外伝 ファーストレコード(上)


 けたたましい破砕音とともに、施設内でも特に頑丈な造りであるはずの部屋が、内側から爆発でもしたかのように大きく破られた。


 壁が一面まるごと破かれた勢いと共に、ばら撒かれた破片と粉塵があちこちを舞う。

 飛び散ったそれらが室内の人間や設備を見境なく蹂躙していく。 部屋を照らしていた光源もその衝撃からは逃れられず、先ほどまで明るかった室内は一気に暗闇へと落とされた。


 弾丸のような勢いで散った破片を受けた苦痛の声、突然の暗闇にパニックを起こした驚愕の声。いくつもの悲鳴が連鎖し、普段は静寂に包まれている施設が今や興奮する動物を押し込めたケ

 ージのごとき有様だ。


 だが、その喧噪など意に介さず、 無音且つ高速で暗闇の中を這う影が一つ。


 破かれた壁の内から現れたそれは、先の見えぬ暗闇などまるで関係ないかのように振る舞い、一瞬のうちに多くの物が置かれた室内を真っ直ぐに突き抜ける。

 前を塞ぐ物を躱し、あるいは撥ね除ける動きは生物と呼ぶにはあまりに機械的な思考から出されたもので、真っ当な意思を読み取れない。


 それなりに広い部屋だったというのに、あっという間に砕けた部屋とは反対側の壁へ辿り着いた影は……一枚目の壁にしたのと同じように、部屋を囲む壁へと頭から突っ込んだ。


 先ほどの光景が繰り替えされる。既に破られていた に比べればいくらか強度が落ちるとは言え、本来であれば破城槌や上位の魔術を幾度も叩き込んでようやく破れるといったレベルの、魔鉱石でコーティングされた壁。それがただ一度の攻撃、それも生身から繰り出された突進で、まるで藁葺き小屋であったかのように吹き飛ばされた。


 暗かった室内に、壁が破壊されたことで部屋の外からの灯りが差し込む。その音と光に反応し、比較的動揺が少なかった男が壁に開いた穴から慌てて外を覗くが、その頃にはあちこちに激突の痕が刻まれた通路のずっと先、二つに別れた道の片側へと細長い尻尾の先端が消えるところだった。


 僅か数秒足らずの間に、整頓された部屋から見るも無残な状況へと変わった室内。状況に取り残され未だ混乱している者達。

 そんな中、影が消えた方とは逆の通路から小柄な影が躍り出た。


「何が起きた、状況を報告しろ!」


 騒ぎの中心へと駆け付けたのは見るからに周囲の人間とは身に着けているものの格が違う初老の男。

 後ろへと撫でつけられた艶のない白髪や、顔に深く刻まれたいくつもの皺が年齢を高く見せているようだが、あるいは見た目よりずっと年齢は低いのかもしれない。

 そう思えるほどに、その目から強い感情・異常なほどの執着とでも言うべき色が窺える。


 高価ながらも機能性を追求した装いは研究者のそれで、 その見た目に反さず。実際に男はこの施設の研究者である。

 だがそれだけでなく。男はこの施設の所長であると同時、この街、要塞都市アークを代表する貴族。ラカ家の現当主、ツーロ・アーク・ラカである。


「じ、実験中に被検体が暴走! 拘束を破壊して逃走しました!」


 泡を食って室内に呼びかけるツーロ、それを見て通路を覗いていた男も我に返り、急ぎ状況を報告する。とは言っても、報告できる内容などこれしかないのだが。


「……っ!!」

「ツーロ様!? いけません、危険です!」


 それでも、その報告を聞いたツーロは目を見開き、男が制止する声を振り切ると、倒れた人と物で散乱した室内を突っ切り、大きく崩れた部屋の前に立つ。


 その部屋は白かった。 一つ手前の部屋がバラバラになった書類や機材、人から零れた赤でデコレーションされているのに対し、物は少なく、壁も天井も文字通りの意味で継ぎ目すらない白一色。

 長時間眺めていれば平衡感覚が消失してしまいそうな、無機質という言葉を通り越して無と呼ぶ方が適しているような空間だ。


 その無の中に唯一存在するのは、部屋とは対照的に真っ黒な鎖。

 一切の光を呑んでしまうほど深い黒に染まった鎖は、幾重にも連なっているはずなのにただ一つの塊に見える。

 部屋と色は違えど、こちらも無と表現されるべき代物。


 そんな鎖だが……それはもはや鎖とは呼べないかもしれなかった。


 元は一本の長い鎖だっただろう物体は、あちこちが砕かれ、千切られ、今では幾つにも別れた残骸でしかない。

 割れていようが鎖だと判別できる箇所はまだマシで、場所によっては粉微塵という言葉が相応しいほどに破壊し尽くされている。


 太い鎖はただそれだけで頑丈である。だが、目の前に転がる物はただの鎖でなく、今は再現不可能な『魔法』で作られた物であり、それも『不壊』の術式が込められた代物だ。

 あらゆる攻撃魔術を受けて尚、傷一つ付けられなかった物体。それにどんな力を加えれば傷がつき、あまつさえ破壊されることがあり得るというのか。


 ツーロがその光景を見て感じたのは、驚愕と、怒りと……それらを塗り潰すほどの歓喜。


 己がは過去の魔法傑作を超え、至高の領域へと手を掛けたいう証明の一端。それがここに為されたのだ。


「ツ、ツーロ様……?」


 陶酔し、半ば以上意識を飛ばしていた創るだが、背後から話し掛けられたことで我に返る。

 いくら完成形が見えたとはいえ、そもそもの作品自体がいなければ意味がないのだ。


「すぐに被験体を追え! 動ける者は全員集めろ! どんな手を使っても構わん、誰よりも早く見つけだして私に報告しろ! 目撃者がいれば消して構わん……いや、消せ!!」

「ひっ……!? は、た、ただちに!」


 静寂から一転、突然の剣幕でまくし立てられた上、至近距離から狂気を孕んだ目に睨みつけられた男は、脱兎の如き勢いでその場を後にする。


 それをぎょろついた目で見送ったツーロは、再び白い部屋の中を覗き込む。

 そこに転がる鎖だったものが、この閉塞した環境を打ち破る象徴のように思え、自然と口元が弧を描いていた。


「き、きひひっ……!」


 そして狂人は笑う。 一見何もないように見えるが、異常なほど魔力が立ち込め、夥しい血臭が充満した空間を前にして。

 ありもしない壁を打ち砕く幻想を、何も捉えていない瞼の裏に映しながら。




 ◆




 どこをどう移動したのか、何も覚えてはいなかった。

 痛くて、苦しくて、ここではないどこかへ行きたい。そう願ったことだけは覚えているが、逆に言えばそれ以外の全てを覚えていない。


 ソレが踞っているのは小さな部屋の隅。積もっている埃の量や放置された家具の状態からして、住人がいなくなって久しい思われる家屋の一室だ。

 力ずくで施設を脱走したソレは、朧気ながらも残った理性に従い、人目を避けて移動した。

 ソレにとっての人類とは施設の人間であり、見つかればあの部屋でされたことを繰り返される存在であったからだ。


 だが、そのおかげというべきか、はたまたそのせいというべきなのか、街中であったにも関わらずに騒ぎは起こっておらず、同時に追っ手もかかっていない状況となっている。


 そんな中で人気がない場所を探し出すことに成功したソレは、ひとまず周囲に誰もいないと判断する。

 強張っていた全身から力が抜けて、その動きに合わせて身体のあちこちが擦れ音を立てた。


 ひどく落ち着かない気分だった。ここには突き刺すような痛みがなく、吐き気がするほどの力も存在しない。

 だが、今の状態こそが平常であるはずなのに、異常な空間に慣れてしまったせいで、今の方が異常だと感じてしまう。


 何より、それらから解放されたことで否が応にも認識せざるを得ない問題があった。


 ──記憶がない。


 あの白い部屋から飛び出した後、どうやってここにたどり着いたのかとか、そんなレベルの話ではない。

 今までの己の生。自身に関する全ての記憶が、完膚なきまでに失われている。


 名前を覚えていない。年齢もわからない。何をしていたのかわからない。種族も、経歴も、他人のことも、いつからあの場所にいたのかも。一切合切、全ての事象を思い出せない。


 気付いたら白い部屋にいて、気付く前から苦痛があった。


 あの部屋にいた時間も、数日だった気もするし、何年も繋がれていたような気さえする。

 主観の情報があやふやで、靄がかかったようにはっきりとしない。


 なまじ落ち着ける場所を見つけてしまったのがよくなかった。これまでは目を向ける余裕がなかったために考えていなかった事象が、今この時になって目の前に現れ問いかけてくる。


 ただ一つの問い。己は何者であるのか。


 冷静に思考しようとするが、できるはずもない。

 当たり前の話だ。記憶は自己を作り上げる大きな……いや、大きすぎる要素。それが一部分であれ思考や人格に多大な影響を及ぼす。

 だというのに、この存在が失ったのは文字通りに全ての記憶だ。それがどれほどの絶望に値することであるのか……。


 考えるほどに手が震える。思い出せないことに脳が軋む。芯がないことで魂が崩れる。


「ア、アアアaアアaaa──……」


 肉体的な苦痛はないはずなのに、気付けば呻き声を発していた。

 それは精神が乖離する耐え難い違和感と、自己の喪失からくる苦悶の悲鳴。

 外部から与えられるものでなく、内部から産み出されるものであるが故に、今度こそ逃げ場は消え去った。


 踞り、下を向いて嗚咽する。そんな状態であるというのに、その目から涙が零れ落ちることはない。

 いいや、零れ落ちないのではなく、そもそも涙を流すことができない身体になっているのだ。


 縦に割れた瞳にはそんな機能がなく、どころか瞼がないので瞬きすらしない。

 それはこの存在…… いいや、彼女から記憶が奪われたことと、同一の理由から来るもので。


 ──人体改造。


 本人は忘却しているが、彼女は人間であった。


 二〇年前に起きた大戦、その当時に計画されたが、あまりにも非人道的すぎるという理由で凍結された 『人造魔族計画』。

 だが一部の者は妄執に取りつかれ、闇の中で計画を実行した。


 そこで使者達の中、唯一の成功例こそが彼女。新たな種族、『魔人』へと至るべく造られた存在である。

 だが、倫理の箍が緩む戦争の最中でさえ、非人道的であると封じられた実験。その被験者がまともでいられるはずもない。


になる、と言葉にするのは簡単だが、それは人間という殻を破り、全く違う生き

 物へと変貌する……存在を書き換えられるということだ。


 芋虫は蛹を経て蝶へと至る。しかし、地を這う者が空へと飛び立つためには多大な変化を強いられることになり、もし変化しきれなかった場合どうなるか……その答えは、変化に失敗し開かなくなった蛹の中に詰まっている、元が何なのかもわからなくなるような、どろどろとしたものが教えてくれるだろう。


 元から構造が変化するようにできている生物ですらそうなのだ。ましてや、ただの人間がそれ以上の存在になろうとすれば、どのような結末が待っているか。それは白い部屋にこびりついた、消えない血臭が物語っている。


 彼女の前に作られた夥しい数の墓。自分の意思ではないと言うのに、屍で築かれた山を歩き、 血で作られた河を渡るが如き所業を強要された。

 その果てに、上位存在へ至る階段の縁に手を掛けた『成功例』こそが彼女である。


 だが、当然のように代償はある。

 たとえ彼女が望んだ力ではなかったとしても、何も犠牲にせずに得られる力などありはしない。


 その代償こそが、今彼女を苛む記憶の喪失。実験による負荷と、何よりも存在の書き換えで肉体と魂が変質したことによる影響。

 もはやそれは喪失ではなく、消失と呼んだ方がいいだろう。

 かつての記憶が塗り潰されたのではなく、まったくの別物へと変質しているのだから。


 そしてもう一つの代償、それは肉体の変化。

 芋虫は空を飛ぶために、その姿を蝶へと変える。それは自然のまま、当然の変化だ。


 では……強さを求められた人間は、如何様な変化を強いられるのか?


 部屋の隅で震える彼女の姿を見て、元が人間だったと予想できる者はいないだろう。

 月明りで薄っすらと照らされた室内の中ですら、その姿は──。




 その時、部屋の外から声がした。




 ◆




 レイス・フィードはとっぷりと日が暮れた街中を足早に進む。

 近頃はめっきりと冷え込んできたが、つい先日新調したばかりのコートが寒さから身を守ってくれる。


 いつもであればとっくに自宅へと帰っている時間なのだが、今日は特別なことがあったため、こんな時間になってしまった。


 というのも、昔からの友人である蜥蜴人のベンが旅に出たのである。

 本人曰く、 大戦から二〇年が経ち、ようやく情勢も落ち着いてきたので、兼ねてからの夢であった大陸中を回る旅がしたいとのこと。


 長い旅になるだろう。もしかしたら、お互いが生きているうちに再会することはないかもしれないと、商業ギルド長であるクォーターエルフの女傑を筆頭に、集められる限りの知人を集め、盛大に宴を開いて出航を見送った後の帰路であった。


 若干の酔いが残った足で進む先は、街の中でも端の方にある薄暗い一角。

 この辺りは戦時中に医療施設として使われていた場所であり、当時の記憶を持つ者達からは敬遠されている区画だ。


 何せ二〇年前のこととはいえ、毎日怪我人と死者が運び込まれていた場所なだけに、気分の良くない噂も多くある。


 曰く、戦争でなくした身体を求め彷徨う亡霊が出るだとか、街に侵入した魔族が未だ潜む隠れ家があるとか、仲間を増やそうと者達が出るとか。

 そういった話があって、この一帯はあまり都市開発の手も入らず、人の寄り付かない区城となっている。


 だが、人が寄り付かないということは、一般より土地の価値が低いということでもある。

 なので、金のない者や後ろ盾のない者など、ある程度の層からは需要があるのだ。

 天涯孤独な身の上であるレイスもその一人で、この区画の奥のボロ家を住まいとしている。

 天涯孤独といってもこの時代ではさして珍しくない。 むしろ、親類が欠けることなく揃っているケースの方がよっぽど稀だろう。


 もっとも、レイスは商人として自立してから既に数年が経ち、今では立派に稼ぎを上げている。

 収入からして、この区画を出て新しい居住に移ることもできるのだが、今は夢のために節制している最中。

 そうなると新しい住居を求めるより今の状態が好ましいということになり、この薄暗い通りを毎日行き来することになっている。


 人が寄り付かない場所とあって、悪い噂を除いてもこの区画の治安は決してよろしくない。

 スリや喧嘩などの面倒事に巻き込まれる前に、足早に駆け抜けようとして。


 どこかから、声が聞こえた気がした。


「ん……?」


 反射的に足を止める。酔いと高揚で熱されていた頭が冷えていく。


 最初は気のせいかと思った。それがあまりにか細い音だったため、建物の隙間を通り抜ける風がたまたまそういう風に聞こえただけではないかと。

 だが、一度意識を傾けてしまえば、その音は確かに一つの声だった。それも、泣き声と呼ばれる類の。


 辺りを見回す。声は細く、あちこちで反響して音源を特定しにくい。

 それでも集中して聞きわけてみれば、一つの建物からその声が響いていることがわかった。


 周囲の建物に比べて後に造られたのか、比較的新しい外装の一軒家。

 とは言っても今は誰も住んでいないのか、 手入れはされていないようで割れた窓や汚れた屋根が目立つ。

 そんな建物の正面、入り口の扉がほんの僅かにではあるが開いている。そして声はその隙間から聞こえてくるのだ。


「これは……」


 扉の前に立ち、はっきりと中から声が聞こえることを確認したレイスは顔をしかめた。


 先ほど述べた通り、この一帯は治安が悪く、黒い噂が絶えない。

 そんな場所で泣き声のような音が聞こえたからといって、のこのこ近付くのは馬鹿のやることだ。


 悪意持つ者が仕掛けた見え透いた撒き餌、獲物を誘い込むための演技や犯罪……であれば、まだいい方だろう。

 本物の亡霊である可能性もある。亡霊とは言っても、本当に死者の魂が漂うものではなく、ゴーストと呼ばれる類の魔物だが、それでも危険性に変わりはない。

 よくない噂や染み付いた死者の思念から、その場の魔力が変質して魔物と化す現象。それ自体は多く起こるものではないが、この街でも実例がないわけではないのだ。


 だから、この時レイスが取るべき行動はこの場から離れることだった。

 危険を減らすために人を呼びに行くにせよ、聞かなかったことにしてさっさと家に帰るにせよ、とにかくすぐにでも去るべきだったのだ。


 けれど、 現実はそうならず。


「お、お邪魔しまーす……」


 おっかなびっくり、気弱な声を上げながらもレイスは民家の中へ踏み込んだ。

 もしもの可能性は理解している。ならば何故そのまま踏み込んだのか。

 考えが足りなかったから? 酔いが醒めず気が大きくなっていたから?


 いいや、違う。


「誰かが泣いてるなら、放って帰るのはね……」


 それは、彼がお人よしだったからだ。


 もし本当に誰かが泣いていたのなら、放って置くことができない。 危険かもしれないという思考は、顔も知らない誰かの安否より優先度が低い。 それだけの理由。


 何度も繰り返すが、彼が取るべき行動はすぐにこの場を離れることだった。危険があると知って尚、日頃から友人達にも注意されていた余計な善意など働かせるべきではなかった。

 そんなことではいつか絶対に痛い目を見るぞと、口を酸っぱくして言われていたこと。それが今日この日、最悪の状況で実現する。

 タイミングが悪く、状況が悪く、何よりその行動が悪手だったことに間違いはない。


 けれど、それでも。


 彼の行動は正しかったのだ。




 ◆




 家の中に入ったことで、 泣き声は更にはっきりと聞こえるようになった。

 玄関から伸びたさして広くない廊下の先、いくつか見える部屋の一つ、その中から声が漏れている。


 ひとまず気のせいではなかったと確認はできたが、 ならば何故こんな所に人がいるのかという疑問が残る。


 ともかく声の主の安否を確かめようと、石造りの床をなるべく音を立てないようにして進んでいく。

 更に近付いてわかったが、声の主は女のようだった。どこかくぐもった声ではあるものの、それくらいのことは判別できる。


 いよいよ扉の前にたどり着いたが、いかに命知らずのお人好しと言えど、即座に踏み込むような真似はしない。

 中にいるのが誰なのか、危険がないかを確認するため、そっと開け放たれた扉の先を覗き込む。




 そこには、怪物がいた。




「えっ……っは、あ?」


 今まで注意して音を出さないようにしていたにも関わらず、気付いた時には意味を為さない言葉が口から零れていた。


 薄暗い室内には僅かに月の光が射し込み、それを反射する存在がいる。

 ぬらりとした生物的な光を湛えるそれは、幾千幾万の鱗に覆われた巨大な体躯だ。


 室内はそれなりの広さがあるように見えるが、そのほとんどを鈍い銀色が埋めている。

 鱗同士が噛み合ってキチキチと小さな音を奏でた。レイスは呆然としながらも、それが尻尾であることに気付く。


 太く、長い蛇の尾。室内を埋めるそれには、至極当然に主がいる。

 尻尾の付け根、その上にあるのは普通であれば蛇の頭だ。部屋一面を埋め尽くす蛇など、それだけで怪物と言えるだろうが……その上にあるものは、尋常なそれではない。


 蛇の頭があるべき位置には、人の身体が生えていた。

 見たところ女のものに見える上半身。その身には一切の布を纏わず、惜し気なく裸身が晒されている。だが、それを見たところで劣情を抱くことはないだろう。

 上半身は人型でこそあるものの、蛇の尾と同じく鋭利な鱗で覆われており、人間に類する柔らかさなど欠片も見当たらない。

 更には腕も尋常のものとは言い難く、前腕から先が捻れて歪み、手とも鰭ともつかない歪な形になっているのだ。


 そして更にその上にある頭。長く伸びた灰色の髪に隠されているが、その隙間から覗く口は耳元まで裂け、鋭い牙が並んでいる。

 額から伸びるのは、自らがヒトではないことを象徴するかのような長く黒い、澱んだ宝石のような一対の角。


 そんな怪物と、僅か数歩を開けた距離で目が合った。


「かっ……」


 息が詰まる。髪の隙間から、縦に割れた瞳孔がレイスを捉えている。

 止まっていた心臓が爆発したかのように動き出す。いやにうるさい鼓動に合わせて全身から汗が噴き出し、気付いた時には背中から地面に倒れ込んでいた。


 危険があるかもしれないとは思っていた。だが、こんな状況は想定外もいいところだ。

 街中のなんの変哲もない家の中に、こんな怪物が潜んでいるだなんて誰が思うだろうか。


 逃げなければという思考が頭を埋め尽くす。なのに足は震えるばかりで動かず、この場から立ち上がることすらできなかった。

 こちらをじっと見つめている存在が、 レイスの思考を恐怖一色で塗り潰す。

 この怪物がどれだけ強いのかはわからないが、ビリビリと肌で感じるプレッシャーと巨体からして、レイスごときを殺すことなど容易くこなすだろう。


 自分はこんなところで死んでしまうのだろうか。 ふらりと立ち入ってしまった怪物の棲家で、こんな意味のわからないまま終わってしまうのか。

 もはや混乱の極致に陥り、これから自分を噛み砕くだろう怪物の牙しか目に映らない。

 だからこそ、それに気付いたのだろう。


「ア、アアアアァ……」


 鋭い牙が並ぶ怪物の口の奥から、細い声が漏れていることに。


 掠れて聞き取りにくい、あるいは唸り声とも取れる音。

 しかしそれは、聞きようによっては女の泣き声のようにも取れる音だった。

 最初は、恐怖で自分の頭がおかしくなったのかと思った。 しかし、実際に聞こえている音が変わることはない。


 その音に、ほんの少しだけ冷静さを取り戻した。暗く狭くなっていた視界がいくらか広がる。

 その視界に映っていたのは、最初と変わらない位置にいる……いや、最初よりも下がった位置にいる怪物だった。隙だらけだったレイスを前にして、襲い掛かるどころか身を引いている。


 そして、顔を覆い隠している髪の間、そこから覗く頬に月の光が反射して……まるで、涙を流しているかのように見えた。


 それを見たレイスは思わず呟いていた。馬鹿げているとしか思えない、聞く者がいたならば一笑に付す考えを。


「もしかして……泣いてたのは、君だったのか?」




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セカンド・オブ・ファーストレコード 櫂梨 鈴音 @siva_kake_mawaru

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