第43話 寶 嶌

 母者は雪の降る夜に静かに息をひきとった。

 寝顔の様に見える母者の顔は、痩せこけてどこもかしこも落ち窪んでいたが、美しい素顔は変わらないと幼心に思った。そんな母者とはもう言葉を交わす事も出来ない。家を飛び出して、闇の世界で音も無く降りしきる雪に撫でられながら、俺は泣きじゃくった。泪だけが温かい。嗚咽と泪だけが生きている証にも思えた。静かに冷えてゆく母者の傍で父者も哭いていた。


 父者と俺のまぶたは何日も腫れたままだった。

 未だ粉雪の舞い散る日に母者を葬った。三日後の晴れた日に旅装を整えた俺たち父子はその日の内に小屋を後にした。貧しい土地を離れるのだ。

 俺は峠から何度も後ろを振り返った。

 貧しかったが親子三人の住み慣れた小屋が遠くなる。そして母者の眠る盛り土が小さくなってゆく。焼香代わりに焚いた僅かばかりの桧屑の烟りが、真っ直ぐに昇ってゆく。その後ろにはあまりにも大きな不二の山が、何よりも皓く寡黙に蒼穹を仰いでいた。


 季節が変わり、その不二の麓も雪解けて瑞々しいせせらぎを生んでいた。うこぎや蕗のとうが芽吹く頃に俺たちは駿河の海辺にたどり着いた。土地を持たない流れ者の俺たち親子は、行く先々何処に行っても疎んじられた。どの村も集落も戦さに田畠を荒らされて貧しかった。

 俺たち親子が最後にたどり着いたのは入り組んだ浦の小さな漁村だった。俺たちは当てのない旅に疲れ果てていた。もう此処で落ち着きたいと思っていた。


 しかし此処でも温かく迎え入れてくれる者は一人もいなかった。魚の獲り方など知らぬ俺たちに漁を教える者などいない。

 働き手は欲しいが、漁を覚えてほしくはない。他所から来た者に漁場を荒らされたくないと、漁師の誰もが思っていたからだ。

 今はただ、この浜で女たちに混じって網引きの手伝いをして細々と生きるしかなかった。そうやって俺たちは生命を繋いで生きていった。


 しかし、俺が小わっぱや餓鬼と呼ばれなくなった頃、父者も死んだ。これで俺の知る身内は誰もいなくなった。

 俺は世話になっていた親方に引き取られたが、下働きなのは今までと変わりない。どれほど働いても銭が貰えるわけではなく、寝床とその日の飯が与えられるだけだ。


 ある日、刺し網を担いで浜を歩いていると、童たちの波打ち際でひなる声が聞こえてきた。丸太の様な浅黒い何かを囲んで囃し立ている。その何かはどうやら入鹿の様だった。この湾には外海からやって来る連中は多いが岸まではやって来ない。迷い入鹿が間違って岸に上がってしまったのだろう。


 そいつは青色吐息のか細い声で啼いていた。入鹿の泪が人と同じ意味なのか知らなかったが、いたたまれなくなった俺は、声高に童を蹴散らした。童は餓鬼どもらしい悪態をついたがあっさりと去って行った。奴らも入鹿自体は珍しくないので飽きていた時分なのだろう。


 俺は入鹿を波打ち際まで転がしてやった。

 声は相変わらずか細い。はじめは虐める人間がいれ代わったくらいに思っていたのだろうが、波間に還してやると覚ったのだろう、先ほどよりだいぶ元気な声を上げて身を翻した。そいつは沖に向かって一心に鰭を動かしていた。浅瀬を越えてしっかりと潜れるところまでたどり着いたのだろう。姿は見えなくなっていた。何度か波が逆巻くのを見かけただけだった。


 俺は流木に腰を下ろしてしばらくは寄り来る波の遥か沖合いを眺めた。落陽が波間を輝かせている。あの輝きを浴びながら、入鹿は仲間の所へ戻って行くのだろう。


 他所の土地で謂れもなく惨めな思いを幾度となく味わってきた俺は、帰る場所が有るやつが羨ましかった。

 生きてゆく場所はあった。今は親方が親代わりといえる。

 親方には子供がいなかった。

 二人いた舟奴も独り立ちしていた。

それもあるのか父者が逝ってしまってから半年経った頃、俺に漁を教えてくれる様になった。歳を重ね一人で舟を漕いで漁に出るのがしんどかったからかもしれない。

 俺はただ無心に働いた。漁師の技を身につける以外生きる術はないと悟っていたからだ。

 朴訥とした親方は俺に格別な親しみは見せはしなかったが、舟の扱いと漁の業は厳しく丁寧に教えてくれた。己れの技の一切を俺に仕込むつもりの様だった。


 その親方も呆気なく死んだ。芯の病いだ。


 漁を終えた舟の上、苦しそうに一度「カッ」と言ったきり胸を押さえて倒れ込んだ。己で釣り上げた何匹もの赤魚のにまみれて息をひきとった。


 人は死ぬ。季節は巡る。父親と親方と共に過ごしたこの浜からも不二の山は見える。季に粧いはするが、いつも変わらぬ姿だ。この先もそうだろう。だが人は死ぬ。老いて病いで戦に巻き込まれて儚く生命を失う。人は死ぬのだ。俺は正真正銘天涯孤独となった。


 ある時季から海鳥の姿を見かけなくなった。浦では魚が獲れない日々が続いた。

 それは俺だけではないらしく、この半年、湾で漁をする舟に躍る魚の輝きは見られない。浜の網にも掛からない。刺し網を引きずる皆の足取りは重く、誰もが下を向き口を閉している。獲れようが獲れまいが受領に納めねばならない月菜などの貢租を考えると誰もが身も細る思いなのだ。


 ある日、浜辺に女が倒れていた。

 見かけない旅の女だった。この辺りでは娘は皆、鼠色の桂包に野染の小袖姿かまるきりの野良姿だ。女はどこか受領の邸に仕える女房の姿に思えた。旅装というよりただ一人逃げて来た身なり。ひとえは若竹色の鮫小紋、乱れたあこめ一斤染いっこんぞめだが紋は俺には分からなかった。笠もうちぎも身近には見当たらず、緒太おぶとも履いていない素足の裏が砂だらけだった。


「もうし、しっかりしなせ」


 俺は女を抱きかかえて上身を起こした。女は息がある様で細い眉を歪めたが瞼を開ける事はなかった。

 面長のその女の顔はどこか懐かしく思えた。懐かしい女性など俺には母者しかいない。いやしかし似ているわけでもないのだ。そう思えるのは母者への思慕だったのだろうか。美しい女の顔を俺はずっと見つめていたかった。


 しかし意識のない女をいつまでも濡れた浜辺に置いておけない。網にその身を乗せてすぐそこの番屋まで引きずっていった。朽ちかけて板目も剥がれて雨風が入る。仕舞い置いた漁具が傷むので誰も使わなくなった番屋だった。


 筵に寝かせてから火を熾し暖をとった。女は一晩目を覚さないでいた。

 日も高くなった頃に女は目覚めた。

 ゆっくりと身を起こすと辺りを見回した後、熾し火の向こうに俺が居るのに気がついた。しかし女の眼差しは漠として何処までも遠かった。


 気付けの薬があるわけでもなく、仕方なく水を飲ませてやった。それから、女がひもじいか分からんかったが汐汁の椀を与えた。女は茫洋とした眼差しで、受け取った椀と俺を交互に見やった。


「海苔を炊いた汁じゃ。磯貝と小蟹のダシじゃ」      

 魚が獲れなきゃ俺たち漁師の餉は常に磯の汁だ。

 俺は女に匙で掻き込む仕草を見せた。

 女は俺を見つめながら掬った汁をゆっくりと口にした。味が合ったのか二口目からはむしゃぶりついた。


「そんなにせわしなく食わんでもえーづらぜ。よーかめ、よーかめ」


 俺も己れの分をよそって啜った。

 俺らは腹ごちた。


「落ち着いたけ」


 女はこくりとうなずいた。耳は聞こえているようだ。


「あんばいがようなるまで俺の家で養生せい。ここよりなんぼかマシづらぜ」

いつまでもボロ小屋にいるわけにはいかなかったので、夜半に女を抱えて番屋を出た。



 女はまだ口がきけんかった。

 気が触れているわけではないのは、俺の言葉やする事が分かっている素振りをみせるからだ。物の名前を知らない事はあったが、他国の郷者とは噛み合わない事など幾らでもある。女は教えればすぐに覚えた。声は出せないが笑ってみせはする。


 俺は女を「かめ」と呼ぶことにした。名前が無いのは不自由だから仮初めの名だ。餉の度に俺が「かめ、かめ」とそればかり口にしていたので真っ先に思いついた言葉だ。

 女も嫌がってはいない様子だった。

 かめは十日ほどで歩けるくらいにまで回復した。その後は当分俺の後を犬の様についてまわった。網の綻び直しも見様見真似に覚えてしまった。


 俺の家に若い女が居る事はすぐに村の漁師連中に知れ渡った。


 年寄りどもが寄り集まって何やら険しい顔つきをしていることが増えた。

 そのうち、数人の爺が押しかけて来て俺に食ってかかった。


「われのけっこい女房、ありゃ磯螺いそらづら」


 磯螺というのは磯辺海岸を住処とする妖で、たいがいは醜い女の姿をしている。人を化かして海に引きずり込むと信じられている。

「……なにたわけたことを」

 そのうち若い衆も加わってきた。

「あの女が来てから湾が時化て魚がよう獲れんづらで」

「そんなんは女房が来る前からじゃろうが」

「いいや、女房に化ける前から磯螺は居たんじゃろ。われみたいな騙しやすい余所者をきっと待っとったら」

「んだ、土地の者は騙されん」

「そうら」

「叩き出した方が村のためづら」

 磯螺が不漁にさせる妖とは聞いた事はなかった。

 水夫の若衆のやっかみなのは分かっていた。恐れや慄きで罵っている顔つきではない。皆のかめの見る目が、華やかな妓に惹かれた様な輝きを宿していたからだ。


 俺たち男衆が言い争いをする小屋の前でかめは湾を指さした。

 浜の方から幾人かの若衆がまろびながら駆けて来る。

「親方ぁ、皆の衆ぅ、波間に海鳥が騒いじょるわぁ」

「ふ、ふんまけ」

「行ぐべ」

 連中は振り返りもせず湊に駆けていった。


 それからも押しかけて来る事が何度かあった。        その度にかめが沖を指を指し、海鳥や銀鱗の輝きを波間に見つけるのだ。

 少しづつだが次第に魚が戻って来る様になった。


 それから様子が変わってきた。


 俺の事を漁師仲間などと思ってもいないであろう連中。普段は話し掛けやしない舟奴どもは妙に馴れ馴れしく小屋の辺りで話掛けてくる。

 手伝いに外に出てくるかめの方をちらちらと見やっては眸を輝かせ頬の肉を弛ませている。

 そんな奴らとも眼差しが合えばかめは腰を折って頭を垂れる。かめの屈託のない微笑みに男どもは心をおどらせているようだ。


 その内に村童がかめになつくようになり、そこから女たちとも親しむ様になった。網曳きは女たちの仕事でかめも手伝う様になった。

 かめが曳いた日の漁は、なぜかしら獲れた魚の数が多い。不漁が続いていた近頃のこの村に、久々の活気が戻ってきた。


 村人はかめが口がきけないのも気にせずに、幼な子からこの村にいる娘の如くに親しんでいった。俺に対するよそよそしさもなくなっていた。


 二年もした時、かめと俺は祝言を挙げた。村の人々が祭りの様に賑々しく祝ってくれた。


 童を授かった。手足をわずかにばたつかせ元気な産ぶ声をあげた。

 なんともまぁ、おぼこい童。

 俺は親父になった。かめが母親になった。俺がやや児を抱きかかえて見せてやると、まだ伏したままのかめは微笑みながら泪を流した。

 温かい泪。それをそっとぬぐってやった。そしてその雫をやや児の唇に吸わせてやった。お前が初めて知るものは母親の温かい泪づら。


 漁は順調だった。俺たちの村は貧しくはなくなったが、相変わらず郡邑近隣では戦が絶えないでいる。他の村の生業は楽ではないと聞く。


 目つきの荒んだ輩が時々現れたりもする。天の下、百姓は皆這いつくばって生きている。生きのびる事だけでも容易ではない。他人に慈愛を懸ける余裕など有りようもない。奪い合うのが生命を繋ぐ術だと誰しもが思うのだ。


 富貴でもない村も食い物が有るのなら襲われかねない。司の力もあてにはならない世の中、自ら衛ることを為さねばならない。

 なんの技もない漁師の集まりだが、男衆の力と身体だけは取り柄と言えた。櫂を振り回せば農民上がりの野づらくらいは追い払える。


 蓄えは見張りを付けて離れ小島に隠すことにした。ある日の漁の最中、かめが見つけた千畳ばかりの孤島。その島は今まで誰も気づかなかったのが不思議なくらい漁場に近かった。


 金銀財宝などは有りはしないが、五穀や乾物などの食い扶持の蓄えやあこや珠を隠して置いてある。

 見張りは持ち回り。ここ数年はその見張り役を俺たち親子が担う様になっていた。年が明ければ年季が終わり、また村で暮らす事が出来る。


「おとう、不二はでかいのぅ。こんな沖からも不二だけはよう見える」

 息子は手伝いの出来る歳になっていた。


「お父は昔、あの不二の近くに住んでいたづらぜ。父者と母者と三人での。俺がお前と同じくらいの時に母者は死んだ。母者はそこに眠っている。いつかお前を不二の麓に連れてったる」


 俺は父者と母者を同じ墓に葬ってやらなくてはとずっと思っていた。

 その思いを幾度かめに伝えただろう。夜咄の様に何度も話した気がする。かめはその話の度に微笑んで頷いてくれた。


 その日、俺は島から釣りに出た。漁というほどのことではない。二、三匹の魚、自分たちの食い扶持が釣れればよかった。


 潮風は多少強かったが波は荒れてはいない。日差しも暖かかった。

 舟縁から麻糸を垂れながら、波に揺れる舟の中でいつしか微睡んでいた。どれほど経ったのだろうか、舟は軋み揺れていた。糸が右に左に激しく舟縁をしごいている。みるみる内に波間に引きずられてゆく。

 これは鱶か鮪かもしれない。

 俺は慌てて飛び起き糸を抑えたが、とてつもない勢いに勝てずに我が身も舟から投げ出されてしまった。


 どんどんと深く沈んでゆく。

 意識は朦朧としてもうもがくことも出来ず身は沈みゆくままだった。

 光は遠のいて微かになり、閉じかけていた瞳は闇ばかりを見つめていた。が、その闇に細かな白雪が舞っていた。あの日、母者が死んだ闇夜の粉雪。全てが俺の胸に向かって降ってきたあの白い冷たさ。染み込んでくる冷たさ。あの痛みを思い出していた。痛みは生きている証。温かい泪。

 身体のそこかしこに温もりを感じる。たくさんの温もりが俺を囲っている。肌が流れを感じている。つるりとした何かが体の周りを覆っている。

 まぶたの裏が薄く感じている明るさ。緩やかに光は戻って来た。


 海鳥の声がする。


 気がつくと俺は舟の上に居た。

 身を起こして辺りを見回した。

 空は朱く薄曇り遠い波間は金色に輝いている。

ふと舳先を見るとその先に波間から尖った面構えが一つこちらを見ていた。入鹿だ。やがてその一匹の周りにもたくさんの鰭や鼻先が現れたがすぐに波間に消えていった。名残を惜しむかの如くに残った一匹もその後を追った。


 俺は日がな夢を見ていたのだろうか。

 ぼんやりとぼんやりと日が落ちてもただぼんやりと舟の上で背を丸めていた。


 長い島暮らしの日々。思い出したように何度か浦を眺めると、時々どんよりとした黒い煙がたなびいていることがあった。また戦があったのだろうか。だが村人は誰も何も伝えに来ない。


 かめと息子を島に残して俺は村に戻ってみた。


 浦の集落には人の姿はなく、湊の小屋も橋桁も荒れるに任せたあり様だった。見覚えのある名前の舟が打ち上げられて朽ちている。幾つかの家をまわったが家財を荒らされた様子で、乾いた亡骸が襤褸を纏って横たわっていた。

 戦に巻き込まれたのか野盗に襲われたのか。島から見た黒い煙は火をつけられて焼けた家だったのだろうか。


 誰もいない。何もない。村を離れていた俺たち親子だけが助かったのだ。


 ただ一人佇む俺を揶揄うように風が疾く。

 風は何もつかめず去ってゆく。


 得たものはあるのか。


 戦はまだ続くのだろうか。

 生命は削られて亡骸はこれからも増えてゆくのだろうか。忘れられた者だけが残されてゆく。生き延びるという事はそういう事なのだろうか。生きたかった悲しみ。生きていて欲しかった哀しみ。生きる事の痛み。生きる証。生きてる限り何度も何度も味わう痛み。痛みから生まれるものはあるのだろうか。俺は取り残されたのか。風は疾き、砂は舞い、雲は走り過ぎる。時は駆け抜けてゆく。変わらぬものがあろうか。

 永遠など誰も知らない。眇眇と人の世は過ぎてゆく。不二に降る粉雪の結晶より儚い。時も生命も。


 帰ろう。


 島に帰る。


 俺は宝を残して来た。他から奪った財ではなく、俺と連れ添ったかめと育んだ宝がある島へ帰ろう。

 俺はゆっくりと漕ぎ出した。白い不二を背中に。

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