06 評判の吟遊詩人

 〈赤い柱〉亭までくると、西の海からの強い風はあまり感じられない。

 けれど、風向きによっては潮の香りが漂うこともあった。

 空気の中に入り込んだ匂いを嗅ぎ取ってどこかいい気分になり、これからどうしようかとクレスは考えた。

 あれから、幾日かが経った。

 トルーディからは、何と、謝罪の言葉がきた。

 と言っても彼が反省をして個人的にクレス少年に謝ってきたというのではなく、事情を知った町憲兵隊長レドキアルがそれはいかんと言ったのかどうか、町憲兵隊の総意として、ダタクの脱獄によって引き起こされた彼らへの不具合を〈赤い柱〉亭に詫びにきたのである。

 この辺りは「あの」トルーディであっても大人の対応というやつを心得ていて、彼は嫌そうな顔をしたり、渋々と、と言った調子を見せることはなく、何とも誠意ある態度で町憲兵隊の代表をこなした。

 そういったことがあったおかげで、「あの店の子供が人殺しをして捕まったらしい」というような悪い噂はほとんど流れずに済んだ。実際のところは、クレスの捕縛が目撃されていたために何かしら噂にはなったのだが、それも「町憲兵隊が間違えて捕まえていったらしい」という正しいものに訂正された。

 町憲兵なんて所詮そんなものだ、と彼らを貶める者もいたが、大方は、きちんと誤りを認めて本当の犯人を挙げた姿勢を評価した。

 リンが最初に感じた通り、アーレイドの町憲兵隊は真っ当で、人々はそれを知っているのである。もっとも、態度が悪いと言って――必ずしもトルーディだけのことではない――腹を立てることは相変わらずあったが、それはどこの街でも多かれ少なかれあることだ。ラウセアのような人間がその印象を払拭できるこの街の町憲兵隊は、いい均衡を保っていると言えた。

 ヴァンタンは、アニーナと食事にやってきた。

 面倒見のいい青年の奥方は、彼の庇護欲をそそるような楚々とした美人――ではなかった。

 いや、美人ではあったのだが、おとなしいどころかなかなかに威勢のよい女性であった。

「だいたいの話は、聞いたけれど」

 アニーナはそんなことを言うと、ちらりと夫を見たものだ。

「ひとつ、はっきりさせたいわね、ヴァンタン」

「何だ?」

 ヴァンタンは眉をひそめて尋ねた。

「あなたは、公演を見に行くあの時点では、例の一座が疑わしいと思っていた」

「まあ、な」

「そこに、私を連れていった訳ね」

「あー……それは」

 青年は頭をかいた。

「ひとりで見てきたなんて言ったら、怒るじゃないか」

「そうね。怒るわね。私に怒られることを心配して、それよりは危ない目に遭わせる方がいいと」

 アニーナは、じいっとヴァンタンを見ている。夫は天を仰いだ。

「何事もなかったじゃないか」

「そうね。なかったわね」

 だがそれは結果的なことである、と妻は考えているようだった。

「あのな、アニーナ」

 彼は咳払いをした。

「万一、何かがあったとしても。俺は絶対に、お前を守るぞ。そのつもりでいた。あのときもこれからも、ずっとだ」

 その言葉に彼の妻は赤面――したりはしなかった。

「何でもかんでも自分ひとりでできると思わないでちょうだい」

 手厳しく、彼女はそう告げる。ヴァンタンは真顔で続けた。

「できる。俺は。何でもかんでも」

「ちょっと、ヴァンタン」

「できるよ。アニーナ、お前のためならな」

 そう言うと夫は妻の手を取り、それから妻は満足そうに夫に身を寄せた。そんな彼らを見れば、多少の言い合いはしたところで、とても仲のよい夫婦であると判った。

 彼らに子供ができるとしたらどんなだろうかとクレスは想像してみたが、男であれ女であれ、両親の才気を受け継いで活発な子に育つのではないかと思えた。ヴァンタンのように、人の世話を焼くことばかりするようになるか――何にせよ、元気に街中を走り回るような子供であることは想像に難くなかった。

 一座の公演はあれからもう一度あった。券を買おうと長蛇の列ができ、買えなかった者までどうにか中を覗こうと、大騒ぎであったらしい。それは最初の公演の評判が高かった、というのも確かにあったのだが、参加していた踊り子が殺されたという噂はやはり流れ、例の串刺しの件もあって、物騒な興味をかき立てられた人間が我も我もとやってきたようだった。

 座長は娘――だとヴァンタンから聞いて、クレスは口を開けた――に諭されて反省をしたのかどうか、人死にを連想させるような過激な演出は控えたという話だ。ただ、例の煙は使用したらしく、リンに呪いの言葉を吐かせていた。

 リンは連日、〈赤い柱〉亭にやってきては、クレスの作った飯を食った。

 クレスとしては正直、最初の日にあまり美味く作れたとは思えなかったのだが、リンは連夜、彼の調理を要求した。言葉で判りやすく褒め称えてきたりはしないけれど、どうやら彼の味付けは彼女の好みに合致したらしい。

 仕事が一段落するとバルキーは彼に休憩を与え、客席でリンと一緒に話をする時間をくれた。

 卓上の皿はいつもきれいに平らげられていて、クレスは何だか面映ゆい気持ちになった。

「リン」

「やあ、クレス」

 その日も少年の焼いたリィの香草焼きが乗っていた皿は、肉汁まで麺麭ホーロで拭き取ったと見え、洗ったようにきれいになっていた。美味かったよ、などと言われなくても、料理人見習いにはそれだけで充分だった。そう言ってもらえれば嬉しいな、という思いも少しだけ、あったが。

「〈失せ物探しの鏡〉なんだが」

 リンは、彼らが出会うきっかけとなった奇妙な鏡の話をはじめた。

「買い手が見つかった」

「……買い手?」

 クレスは胡乱そうに聞き返した。

「あれはあんまり役に立たないと言ったじゃないか」

「言った。でも、本物だ。重要なのはその点」

 リンはそう答えた。

「港の方の酒場で出会った売れない芸人トラントが、芸に使えそうだと言ってきたんだ。確かに、占い師ルクリードの役には立たないと思うが、客の失せ物を言い当てたら、ちょっとした芸にはなるだろう」

「それって、芸なのか」

 違うんじゃないか、と言った。道具の効用――いまではクレスも疑わなかった――で金を取るのは、芸とは言えないような気がしたのだ。

「私もそうは思わない。だが、彼はそう思うらしい。ならそれでいいだろう」

 座長の娘は、座長が聞けば嘆きそうなことを言った。

「金を用意すると言ってきた。明日の朝に会うんだ」

「大丈夫なのか?」

「何がだ」

「そんなおかしな品を求めるなんて、おかしな奴じゃないのか」

「『おかしな品』なんかじゃない。効用は、お前も認めるだろう」

 そういうことを言っているのではないのだが、リンには通じないか、それとも意図的にねじ曲げられた。

「そういうことじゃなくて……」

「――リン!」

 ぱっとリンは顔を上げた。釣られて、クレスも言葉をとめ、声のした方を見る。

 だが、呼ばれたのはリンではなかった。声を出したのは見知らぬ客のひとりで、その男はリンとは違う、やはり見知らぬ男に何かを話しかけている。

「あれは?」

「ああ、ウィンディアから聞いた。何でも、評判の吟遊詩人フィエテだって。そう言えば」

 クレスは少し笑った。

「リーン、って言うらしい」

「成程」

 リンと聞こえたがリーンだった、という訳だ。

「評判だって? どんなふうに評判なんだ」

「ああ、リンはもしかしたら、好きかもな。何だか不思議な歌をよく歌うらしいよ」

「私は何も、『不思議なこと』が好きな訳じゃない」

「判ってるよ。『不思議な品』だろ」

「いくらか変わっていても『効用の確かな品』だ」

 変わっていることは認めるんだな、とクレスは苦笑した。

「へえ。少し気になるな。話を聞いてみようか」

「歌、じゃないの」

「もちろん、歌でもいい。でも旅の詩人となれば、どこかで何か、私の求めるようなものと出会っているかもしれない」

 その言葉に少しどきりとした。

 だが、何故――不安のようなものを感じたのか、その理由はまだ判らなかった。

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