千年の星

長門拓

千年の星


 A.D.1000.春分。

 

 うららかに日差しが照り、村の牧場の牛がのどかに草を食んでいます。

 私は木桶きおけを持ち出してきて、これから彼らの乳をすこし拝借はいしゃくさせていただこうと思い、我が家のドアを開けたところでした。外界の景色を視覚情報として認識できたのはほんの数秒のこと、突然激しいめまいに襲われ、反射的にその場に膝をつきました。

 いつものことです。私は先天的に視覚神経に支障を持って生まれて来たらしく、このような発作ほっさに毎度襲われます。数分ほどじっとしていれば発作の波は次第におさまり、何事もなかったかのように日常へと復帰できるのですが、この数分間、私は人間として当然のことはほとんど出来なくなります。息をするのも厳しいのです。もっとも、視力は両眼とも2.5という優良児レベルですが……。

 発作はこの日も何事もなくおさまりました。心臓の動悸の余韻よいんと、背中やわきの下に感じる冷や汗を残して……。

 

 私には、生まれた時から父も母もいません。小さい時には誰か女の人が世話をしてくれていましたが、いまはその人もいません。私が九歳になったある日のこと、彼女は私の生い立ち、病気のこと、この牧場のこと、そして、自分のことをほんの少しだけ話して、私の目の前からいなくなりました。私は泣きました。しかし、泣きつづけることだけを生活の全てにするには幼すぎました。私は私の生命の欲求に従って、この牧場で牛や鶏を育て、野菜を収穫し、自給自足の生活を営んできました。

 もちろんそれだけでは足りないものもありますので、月に一度里へ下りて、必要なものを物々交換することで、身の回りの必需品を揃えて、今日まで暮らしてきたのです。

 そして月日は流れ、季節は巡り、私は一九歳の誕生日を迎えました。

 

 私は気を取り直して立ち上がり、牛の乳をしぼりに彼らの所へとおもむきました。「彼ら」といっても、今のところ、我が家に牛は二頭だけしかおりません。ちなみに鶏は五匹です。昔はもっと沢山の家畜がいましたが、何せ一人では手に余るので、里の人に大部分を譲渡じょうとしたのです。彼らのその後はよくわかりません。生きているやら、死んでいるやら……。

 木桶に一杯汲んだ乳を手に、私は家へ戻りました。それらを熱湯で殺菌しておいたびんに注ぎいれ、余った分を鍋に移します。鍋を火にかけ、調味料を適量。野菜や肉を食べやすい大きさに切り、放り込みました。

 今夜は牛乳鍋です。

 

 良い具合に煮えてきました。自分の分の皿を戸棚から取り出して、テーブルに並べます。ふと、そこで思い立ち、もう一人分の皿をテーブルに置きました。その他のパンやコショウを並べ終え、結果、食卓には二人分の食事の用意がなされました。

 私は席につき、祈りの言葉を唱えました。今はもういない彼女が、私に教えてくれた祈りの言葉です。

「天にまします我らの神よ。今日のかてをお恵み下さったことを感謝します。願わくは、我らの心を悪より救いたまわんことを」

 そう唱えて私は、今はもういない彼女の席を眺めました。

「ねぇ、私、一九歳になったよ」

 

 どうして彼女がいなくなったのか、私はわかりません。彼女はその事については何も語りませんでした。ただ、彼女が思いのこもった口調でこう語ったことは覚えていました。


『あなたはこれから先、いろんなことで苦労すると思う。それは両親がいないことでもあるし、あなたを度々襲う発作でもあるし、その他の、まだ私が思いつかない未知のことがらであるかもしれない。でも、あなたはその全てを乗り越えることができる。私にはそれが確かなことだとわかる。だからあなたは自分の運命を呪うことはない。胸を張って生きなさい。そしていつの日か、私の言っていることの意味がわかる日が来る』

 

 私はよくわからないながらに、その後もこの言葉を繰り返し繰り返し思い出し、つぶやきました。次の日、隣で寝ていたはずの彼女は消えていました。私は何となく、こう直観しました。うまく言えないけど、もうこの世界に彼女は存在しないのだということを。

 その後、私は人とほとんど関わらずに暮らして来ました。この発作は、知らない内に私の性格を内向的ないこうてきにしてしまっているらしく、私は私自身の窓を閉じているのが慣らいになっています。彼女がいなくなって、今では里の人たちともロクに口を利かなくなりました。

 私は一人、牛乳鍋を食べ終えて、食器の後片付けをしました。洗い終えた食器を戸棚に並べている時に、また例の感覚が襲ってきました。「発作」です。私は食器を割らないように、そっと床に置き、うずくまりました。

 しばらくして発作はおさまりましたが、私は立ち上がれませんでした。私は、私の内側から、徐々に高まっていく嗚咽おえつを感じていました。


「……もう……やだ……」

 

 涙は止まらないもののように、あとからあとから出てきました。


「一人で……乗り越えるなん……て、……できるわけ……」


 一人がこんなに怖いと思ったのは、彼女がいなくなったあの日以来でした。


 気がつくと、私は家を出て、夜の草原を歩いていました。

 星と月とが辺りをほのかに照らして、丘の下には里に住む人たちの点す灯りが散らばっていました。私は、その灯りを眺めながら、何をするともなくそこに屈んで、じっとしていました。

 

 私が眼をひらくと、そこは一面に光が満ちており、眩しさにまた眼を閉じました。しばらくしてまた薄ら薄ら眼を開けると、そこには真っ白な天井があるようでした。

 何か人のざわざわと騒ぐ声が聞こえます。耳はそれが何と言っているのか了解しないままでしたが、その中の一つが、どうも私に向かってゆっくりと語りかけているみたいです。

「……いいですか?ゆっくり、ゆっくりでいいです。あなたの名前と年齢を言って下さい」

 私はようやくその言葉の意味するところを了解しました。

「……マリー、マリーと言います。歳は……一九歳」

 人の騒ぐ声がまた大きくなりました。誰かが私の上に覆いかぶさりました。

「……よかった、本当に……」

 やっと意識がはっきりとし出した時に、そういった声の主が泣いていることを知りました。

「マリー、……わかるかい?僕だよ、フーリエだよ……」

 私はその人を知りませんでした。

 

 それから二、三日が経ち、私は医者によって記憶喪失と診断されたようです。しかし、私の知っている医者というものとはずいぶん隔たりがあります。まず、このように真っ白な服を着ている医者というのがいるのでしょうか。それに、私のいる部屋には、見慣れないものが沢山ありました。

 音が出て絵が動く四角い箱、透明な壁、動く扉、動く階段、数え上げればキリがありません。わたしはもしかして、天国に来てしまったのでしょうか。

 私は事態が把握できるまで下手なことはあまり喋らない方が良いと判断しました。

 ベッドに寝ている時間がほとんどでしたが、側には私の見知らぬフーリエという男性が付き添っています。

「記憶はまだ戻らないみたいだけど、心配することはない。ゆっくりと思い出していけばいい。僕は君のそばにいるから」

 そう微笑まれましたが、私は眼をそらしました。知らない人にそう言われるのが気味悪く思われたのです。

 知らない場所、知らない人たち、知らない物事。全て理解の範疇はんちゅうを超えており、どう対処すればいいのかまるでわかりません。

 私は用を足しに行ったついでに、この建物の一番上まで昇りました。そこにある風景も知らないものばかりです。しかし、ただ一つだけ見知ったものがそこに存在しました。私は信じられない事態に、言葉を失いました。

「……あなたは……」

 そこにいた、白い服を着た女性は、紛れもなく「彼女」でした。

「彼女」は、私を見て、信じられないという風な表情をしました。

 私は、肉親以上の存在であった「彼女」と、巡り会ったのです。

 

「発作はどう?」

「そう言えば……この変な世界に来てから、一度も起こってない」

 私はたびたび彼女と話しました。彼女が言うには、彼女の着ている白い服は、この建物の中で仕事をする人の「制服」であるそうです。

 いろいろなことを話しました。私が夜の丘の上でうとうとしていると、いつの間にかこの世界へと来ていたことを話すと、彼女はこう言いました。

「どうしてあなたが『こちら』に来られたかはわからないけど……、この世界は、あなたのいた世界とは、千年以上の時のへだたりがあるの、わかる?」

「何となく」

と私は答えました。

「わたしは元々こちらの世界の住人。でも、ふとしたきっかけで千年も前の、言い換えれば『あなたの世界』に、迷い込んでしまった。気がついたら、私は丘の上の小屋にいた。あなたの住んでいた所ね。そこで、赤ん坊だったあなたを見つけたの」

「最初は帰りたかった。見るもの聞くものが訳もわからない場所で、何故私だけがこんな目に遭っているのかと、心底帰りたかった。でも、私は何故か赤ん坊だったあなたを放り出すことができなかった。他には誰もいないようだったし……、ずいぶん迷ったけど、あなたの世話をすることに決めた」

「生活するのに困らないだけのものはあった。実家が農家だったし、畑仕事も家畜の世話も嫌いじゃなかった。でも、搾乳機さくにゅうき耕耘機こううんきもないのは不便だった」

「さくにゅうき?」

と、私は聞き返しました。

「乳を搾り出す機械。まあ知らないわよね」

 

 私は毎日毎日彼女と話しました。そして数日後、こう質問しました。

「どうしてあなたは、『あの世界』からいなくなってしまったの?」

「……夢を見たのよ」

 彼女は遠い記憶をなぞるように、ゆっくりと語りました。

「私のいない小屋の中で、あなたが赤ん坊をあやしている夢。あの頃のあなたは九歳ぐらいだったけど、夢の中のあなたは……そう、ちょうど今のあなたぐらいだった。でもいくら探しても、その夢の中に私はいない。そしてあなたはとても幸せそうだった。その時、よくわからないけど思ったの。ああ、私はずっとこの子の側にいることはできないんだと」

「……」

「次第に私は『この世界』の夢を見ることが多くなった。そしてそこには、私がいた。次第に夢は鮮明になり、私は『あの世界』との接点せってんを失っていく感覚が日増しに強くなっていった。私はあなたに教えられるだけの事を教えて……、そして気がついたら、『この世界』の病院のベッドの上にいた」

「ベッドの上に?」

「そう。そこには私の母が付き添っていて、私は九年も眠っていたことがわかった。足も腕も細くなっていて、リハビリには骨が折れた。でも、夢の中で……つまり『あなたの世界』で過ごした九年間が私を確かに変えていた。もう以前のように……自殺を考えることもなくなっていた」

「自殺?」

 私はぎょっとしました。

「そう……。いろいろあったんだけど……、私は一度、赤ん坊を堕胎だたいしたの。その時、何か疲れてしまって……それで……、でも失敗して、気がついたら、あなたの住む『あの世界』に私はいた」

「そう……」

「後で母から訊いたら、私はほとんど植物人間のようなかたちで生きていたらしいの。私は、『あの世界』のことは、眠っている間に見た夢だと思うことにした。元々看護婦だったから、リハビリを終えてから病院に勤めることにして……、あれから三年が経って、ついこの間、大人になったあなたに会った」

「三年?十年じゃなくて?」

「ええ、三年。でも『あの世界』では時間の経ち方が違うのかしら。私の時はきっかり九年だったのに」

 私たちはしばらく黙っていました。いろんなことがわかり、でもわからないことも多く、ただ黙っていました。

「ところで……、私は『あの世界』の人間なのに、『この世界』にも私と同じような人が存在してるのは、どうして?」

「よくわからないけど……、あなたのカルテを読んだら、確かにあなた――つまりマリーは『この世界』の人間であることは確か。市役所にも住民票が登録してある。両親はいない。施設で育てられて、学校に通っていたという記録も残っていたわ。でも、あなたは『あの世界』の人間であることも確か。――じゃあ、『この世界』のあなたは、どこに行ったのかしら」

 私は何もわかりませんでした。でも実を言うと、そんなことは全てどうでも良く、私は私の大切な人とこうして再び話し合えていることが何よりも幸せでした。そうして、日々は過ぎて行きました。

 

 しかし、私のそばには相変わらずフーリエという恋人がおりました。彼の話では、私たちは同じ中学の同級生で、同じ委員会に所属していたということです。

「君は図書委員だったんだ。いつも難しそうな本ばかり借りていて、あまり人と話すタイプではなかった。僕が図書館の本を失くしたことがあって、その時君が一緒に探してくれた。いろいろ話したりしているうちに、施設での話もしてくれるようになった」

 私は、私でない私と彼が本当に恋人であることが呑み込めました。甲斐甲斐かいがいしく身の回りの世話をしてくれる彼に対して、少しだけ感謝もしました。

 しかし、私は『この世界』の私ではないのです。私は彼に対して恋愛感情は抱きませんでした。

 それよりは、私は「彼女」と話しているほうが楽しくありました。できれば、『この世界』でも構わない、もう一度、彼女と一緒に暮らしたいと思い始めていました。

 その事を彼女に話すと、彼女はそれは無理だ、と答えました。

「どうして?」

「無理なのよ。私にはわかるの。だって……あなたはもうすぐ『あの世界』に帰らなければならないのよ」

「でも、もう一人は嫌。私、あなたとまた会えて本当に幸せなの。『この世界』に来てから、あの発作も起こらなくなってるの。それなのに……また一人ぼっちの、苦しい生活に戻るなんて、そんなの嫌」

「……私もあなたと会えて本当にうれしい」

 彼女はそう前置きして、「でも、最近また夢を見るの。『あの世界』の夢。そこに私はいない。そして、あなたは幸せそうに赤ん坊を抱えて笑っている。きっと近いうちにあなたは『あの世界』に戻ることになる。そして、何かのかたちでそういう幸せを手に入れる。きっと、それはもう決まっていること」

「そんな……」

「発作だって、あなたが『この世界』に来たことで、何かが変わっているかも知れない。……覚えてる?私が三年前、あなたにとっては十年前に、あなたに話したこと」

 覚えています。辛い時、苦しい時、その言葉を頼りに、私は生きていたのでした。


『あなたはこれから先、いろんなことで苦労すると思う。それは両親がいないことでもあるし、あなたを度々襲う発作でもあるし、その他の、まだ私が思いつかない未知のことがらであるかもしれない。でも、あなたはその全てを乗り越えることができる。私にはそれが確かなことだとわかる。だからあなたは自分の運命を呪うことはない。胸を張って生きなさい。そしていつの日か、私の言っていることの意味がわかる日が来る』


「私はあなたが幸せな夢を見た。だから『胸を張って』あなたにそう語ることができたの。私もあなたと一緒にいたい。でもいくら夢を見ても、私とあなたが二人でいる光景は夢に出て来ないの」

「……」

 私はうつむいていました。

「……私はあなたと暮らした九年間は、昏睡こんすい状態だった時期に見た夢だと考えていた。でも、あなたと再会できて、私は確信できた。私たちが一緒に暮らした九年間は確かに存在したの。私はそれを思い出すことができるし、あなたも思い出すことができる。夢の中で私たちは会えなくても、思い出の中で、いつも私たちは会うことができるわ」

 

 私は次第に『あの世界』の夢を見るようになりました。そこでの私が幸せなのかどうか、私にはよくわかりません。でも確かに、私は一人の赤ん坊を抱えていました。そして、その夢を見るのと反比例はんぴれいして私は、『この世界』との接点を失っていくような感じが日増しに強くなって行きました。彼女が『あの世界』で消える前にも、多分同じものを感じていたのだと思います。

 それでも、私は彼女と一緒にいたいという思いを消すことはできませんでした。私はベッドの上で、運命にあらがうように、その思いを心に抱いていました。

「何を考えてるの?」

と、私でない私の恋人のフーリエが訊きました。私は、「別に何も」と素っ気なく答えました。

「実は今日、写真を持って来たんだ。ほら、高校生の時、二人で遊園地に行ったろ?……あ、君は覚えていないか。でも君はとても楽しそうにしていたから、売店でカメラを買って、人に撮ってもらったんだよ、ほら、これ」

 差し出されたものが何なのかよくわかりませんでしたが、そこに映っているのが「私」と「彼」であることはわかりました。「写真」というものに写っている私、私でない「私」は、とても幸せそうにしていました。

「君はこの時、僕の服がダサい、ダサいって言ってたけど、これでも結構雑誌とかを読んで準備していたんだけどな、まあ、別にいいんだけど……どうしたの、マリー?」

 

 私はどういう訳か、大粒の涙をこぼしていました。


「何か思い出したの?」

 私は首を横に振りました。

 私は途切れ途切れの声で、彼にこう言いました。

「ねぇ……、私が……、私の記憶が戻ったら、……うれしい?」

 彼は「もちろん」とうなづきました。

「でも、無理をして記憶を戻そうとしなくてもいいよ。君は君だから、それだけで僕は十分だ」

「そうじゃないの……、私は……、私は……」

 私は泣きながら、彼に抱きしめられました。私は抵抗しませんでした。それは、彼の温もりや匂いに、どこか懐かしいものを感じたからでもありました。

 きっとそれは、『この世界』の「私」が、どこかから帰って来ようとしているしるしだったのかもしれません。

 

 彼はその日、病室に泊まって行きました。看護婦の方に相談したら、割とすんなり要望も通りました。彼は隣のベッドで寝息を立てています。

 私はベッドから立ち上がり、彼の寝顔を覗き込みました。窓から差し込む月光が、そっと彼の首筋を照らしています。

 私は『この世界』に来て、初めてこの恋人を愛しいと思いました。きっとこの愛しさは、『この世界』の「私」が彼に感じていた愛しさに違いないと思いました。

 私はこの私を、「私」に返すことに決めました。

 私は、私の運命に従うことにしました。


「さようなら、フーリエ」


と、私は彼に呟きました。彼は静かに眠り続けています。

 

 私は屋上に上り、扉を開けました。

 眼下には、『この世界』の夜景が拡がっています。『あの世界』の夜景とは比べ物にならない位の明るさです。星がほとんど見えないのは、地上があまりに明るい分、天上の光を消しているからでしょうか。

 私は自分自身のことを思いました。そして、千年という長い時間を思いました。しかし、千年という長い時間を想像するには、私という人間はあまりに小さい存在のように思いました。私の一生が何遍繰り返されれば、千年という時間に辿り着くことができるというのでしょう。

 そして、私は「私」のことを考えました。どこからか帰って来ようとしている、『この世界』の「私」について考えました。あの写真の笑顔を思い出しました。


 ねぇ、「私」。

 私は、あなたみたいに笑うことができますか?大切な彼女も、恋人もいない元の世界で、私は笑うことができますか?


 耳には夜風の音が鳴り続けています。私はその場に座り、夜景をぼんやりと眺めながら、少しずつ眼を閉じました。誰かの「大丈夫」という声が聞こえたように思いました。

 

 その後、マリーは記憶喪失が回復し、ようやく退院しました。ただし、記憶が失くなっていた時のことはまるで覚えていないようです。その代わり、変な夢の話を恋人のフーリエに聞かせました。

「夢の中で、私は夜の丘の上に座っていたの。とっても暗くて、遠くにポツポツと小さな灯りが見えるだけ。私はそれを遠くから眺めていた。とっても孤独で、とっても淋しかった。私はあの灯りの中に入ることはできないっていうことが、何となくわかってしまう、そんな孤独や淋しさ」

「それは、淋しい夢だね」

「でも、続きがあるの。それから後ろを振り返ると、そこにも灯りが点っていたから、私はそこに向かって歩いたの。そこには一軒の小屋があって、初めて見る小屋のような気がしなかった。入ってみると、中には柔らかそうなベッドがあったから、一晩だけ寝かせてもらおうと思って、布団をどけたら」

 何故かそこでマリーは恥ずかしそうな顔をしました。フーリエはその夢の先を訊きました。しばらくして、

「とても幸せそうに眠っている赤ちゃんがそこにいたの」

 その夢はここで終わりということです。数年後、マリーとフーリエは結婚し、子どもが生まれました。マリーは今、その子どもを大事に育てています。

 

 そして、看護婦の「彼女」は、もう千年前の夢を見ることもなくなりました。その代わり、自分で勝手に千年前の事を思い描いています。それがどのような想像であるかは、マリーの幸福を誰よりも願っている彼女の気持ちになってみて、読者の皆さん一人一人が想像してみて下さい。そしてできるならば、そのマリーがとても幸福であることを、皆さんの生活の合間に願ってやって下さい。

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