鬱青石

安良巻祐介

 

 このところずっと気分が沈んで疲れが取れなくて、歯痛のユウレイのような身振り足取りで歩いていた帰り、ふと道端に出ていた怪しげな人見の露店(ヒトミと瞳をかけているのか、下手くそな眼のマークを大きく描き出していた)で占いをして貰ったところ、やる気のなさそうな店の親爺は、家の部屋が欝々しい気に満ちている、気というと胡散臭いが要するに空気だ、口から出る息の事だ、それが溜まっているのが心の病の元だ、とうんざりしたような顔で告げ、この程度ならその辺の似非カウンセリングでも言えるからと、料金の千円を五百円にまけてくれた。

 親爺の話を全面的に信じたわけではないが、その口調や言葉の選び方が面白かったのと、まずもって俺自身がもう大分参ってしまっていたのもあって、家に帰るとさっそく、日頃の仕事のうっ憤や悲しいこと辛い事への愚痴や嘆きなどを、いつものように食卓に座って酒瓶を出して部屋の中へまき散らすように呟くのではなく、引っ張り出してきた厚めのビニール袋を口に当て、その中に吐き出したのである。

 そうしておいて、窓を開け放ち、突き刺すような夜風のやたらと吹き込むのを顔に受けていると、確かに心なしか気分が楽になったようであった。

 何事も形からだ、儀式とはそういうものだ、と自身で思わず納得して、さっきの袋には、急拵えであるが「幽霊袋」と書いたテープを貼って他のものと区別し、今後は気持ちの塞ぐ様な息とか言葉は全て、この中に入れるようにした。

 なぜ幽霊かと言えば、冒頭に書いたように、気を病んだ自分がいつも幽霊のような足取りだったからというのと、吐き出している言葉が自分の分身、いわゆるドッペルゲンゲールというやつに思えたからという、まあ気分の問題である。

 実際、「幽霊袋」を用いて部屋の空気を汚さないようになってから、そこまで劇的ではないにせよ、幾らか楽に眠れるようにもなり、五百円でそういうきっかけを得られたのは、随分と買い得だった、と、考えたりもした。

 俺はそのまましばらく、そうやって日々のあれこれを袋の中に入れ続けた。

 この手の話では、吐き出し過ぎたそれがやがて知らぬ間に袋から溢れて、或いは耐えきれずに袋の方が破れて、ある時いっぺんにしっぺ返しのように吹き出して、全てがお釈迦になる…というような筋書きがよくあるが、特にそういう事もなかった。

 袋の管理もちゃんとしていたし、そもそも「幽霊袋」に吐き出すのは、実際の量があるものではないのだから、溢れも破れもするわけがない。

 ただし、何にもなかったか、と言えば、そうでもなかった。

 ある日、「幽霊袋」の中からシタシタヒチヒチと小さな音がするから、何気なく封を開いて中を覗いてみたところ、溜まって澱んでいるはずの陰鬱な空気はまるで感じられず、底の方に、一匹の小さな、奇妙な生き物がのたうっていた。

 それは言うなれば手足のある小魚と言った感じで、袋をひっくり返して、コップに注いだ水の中に落としてみると、安堵したようにすいすいと泳ぎ始めた。

 それは、俺の吐いた面白くない愚痴や嘆きから出て来たとは思えぬほどに美しい、それでいてやっぱりどこか暗さを帯びた、見事な配分の鬱青色をしていて、餌も無いのにコップの玻璃の中、手足を使って一生懸命泳いでいる姿は、ひどく心を打った。

 そういえば、昔話で、年経た石の空洞の中に、世にも珍しい魚が湧いて泳いでいたというのがある。

 そういう話も思い返しながら、きっとこれも「空気」の問題なのだろう、と俺は考えた。

 長い時間「空気」が凝ったところには、その結果として何かが生じる。石の中の魚の話も、「幽霊袋」に湧いた、奇妙な生き物にしてもそうだ。

 常人の吐く珍しくも面白くもない愚痴の類も、吐き出して気持ちと切り離し、閉所に何十日も凝らせたならば、このような美しいブルーブラックの形に結晶し、人の目を楽しませるものになるのであろう。

 そう考えると、嘆きや愚痴を溜めるのが、何だか宝石の類を磨いているような、不思議に愉快な気持ちがして来て、その後の毎日もあまり変わり映えはしないながら、陰鬱の底の底は脱したようである。

 鬱鬱たる日々に悩む諸兄、気が向いたなら、試してみたらいかが。

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鬱青石 安良巻祐介 @aramaki88

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