2話


「和也くんってよくぼーっとしているよね」

 有守の声にはっとして我にかえる。

 彼女はピアノ用の黒い椅子に座り、こちらを見ていた。

「そう?」

「悩みでもあるの?」

「別にないよ。考えているのなんて夕飯のこととか、そんな感じ」

 答えを聞いて明るい笑みを浮かべる有守。

これも全て夢なのではないかと未だに思っている。

 まるで日常のようで、まるでそういうものだったような夢。


この世界にきて、太一に保健室に置き去りにされた日の夜、メールで教えられた学校近くのマンションには和也の部屋があった。そこはまるで今まで住んでいたかのように家具が揃えられていた。しかし、ほこり一つないような清潔な空間は、異世界のような不自然さを思わせた。

 それに、学校ではまるで和也がもとからそこに存在していたように、クラスメイトとして受け入れられている。

「夢なら早く覚めてくれ……」

「ん?」

「いや、なんでもない」

 二日、三日と夜を過ごしても、目が覚めて世界が戻っていることはない。

 最初は不安ばかり持っていたが、気がつけば環境に適応してきている自分もいた。

 過去を変えれば戻れる、という太一の言葉もその原因だろう。


 それにしても、馴染みすぎじゃないか。

「またぼーっとしてる!」

 彼女の言葉に、ははっと苦笑いを見せる。

「有守、あんまりいじめるなよ」

がちゃん、と扉が開いて、太一が入ってきた。

 こいつが来るのはいつだって急だと和也は呆れたような目で彼を見る。

「いじめてないよ」

 ふくれっ面をする有守の頬を太一がぷにっと指でつつく。その動作があまりにも自然で、和也はずきりと疼く胸の痛みを感じる暇もなかった。

 この二人は特別な関係。

 そんなことははじめからわかっていたのだ。けれどどこか腑に落ちないでいる。

 幼馴染で腐れ縁なのだと、有守は言うけれどもっと特別なものなのではないのだろうか、と和也は勘ぐってしまっていた。

「部活は?」

 有守は一瞬、外でボールをおいかけているサッカー部のやつらを気にするようなそぶりを見せる。

「これから行くよ。ちょっと寄っただけだし」

 たしかに太一の手には部活のジャージやシューズがあった。

「サボってないで早く行けよ」

 和也の声は、本人が思っているよりも少しだけ棘のある言い方だ。

 言ってすぐに自分で気が付いたのか彼は視線を足元に落とした。

 この世界ともう一つ、和也は有守という人間とそのピアノに急速に引き付けられている自分に戸惑っている。

「サボってはないけどなー」

 言われた張本人はそんなこと気にしていないというふうに、歯を見せてにかっと笑うと、音楽室をあとにした。

 本当に何をしに来たわけでもないらしい。


 太一と和也は同じクラスになっているようで、自ずと話すことが多い。クラスではそれなりに行動を一緒にしている。

 有守は隣のクラスなので、放課後以外は廊下で会う程度だ。

 しかしこうして、自然と放課後は音楽室で過ごすようになっていた。これもまた、まるで昔からこうしていたように。


 太一が出て行って二人きりになると、彼女はいつものようにピアノを奏ではじめた。

 【ベルガマスク組曲 第三曲 月の光】

 すぐに出てきた曲名に、和也は一度目を閉じる。

 奏者と相性のいい曲というのはやはりあるのだろう。いつも以上に心地がいい。静かな曲調も相まって睡眠に誘われそうだ。


「ねえ、有守は何か悩んでいることないの?」

 ゆったりとしたピアノの音がなりやむ。

「どうしたの? いきなり」

 目が開けられる。彼女はピアノを弾くときにいつも目を閉じるクセがある。

「俺に聞いただろ。悩みがないかって。有守はどうなのかなと思って」

 和也は神経を研ぎ澄まし、何か情報を読み取ろうとする。人の感情には敏感なほうだ。しかしそれは悟らせまいと、自分が座っているピアノの近くの生徒用の椅子からは動かない。

「そうだなー。もっとピアノが上手くなりたい、かな」

 あの時、彼女が死んでしまうと感じたときのような空気は今は感じられない。

 表情も少し緩んだ程度で変わらなかった。

「今でも充分じゃない」

 手がかりなしか。と残念に思ったが、無邪気な有守の答えに気持ちが緩む。

「まだまだだよ。ねえ和也、私ピアノの先生になりたいんだ」

「意外」

「子供嫌いそう?」

「そうじゃなくて。ピアニストを目指していると思っていたから」

 なんとなく、音からわかるのだ。彼女の演奏は揺るぎない演奏者向きの音だ。その才能があるというのにもったいない。

「私なんか無理だよ」

 どきり、和也の心臓が何かに貫かれる。息が上手く吸えず、下を向いた。

「……そんなことない」

 和也の変化に気づいた有守椅子から降りて近づいてくると彼の顔を心配そうに覗き込む。

「和也?」

「大丈夫」

 目が合ったことに安心したのか、有守は肩の力を落とした。

 まだ和也の心臓はどくどくと早い音を刻んでいる。


「ずっと思っていたけど、ピアノ詳しいよね」

 ぐさり、また何かがささる。

 彼女が制服のスカートを揺らして、和也が座っている席の前の椅子に腰をおろした。

「昔、習っていたから。そのせいじゃないかな」

「やっていたの? それは初耳。そういわれれば耳もいいもんね」

 屈託なく嬉しそうに笑う有守に和也は曖昧に笑って誤魔化した。


「和也くんも弾いてみてよ」

「……もう、とっくに弾き方なんて忘れちゃったよ」

「えー」

「ちょっと買い物を思い出したから、今日は先に帰るね」

 今は話をしたくなかった。まだ心を揺らされている自分への苛立ちや、戸惑いで息ができなくなる。彼女に変に思われたり、心配をかけないためにも逃げる選択が最善なのだ。

「あ、うん?」

 返事を聞くよりも先にかばんを手に歩き出す。

 やはりいつもと違う態度の和也に有守は困惑して一人残された音楽室で首を傾げた。

 自分は何かをしてしまっただろうか、と考えるが理由は明確にならなかった。

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ヴィヴァーチェ 仁芭ゆづ @yudu_

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