転式ジャングルジムに、時折風に揺れるブランコ。懐かしい公園に、泣きそうになった。

 引き寄せられるように、砂場に近づいて、縁に腰をかけた時、背後から数人の女の子たちの笑い声が聞こえてきた。話し声と共に金属の独特な音が聞こえてきたので、きっと回転式ジャングルジムにでも乗ったのではないだろうか。

「––––––ねえ、最近隣の子と仲良いよね」

 規則正しく鳴っていた金属音が止んだ。

「えっ……。うん」

「あの子喋んないじゃん、楽しいの?」

 数人の女の子の声が聞こえる中、私の視線がグラグラと揺れる。聞きたくないのに、耳を傾けてしまう。

 女の子達の中に、おととい一緒に帰った、あなたがいる、そう確信せざるを得なかった。いつも聴いている声を聞き間違う筈がない。

 すると、急に複数の声が止み、聞こえてくるひとりの声。

「え、楽しいの?」

 耳を劈くような耳鳴りがする。

「……そんな訳ないじゃん。喋れないし」

 ガサリと砂山が崩た。それはもう跡形も無くなっていた。雷に打たれたような、それでいて何もできない不甲斐なさ、歯痒さに襲われる。意識が朦朧とし、私の事なのに、他人事のようだ。

 いつの間にか、女の子達の声は無くなっており、空は黒いペンキで塗り潰したような色をしていた。肌を刺すような冷たい風が、私に現実を突きつけているよう。

〝私に声があれば〟

 声なんて出ないことを知っているのに、出る筈がないのに、腰を上げてあなたの名前を呟いていた。それは虚しく口から出る空気となるばかりで。悔しくて、今度は遠くに届けるように、彼女に届くように、名前を叫んだ。幾度も、幾度も。回数が増えるたびに、大きな涙が溢れてくる。いつしかそれはボロボロと重力に従い落ち続けるので、拭うのさえも忘れて口を大きく開けて泣いた。

 でも、それらは、私の声は、閑静な空や町中に響くことはなかった。


 昨日に流した涙が空に現れたのか、雨だった。その日は予想通り、一日中雨だった。私の長年培ってきた勘を舐めてはいけない。

 回転させている雨傘とアスファルトの間に、見慣れた背中が覗いた。

 夕方の空をそのままくり抜いたオレンジの傘に護られているあなただ。あなたに追いつこうとしたが、足が竦んで躊躇ってしまった。突きつけられた現実を見つめる勇気を私は持っていない。

 その日の授業では、美しい記憶の絵を描くというものを行った。

 私は、円形の遊具や、1つだけ山のある箱のようなもの、細い棒状から板のようなものが伸びている遊具を描いた。そして、背景にオレンジやピンクといった暖色を使って空を塗った。

「綺麗だね」

 声をかけてくれたあなたに心底驚いた。避けられるものだとずっと思っていたから。私の絵を覗き込むあなたに頷く。

「これ、私の家の近くの公園に似てる」

 あなたと初めて出会った場所だから、あなたが知らない筈がない。

「その公園で、猫と出会ったの」

 懐かしそうに私の絵を見つめるあなたの瞳は誰よりも優しいものだった。

「それが今描いている猫なの」

 愛おしそうにあなたの絵の猫を撫でながら、あなたは呟いた。

「その猫ね、綺麗な声だったんだよ」

 あなたが褒めてくれたから声は自慢だった。

「私はあの猫好きだったんだ。でも、猫はどうだったんだろ」

 好きだよ、好きに決まってるじゃん。

「––––––どうして、泣いているの?」

 あなたの手元には茶色い段ボールの中にいる黒猫が、あなた目線の〝私〟が、黄色の瞳が弧を描いて笑っている。

 忘れられていなかった。嬉しい反面、もどかしい。その猫は私だよ、気付いて、と想念を叫ぶ。

 涙の止め方を知らない私は、ひたすらに拭い続けた。

 同時にあなたの戸惑う声が私に掛けられるのが嬉しかった。

 私は、そんなあなたが好きになったのだ。初めて私を見た時、戸惑って、必死になってくれたのを今でも覚えている。

「どうしたの?えっ、もしかして泣かしたの」

 やってきた複数の女の子のうちのひとりが尋ねた。私は必死に首を横に振る。複数の視線はあなたに向かい、直後私の絵に移った。

「わ、上手」

「すごい」

「綺麗」

 様々の声が私の絵を褒めてくれた。嬉しさと少しの戸惑いでいつしか私の涙は止まっていた。そのうちのひとりが、私に「友達にならない?」と尋ねてくれた。私は、嬉しくなって首を縦に振り、笑ってみせた。

 ふたり肩を並べ、傘を差し、いつもの道を辿る帰り道。雨音が新鮮味を出して楽しいが、いつもの夕日に染まる街並みの方が好きだ。

 私は傘を回転させながら懐古にふける。猫だった私にひとつ、あなたは願い事をしたのだ。

 涙で瞳を濡らしながら、「愛されたい」と。

「……私、嘘ついたの。あなたと居るのとっても楽しい」

 雨音に混ざって聞こえてきたあなたの声。あなたの方を見るが、オレンジ色の雨傘であなたの顔は見えなかった。

 既に、いつものわかれ道はすぐそこだった。

「じゃあね」

 互いに手を振り、今日のふたりの帰り道の幕は閉じる。


 透き通るような朝。水面に綿を浮かべたような空が広がっていた。

 あなたに私の他に友達ができて良かったと思った。それと同時に私の居る必要が、生きる意味が無くなってしまったも同然では無いだろうかという気持ちも芽生えた。

 私自身で叶えてやろうと思っていたが、私を受け入れてくれる程の優しい人達が、彼女の願いを叶えてくれるだろうから。

 今日も手紙交換で遊ぶ約束と、他愛も無い話をした。そして帰る間際に、ノートの切れ端に書いたものを彼女の机の中に押し込んだ。それは、私の美しい記憶や、愛しい帰り道を象徴したものだ。

 それを見た時の

 あなたと別れると、広い街のどこかに身を隠そうと思う。猫が死ぬ前に居なくなるあれだ。最後くらいは猫の習性に従ってやろうと思う。

 私の勘が、消える時間が迫っていると叫んでいるのだ。

 今日も夕日が綺麗だ。沢山はしゃいで遊び疲れた私たちはもう2度と同じ空を見る事は無いだろう。

「ほら、今日も遅いよ、早く、早く」

 あなたは、ずっと変わらないままでいてくれるのだろうか。私を忘れずに居てくれるのだろうか。

 冷たい人工的な建物で途切れる街の上の黄昏は、私たちを染めていく。

 私は、最後だからと、小走りであなたの隣へ向かい、用事なんて初めからなかったあなたの左手を握った。あなたの顔に小さな驚きの感情が覗く。あなたの左手は、柔らかくて暖かかった。

 私は人間になれたが、同性や、声が出ないといった大きな壁で、私の恋を阻めた。それの小さな反抗だ。

 直ぐに終わりを押し付けるような別れ道に着いてしまった。

「じゃあね」

 いつもの挨拶をしてくれたあなたに、私は届くはずもないのに、口を動かしていた。

〝さよなら〟

 私が言った数秒の後、あなたは振り返った気がした。

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夕日が綺麗ですね。 キノ猫 @kinoneko

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