第23話


 茜の居場所は判っていた。

 浩太は家を出ると階段を駆け下り、下まで降りると今度は県道を右手に駆け上がっていった。


 毎日の夕刻に茜と歩いたこの道を駆け上がると、茜の顔が思い浮かんだ。

 いろいろな表情の茜に、笑顔の茜にさえ、どこか遠いものを俺が感じていたのは、ほんとは俺の方が遠くにいたからだ。


 …──そんなふうに、今では俺も理解できる。



    *  *


 雨はもう止んでいた。木々の間からは、雲間に星が瞬き始めていた。

 葛葉の神社の前をそのまま通り過ぎる。

 俺と蒼と明弘が、小さな結沙を泣かせるときは、いつも茜が間に立って怒ってたっけ。

 あんなにお転婆だったのに……。

 現在いまはすっかり淑やかになった高校生の茜の顔が浮かぶ。



 県道脇から上がっていくあの小路こみちは、昨日まではあれ程捜しても見つけることができなかったのに、今は簡単に見つけることができた。


 手に持った茜のトートバッグを汚さないよう気を付けて上って行く。

 七年前、この山を去るまではよく、この小路を茜と二人、手を繋いで上がったんだ。

 空地に出て視界が開けた。西に開けた方を見ると、黒々とした稜線の下に街の光が瞬いている。


 そうだここだ……。

 この場所で、「わたし、コウちゃんのお嫁さんになってあげる」

 そう云ったのは、ほんとは蒼だった──


 蒼は昔からそんなふうに茜のフリしては茜を揶揄からかっていて、この時の茜は、真っ赤な顔で蒼を追いかけまわしてた──。


 もうその頃には茜のことが好きだった俺は──そうだ、好きだったんだ──、そんな茜の態度が幼心につれなく感じて、それで云ったんだ…──


「僕のお嫁さんになるのは嫌?」 ……って。


 さらに赤くなった茜はハッキリと返事することが出来なくて、それでも俺の差し出した手を握り返して応えてくれた。



 ここから奥に行くと、廃屋となった小屋がある。

 蒼や俺と喧嘩したりすると、よく茜はここで泣いていた……。


 ──たぶん茜はそこにいる。



    *  *


 果たして廃屋の小屋は今でもそこに在って、俺の記憶の中のそれよりもずっと小さかった。

 扉の外れた入口から中を覗けば、暗い中、明り取りの小さな窓から射す星明りが、一番奥の隅に膝を抱えていた茜の白い身体を照らしている。


 疲れ切って寝入ってでもいるようだった。

 ぴくりとも動かない茜に、俺は持ってきたトートバッグの中から小袖を探り出す──。

 驚かさないように、ゆっくりと近付く。


 何て声を掛けよう……なんて思っていた俺に、


「……葉山くん」

 茜の方が声を掛けてきた。


 ──え? と俺は茜を見遣る。茜は両の膝の上に面を伏せたままだった。


 ああ……俺のこと──

「……わかるんだ?」


 俺は静かに訊いた。

 茜は、顔を膝に埋めたまま応えた。

「──うん……わかるよ……だって……」 ふ…、と淡い光が突然に湧いた。「──わたし、人間ひとじゃないから……」


 茜の頭の上には、大きな狐の耳が現れている。



 茜は肩を抱くように両の腕で自分を抱きしめて泣き声になって云う。

「……もう、これで──、葉山くんに会えなくなっちゃったね……」


 俺は静かに云った。

「人に見られちゃいけなかった?」


 茜は、黙って頷いた。

 俺が、「人に見られたら、もう二度と人の姿になって里には現れちゃいけないから?」と子供の頃に皆で聞かされた、古い〝人外のモノの掟〟のことを訊くと、茜はもう一度頷いて肩を震わせた。

 そんな彼女が、いよいよ堪えられなくなって声を詰まらせながら云った。


「──これから、もう……ずっと……。

 なんで……人に……人間に見られちゃうなんて……」


 忍び泣く茜に、俺は身を屈めて近付くと、精いっぱいに優しく聞こえるよう呼び掛けた。


「茜……大丈夫だよ……」

 落ち着かせるように云う。もう一度。「──茜……」


 茜の反応は鈍かった。

 それなら、こうだ…──。


「僕のお嫁さんになるのは嫌?」


 ようやくその声音に、茜の頭の上の狐の耳が、ぴく、と動いた……。

 茜が、恐る恐る顔を上げた。


「──コウ……ちゃん?」 瞳を涙でぬらした茜が、恐る恐るに訊く。

「ああ……」

 俺は優しく頷いた。

「大丈夫。──全部、思い出した」



 茜の表情がくしゃくしゃになった。

 その次の瞬間には、茜は俺に飛びついていた。


「──…コウちゃん……コウちゃん……コウちゃん!」


 思いっきりの力で茜は抱きついてきた。

 強く、強く、強く……。


 最初、俺はされるがままにしていたけれど、やっぱりそうするべきだと思い、ぎこちなかったかもしれないけれど、彼女の背に優しく腕を回したのだった。


 いま俺は彼女の温もりに包まれて、ようやく戻るべき場所に戻って来れたと思った。

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