空蝉2 思惑

 その日は彼女に四度目のアタックを仕掛けて玉砕した腹いせに、ふらっと立ち寄ったバーで酒を浴びるように飲んでいた。そんな俺を見かねたのか、店のマスターに声をかけられた。顎に髭を蓄え、ダンディズムそのものな容姿の男だ。。岩西というらしい。

「お客さん、荒れてるねえ。俺でよければ話を聞くよ?」

 実際の所は、初来店の男が見苦しく酒をあおっていたら、店の雰囲気にも影響するから声をかけたのだろう。

 俺はそこで、好きな女性に何度も交際を申し込むものの、振られ続けていることを自嘲も交えつつ話した。

「へえ珍しいね。今時の子は恋愛に億劫か関心がないかと思っていたけど、君みたいな子もいるんだね」

 マスターは顎髭に手をやりつつ頷いている。

「いや、むしろ恋愛に関心がなかったから、いざそこに気持ちが向いた時にエネルギーが爆発するのかもしれない……。いやあ青春だねえ」

 心地よい低音ボイスで独り言を呟く姿も様になる。自分も彼のようになれたら彼女は振り向いてくれるのだろうか。

「それは違うね。俺だって星の数くらいに振られた経験があるし、女性に限らず人の好みなんて千差万別だよ。相手にも事情があることを忘れちゃいけない」

 それならば自分の何が彼女の目に適わないのだろう。「幼馴染でいたから兄弟のようにしか思えない」と断られて続けているが、これまで幾度も誘いを仕掛けているし、もうこちらのことを意識していてもおかしくはないはずだ。

 今も「恋人にはなれないけど今までのままなら付き合いは続けられる」と言われ、実際そのまま露骨に避けられたりはしていない。むしろ好意さえ感じる。もしかしたら他にも理由があるのだろうか。

 俺の考えを聞き、マスターは「ポジティブだねえ」と感嘆する。

「必死に食らいついてもダメなら、俺なら縁がなかったと思ってスッパリ諦めるけどねえ。彼女も友達付き合いなら続けるって言っているし、それに甘んじちゃうかな」

「そんなの無理っすよ。彼女なしの未来はもう想像できないんですよ。俺、彼女と結ばれる為なら神だろうが仏だろうが、何なら悪魔にだって願いますよ?」

「へえ、熱いこと言うねえ」

 我ながら臭いことを言ってのけたと思う。マスターも若干引いている気がしたが、それは気のせいで、本気で感心しているらしい。

「そうだなあ。そこまで決心しているなら俺からも何か手助けができれば良いんだが……。どうしたもんかねえ」

 マスターはグラスを置いて、何か思案し始めた。客の悩みに真摯に接する律儀さがここの繁盛に繋がっているのかもしれない。

「でもなあ」とか「またあれだったら怒るよな」とかぶつくさと独り言が聞こえる。暫し考えた結果、答えが決まったようだ。彼は少々声を落として俺に言葉をかける。

「実はな、俺の知り合いに「何でもアドバイザー」みたいなことしてる奴がいてな。そいつなら君の願いを叶えてくれるかもしれない」

 肩書からして胡散臭い。そもそもそのような人がいて、評判が良かったらメディアが逃さないはずだ。

「まあ、そこは何だ? 当人が一癖、いや百癖くらいある人物だからマスコミも寄り付かないんだな。それもあって人知れず悩みを抱えている人が来やすいんだ。まあ話をしに行くだけなら無料だから、行ってみたらどうかと思ったんだがね」

 怪しいセミナーの誘い文句に似た空気を感じたが、友人との会話のネタにもなるかと思い、詳細を聞くことにした。いざとなればさっさと逃げれば良い。

「物は試しっすよね。まあタダなら行ってみたいです」

「お、そうかい。予約制になるから行ける日時を教えてくれるかな?」

 なるほど、予約した客を掴んで離さないつもりか。最近の悪徳ビジネスも巧妙になったものだと内心感心した。

 日時を伝えると、店の場所を教えてくれた。この店からほど近い所にあるようだ。そんな所あったかと記憶を巡らすが、全く思い当たりがない。

「ちなみにさっき癖の強い人って言った通り、予約すっぽかしたりするのにすごい厳しい人だから無理ならちゃんと事前に俺へ連絡入れてね。じゃないと紹介した俺が怒られるし」

 やはりその筋の人なのかと思いながら了承する。その後は未知の世界に踏み入れる高揚感を得たことによって、更に酒が進んだ。



 そのような経緯であの怪しげな店に辿り着き、店主曰く「特別な蝉」とやらを購入した。学生の自分にとってはそこそこ値が張ったものの、これで何もなければ勉強料と思うしかない。契約書に色々書かれていたが、警察に「詐欺に遭った」と駆け込めばそれも何とかなるだろう。

 店主は愛想がないけれども恐ろしく美しい女性だった。それには及ばないものの、従業員の方もそれなりの容姿で愛嬌のある顔立ちだった。カモを逃さない為にあのような役者まで雇うとは、やはり最近の悪徳商法は恐ろしい。

 蝉の方はというと、命をぞんざいに扱う訳にもいかないし、鞄に入れずに自分の肩にでも止まらせている。逃げてしまっても別に構わない。

 そのような風体で家まで帰ったにも関わらず、満ち行く人や電車で隣に座った人達に蝉の存在を気に留められることはなかった。もしや他人にはこいつのことが見えていないのだろうか。

 確信が持てないまま、家まで帰ってきた。日は完全に沈み、隣近所から夕食の香りが漂ってきている。玄関の扉を開けて、「ただいま」と言うと、母親の声とは別に聞き慣れた声が重なる。三和土たたきに目をやり、これまた見慣れた靴がキチンと揃えて置いてあるのを確認した。

 居間へ続く扉から見知った顔がひょこっと現れる。彼女は「おかえりー」と言いながらこちらにパタパタ歩み寄ってくる。

 この子は自分と同い年で幼馴染の紀野仁紫乃きのにしの、俺の想い人の妹だ。こいつとは家が隣同士なのもあって家族ぐるみの付き合いが続いている。それこそこうして気兼ねなく互いの家を行き来するくらいには親しい仲だ。

「ただいま。今日は一人なのか?」

「うん。お姉ちゃんはもう少ししたら帰ってくると思うけど、親は二人ともまだ仕事だし」

 彼女の姉は俺に何度も交際を申し込まれていることを家族には伝えていないらしい。今までこれといって態度は変わっていない。

 彼女の姉もとい俺の片思い相手こと、紀野伊代乃いよのは俺達の二つ上の二十三歳、もう大学を卒業して就職している。妹の仁紫乃が大らかでハキハキしているのとは対称的に、慎ましい性格で楚々とした物腰の大人の女性だ。

「ご飯できてるし早く食べよ!」

 仁志乃に手招きされる。勝手知ったる人の家とはよく言うものだ。

「伊代乃は待たなくていいのか? もう少ししたら帰ってくるんだろう?」

「食べて帰ってくるってさっき連絡あった」

 さすがに警戒されて接点も減るか。内心がっくりした自分を慰めるように、肩の蝉が「ジジ」と鳴いた。そういえばこいつの存在を忘れていた。食事の席に虫を持ちこむのはさすがに気持ち悪い。

 荷物を置く際に「ちょっと離れてろ」と小声で声をかけて、鞄の上に降ろそうと摘まむ。しかし、いくら力を込めても離れやしない。それどころかこれだけ指の力を込めたら、グロデスクなことになるはずなのにビクともしない。

「光? 肩痛いの?」

 仁紫乃に背後から声をかけられて俺は「うおぅ!」っと声を上げた。

「ははは。何て声出してんの? 冷めちゃうから早く早く」

 どうやら蝉のことは本当に誰にも見えていないらしい。さっきの異常なタフさも考えると、まさか本当にこいつは……。

 仕方なく蝉を肩にくっつけたまま、夕食を取ることにした。その後の団欒も蝉を同伴させていたが、誰にもそのことに気が付かれなかった。

 夜も遅くなり、仁紫乃が帰ると言うので親に送っていけと言われた。送ると言っても隣なのに意味はあるのかと思ったが、伊代乃に会える可能性があるので従うことにした。

「光、いつもありがとうね」

 隣家の玄関先で仁紫乃はぽつりと言葉を呟く。伊代乃のことを考えていて気もそぞろになっていた。「何が?」と問うと、彼女から「色々」と意味深な答えが返ってきた。

「あのさ、次の土日だけど三人で遊びに行かない? 最近、三人でどっか行くことも減ってきたし」

 仁紫乃は気を取り直して明るい調子で言葉を続ける。

 仁紫乃とは大学が同じだからしょっちゅう会っているが、姉の伊代乃とは偶然鉢合った時と季節のイベントを除けば、ほとんど会っていない。その貴重な機会にデートのお誘いをしては、その度に断られている。それもあって、伊代乃が就職してからは三人で出かける機会も減ってきていた。それもこれも俺が原因なのだが。

「そういえばそうだな。でも伊代乃の都合もあるだろ?」

「そこは抜かりないよ。次の土日はお姉ちゃんが暇であると、すでに把握しているのだ!」

「お、なかなかやるな。俺も次の土日は空いているから大丈夫だ。ってか伊代乃ももう帰ってきているみたいだし、直接話さないか?」

 二階のとある部屋に灯りが点いている。伊代乃の部屋だ。

「あ、ほんとだ。呼んでくるからちょっと待ってて」

 仁紫乃は駆けて家に入っていった。バタバタとした足音が外にも微かに聞こえる。しばらく待つと、先ほどと打って変わって静かな足取りで仁紫乃は戻ってきた。

「ごめん。疲れてお部屋で寝ちゃっているみたい」

「そうか。じゃあまた決まったら連絡してくれよ」

 何とか顔を合わせられると良かったのだが、寝ているのならば仕方ない。俺は落胆を見せぬよう平静を装った。

「うん。じゃあまた明日ね。おやすみ」

 ささやかに手を振る仁紫乃に「おう、おやすみ」と返して紀野家を後にする。門扉を抜けてから振り返って再び二階の部屋に視線を向ける。こんな調子で本当に彼女と結ばれるのかと少し不安になった。蝉に「俺の願いは叶うよな」と独り言のように語りかけたが、当然返事は返ってこなかった。



 今日は余程疲れが溜まっていたのか、仕事着のままで化粧も落とす間もなく寝入っていたようだ。

 今は何時だろうか。

 手元に携帯をたぐり寄せ、時間を確認する。

 携帯はもう翌日の日付を表示していた。ご飯は外で済ましているし、さっさとお風呂に入って寝よう。

 まどろみに溶かされた頭に働けと指令を送る。気だるさの残る身を起こし、のそのそと立ち上がる。適当に着替えを見繕い、階段を下りて浴場に向かう。

 居間に灯りが点いている。まだ誰か起きているのか。そういえば喉が渇いているし、何か飲んでからお風呂に行こう。

 ダイニングに出ると、テーブルで妹が携帯をいじっていた。テレビには深夜のニュース番組が映っていた。

「おはよう」

「うん。それ、見てるの?」

 ポットで沸かされたお茶を湯飲みに注ぎながら私は尋ねる。

「ながら見してるよ。無音だと寂しくて」

 ニュースは少し前に話題になった交通事故のことを伝えていた。何日も意識不明の容態だった被害者の女の子が目を覚ましたらしい。妹は「へぇー奇跡ってあるもんだね」と呑気に感嘆している。奇跡か……。

「明日――っていうかもう今日だけど大学は?」

「明日は午後からだし遅くなってもへーきへーき」

 学生の気楽な生活が羨ましい。自分もほんの少し前はこの身分の恩恵を享受していたのに、今となっては社会の荒波に心身を削られている。

「そういやね、今日はあっちでご飯食べてきたよ」

「あっち」というのはお隣の源さん家のことだ。我が家ではそれで伝わるくらいには深い付き合いをさせてもらっている。今の私にとっては少し気まずいことではあるが。

「向こうのおばさんとも仲良いのは良いけど、うちらももう良い歳なんだから節度は守りなよ?」

「んーそれはそうだけどずっと親戚みたいな感じでやってきたし、しっくりこないよ」

 私もその感覚でこれまで向こうに接してきた。だからこそ彼の申し出に困惑している。弟のように可愛がってきた少年は成長して立派な男性になった。いつから彼は私のことを「お姉ちゃん」ではなく「女性」として見るようになったのか、はっきりはわからない。ただ、それでも私にとって彼は今もなお「弟」なのだ。そのせいで彼を苦しめているのも自覚している。

「そうだよね。むしろ本当に家族になれたら気兼ねなくいられるのにね」

 彼を完全に拒絶したくない。あくまで今までと同じようにいることは、私の我がままなのだろうか。

 ふと妹の方に目をやると、何故か動きが固まっている。私の今の発言に酷く動揺している。

「仁紫乃?」

「家族かー……。うん、たしかになれたらいいね。あいつと家族……。いやー行ける? 行けるか? でもああなったらいずれはそうなるってことだよね。うわあ、やばい」

 何気ない一言がスイッチになってしまったようだ。この子は昔から妙な妄想の癖がある。それと彼女のこの思い患いが私が彼との交際を断る理由でもある。

 私の妹、紀野仁紫乃は源光にずっと恋心を秘めてきた。私が彼のことを意識し始めるずっと前から。

 高校は別だった。ただ、彼から浮ついた話(といっても同級生の女子とこんな話をしていたという程度のこと)を聞くと異様に不安がっていた。そのこともあって進学の際は彼と同じ大学を志望した。学力的には厳しかったが興味のある学部があったことを良いことに親を説得し、猛勉強の末に学部は違うものの彼と同じ大学に入学したのだ。

 ただ、一緒に通学したり遊んだりしているのに、この子が恋愛にとてつもなく奥手なせいでいまいち関係が進展していない。普段は底抜けに明るい癖に、恋愛感情を意識した途端にしおらしくなるのが不思議だ。

 彼が私に目を引かれているのも原因なのかもしれない。私よりも君のことを想っている人が近くにいると伝えても、彼は盲信的になっていて聞く耳をもってくれなかった。もちろん私は彼のことが好きだ。でもそれは恋愛ではなく親愛の感情だ。

 皆一緒に過ごしてきたのに向いている方向はてんでバラバラだ。喜劇じみた噛み合わせの悪さが今の私達を取り巻いている。どうにかして各々が望む結末に収まらないものだろうか。

「そんなどぎまぎしていても彼は振り向いてくれないよ?」

 彼が妹の魅力に気付かない限りは私の心に平穏は訪れない。だから正直な所、妹にはさっさと行動に移してほしかった。

「だよね。わかってるけど最近二人きりだと緊張しちゃって……。他の知り合いが近くにいたら何ともないんだけど……」

 クッションに顔を埋めて言い訳する妹を叱咤する。

「一丁前に乙女面して……。もうお姉ちゃんがお膳立てしてあげるから、そこでバシッと決めなさい。光君はああ見えて押しに弱いからグイグイ行くんだよ? いいね?」

 湯飲みを力強くドンと置いて返事を促すと、仁紫乃はか細い声で「はい」と返事した。そこで良しと思ってお風呂に行こうとしたら、仁紫乃に呼び止められた。

「お姉ちゃん、今度の土日空いているよね?」

「うん」

「実は光と約束してるんだ。土日に遊びに行こうって」

「あら、私が言わなくても、ちゃんと一歩を踏み出しているのね。やるじゃない。気合い入れて行きなさい」

 そのまま浴室に消えようとしたら「そうじゃなくて!」とまた呼び止められた。

「三人で行こうって約束してるの。最近三人で遊んでないからってことで」

「…………」

 何だか良からぬ予感がする。

「そこで私、頑張るからお姉ちゃんも付いてきて。光には「お姉ちゃんも来る」って言っちゃっているし……お願い!」

 昔からこの子のシスコンっぷりには困ってきた。遊びでも勉強でも何度お願いをされてきただろうか。挙句の果てには恋愛でもお願いをされるとは……。

「わかった。仁紫乃が羽ばたけるか、お姉ちゃんが見届けてあげる。お姉ちゃんが仁紫乃のことを手伝うのはこれが最後だからね。これからは相談には乗るけど手伝いはしないから」

 自分もとんだシスコンだ。人のことを言えないなと心ひそかに自嘲した。


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