序章

序章

 この世に愛ほど大事なものはない。


 冷たい雨が容赦なく降り注ぐ中、幼い彼はその言葉を思い出していた。


 黒い服を着た大人たちが右往左往している間、彼はずっと立ち尽くしていた。


 不慮の事故に巻き込まれ、彼は両親を失った。


 ――

 誰かが呼んでいる声がする。

 ――

 いや、雨音か、葬儀に集まる人々の声か。

 

 ベブル・リーリクメルドは十三歳だった。大魔術師ヨクト・ソナドーンの不出来な息子として生を受け、魔術師として一人前になった証として、ふたつめの名前、魔法名としてリーリクメルドを授けられた。だが、魔法という魔法は何ひとつできないままだ。それでも、両親からは大切にされて育ってきた。


 できなくてもいい。素直であればいい。そして、愛さえあればいい。


 ただひとつのよりどころを、彼はあっけなく失ってしまった。唯一重大なのは、彼はこれから天涯孤独となるということだ。



 掘り返された大地に、ふたつの棺が納められようとしている。聖職者がなにごとかを唱えている。大魔術師としての亡父の弟子たちが、憔悴しながらも、ざわめきながらも、葬儀を進めている。



 雨が降り続いている。


 声が聞こえる。



 もしも、あのとき、どちらかでも生きていてくれたなら――。



 不意に、時が止まったかのように感じた。


 雨粒が落下を止め、空中に留まっている。


 そのことに気がついたのは彼だけだ。



 雨粒の中で、なにかが波打つのを見た。


++++++++++


 雨はしきりに降り続いている。ベブルは先程なにかを見た気がしたが、そのことはすぐに忘れた。悲しみのあまりに、言葉を失ったままだ。

 

 彼は人生でただひとつのよりどころを失ったのだ。愛すべき家族を、愛すべき家庭を。


 棺が墓穴に納められようとしている。


 棺の数はひとつ。亡くなったのはベブルの母。



 父は生き延びた。


 ベブルは妙に痒い感触を胸に感じたが、すぐに気のせいだと思った。



 ベブルは肩に置かれた父の手を振り払った。


 父は母を裏切ったのだ。どのように裏切ったのかはもう思い出せない。しかし、父親こそは母を裏切り、死に追いやった憎むべき敵。今日こそは、愛すべき家庭が永遠に失われた日――。


 葬儀は進んでいく。


 冷たい雨は降り続いている。


 声が聞こえる。



 声が聞こえる――。

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