xx.そして何度目かの春

 31年続いた平成が終わり、元号が新しいものに変わった。

『近頃の若いお母さんというのは、子供を粉ミルクで育ててるんですね。私から言わせれば言語道断です。やはり子供は自然に育てるのが一番、赤ちゃんの頃から母親の愛情が必要なんですね……』

 32型の液晶テレビの小さなスピーカーから識者の声が鳴っていた。画面の下部には「自然に育てる」と「母親の愛情」の部分が華美なフォントで表示され、ひな壇に座った有名人の顔が大写しになり、我が意を得たりの表情で何度も頷いている。

「だってさ、ママ」

 テレビを見ていた少女が、ダイニングで洗い物をしているみのりに向けて声をかける。

「そんなこと言われたって、出ないものは出ないからねえ」

 娘に向かって返す声は、困るでもなく憤るでもなく、ただただ普通の響きをしていた。

「あかりは粉ミルクだったけど、よく育ってくれたしね」

「あなたの娘ですから」

 あかりはにっこり笑う。

「ところでチャンネル変えていい?」

「どうぞー」

 はーい、とあかりが返事をして、CSの科学専門のチャンネルに変える。番組は宇宙の特集で、ちょうど数週間前に話題になった、世界中の電波望遠鏡がブラックホールの輪郭を捉えたときの画像を流していた。みのりの位置からはテレビの映像を観ることができなかったが、そこに映った赤い円形の影のようなものと、その下部に見える横倒しの三日月のような赤い光のことは、簡単に思い浮かべることができた。

「なんか不思議。名前はブラックホールなのに、赤色だなんて」

「赤いのはブラックホールじゃなくて周囲のガスだね。降着円盤っていうガスの塊みたいなやつが、すごいスピードでブラックホールに落ちていく間に、摩擦熱で光ってるの。別に本体が赤いわけじゃないと思うよ」

 みのりの口からはそんな言葉が淀みなく出てくる。聞かされたあかりはどういう気持ちでいるものか、ほう、とため息をつきながら言った。

「ママって本当、宇宙のことだけは詳しいよねぇ……」

「ちょっと待って、『だけ』ってどういうことよー」

「芸能人とか全然知らないでしょ」

「知ってますー。光GENJIとか結構詳しいですー」

「うっわ、ヤバすぎ、さすが昭和の女……」

 せめてSMAPくらい言えないの、とあかりは言う。『夜空ノムコウ』なら知ってるけどねえ。タイトルが宇宙っぽいからでしょ? そんな会話が続く。

「宇宙って言えばさ、ママ、昔、宇宙人の話よくしてくれたよね」

 あかりが言う。みのりは少し目を細めた。

「懐かしい話を持ち出すね」

「私あの話好きだったんだよね。ずっと離れた宇宙のどこかにいる、優しい宇宙人の話。まあ、大きくなってから、作り話だってわかっちゃったけど」

 みのりが小さく笑って言う。

「作り話じゃなくて、本当の話だよ」

「またまたぁ。じゃあさ、また話してよ。ママと『しーちゃん』は、どんなこと話してたの?」

 オープンタイプのキッチン越しに、みのりは娘を見た。あかりはちょっとだけ意地の悪そうな、相手の冗談にわざと乗ってやっているときにいつもやる顔をしていた。母親のついた他愛ない嘘を、見事、見破ってやろうという魂胆が透けた。

 みのりは優しく苦笑いをした後、ゆっくり口を開いた。

「普通のことだよ。本当に普通の……」


 ---


 あの頃からもう長い時間が経った。

 都合半年以上を休んだ後で復学したみのりに対して、同級生たちはどう接していいのか戸惑っていたようだったが、やがてそれも馴染んで行き、以前と同じに戻った。

 変わったことと言えば、みのりは時々星空を眺めるようになったし、宇宙のことをよく調べるようになった。

 

 自分があのとき、違う選択をしていたとすれば……と、時々思うことはあった。

 もしもそうだとしたら、今でも彼女の『声』を聞けていたのだろうなと思う。

 もしもそうだとしたら、今の自分は存在しないし、あかりと出会うこともなかったのだと思う。


 もしもやり直せたとしても、その道を選ばないことを確信している。

 それでも時々、胸を痛ませているのは……、今でも赤黒く抉られたままの、古傷を、触って痛みを思い出すような暗い歓びでしかないと――、そのくらいの自覚はあったが。

 

 ---


『ねえ、しーちゃん』

 あかりに昔話を聞かせながら、みのりは心の中で語りかける。

 三十年前のあの日、この胸の中に確かに在った、遥か彼方の知らない銀河で、

 きっと今も生き続けているだろう友達ルーシアに向けて。

 

『どうかあなたが今、孤独でありませんように』

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