6. 陸からの説得

 さわやかな風が吹いていた。


 ぼくは泳ぎ疲れ、沖合いの防波堤の上で一休みしていた。

 スピーカーで、ぼくに呼びかける声がした。岸からボートが近付いて来る。

 ぼくは胸騒むなさわぎがし、人魚の子に、沖のほうでかくれておいでとうながした。彼女は波間なみまに姿を消した。


 防波堤に乗り付けた船外機付せんがいきつきボートから、二人の男がり立った。

 彼らはどちらも、頭がよさそうな顔をして、よく日に焼けていた。身ごなしはきびきびして、屋外作業おくがいさぎょうに慣れているようだった。

 年嵩としかさの方が、広島大学ひろしまだいがく浮遊生物学ふゆうせいぶつがくを専門とする○○博士と名乗った。

 浮遊……生物学……という言葉が、頭の中ではっきりとしたかたちをとるまでしばらくかかった。

 もう一人は、須磨海浜水族館すまかいひんすいぞくかん学芸員がくげいいんだという。


 二人は、なぜかおそろしげな表情でぼくを見つめていた。

 やがて、博士がゆっくりと話しかけてきた。


 「あなたは、自分の左足が無くなりかけていることに、気が付いていますか?」


 ぼくは足を見た。

 腰の左側に、れ枝のようにしなび、なかくさった棒っ切れのような物がくっついている。言われて初めて気が付いた。

 ぼくは返事しようとしたが、口から海水が吹きこぼれた。ぼくは、はいに空気を取り入れてから返事をし直した。


 「気が付きました。ちょっと不細工ですが、そのうち取れるでしょう」


 博士は、途方とほうにくれたような表情になった。


 「あなたの体は今、正常ではありません。病気なんです。私たちは、人魚病にんぎょびょうと呼んでいます……」


 ――人魚病は、発見されて間もない病気です。

 まだ、ほとんど知られておりません。世に広く知らせることを、私たちが恐れているからです。

 その症状しょうじょうは、人体じんたい寄生きせいする生物によってもたらされます。

 寄生生物が、人体を変形へんけいさせるのです。そして、みずからの繁殖はんしょくのために、人間の行動をあやつるのです。


 あなたは、海水浴中かいすいよくちゅうに、何か虫のようなものに刺されませんでしたか?……刺されましたか。

 その生き物は、『人魚病にんぎょびょうカイアシ』といいます。

 エビやカニの仲間の甲殻類こうかくるいです。小さな、とても小さな、プランクトンほどの大きさです。普段ふだんは、海水中に浮遊ふゆうして生きています。


 人魚病カイアシは、人間が泳ぐときに海水をかき分ける衝撃しょうげき察知さっちします。

 人体に食い付き、すみやかに体内に食い入ります。

 血管けっかんに入り込んで、血液のながれに乗って、肺まではこばれ、肺胞はいほうに取り付きます。

 血液の流れを利用して、人体のすみずみまで触手しょくしゅばし、その人の体を徐々じょじょに作り変えてゆくのです……人魚に!


 肺胞は、肺の中にあって、空気を取り入れるための小さな風船です。これが……えらに作り変えられていきます。

 肺胞は、ぶどうのつぶのようにたくさんあります。すべてがえらに作り変えられるまでには、時間がかかります。なので、あなたはまだ、空気中で呼吸できます。

 でも、いつかは、海水の中でしか生きていけなくなるでしょう。


 足の片方かたほうは、しだいに萎縮いしゅくさせられ、壊死えしさせられていきます。

 あなたの左足は、もう救えません。でも右足のこうはまだ、ひれに変わり切ってはいません。

 右足は救えます――


 浮遊生物学の博士は、真剣しんけんに話し続けた。

 この人は、ぼくのことを、真面目まじめに考えてくれているらしい。

 ぼくは博士の話にりながら、あることに気が付いていた。

 ボートを運転してきた漁師りょうしが、防波堤に上がり、こちらにゆっくりと近寄ってくる。そらぞらしい、気のないりをしながら……。


 ――人魚病カイアシが、なにより恐ろしいのは、人間の脳神経のうしんけい操作そうさすることです。

 あなたは、病気の進行から気をそらされています。

 今のあなたは、海辺うみべらすことを、海中で暮らすことを、奇妙とも思わなくなっています。


 あなたは、これからさらに、言葉が不自由になります。まわりの人に、助けを求めることがむずかしくなっていきます。

 肺胞がえらになった副作用ふくさよう……それだけだと信じたい。

 目に見えないほど小さな生き物が、人間を孤立こりつさせることを、意図的いとてきにおこなっているはずがない!


 海水にけ込んでいる酸素さんそは、空気にふくまれている量の、28分の1しかありません。

 あなたが鰓呼吸えらこきゅうを続けるなら、あなたの脳は、慢性まんせい酸欠状態さんけつじょうたいに置かれます。あなたの脳は少しずつ、破壊はかいされていきます。

 呼吸こきゅう食欲しょくよくなど、生存せいぞん最低限さいていげん、必要な領域りょういきだけを残して。

 そして最後には、知性ちせいを完全にうしなわされてしまう。人魚の異性いせい接触せっしょくし、人魚病カイアシが交尾こうびするのを、手伝てつだうことしか考えられなくなるのです。


 でも、今ならまだ助かります。

 さいわい、といいますか、カイアシが魚に寄生し、養殖漁業ようしょくぎょぎょう多大ただい損害そんがいをもたらすことは、早くから知られていました。そのため、さつカイアシざいの開発は十分に進んでいます。

 殺カイアシ剤の水溶液すいようえきで肺を洗浄せんじょうすれば、人魚病カイアシを駆除くじょすることは、可能なはずです。ですから――


 ぼくは、浮遊生物学の博士の言葉をさえぎり、問いただした。


 「可能な……はず・・、とは?」


 「私たちはこれまで、宿主しゅくしゅにされた患者かんじゃの……その、ご遺体いたいしか、発見できていないのです。

 生きている患者を発見できたのは、あなたが初めてです。

 人魚病カイアシに寄生された人は、必ず、遺体となって発見されます。寄生の果てには、死が待っています!」


 博士の言葉に力がこもった。


 ――私たちは遺体を解剖かいぼうしました。

 全ての遺体は、肺にどろや、こまかな有機物ゆうきぶつ塵埃じんあいが詰まり、ひどい炎症えんしょうを起こしていました。


 人間の肺は、気道きどうという出入り口をのぞけば、ざされたふくろです。

 魚のえらを思い浮かべてください。鰓蓋えらぶたがありますね?

 鰓蓋えらぶたをめくると、えらがさらけ出されます。つまり、えらは海水中にさらされる構造こうぞうになっています。

 魚のえらは、つねに海水の流れにあらわれています。だから目詰めづまりを起こさない。


 でも、人魚病カイアシにでっち上げられた、きゅうごしらえのえらは、肺という閉じた袋に包まれています。

 海水の流れに洗われていません。目詰まりを起こします。だから……いつかは、窒息ちっそくしてしまう!


 どうか、治療ちりょうを受けてください! さもなければ、あなたは遠からず、死ぬことになるでしょう!

 人魚病を治すことだけが、あなたの生きる道です!

 もう一人、女の子もいますね? 彼女も呼んでください――


 あの美しく、可愛かわいい、人魚の子も、遠からず死んでしまうのだろうか?

 いや、そんなはずはない。

 そんなことは、試してみなければ分からない……。


 博士はおどろき、とび退すさった。

 突然とつぜん、ぼくが尾鰭おびれね上げて海に飛び込んだからだ。そして、ぼくがいた場所に、漁師があみを持っておおいかぶさってきたからだ。


 「馬鹿! なんてことをするんだ!」


 博士の怒声どせいにして、ぼくは沖へと泳ぎ出した。

 もはや地上には、くべき言葉はひとことも無かった。

 海水が、人魚の子の、心臓しんぞう鼓動こどうを伝えてくる。ぼくの側線そくせんが、それを感じ取っている。

 こんなにも力強い鼓動が、止まってしまうはずがない。

 ぼくと人魚の子は手をつなぎ、尾鰭おびれそろえて、力強く水をき、海底へと進んでいった。


 ぼくたちの前に、限りない海が広がっていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る