緋姫外伝 雨夜の月

潮風凛

第一話 宵闇の夢

 真っ白な陽は、じきに天頂に向かおうとしている。

 天羽あまはの東の中心地、赤木あかのぎ。その場所でも更に中央に位置する東家の屋敷にて、東の御方は静かに円座わろうだに腰掛けていた。

 見つめる先は、葉に透ける光を受けみどりに輝く池よりさらに向こう。瑞希みずきの方角。彼の地では今まさに、息子達が天羽の未来を決める会談をしているはずだった。

 古いしきたりを廃し、長い、とても長い対立を乗り越え、やっと締結まで辿りついた貴族と武家の和平。武家を蔑視し憎んできたからこそ、本当は会談に参加したかった。天羽が変わる瞬間をこの目で見、集う民衆と並び立つ百官の前で自らの仕出かしたことを謝罪し、この罪を償いたかった。

 けれど、辰彦たつひこは「母上は赤木に残って欲しい」と言った。


「会談には、私とお祖父様で参加します。その間留守になる東家の屋敷で、母上に待っていて欲しいのです」


 そう言った息子の眼は曇りなく、まるでこの先に起こることが何もかも見えているかのようだった。

 だから、東の御方はここで待っていることにした。辰彦達を信じて。


「息子が歩んでいくのを見守ることしかできないというのは、少し寂しいものもありますが……」


 溜め息のように漏れ出た言葉に、独り自嘲の笑みを浮かべる。それも、仕方のないことだろう。立派に自らの道を向かう息子を見送るのも、母の務め。

 陽を照り返す木の葉の青々とした葉の色が眩しい。辰彦のことを考えていた東の御方は、ふと、自分が彼ぐらいの歳だった頃を思い出した。鮮やかに輝く葉の名前で呼ばれていた頃のこと。切なく、苦く、けれど愛おしい少女時代。

 天子のもとに入内した、最初で最後の恋の記憶を。


                      *


 今から約二十四年前、東の御方は十四で裳着もぎを終え、その年に時の天子のもとに入内した。

 通常天羽の裳着は十六で行うが、貴い者の間では様々な理由でそれより早く行うことも珍しくなかった。東の御方も幼少の頃から入内が決まっていたので、早めに裳着を行うこと自体は予定通りだった。むしろ、異常なのは裳着と同時に入内したことだろう。本来なら入内前に登殿し、妃となる前に一女御として宮城での振る舞いや数々の教養、妃としての嗜みを身に付ける必要があるのだから。

 それにも関わらず、裳着を終えてすぐに入内となったのは、時の天子が成人する前に即位し、国政もままならぬほど荒れていたため、早く妃を娶って天羽を安定させる必要があったからである。

 入内当日、単姿の東の御方に五衣いつつぎぬを重ねながら、女房の卯波うなみは大きく溜め息をついた。


青葉あおば様が教養深くあらせられたのでまだ滞りなくお仕度できておりますが、何だってこんな慌ただしい事態となるのでしょう」


 青葉というのは、東の御方の仮名かりなである。東の御方というのも、勿論真名ではない。貴族の古いしきたりのひとつに、真名を明かすのは両親と夫のみというものがあった。だから、真名とは別に仮名が付けられるのだ。この頃、東の御方はいつも青葉と呼ばれていた。東の御方と呼ばれるようになるのは、もう少し先の話である。

 不満げな顔でぼやく卯波に、東の御方は微笑んで窘めた。


「そう言うものではありませんよ。少し何もかもが早くなっただけで、入内することに変わりはないのですから」


 柔らかな笑顔は、歳相応の楽しげなもの。卯波は、東の御方と同い年の十四。教育係を務めた女房の娘で、幼少の頃から親しんで育った。だから、誰に対しても凛とした態度で接する東の御方も、卯波に対してはどこか気安い。

 会話している間も、卯波の手は止まらない。打衣うちぎぬ表着うわぎ唐衣からころもと重ね、腰にをつける。かさねは祝いの松重まつがさね藤立涌ふじたてわく裙帯くたいは華やかな紅梅。目にも鮮やかな深支子こきくちなし比礼ひれを肩に回したら、高貴さの中にも愛嬌のある晴れ姿になった。


「流石、青葉様。とてもお美しいですわ」

「ありがとう」


 褒めちぎる卯波に、東の御方ははにかんで礼を言う。桐の手箱から黄楊つげの櫛を手にとった卯波は、最後の仕上げとばかりに東の御方の髪を梳き始めた。軽く引っ張られる感覚は心地よく、東の御方はそっと目を閉じる。

 暫し続く、静謐な時間。だが、ふと卯波の手が止まった。


「青葉様の入内、私大変喜ばしく思っております。けれど、少し不安です。予定通りの入内とはいえ、お相手が急に変わるなんて……」


 それが、成人前の天子の即位と、急な入内の大きな理由であった。

 それは、二十日ほど前のこと。宮城で大規模な反乱があった。最近力を増しつつある八津原の武人達が、瑞希に攻めてきたのだ。

 その反乱によって、宮城の多くの官僚と先代の天子様、多くの妃や皇子、皇女が亡くなった。東の御方が入内する予定で、数度面識もあった王太子も亡くなってしまった。

 幸いひとりの皇子が難を逃れ、詠姫も無事だったので新たな天子を決めることに支障は無かった。東の御方はその、新しい天子のもとに嫁ぐのである。

 不安げな声を漏らした卯波は、正面を向いたままの東の御方の耳元に口を寄せる。


「これを今、青葉様のお耳に入れて良いものか分かりませんが。天子様について少し、不穏な噂があるのです」


 人目を憚るように、声を抑えて囁かれる言葉。


「天子様はお若いにも関わらず、物事をよく知り、常に冷静沈着な御方だそうです。ですが、あまりにも感情の変化に乏しく、『家族を失ったのに冷たい御仁だ』と臣下に冷笑されているらしく……」


 目を開けた東の御方が、卯波の方を振り返った。不安げに顔を曇らせる彼女の肩を軽く叩く。


「心配してくれてありがとう。でも、そう根も葉もない噂に惑わされる必要はありませんよ」


 そこまで言って、東の御方はつっと視線を逸らした。

 見つめる先は、高く巻き上げられた御簾みすの向こう。高欄こうらんの先に広がる、高く澄んだ夏の終わりの空。

 秋の訪れを感じさせる肌寒い風を頬に感じながら、東の御方はそっと囁いた。


「どのような方であれ、今一番大変なのは天子様なのですから。安定した天羽を維持するためにも、妃となる私がお支えしなければ」


 それが、東家の娘として入内する自分の務め。東の御方はそう思った。

 正面に向き直る。卯波が黙って支度を再開した。頭頂で結い上げ、再び下ろした髪に冠を付け、金釵きんさいや繊細な花簪はなかんざしを差し込んでいく。正面に回り、顔に淡く化粧を施す。全ての支度を終えた卯波は背後で少し下がり、そっと膝をついて目を伏せた。


「終わりました」

「ありがとう」


 傅く卯波に礼を言う。そのまま部屋を立ち去ろうとした時、静かな声が追いかけてきた。


「青葉様、卯波はいつも青葉様の幸せを祈っています。どうか、貴女様にとって此度の入内が良いものでありますよう。お辛いことがありましたら、いつでも仰ってくださいね」


 その言葉は暖かで、真に東の御方を思うもの。東の御方は再び「ありがとう」と囁くと、緩やかな足取りで去っていく。

 凛々しくもたおやかな後ろ姿を、早くも紅く色づいたつたの葉が一枚はらりと追いかけていった。


                  *


 華やかな一行が、瑞希の中心を練り歩く。

 大勢の従者に囲まれた中心に位置するのは、ふじ色の絹で屋形やかたを彩った牛車。わだちの音も軽やか。黒毛の牛の動きに合わせてゆるりゆるりと進むたび、絹に金糸で描かれた、鳳凰丸に桜の紋が陽光に綺羅々と輝く。

 宮城の大門を抜け、厩についたところで牛車が止まった。女官の手を借りて降りる東の御方。彼女は朱の傘で顔を隠しつつ、天子の在す内裏に向かう。

 渡殿わたどのを渡り、東の御方の室がある後宮の一角へ。古くは多くの妃と女房で賑わっていたというが、今はしんと静まっている。

 先導する皇家の女官に従って歩いていた時、遠目にひとりの男の姿が見えた。宝冠ほうかんは鮮やかな羽で飾られ、下襲したがさねの裾が長く伸びた束帯そくたい姿。黄櫨染こうろぜんほうに描かれた伝統的な華流飛鳳凰かりゅうひほうおうの紋が、華やかながらしっとりとした煌きを与えている。

 天子様だ。そう気づいた東の御方は、ひとり静かに息を呑んだ。何て美しい御仁だろう。逞しく若々しい体つきながら、えもいわれぬ高貴さが漂っている。顔立ちはここからでははっきりと見えないが、憂いを帯びた瞳が印象的。それはどこかぼんやりとしている一方、怜悧な雰囲気も感じられた。

 初めて天子の姿を見て、東の御方は卯波が言っていた噂を思い出した。


『天子様はお若いにも関わらず、物事をよく知り、常に冷静沈着な御方だそうです。ですが、あまりにも感情の変化に乏しく、『家族を失ったのに冷たい御仁だ』と臣下に冷笑されているらしく……』


 心配そうな卯波の声が耳に蘇る。東の御方は、再び天子の姿を伺った。

 確かに、冷たい雰囲気はある。唇を引き結んだ様子は、臣下に何を考えているか分からないと言われるのも無理はないだろう。だが、東の御方はそれだけではないと思った。


(確かに酷く冷たい印象ではあるけれど、あの瞳には暖かさも見えるのです)


 暖かさと優しさ。憂いの裏には悲しみが透け、冷淡さの向こうに戸惑いと素直さが見えるよう。

 力強いのに儚げ。そんな不思議な雰囲気を持つ天子に、東の御方は一気に心惹かれた。


(もっと、あの御方のことを知りたい)


 そう思った時には、もう遅かったのだろうか。

 胸を高鳴らせる東の御方の背後、後宮の庭園で、終わりかけの葵葛あおいかずらが風に揺れてかさりと音を立てた。


                   *


 その日の夜、東の御方は与えられた室にいた。

 瑞希の民の前での盛大な婚儀と宴を終え、戻ってきた私室。既に陽は暮れ、遠くからひぐらしの声が聞こえてくる。花薄はなすすき小袿こうちぎを纏い、文机ふづくえに向かっていた東の御方は、控えめな足音に顔を上げた。


「卯波?」


 壁際に控えている卯波に声をかける。そっと御簾の向こうを伺った卯波は小さく息を呑むと、音もなく東の御方に歩み寄った。


「青葉様、天子様がお目見えです」

「……中に、お通しして」


 耳元で囁かれた言葉に驚きつつ、努めて冷静に答える。激しく脈打つ鼓動を自覚しつつ、女官によって高く巻き上げられた御簾をくぐって現れた天子を出迎えた。

 深藍ふかきあい色の御引直衣おひきのうしを着た天子は、東の御方を見ると淡く微笑んだ。


「こんな夜更けにすまなかったね」

「いえ、お構いなく」


 天子に円座を勧めながら、東の御方はじっくりとそのお姿を拝見した。

 左右対称の、均整のとれた肉付き。歩く姿は優美でありながら隙がない。白磁の顔もすっきりと整い、柔和でありながらやはり怜悧さを感じさせる。憂いを帯びた玄の瞳は僅かに細められ、薄い唇の端が震えている。どうやら、笑顔を作ることに慣れていないらしい。


(それでも、この御方は私のために微笑んでくださる)


 やはり、天子は優しい人だ。そう東の御方は思った。

 天子は円座に腰掛け、卯波の入れたお茶を受け取ると、彼女が退出するのを待って口を開いた。


「今宵訪れたのは、妃に余のことを話そうと思ったからだ」

「天子様のことを……ですか?」


 東の御方が首を傾げる。天子は深く頷いた。


「余の父は、確かに先代天子。だが、余はもともと皇子として育てられていなかった」


 あまり詳しいことは言えないが。そう前置きをして、天子は自らの出生の秘密を語り始めた。

 それは、皇家の裏で密かに続けられていた伝統。「影」と呼ばれた者の存在。

 天子が身分の低い娘に生ませた子を隠密に仕立て、絶対に裏切らない下僕として使役していたというのは、東の御方も知らないことであった。


「そのような、忌まわしきことが……」


 言葉もでない東の御方に、天子は黄昏の空のような暗い笑みを浮かべた。


「元々、隠密の家は別にあったらしいのだが。何代前かの天子が酷く疑り深い人で、その時から制度が変わったらしい」


 自分も、先代の「影」に色々と仕込まれて育った。そう天子は呟いた。遠くを見るような瞳は懐かしげでありながら、どこか寂しそうだった。

 天子は東の御方に向き直ると、ふうっとひとつ溜め息をついた。


「だが何の因果か、皇子ではなく影であった余が天子になってしまった」


 本来、天子になりようがなかった隠された皇族の彼は、決意を固めた声で言う


「天子になった以上、余は先代の遺志を継ぎ、天羽を再び安定させる義務がある。そのために妃、貴女と婚姻を結んだ。そして、数日後には武家からも妃を娶るつもりだ」

「武家からも……?」


 東の御方が、呆然とした口調で呟く。だが、考えてみれば当然のことであった。先の反乱を起こしたのは武人なのだから。皇族を滅ぼすほど大きな力を持った武家を抑えるには、ある程度中央に引き込むしか方法はない。


「妃には、本当に申し訳なく思う。恋も愛も知らない余が二人の妃を娶るなど、あってはならないことなのかもしれぬ。だが、これも天羽のためなのだ」


 板間に手をついて頭を下げ「申し訳ない」と繰り返す天子を、東の御方は慌てて止めた。


「そんな、謝らないでくださいな」

「だが……」


 尚も言い募ろうとする天子を止め、東の御方は微笑んだ。


「謝る必要はございません。これも、天羽のためですもの。私は入内することができましたし、多くは望みませんわ。……けれど、もしこれ以上をお願いしても良いというのであれば」


 東の御方はそこまで言うと、不意に天子に顔を寄せた。濡れ羽の髪が艶やかにゆれる。口元が緩やかに弧を描く。


「どうか、またここに来てくださいな。また、私の部屋に。私、もっと天子様とお話したいと思っていますの」

「ああ、約束しよう」


 天子が深く頷く。東の御方は花のような笑みを浮かべた。

 その時、控えていた卯波が声をかけてきた。天子付きの従者が呼びにきたらしい。

 立ち去る天子を外まで見送り、自分の室に戻った東の御方は、着替えもそこそこに御帳台みちょうだいの中にしゃがみ込んだ。


(まだ、心臓がどきどきしている)


 顔が熱い。甘い吐息が漏れて、それに自分で驚く。胸を押さえるように、ただうずくまることしかできなかった。繰り返し蘇るのは、遠くを見る寂しそうな天子の表情。

 過去を話す彼は、ひとつずつ心に仕舞い込んでいた箱を見せてくれるようだった。とても嬉しく、切なかった。自らを「影」と称す天子は儚げで、いつかどこかに消えてしまいそうだと思った。彼を繋ぎとめられたなら。苦手な笑顔を必死で浮かべようとする、優しい天子の支えになれたなら。それ以上に嬉しいことはない。

 けれど、一方でこれが愚かな恋心であることも自覚していた。あくまでも政略結婚。天子も、「天羽のために」としか言わなかった。

 それでも、東の御方は天子を想っていた。たとえ、報われない想いであったとしても。天子の心に触れ、彼を振り向かせたいと願った。

 御帳台の帳の向こうから、淡い月の光が差した。柔らかな乳白色の光に導かれるように御帳台の外に出る。高欄にもたれて空を見た。

 出たばかりの細い三日月が光を落とす。冴えた光は心を射抜く矢のよう。射抜かれた東の御方は俯き、瞳に涙を滲ませた。


                      *


 それからの日々は、まるで夢路を彷徨歩くかのような心地だった。

 天子の訪れが増え、彼が少しずつ笑みを見せてくれるのが嬉しかった。毎日香を焚き染め、纏う衣を選んで天子を待つのが楽しみになった。数日後、後宮の西側の室に武家の娘が住むようになっても、全然気にならなかったほど。

 思うのは、天子のことだけ。東の御方はずっと初恋に浮かれていた。

 やがて、彼女は辰彦を出産した。念願の皇子に、東家はずっとお祭り騒ぎだった。実家から日を置かず届けられる贈り物に目を回しながら、可愛い我が子を東の御方は心から愛しんだ。


「もう、名はお決めになったのですか?」


 辰彦の頭を撫でていた東の御方は、卯波の問いかけに微笑んで頷いた。


「ええ、お父様が決めてくださいました」


 娘が皇子を出産したことを誰よりも喜んだ東家当主は、室から溢れそうなほどの祝いの品とともにその名を贈ってくれた。

 東の御方は我が子を優しい眼差しで見つめ、そっと囁いた。


「この子の名は、辰彦」


 天空を駆け上る龍のように、彼がより高みへ昇りつめることを願って。孫の健やかな成長と次期天子になるであろう彼の栄光を願う、最高の名前だった。

 辰彦はすくすくと成長した。大人しく利発に育った彼は、東の御方の自慢だった。誰もが、辰彦は立派な天子になると信じて疑わなかった。

 だが、事態は思わぬ方向に動いた。武家から嫁いできた妃が、皇子を出産したというのである。

 あくまで第二皇子。辰彦が天子になる可能性の方が高い。そう東家は楽観視したが、東の御方はそうではなかった。天子と他の妃が子を成したことが許せなかった。生まれて初めて、彼女は嫉妬という感情を知ったのである。

 やがて武家の妃も自らの子を天子にと考えていることを知り、対立はさらに激しさを増した。連日不機嫌を隠そうともしない東の御方に、卯波がおろおろと近づく。


「青葉様……」

「青葉と呼ぶでありません!」


 恐る恐る声をかけてきた卯波を、東の御方はぴしゃりと遮った。


「私は、もう青葉ではありません。私は東家から嫁いだ天子様の妃なのですから、『東妃』とお呼びなさい」


 それが、東の御方の矜持だった。

 この後、彼女を「青葉」と呼ぶ者はいなくなった。東妃と西妃、ないし「東の御方」と「西の御方」と呼ばれた二人の対立が表面化したのも、丁度この頃だった。

 眉根を寄せ、西の御方の室を睨みつける東の御方。胸中に思うことは、唯ひとつ。


(絶対に、負けられない)


 天子の寵愛も、息子の次期天子の地位も、必ず自分が手に入れる。東の御方は、そう胸に刻み込んだ。

 寒空の下、弱々しい日差しを受けて軒先の氷柱つららがぱきりと音を立てた。


                   *


 まだ宮城に住んでいた若々しい頃を思い出し、東の御方はひとり自嘲の笑みを浮かべた。

 何て醜く、愚かな恋心。叶うはずのない恋だと、嫉妬しても仕方がないことだと、一番理解しているのは自分のはずだったのに。


「けれど、それでも私は天子様に恋をしていたのです」


 誰にも届かない囁きが、静かな室の空気を震わせる。

 愚かだけれど、確かに幸せだった。叶わぬものと知りながら、熱く激しい恋情は東の御方の心を焦がした。真を照らす清らかな月が昇る前の、奈落の底のような宵闇でしか見ることができない偽りの夢だったとしても。確かに東の御方は天子の妃であり、その愛を享受していたと信じていたのだ。


 ――しかし、今は過去の恋に足を囚われている場合ではない。


 俄に、屋敷の周囲が騒がしくなった。東の御方はつっと顔を上げた。複数の男の声がする。東の御方もよく聞き知った、東家に仕える臣下や同じ派閥に与する地位が下の貴族の声。

 けれど、その内容はいつもの畏まったものではなく怨嗟や怒声。大方、東家が武家である西家と協力することに対しての反発だろう。

 これは、少し考えれば予想がつくことだった。東家はずっと西家と対立してきたのだから。辰彦も、これを見越して東の御方に留守を頼んだのかもしれない。今東家を守ることができるのは、東の御方唯ひとりだ。

 彼女はひさしの間まで進み出ると、几帳きちょうを動かし御簾を高く上げさせた。基本的に、貴族の女性がいるのは御簾と几帳の向こう。多くの者が初めて見るであろう東の御方の姿に、人々は呆気にとられたような顔をして静まり返った。

 これだけでも驚くべきことだが、彼女が次にとった行動はさらに人々を驚愕させた。東の御方は板間に両手をつくと、深く頭を下げた。かつて天子が東の御方にしたのと同じ、謝罪の姿勢。


「私があなた方をけしかけ、武人を蔑視し、西家との対立を助長したこと、ここに深くお詫び申し上げます。大変申し訳ありませんでした」


 言いながら、改めて東の御方は息子の慧眼に感謝した。彼のおかげで、人々に謝る機会を得たのだから。

 これは、東の御方の咎。辰彦達の新しい天羽に残してはならないもの。だからこそ、今東の御方が終わらせなければならない。

 突然の謝罪に戸惑う人々のどよめきを受け流し、東の御方はゆっくりと立ち上がった。周囲を見渡し、凛と声を張り上げた。


「私達東家は、武家である西家と協力して辰彦と寅彦とらひこ様をお支えします。これまで武人に反発してきたものをと、この方向転換が不服な者もいるでしょう。しかし、私達は貴族の誇りを忘れたわけではありません」


 群衆を見つめる強い瞳。訴えかける言葉には、迷いなどひとつもない。


「今日、歴史は変わります。それでも、新たな時代になっても失われないことは多くあります。この新しい天羽に、私達は新たな貴族の誇りと矜持を刻んでいくことでしょう。そのために、貴方達も協力してくれませんか」


 羽ばたく鳥は、新たな場所へ。貴族の在り方もこれから大きく変わることだろう。沢山の難題が待っているかもしれない。それでも、その中で貴族として生き、辰彦の母としてより良い天羽のためにできることをするのが今の自分の役目だ。


(それで、天子様も許してくださるでしょうか……)


 遠く、空の向こうにいるであろう天子様を思う。愚かな嫉妬に身を任せ、間違ったことを沢山してしまった。あの優しい御方は、きっと悲しんでいるのに違いない。これから頑張れば、安心させることができるだろうか。

 東の御方の真摯な言葉は、集まっていた人々の心を打った。反抗しようとしていた人も、彼女を讃えて歓声を上げる。その声を聞きながら、東の御方はふと空を見上げた。

 突き抜けるような蒼穹に、燦々と輝く陽光。その光は、これから大きな変化の時を迎える天羽を祝福するようで。

 眩さに目が眩んだふりをして目頭を押さえ、最後の未練を断ち切った東の御方は、淡く微笑んで自らの室に戻っていった。


 ――この後、東家は貴族とも武家とも協力し合い、その誇りを忘れず、「東兄王家」として絶大な力を得ることになる。

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