全盛は 花の中行く 長柄傘(一)

 妓楼の昼七ツといえば、昼見世が引けた後の短い休憩時間である。遊女たちも食事を取ったり手紙を書いたりと、見世全体がのんびりしているのが普通だ。

 しかし今日は勝手が違い、あちこちでざわざわと人が行き交っている。まるで妓楼全体が高揚感に包まれているようだ。

 ここ高砂屋たかさごやは京町一丁目の大見世で、抱えの呼出しは計四人。そこへもうひとり、新たに呼出しが加わる運びとなった。

 今日はその披露目の道中が行われる、大事な日だった。

 掃除する下働きの横をすり抜け、台の物を担いだ仕出屋しだしやに挨拶し、番頭新造ばんとうしんぞう常磐ときわは廊下を急いだ。

 番頭新造は年季ねんが明けた女郎上がりで、客は取らない。この高砂屋に勤めて二年目になる。

 常磐はお披露目を迎える花魁のため、朝から走り回っていた。

 馴染みから祝いにと贈られた新品の夜具を確かめ、配り手拭いの数に間違いがないか数えておく。道中が終われば茶屋におさめる祝儀も差配する。この日を待ちかねていた客たちが一斉に登楼するであろうから、彼らが互いに顔を合わせて気まずい思いをしないよう、調整する必要もある。やらねばならぬことは山ほどあった。

 途中、同じ番新である浦舟うらふねに呼び止められた。

「コウ、常磐さん。お急ぎのところすまないが、ちっとお助けくださっし」

「浦舟さん、どうしなんしたか?」

「どうもこうも、もうすぐ道中だってのに、がきつい喧嘩をはじめてのう。取っ組み合いの大立ち回りでありんすよ」

 ひのでときりのは、ともに今日お披露目を迎える花魁付きの禿たちだ。

「オヤ、それはいけねえ。顔に痣でも残ったら、おいらんの門出に障りんす」

「そうともさ。あのふたりを押さえられるのは、常磐さんしかおりんせん。どうぞ頼まれておくんなんし」

 急いでいるにはいるが、まだ若干の余裕はある。喧嘩の仲裁くらいなら、なんとかなるだろう。

 困り果てた様子で両手を合わせる浦舟に、常磐は「お任せなんし」と請け合った。

「アイ、おかたじけよ」

 ほっと胸をなで下ろす浦舟と別れ、常磐は禿たちのいる大部屋へと向かった。

 常磐は、とにかく面倒見がよいと──とくに年若の禿や新造たちから──評判だった。

 内儀のように頭から叱りつけることもなく、遣手やりてのように問答無用で仕置きするでもない。子どもたちの話をしっかり聞き、叱るときは叱り、褒めるときは褒める。ただそれだけなのだが、幼くして売られてきた子どもたちからすれば、姉のようでもあり、また母のように思えるらしい。

 大部屋には、突出し前の振袖新造や禿たちが輪になって、わあわあと騒いでいた。その中には、常磐とともに花魁へ付いている振新の彩鳥あやとりもいた。目が合うと、彩鳥もまた「常磐姐さん、お願いしんす」と手を合わせて見せる。

 意を得た常磐が輪の中に割って入ると、中央でふたりの禿が大泣きしていた。取っ組み合いは例えでなく、お仕着せの袖が引きちぎれて取れそうになっている。

「きりのどんがいけねえんだ。おれの櫛を盗んで挿したから、取り返したんだ。おれは悪くねえ!」

 顔中涙と洟水はなみずでぐちゃぐちゃにしたひのでが、もうひとりの禿を指差して癇癪を起こしている。

「盗んだんじゃねえ、ちっと借りただけでありんす。だのにひのでどんが突き飛ばしてきたから、やり返したまでのこと」

 対するきりのは殴られたのか、赤く腫らした頬を押さえ、ぷいとそっぽを向いている。

「盗人のくせに生意気だ。今すぐおれの櫛を返しなんせ!」

 逆上したひのでが再び掴みかかろうとするのを、常磐は無理矢理引きはがした。

「ちょいと落ち着きよ、ふたりとも。まずは訳を聞こうじゃないか」

 手の空いている振新に濡れ手拭いを持ってこさせ、きりのの頬に当てさせる。常磐も自分の手拭いで、ひのでの汚れた顔を拭いてやった。興奮の波が引いたのか、ひのではしゃくり上げつつも泣き止んだ。

 ひのでが落ち着いたのを確認してから、常磐は畳に膝をついて、濡れ手拭いで腫れた頬を押さえているきりのと視線を合わせた。きりのはいったん目線を逸らすが、そうはさせずこちらを向かせた。

「コウきりの。おまえはどうしてひのでの櫛を取りなんした?」

「…………」

「黙っているということは、盗人だと認めることだ。どんな事情があるにせよ、人のものを勝手に取るのは悪いことだね」

 しっかり目を見て言い聞かせると、きりのの大きな目から涙がぼろぼろとこぼれ落ちた。泣きながら、袂からなにかを取り出した。

「これは……」

「わざとじゃありんせん。おいらんみたいに綺麗に挿そうといじっていたら、折れてしまいんした」

 小さな手のひらには、真っ二つに折れた櫛があった。

 呼出しに付く禿はふたりでひと組と相場が決まっており、衣装も装身具もすべてがお揃いである。片方の櫛がなければ、道中でひどく目立ってしまうのだ。

「なるほど、だからひのでの櫛を取ったのか。でもな、きりの。そうすればおまえはいいが、取られたひのでが困る。ひのでが困ればおいらんも困る。それはおまえにも分かりんすな?」

「…………」

 こくりとうなずくきりのに、常磐は続けた。

「これからは、隠さずにきちんと打ち明けることだ。怒られたくないのは分かるが、本当のことが分からねば解決するものもしないわな」

 そう言うと、常磐はきりのとひのでを引き寄せ、向かい合わせた。

「ちゃんとひのでに謝りなんし。ふたりが仲違いしたままだと、おいらんが一番いっち悲しみなさる。おまえたちは、おいらんの悲しい顔を見たいのかい?」

 するとふたりは同時に首を振った。

「おれ、おいらんのこと大好きだから、そんなのやだ」

「おれもやだ……」

「だったら仲直りだ。さあ」

 促すと、きりのは「……ごめん」とつぶやき、頭に挿していた千鳥模様の櫛を返した。ひのでもまた常磐の目を見てから「……いいよ」とうなずいて受け取った。

「今日はこの櫛はお休みだ。代わりにおいらんからお揃いの櫛を二枚借りてくるから、ふたりともそれを挿すといい。さ、先に支度を済ませてしまいなんし」

 そう言うと常磐は立ち上がり「よく仲直りできたね」と、ふたりの頭を同時に撫でた。

 その小ささに、常磐の胸が詰まった。

 八歳だった妹も、ちょうどこれくらいの背丈だった。

 あの子も生きていれば、すっかり大きくなっていることだろう。もしかすると、このくらいの歳の子がいるかもしれない。

 いつかここを出たら、会いに行けたらいいな。

 そんなことをちらりと思いつつ大部屋を出ると、浦舟が様子を見に来ていた。「さすがは常磐さん。お見事でおざんす」と手を打っているのがおかしかった。

 あとの始末を浦舟にまかせ、常磐は廊下に出た。少し足を速めると、とたんに背中が痛んだ。

 最近、とみに疲れやすくなった。背中だけじゃなく、手足の節々も痛む。三十を過ぎたばかりだというのに、情けない。いったん足を止め、呼吸を整えてからふたたび駆けだした。

 そうして常磐は本来の用件のため、とある障子の前へ来た。身仕舞いを正してから廊下に膝をつき、呼びかける。

「もし、おいらん。常磐でございます」

 すると奥から、よく通る声がひびいた。

「常磐さんかえ。お入りなんし」

「アイ、失礼しんす」

 断りを入れてから、常磐は引手に指をかけた。

 ゆっくり開くと、豪華な調度品に囲まれた室内に、ひとりの女がこちらに背を向けて座っていた。窓からは柑子こうじ色の夕日が差し込み、畳に長い影を投げている。

 ちょうど髪結いが終わったのか、馴染みの髪結屋が道具を片付けているところだった。常磐を認めると頭を下げ、

「このたびはおめでとうございます。あたしもこの世界は長いが、おいらんのような仕合しあわせ者は初耳ですよ」

「おありがとうおざんす。こちらはおいらんからのお気持ちでございます。どうか末永くお付き合いのほどを……」

 言いながら常磐は、あらかじめ用意していた祝儀袋を懐から出し、髪結屋に握らせた。たすき掛けに前垂れを帯替わりにした四十がらみの女髪結師は、恐縮しながらも祝儀を受け取り、愛想良く座敷を出て行った。

 音もなくふすまが閉まったのを合図にしたように、女が振り返った。

 今日、呼出しの披露目道中をおこなう、おおとりだった。

「おいらん、本日はお日柄もよく、まことにおめでとうございます」

 畳に両手をついて平身する常磐へ、鳳は静かに声をかける。

「お顔をお上げなんし、常磐さん。──いいや、おまつ姐さん」

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