常識は、最良の守神である .3

 カーディガンのポケットから端末を取り出して、画面を見せる。茉莉花は画面を確認してはいないが、短い間で彼が決して命令自体を反故にしないのはわかっていた。

 正直、祠季野柘澄という青年は茉莉花と話をするのが嫌なだけであって、護衛という任務自体を放棄したいわけではなさそうなのだ。朝起きて初めにメッセージアプリで連絡すると既読がつく。次いで、茉莉花が部屋を出る前に連絡すると既読がつき、扉から顔を出すと既に扉横に控えているのが常だ。これにはちょっと所ではなく驚いた。

「ははあ……、これはまた、考えそうなことをするな、あいつも」

 腰を折って端末の画面を覗き込んだディミトリがくつくつと肩を揺らして苦笑し、次いで端末越しに茉莉花の顔を見て、堪えきれなくなったように噴き出した。

「ぶっ、……おまえ、凄い膨れっ面するんだな、くく……っ」

「え!?」

 確かに柘澄の行動を思い返していて眉根くらいは寄ったかもしれないがそんなに酷い顔をしていただろうかと思わず頬に掌を当ててみるがディミトリは腹を抱えて笑っていた。なんだ、意外とよく笑うなと呆気に取られてしまう。そういえば初めてここで目を覚ました時も笑っていたことを思い出す。長い前髪に隠れた瑠璃紺の瞳が楽しそうに緩む。笑われることはそう気持ちの良いことではないというのに、あんまりにも楽しそうで怒る気にはなれなかった。

「……、そんなに変な顔してた」

「素直で良いんじゃないのか? 柘澄とは正反対だ」

「……ディミトリも、あの人と付き合い、長いの?」

「ああ、あいつは五歳から春夏秋冬の家に預けられていてな。俺のホームステイ先も春夏秋冬の本家で、夏の間は周と俺で柘澄の相手をよくしたものだ」

 ディミトリは紙片を持つ以前から、他国の風習や語学勉強の為に日本へ来ていたそうだ。周とはかれこれ二十年近い付き合いがあるらしく、夏の長期休暇中は大体日本にいたらしい。周もそうだがディミトリも柘澄のことを訳知り顔で話す。

「わたし、あの人に何かしたかな……、よくわかんないけど、……大怪我したのとかわたしの所為でもあるし……」

 ぽろと零れたのはずっと茉莉花が抱えていた懸念だった。言ってしまってから、しまったと口元を押さえたがもう遅い。

 こういう愚痴みたいなものはあまり口にしたくない。本人ではない誰かに聞いて、わかった気になるのも、偽りの確証を得て安堵の息を吐くのは意味がなく、馬鹿らしいと思った。もやもやして嫌だと感じる。

 あらゆる意味で、それはフェアではない。相手にどんな態度を取られようと、理由を聞くのは当人の口からでなければ意味がない。

 柘澄と顔を合わせるのが苦痛なのは、何もかもが“わからない”からだ。判断のしようもない。反応が返らないのはやはり辛い。「なにかしたのか」と問うても無言なのは、しなくてもいい悪い想像をずっと繰り返す原因になる。

「能力も何もないおまえが何か出来る状況だったか? 寧ろ紙片持ちを撃退したのはあいつでも俺でもなく、おまえだ。怪我をしたのはあいつ自身の所為で、柘澄はそれがわからない奴でもない。自分の弱さを他人に当たれるほど……なんというか、“自己”が出来ていないな。まあ、おまえはこんなこと俺の口から聞きたいわけじゃなかろう?」

 自己が出来ていない。どういうことだろうと思ったが、ディミトリに見透かされたような言葉が続け様に放たれて口籠もってしまった。

「しかし、そうだな……何かあれば、遠慮なく言ってくれていい。俺が出来ることがあればするぞ」

「ごめん、大丈夫だよ、……まだ三日だし、何かあった時のために護衛してくれるっていうのは、凄く助かってる」

 ディミトリの口から答えを聞きたいわけではない。ディミトリはあの石像の様な青年ではない。だから、なんと言ったら良いのか一瞬だけ迷って、すぐに「大丈夫」と繰り返した。

「……そうか」

「わっ、――な、なに!」

 急に掌が降ってきて、気軽にとでも言わんばかりにディミトリが茉莉花の頭をわしゃわしゃと撫でた。同時に、ぴぴ、と何だかんだでポケットにしまい忘れていた端末から短いアラーム音が鳴り響いた。そろそろ次の予定だ。ディミトリに「俺も周に報告がある。またあとでな」と若干乱れた髪を手ぐしで直されて言われた。

 なんだかその仕草が茉莉花は苦手だった。若干、顔が熱くなる。

「こ、古書の様子、ちょっと見て貰ってくる……!」

「ああ、そうだ、番号がわかったんだったな。使い方は、あとで時間を作るから、そのときにな」

 ディミトリはそのまま第三地下書庫に行くようだったので、書庫前で別れた。先程のアラーム音は端末に登録されているスケジュールが迫ったお知らせの音で、スケジュールは柘澄の端末にも登録済みである。

 別れ際、「茉莉花」と声を掛けられる。

「あいつはわかりにくそうで、物凄くわかりやすい」

 まるで謎かけのような台詞を残して、ディミトリは地下書庫の中に身を滑らせるように消えてしまった。




「はい、それじゃあ古書出して」

 ディミトリが扱える紙片能力、頁番号七百番台“理解”はあらゆるものを“噛み砕き”、“理解”する能力が与えられているそうだ。例えば人体の一時的な組織再生、瞬間強化など。紙片にはそれぞれ振り分けられた頁番号によって使用出来る能力が少しずつ違い、得意分野も違ってくる。

 茉莉花が持つ紙片は、あっさりとその頁番号がわかった。

 左掌に意識を集中させる。

 黄土色の表紙と四辺に燻し金の留め具。分厚いつくりだが、掌に重みは殆ど感じない。吸い付くように左掌に収まって自然と表紙が開く。表紙見返しは鮮やかな花紺青色。茉莉花が千切って口元に持っていくと溶ける紙面は、今はさらりとした質感で厚口の紙だ。

 表紙と背表紙にタイトルの記載はないが、しかし茉莉花の古書には表紙を開いて一番最初のページに、読めない文字でタイトルが記されていた。古代ラテン語らしい。

 表題を示す最初のページ以外には何も記されていない。

 頁番号三番、“表題”。

 ディミトリには頁番号がわかってすぐに報告されていたようで、端末にメールが入って来ていた。

「どう? 違和感とか」

 伸びたままでうねった髪を簾のように掻き分け耳に掛けたその下からウェリントンフレームの眼鏡と垂れた瞳が覗く。ワイシャツの上に着たケーブル編みのベージュピンクのニットは顔色によく似合っていたが、伸ばしたままの髪を見る限り彼のセンスで選ばれたものではないと失礼ながら誰でも感じるだろう。同じものを五着近く持っているそうだ。聞けば、「彼女に選んでもらった」と物凄く嬉しそうな顔で言われ、そこから二十分ほど惚気話が始まったのは強烈な記憶して残っている。

 正岡まさおかもとい。AEU備品管理班に所属する。主に異劫との戦闘時に使用する結界や特殊な用具の作成と修理、管理を行ってくれる。

 基は“古書”をつくり、茉莉花の中に入った紙片をそこに定着させた人間だ。この倉庫染みた油と薬品みたいな臭いのする部屋には日に一度、古書の調子を見てもらう為に必ず来ることになっている。

 古美術品修復学を大学で学んだ後にディミトリがAEUに引き込んだと基が言っていた。

 理由は、彼の特殊な力にある。

 紙片を古書として、視認と接触出来る形に落とし込むのが基の特殊な力だ。

 人間が知覚する物質世界の外側、隔てられた一層が外的世界だ。

 知覚の外にあるそこから、連綿と続いていた魔術などなど、茉莉花があずかり知らぬファンタジー映画の世界観設定でよく聞きそうな様々な“まほう”と呼ばれる不可思議な力の源は全て外的世界から持ち込まれるものなのだと言う。回廊と呼ばれる力の搬出口を内的世界の中に作り、引き出し、操っていく。

 回廊形成の力を持つ人間は稀に居て、それぞれ血筋として力と知識を保存していた。

 そんな人々が集うのが、つまるところAEUという組織だ。一介の人間には使用出来ない力がなければ異劫などという化物に対抗は出来ないだろう。発足はヨーロッパ圏で、ディミトリの生家、ロスメルタ家も深く関わっているらしい。

 回廊形成には素養が必要不可欠だ。素養さえあれば訓練次第で力を高められる。

 この“まほう”は近年では、導術どうじゅつという呼称に成り代わっているそうだ。外からの理をみちびく術、という意味だ。

 聖躯適合者もこの回廊形成が成されていること前提で素養が決まると聞くが、写本はこの回廊形成能力を度外視して強制的に写本が回廊を作り、外的世界の力を安定供給する役割を果たす。ディミトリが以前、アウトプットデバイスだと言っていた意味はここにある。

 この説明は今、茉莉花の手元の古書を眺めて、ページを捲って具合を確かめている基から聞いた。

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紙片のエクスペリエンス 鼓 智晶 @trillo1216giasemi

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