07 明日

 言うが早いが、リンは席を立っていた。クレスもついていくことにする。彼女がどんな話をするものか知りたいと思ったのだ。

吟遊詩人さんセル・フィエテ

 呼びかけると、二十歳半ばほどの詩人はにっこりと笑った。優しい風貌をしている。歌い手フィエテという職業がよく似合う雰囲気であった。

「何かな? 歌の希望なら喜んで聞きたいけれど、ご主人セラスに許可を取らなきゃね」

 見知らぬ相手から詩人と呼びかけられることには慣れているのだろう。驚きもせずにリーンは言った。それは何も彼が有名人だと言うほど評判が高いせいではなく、一目で弦楽器フラットと知れる、変わった形の鞄を傍らに置いているからだ。

「歌も聞かせてもらいたいが、何か面白い話がないかと思ってね」

「リン」

 詩人は歌い手であって語り部じゃないんだよ、とでも言おうとしたクレスは、ふたりの注視を受けて目をしばたたいた。

「ああ、そうか」

 リンを呼んだのに、リーンもまた、呼ばれたと思ったのだ。

「いまのは私のことだ、詩人さん。私は、リンと言うから」

「ははあ、成程。それは何だか、ややこしいね。それじゃ、僕のことはアトアールとでも呼んでくれれば」

「名前がふたつあるのか?」

 クレスは首を傾げた。

「名字だよ」

 リーン、それともアトアールは笑ってそう説明した。

「名字」

 少年は目をしばたたいた。

 それは何だか、奇妙な感覚だった。

 クレスには「名字」というものがない。

 そのこと自体は大して珍しいことでもなかった。姓を持つことはそれほど一般的なものではなく、「家系」や「血筋」を重視する上流階級の習慣のようなものだったからだ。

 平民でも姓を名乗る者もいるが、どちらかと言えば少数派。余裕のある家庭であったり、家族の絆が強かったり、或いは商号に使っていて馴染みが深かったりするような場合が多い。

 ダタクたちの隊商でも名字などというものを持っている人間はおらず、「バルキー」は姓らしいが、ウィンディアはあまりそう名乗らない。彼女がもし嫁に行くようなことがあれば――父親が許せば――、「バルキー」という人間は店主以外いなくなるだろう。

 だが、「家系」などを重視しない、或いはそんな暇がない普通の民びとたちは、あまり気に留めなかった。もしかしたら店主は後継者を見つけてその姓を名乗らせるかもしれないし、そんなことはしないかもしれない。どうでもいいと思われている部類なのだ。

 だからクレスには、アトアールが名と姓を名乗ったことが少し新鮮だった。

「アトアール」

 リンはその気遣いを受けることにしたようだった。

「旅をして、長いのか?」

「そうだね。ずいぶん長いかな」

 肩をすくめて吟遊詩人は答えた。

「不思議な歌を歌うと聞いたが、それは何か、体験に基づくものなのか」

「そういうものもあるし、創作もある。いろいろだよ」

 当然と言えば当然のことを言い、アトアールは首を傾げた。

「どんな『不思議な話』をご所望?」

「私は商人で、不思議な品を扱っている」

 「不思議な品」ではないとクレスに主張したリンは、しかしそう説明をした。そういうことをいちいち言い立てるのはクレスのように親しくなった相手にだけで、初対面の人間には簡単で判りやすい説明の方がいいだろうと考える、この辺りの割り切り方は見事だよな、とクレスは思った。

「何か面白い話はないだろうかと思ったんだ」

「面白い話、ねえ」

 アトアールは考えるようにした。それから、そうだ、と言う。

「僕は東からやってきたんだけれど、タイレスの町で、変わった物の話を聞いたよ」

 タイレスというのは、アーレイドの圏内ぎりぎりにある、ここからだいぶ離れた町だった。

「どんな」

「砂の落ちない、砂時計」

「……は」

 クレスはきょとんとした。意味が判らない。

「逆さまにしても、砂が落ちていかないんだってさ」

「それって、不良品、って言うんじゃないの」

 少年は言った。詩人は首を振る。

「それがね、ふと気がつくと、落ちてるんだそうだ。砂が落ちているところを見ることができたら、幸運を掴めるという話」

「……は」

 クレスはまた言った。やっぱり、不良品だとしか思えない。

「砂の落ちない、砂時計」

 しかし、リンはそこで目を輝かせた。

「面白い」

「……そうか?」

「だが『幸運を掴む』は曖昧だな。検証しづらい」

「そうだね。ちょっとしたお守りっていうところじゃないかな」

「お守りか」

 彼女は繰り返した。

「それは、なかなかよさそうだ」

「リン?」

 クレスは――不安になった。

 その不安が何であるのか、今度は判ったようだった。

「アトアール。タイレスのどこで、何という人間がその話をしていたか、覚えているか」

「うん? そうだね……」

「リン!」

 クレスは思わず、遮っていた。

「行く、つもりなのか?」

「見てみたい。そう思わせる話だ」

 それは、肯定だった。

 行ってしまうのか。リンは。

 判っているつもりだった。でも――。

 クレスは言葉を失い、リンがアトアールから詳細を聞くのを黙って見守るしかなかった。

 それから彼女は詩人に礼を言い、歌も楽しみにしていると言って席に戻った。クレスはやはり黙ったまま、詩人に会釈だけして、同じようにした。

「〈失せ物探しの鏡〉が売れるのは、こうなるといい先占さきうらだな。明日、発とう」

 さらりと発せられた言葉に、クレスは瞬きをした。

「明日?」

「ああ」

「でも……一座はまだ、公演の予定があるだろう」

「私は一座の人間じゃない」

 リンは首を振った。

「ジェルスとのことも、関係ない。本当に、たまたま、便乗しただけなんだ。ジェルスがこっちにくるというときに、〈ダムルトの輝玉〉が西を示したんでね」

「ダムルトの、何だって」

 また何か言い出したようだ、と思いながらクレスは問うた。

 ダムルトというのは夕刻に見える強い光の星で、〈導きの星〉と言われている。隠者スアルのような老人の姿をしていると言われ、進む道を指し示すのだとか。

「輝玉。宝石だ。と言っても、普段は磨いてもきれいに見えない屑玉だ。それをダムルトにかざすと、ごく稀に、極上の宝石のように光り輝くことがある。そのときは、西に導かれている」

「ええと」

 クレスは考えた。

「いつも輝く訳じゃないんだな?」

「当たり前だろう」

「つまり、何でかはともかく、たまに光る」

「『何でかはともかく』じゃない。西に何かがあるときだ」

「いや、だから」

 少年は顔をしかめた。

「たまたま『西に何かがあるとき』に、たまたまそれを夕星にかざせば、光るのか?」

そうだアレイス

「あんまり役に立たないんじゃないか」

 たまたまその時機を掴んで、西に宝石をかざすことなど――なさそうな気がする。

そうだなアレイス

 何とも鷹揚に、と言うのか、リンは認めた。

「役に立つか立たないかじゃない。本物かどうかだ」

 リンはそう主張した。

「そして、『何か』はあった。本物だ」

 何とも満足そうな声音だった。

「『何か』って?」

 クレスは尋ねたが、リンはじっと彼を見ただけだった。少し答えを待ったが、言葉はなかった。だがふと気づいて、少年は笑った。

 いま、彼女が見ているもの――クレスというのが、答えなのだ。

「お前といるのは面白かった。だが今日でお分かれだな」

 彼女はそう言葉を続け、少年は笑みを消した。

「本当に、行くのか」

「行く。輝玉に鏡、どちらも本物だと判っただけで、この街での収穫は十二分。加えて、興味深い話が聞けた。これは、発ち時だ」

 それはもう、リンの結論であるようだった。

「そう、か」

 不安はこれだったのだ、と判った。せっかく仲良くなれた。よい友ができたと思っていたのに、彼女は行ってしまうと言うのか。

 寂しいと思った。

 でも、ちゃんと判っていなければならなかったことだ。

 彼女は余所からきた。いずれ、出て行く。思ったよりも、早かっただけ。

「クレス、お前は」

「何?」

「いや、何でもない」

 すぐさま、リンは首を振った。クレスは顔をしかめる。

「何だよ」

「何でもないと言っているだろう」

 リンは答えにならない答えを寄越した。

「このあと仕事が上がったら、時間はあるか」

 その代わりに彼女はそう尋ねてきた。

「あるよ」

 あとは寝るだけのようなものだ。クレスはうなずいた。

「それなら、ちょっとつき合ってくれ」

「どこに?」

「ジェルスのところだ。彼は、私が近い内に出て行くことを判っているから、そうする前にクレスと一緒にこいと抜かしたんだ。私だけなら無視してもいいんだが、お前に何か話したいことがあるのかもしれない」

「座長が俺に? 何の話」

 予想もしていなかった言葉に、クレスは寂しさを秘めて、そう問うた。

「私が知るもんか」

 リンはもっともなことを言った。

「話があるならば、彼がここへくるべきだと思うんだが、意味もなくもったいをつけている」

「普通なら、そういうのを『魔術師らしい』と言うらしいけど」

 クレスは苦笑した。

「リンに言わせれば芸人根性か」

「役に立たない」

 彼女が面白くもなさそうに言うので、クレスはにやりとした。

「本物なら、いいんだろ」

 やられた――と言うように、リンが詰まった。これはどうにも珍しいことで、クレスは少し、満足をした。

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