7.この胸の中の銀河

『しーちゃんの星が、なくなったって……』

 みのりの問いかけにしーちゃんが答えた。

《私の身体レラが、私の星を破壊したの》

 みのりはしーちゃんと初めて話した日に聞かされた言葉を思い出していた。星が破壊される、という言葉が何を意味するのか、その時のみのりにはうまく想像できなかった。

《レラの肥大化が始まったとき、こんなことになるなんて思ってなかった。私の友達ルーシアも何も気にしていなかった。これだけ大きくなったら、『大きいの』だって追い払えるね、なんて笑ってたんだ。みんな結構、呑気だったんだね》

 みのりには何も笑えなかった。

《気が付いたときにはもう手遅れだった。身体の大きさがヒアリアの海の深さを遥かに超えて、これはさすがに大きすぎるね、なんて言ってる間に、私の星は少しずつ再編操作トスに削られて、だんだん小さくなっていったの》

 地殻とマントルをはぎ取られて、星であるために必要な密度と質量を失ったしーちゃんの母星は、公転軌道をはじき出されて宇宙を漂う彗星に変わった。星を取り巻いていたヒアリアが重力の箍を外れて宇宙に零れ落ちて行き、しーちゃんの友達ルーシアは散逸するヒアリアの軌跡の上に置き去りにされていった。

 乾いてしまった星の上に辛うじて残っていた者たちもやがて干からびて死んでいった。元からヒアリアの中でしか生きられない生命体ばかりだった。柔らかいニエルも、どこにだって現れていたフレーヴァも、鯨のような威容を誇った『大きいの』も、みんないなくなってしまった。

《そしてレラの機構は、私だけを守った》

 ヒアリアの庇護を外れてもなお生命活動を続けられる身体を、レラが与えた。

《長い時間を独りで過ごしている間に、レラの使い方を覚えていったの。再編操作トスを自発的に起こす方法や、イメージ対話や、翻訳モジュール。……それに、排出モジュール》

『しーちゃんのレラも……排出できるの……?』

《宇宙空間に投げ出されて、干からびるのを我慢できるならね》

 それはつまり、自殺に等しかった。

全宙域適応型生命維持機構レラっていう名前はそういうこと。住んでいる星がなくなっても、レラだけは生き続けるの。だから今でも、私は生き続けている。母星の残骸とともに、宇宙空間を漂いながら》

 わずかな時間、言葉が途切れる。

《それがどれだけ寂しいことか、わかる?》

 みのりは何も答えなかった。

 レラに破壊されてしまったしーちゃんの星と、自分の未来が重なって見えた。地殻が剥がれ落ちて、赤黒い真皮のような外核を剥き出しにした地球の上で、たくさんの人が死んでいく様を想像した。自分の家族やクラスメイトが、竜巻にでも呑まれたように舞い上がり、宇宙空間の深淵へと吸い込まれていく姿を想像した。

《独りは、本当に寂しいから》

 しーちゃんは言う。

《いーちゃんは、まだ間に合うから》

『でも、レラがなくなったら……』

《お話、できなくなるね》

『やだ』

 やだ、とみのりは言う。

《やだ、って、いーちゃん》

 窘めるような『声』がしーちゃんから返る。それに、わざと噛みつくような強い調子で、みのりは言葉を打ち返す。

『独りは寂しいって言ったよね。わたしだってわかるよ。こんな身体になって、周りには誰もいなくなって、友達だって思ってた人にもちっとも会えなくなった』

《だったら》

『ずっと辛かったんだよね。だから嘘をついてまで、引き伸ばしたんでしょう? そんなの、しーちゃん、何も悪くない。わたしが同じ立場ならそうする』

 言葉など挟ませないつもりだった。理屈と倫理と良識に蓋をして、みのりは言葉を放り続けた。

『そんなの我慢しないでよ。しーちゃんには、もう、わたししかいないじゃない』

 なんとしてでも説き伏せようとした。

 そしてそれは、無駄に終わった。

《駄目だよ》

 反駁と呼ぶにはあまりにも穏やかな『声』だった。

《いーちゃんの星に、大切な人たちルーシアがいるなら、選ばなきゃ駄目だよ。それが失われた時の気持ちを、ちゃんと考えなくちゃ駄目だよ。あなたの選択が引き起こす結果を、ちゃんと想像しなくちゃ駄目だよ。私が、同じ立場なら、そうする。正しい選択ができなかった辛さには、もう耐えられないから。……それに》

『それに……?』

《あなたの心が震えているの、わかっちゃうもの》

 ――イメージ対話。

 怯えも、躊躇も、何もかも。

 本心のつもりで吐き出した言葉が、本当は嘘やごまかしにまみれていることも。

 どちらか片方を選ぼうとして選び切れない自分の気持ちさえも、みんな、しーちゃんに伝わってしまう。

 そしてみのりにも伝わった。

 しーちゃんの『声』が何一つ震えていないこと。

 しーちゃんが、心の底から、みのりの星を守らせようとしていること。


 もう他の道が選べないことを、受け入れなくてはならなかった。

 天秤にかけた大切なふたつの、不安定にゆらいだ、決して選ぶことのできない等価値の……、それでも確かに傾いた皿の上の『正しいほう』の重さを、理解してしまった。

 

《排出モジュールを送るね。使い方は、きっと大丈夫だね》

 しーちゃんからの『通信』が、遥かな距離を越えて届けられる。

 それで最後になるプレゼントの箱を、みのりはできるだけゆっくりと開けた。

 それは時計の形をしていた。長針と短針、そしてもうひとつ、赤い針を持った目覚まし時計。

 

 人を心地良い夢の世界から引き摺り出すための、機械だ。

 

 『声』が震えないように必死で押さえつけた。

『じゃあ、せめて約束させて』

《何を……?》

『絶対に、しーちゃんのことを忘れないって』

 一瞬だけ通信が途切れる。

 そして、ノイズにさえ似た異常なデータの振れを伴って、彼女の『声』が届けられた。

《――私も》


 目覚まし時計のスイッチを入れた。

 B-Sインタフェースからトリガーコードを実行してレラの機構を停止、その後で排出を行うシークエンス。しーちゃんの用意してくれた一連の流れが、白い時計盤の上で、二本の針の形をとって廻り始める。

 兎のような駆け足で巡る綺麗な時計の長針が、ゆっくりと動く短針を何度も追い抜いて、やがて赤い針の待機地点に到達する。そのとき、頭の中で警告のような目覚ましの音が響き始めた。

 激しいベルの音に急き立てられるように、外部環境のパラメータが頭の中を流れていく。それはみのりの暮らす星、太陽系第三惑星、地球を構成する環境のすべてだった。大気の組成、外気温、気圧、重力、放射線量……。その世界が自らの身体にとって生存に適したものであるか、ひとつひとつのパラメータに対して、正常クリアを示す文字が連なっていく。

 人間はこの星の環境に適応して生きている。

 そうやって何年、何十年、何百万年もの間、生命の営みが続けられてきた。

 この星は自分にんげんが生きていくのに最も適した世界だ。

 だけど、それならどうして、とみのりは思う。

 

 それならどうして、こんなにも息が苦しいんだろう。

 

 急に胸が重くなった。

 息苦しさで視界が霞み始めた。レラの機構が停止したことで、呼吸や肉体にこれまで与えられていた補助が失われたためだと、みのりは理解した。

「……しーちゃん」

 尋ねる声に返事はない。

 機能を停止し、ただの巨大な脂肪の塊と化したレラからは、何の答えも返らない。

 もう一度レラを起動したら……この苦しさから解き放たれるかもしれなかった。もう少しだけ、いや、これからもずっと、しーちゃんと一緒にいられるのがわかっていた。

 覚めゆく夢に融け落ちていく、綿飴のような空想の残骸だった。

 霞む視界の中、鳴り続ける目覚まし時計に、みのりは右手を叩きつけた。

 

 排出は速やかに行われた。

 みのりの部屋を埋め尽くすほどに肥大化していたレラは最後の命令を忠実に呑み込み、再帰的なプロセスで自らをフェムトサイズの塵へと分解させていった。みのりの胸のすべての毛穴から黒い煙が潮を吹くように噴出し、巨大だった胸は解かれた風船のように急速に萎んでいった。

 三十秒にも満たない時間だった。

 みのりの主観的な時間においては、もっとずっと長く感じた。

 身体から抜け出ていく黒い煙が、さあっ――と音を立てて降り注ぐ黒い粒子の雨が、誰かの葬送のように思えた。小さい頃見た古い映画の、内容も覚えていないモノクロの、そこだけが鮮明な煙の描写を思い出していた。

 誰かが死んで、荼毘に付された命の、空に昇って行く煙の色が。

 しーちゃんの『声』が、言葉を交わしながら想像した姿が、確かに存在したはずのふたりだけの時間が、もう二度と関わることのできない遥か彼方の銀河に消えていくような気がした。


 ---


 まだずっと鳴り続けていた目覚ましの残響が、やがて消える。


 ---


 いつの間にか朝が来ていた。

 みのりはベッドから降りた。自室のドアまで歩く間、一度だけつんのめった。二階の部屋から一階へ、ゆっくりと、足音を引き摺りながら階段を下り、家族の待つダイニングの扉を開けた。

 トーストを焼いていた母親と、新聞を読んでいた父親と、手持無沙汰にしていた姉の顔が一度に自分の方を向いた。

 三人が見たのは、大きな胸をなくして、元の姿を取り戻したみのりの姿だった。

 みのりに声をかけようとして、三人は、そのことに気付いて呼吸を止めた。

「治った、の?」

 家族の表情を見たみのりは、なくなった胸に目を落とし、そこで初めて自分の姿に気が付いた。

 みのりの胸の全面に赤黒い斑点が広がっていた。

 体表面の毛穴のひとつひとつに産み付けられた毒虫の卵が一斉に孵化して、生まれだした幼虫が、無数に蠢いているような色だった。それは重篤な皮膚病に似た、見る者すべてが生理的な嫌悪を抱かざるを得ないような、おぞましさだった。父親と、母親と、姉の顔を順番に見た。誰もが何かを言おうとして、当たり障りのない言葉を見つけられず、今にも溢れてしまいそうな、恐らくは包み隠すことのできない原初的な拒絶の意志を、自らの良識で押さえつけているように思えた。

「レラがね、なくなっちゃったの」

 みのりの顔が、微笑みの形でゆがんだ。

「しーちゃんにね、会えなくなったの」

 よかった、とみのりは思った。

 自分の胸に手を当て、そのぬくもりに思いを馳せた。

 レラは煙になって消えたけれど、何もかもなくなったわけではなかった。

 しーちゃんと過ごした時間の痕跡が、こうしてちゃんと残ってくれた。

「痛くない?」

 ようやく姉がそれだけを聞いた。身体は何一つ痛くはなかった。

「……痛く、ないよ、何にも」

「でもみのり、」

 木枯らしががたがたと窓を揺らして、すきま風を送り込んできた。

 頬がやけに冷たくて手を当てる。

 それで初めてみのりは、自分が泣いていることに気付いた。

 涙を流す資格なんて自分にはないのに。

 そう思って必死に止めようとしても、ちっとも止まらなかった。

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