アンドロギュノス

戸松秋茄子

本編

 三年ぶりの電話だった。


 ブーケトスで押し付けられたカサブランカの処分に困っていると、知らない番号から着信があった。彰吾だ。


「会えないか」


 わたしはカサブランカをゴミ箱に突っ込んで、群馬の総合病院に向かった。彰吾は恋人と山道をドライブ中に土砂崩れに巻き込まれたらしい。病室のドアを開けると、彰吾は力ない笑みでわたしを迎え入れた。掛布団が膝から先のあたりで不自然にへこんでいる。両足を切断したという話は本当らしかった。


「こうなってようやく、本当に大切なのが誰かわかったよ」彰吾はわたしの手に自分の手を重ねた。「二人三脚……とはもういかないか。これからは僕が支えられることの方が多くなるだろうけど、一緒になってほしい」


 その次の瞬間にはアパートのベッドで冷や汗を流していた。水道水を喉に流し込んだところで、震えは収まらない。テーブルの上のブーケに気づいて、ようやく夢だと理解した。


「このまま付き合い続けてもお互いのためにならないと思う」三年前、彰吾はそう切り出した。「僕たちは似すぎてる。一緒にいると、自分の全てが許されてる気になる。知らず、そこに甘えてしまうんだ。本当の恋はもっと激しくて、苦しいものだと思う」


「彰吾はそういう恋がしたいの?」わたしは言った。「川底に引きずり込まれるような恋が」


「わからない。でもそうすべきじゃないかって気がするんだ」


 彰吾とは地元の高校で出会った。


「隣のクラスにあんたと話したいっていう男子がいるみたいよ」


 ある日の昼休みのことだ。友人に背中を蹴飛ばされるようにして、一年三組の教室に放り込まれ、短髪に眼鏡のこざっぱりとした男子と対面することになった。向こうは向こうで困り顔だ。彼にもお節介な仲人がいたらしく、背後で背の低い男子がにやにやと笑っていた。


「とりあえず、二人でランチでもしたら」


 ランチなんて上等なものではなかった。教室を追い出されたわたしたちはお弁当を片手に校内をさまよい、けっきょく、どこにも腰を落ち着けることがないまま昼休みの時間を使い切った。


「どうだった」


 教室に戻ってすぐ、友人に捕まった。わたしは適当にごまかして移動教室の準備をはじめた。この五〇分間に何か収穫があったとすれば、ウォーキングによる脂肪の燃焼に、校内の土地勘、そして、たまたま同じ映画を見たいと思っていた男の子の連絡先くらいだった。


「アンドロギュノスって知ってる?」付き合いはじめた頃、彰吾が言った。「人間はもともと二人で一つだったんだ。それが神様の怒りに触れてバラバラにされてしまった。恋愛というのはつまり、失われた半身への郷愁であり、飢えなんだよ」


「それってわたしたちのこと?」


「そう思わない?」


 彰吾とはよく趣味が合った。彰吾が見たい映画はわたしが見たい映画でもあり、レッズが勝とうが負けようが知ったことではないが、ライオンズが負けた次の日は一緒に悔しがった。特に申し合わせたわけでもないのに、選択科目でよく顔を合わせ、オムライスを注文すれば、二人とも格子状に割って食べた。戯れに意見を戦わせることはあっても、それは単なるディベートであり、心は同じだとわかっていた。


 彰吾とは別々の大学になった。同じ大学も受験していたけれど、それはわたしの第一志望ではなかった。彰吾が大学の近くで一人暮らしをはじめたこともあって、会う機会が減り、メールのやりとりも滞りがちになった。なあなあで引き延ばし続けた関係はある日、彰吾からのメールで正式に解消され、わたしたちはまたばらばらになった。「好きな人ができた」とのことだ。学部で一緒になった同級生らしい。それ以上のことを知ったのは、二年生の春休みに、彰吾が家を訪ねて来てからのことだった。


「サイレーンみたいな子だったよ」彰吾は後にそう振り返った。「僕が引きずり込まれたのは川じゃなくて山だけどね。危うく死ぬところだった」


 あれは二人で美術館を訪れたときのことだ。ラファエル前派の企画展をやっているというのでふらっと立ち寄ったのだった。ロセッティ、ウォーターハウス、バーン=ジョーンズ、ジョン・エヴァレット・ミレイ。アカデミーの権威に逆らって、唯美主義の世界を切り開いた野心的な画家たち。やがて、ドレイパーの『サイレーン』の前を離れたあたりから、彰吾は彼女のことを語りはじめた。


「一度、この山に登りたいと言い出したら聞かなくてね。彼女も決して登山経験が長いわけじゃないし、山によっては危険だからと諫めるんだけど……でも、ああいうのは否定するだけ逆効果なんだね。一人で登るなんて言われたら放っておくわけにもいかない。けっきょく週末になると二人でザックを背負ってるってわけだ」


 そしてある日、二人は遭難した。山頂までは問題なくたどり着いたものの、降りる道を間違えたのだ。次第にあたりは暗くなり、二人は野宿を経て、ようやく山のふもとに出た。


「でも、痛い目を見たおかげで本当に大切なのが誰かわかったよ」


 その後、彰吾とは四年続いた。


「あんたたちも煮え切らないわね」ブーケを投げた友人が言った。「もう二七でしょ。くっつくならくっつく。別れるなら別れるではっきりしなさいよ」それからこう続ける。「いい。結婚式のブーケはあんたが取ることで決まったから。しっかりつかみなさいよ」


 こうしてわたしは八百長のブーケトスでカサブランカのキャスケードを受け取り、その夜、彰吾の夢を見た。


「君は僕をどういう目で見てるんだか」夢の話をすると、彰吾はそう苦笑した。


 花瓶に移したカサブランカが萎れはじめた頃、今度は知ってる番号から着信があった。彰吾だ。わたしは呼び出されるまま、駅前のカフェに赴き、そこで彰吾と再会した。


「もし、そのまま夢が続いてたらどうしてた?」


「知ってるくせに」


 その一年後、わたしたちは籍を入れた。結婚式では「ブーケ効果」にあやかりたい友人たちのためブーケを投げ、新婚旅行では草津温泉を訪れた。


「こういう場所もたまには悪くないね」


 彰吾は紅葉する山々を望みながら言った。


「そうね。まさか温泉で溺死なんてするわけないし」


「サイレーンか」彰吾は苦笑した。「もう忘れてほしいな」


 わたしたちは手をつなぎ、温泉街を歩いて行く。これから先のことはわからない。わたしたちが本当にアンドロギュノスの片割れなのかどうかも。それでも、もうしばらくは彼と一緒に歩んで行こう。そう思う。

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アンドロギュノス 戸松秋茄子 @Tomatsu_A_Tick

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