空蝉

空蝉1 由来

「最近、商売の方はどうだい? 沙夜ちゃん」

「てめーがしょぼい客を寄こしてこなきゃ順調だよ。岩西」

 開口一番暴言。これは沙夜さんなりの親しみの表現だ……多分。

 今日は店を閉めた後、近所のバー「シミール」に来ている。バーと言っても夕方頃から開いていて、軽食くらいなら食べていける。ここのマスターの岩西さんは沙夜さんと古い付き合いらしくて、彼女の商売のこともよく知っている。

 ただ、うちの店を利用する気はないらしい。過去に願いを叶えないのかと尋ねた際には、「願いはもう全て叶えている」と語っていて、その時の満ち足りた微笑が今も印象に残っている。その後に「何より蝉を買ってこんな美人と二度と話せなくなるのはもったいない」なんて続けて、少し呆れたけど……。

 彼の人柄は沙夜さん曰く、「蝉の羽化すら手伝うくらいお人好し」らしい。その人柄の良さのおかげなのか、彼の店にはよく悩めるお客さんがやって来る。その悩みを聞いて深刻そうな人には、うちの店を紹介して取り次いでくれている。中にはその話を盗み聞きして、興味本位でうちに訪れるお客さんもいるが、その手の人間には沙夜さんは容赦ない。

 また、紹介を受けたお客さんも必ず蝉の取引まで至るとは限らない。大抵のお客さんの悩みは一生に一度の権利を行使する必要もなく、しかるべき所に相談に行ってもらえば済むことばかりだ。沙夜さんはこのようなお客さんには蝉のことを話さず、単なるお悩み相談所や占い屋などと銘打って適当にあしらっている。そのせいで他の近隣の店からは得体の知れない店と認識されている。

「この前も私目的のエロオヤジが来て追い払う羽目になるし、あの子らも不機嫌になって宥めるの大変だったんだから」

 大変だったのはおじさんの方だったろうに……。この前うちに来たものの、いきなり水をかけられて外に放り出されたお客さんに思いを馳せる。

「あんたは聞いてなかったかもしれないけどさ……。あのオヤジ、悩みを話す訳でもなく、いきなりこの私を口説いてきたのよ? 穏便に済まそうかと思ったけど、しつこそうだったしああでもしないとね」

 あのおじさんを一目見た時点で私に攻撃用の水を用意するよう指示していたのに、この人は本当に穏便に済ませるつもりがあったのだろうか。

「おやおや、話を聞くにおそらくあの人かな。うちの客が迷惑かけてすまないね」

「まったくだよ。今度ここに来やがったら、よく言い聞かせておけよ」

「どうかな? そんな目に遭ったのならこの辺りには来なさそうだけど……まぁ顔を見たら言っておくよ」

 堅気の会話に聞こえない。ただ、こうして色々と面倒があっても、紹介を断らないのは、本当に困っている人を見落としたくないからなのだろう。沙夜さんは言動は乱雑だが根は優しい。もう少し言葉に気をつけたら店も繁盛するのにな。

「静羽、あんたホントいつもニヤニヤしてるね」

 私の心中を読み取ったのか、沙夜さんはグラスに口を付けつつ言い捨てる。お酒をあおる姿も様になっているなぁ。私がこの人に勝てる所は愛嬌くらいじゃないかな。

「ニヤニヤじゃありません。ニコニコですよ」

「俺は静羽ちゃんがいつもニコニコしてるの好きだけどなぁ。沙夜ちゃんも辛気臭い顔をしていると、お客さん逃げるよ?」

「…………」

 沙夜さんが握っているグラスが「ミシッ」と音を立てた気がした。あ、まずい。イライラモードだ。

「おっと、からかってすまんね。ま、たくさん飲んでって。サービスしとくからさ」

「わーい。ご馳走になりまーす」

 わざと明るく振る舞って場を取り繕う。沙夜さんも不貞腐れたままグラスを差し出している。からかい甲斐があって可愛いなんて言うと、そのままグラスを握り潰しかねないので何も言わないことにした。


 店には仕事終わりのサラリーマン、物思いに沈む女性、和やかに談笑するカップルがいて、各々ゆったりとこの空間とお酒を味わっていた。私と沙夜さんも時に岩西さんを交えつつ杯と言葉を交わし、愉快な時間を過ごす(私は愉快だったけど、沙夜さんがどうだったかはわからない。何故なら彼女は表情がほとんど変わらないからだ)。

「しかしまぁ、静羽ちゃんが沙夜ちゃんのとこでバイトを始めてもう半年か。沙夜ちゃんがアシスタントを雇うなんて、考えられなかったなぁ」

「早いですねー。というか何で雇ったのかをこの人教えてくれないんですよ! 道端で出会って、いきなり「うち来ない?」って言われてほいほい付いて行った私も悪いですけど」

 いくらかお酒が入っているせいか、私は沙夜さんに対して少し強気になっていた。


 私と沙夜さんの出会いは半年前のことだった。私は仕事を辞め、繋ぎでアルバイトでも始めようかと考えながらあの店の前を歩いていた。そこで、たまたま店先から沙夜さんが現れた。

 陽光を吸う漆黒の髪、月も嫉妬する白き肌、心の底まで見透かされそうな凛とした眼、服の袖から伸びる蟲惑的な肢体、私はこんな人間がいるのかとあっけに取られた。吸いこまれそうな瞳に見つめられて、同性同士にも関わらずどぎまぎしていた。そんな私に彼女はたった一言、「うち来ない?」と告げた。

 それから蝉の舘に世話になり、彼女の乱雑な行いに振りまわされつつ、色々な事情を抱えるお客さんの相手をして、気付けば半年が経っていた。


「何でと言われてもな……。蝉が増えてきたからってのもあるし、こういう不思議な店には主と助手が付き物だと思ったからだよ。誰でも良かったから、たまたま間抜け面晒して目の前に立ってたあんたに声かけただけよ。採用活動って、いざやると面倒くさそうだったし」

 誰でも良かったなんてそんな殺人犯のような理由で選ばれたのか。いつもふぬけた顔をしているのは事実だが、それにしてもひどい理由だ。

「ひどいよー岩西さーん」と冗談気味に泣きつくと、「そうだそうだ。ひどいぞー。ついでに俺にも暴言多いぞー」と彼も乗ってきた。

「あんたけっこう酔ってるね。そろそろお暇しようか。明日も店開けるし」

「えーやだやだー」とぶりっ子の真似をしてみたが、襟首掴まれて立たされた。

「おい二十後半、いい歳こいてそんなことしない」

 キッと一言言われ、しょんぼりと「はい……」と返す。私からも出そうかと思ったけど、沙夜さんはパパッと支払いを済ませてしまった。後で返そうにも、この人は絶対受け取らないから参ったな。

「あ、そうだ。沙夜ちゃん、用件あったのに言い忘れるとこだった」

 帰り支度をして席を離れかけた所で岩西さんに呼び止められた。

「何?」

 沙夜さんは何か察した様子だった。

「近い内に紹介客がそっちに行くと思う」

「ん。役所とか弁護士が扱う範疇じゃないことを願ってるよ」

「どうだろうね。依頼人の問題は少なくとも、そういう実利的な話ではなく感情的な話だから、君の領分の方が合うかと思ってね」

「りょーかい。またプロフィール送っといてよ。静羽、歩けるね? 帰るよ」

 そう言うと沙夜さんはスタスタ店の外に向かっていく。私は打って変わって優しい言葉をかけられたので蕩けそうになったが、気を取りなして「ご馳走様でした」と岩西さんに礼を伝えて店を出た。



 それから数日が経った。相も変わらずこの店に客は来ない。近い内に紹介を受けた客が来ると聞いているものの、そんな気配が微塵も感じられない。暇だから店の書棚にある本を片っ端から読もうとしたが、趣味が合わない著作ばかりで目を通しても退屈で仕方ない。ネットで記事を物色しても煽動的な内容ばかりで辟易していた。最近は少しでも体を動かした方が健康的だと思い、無駄に掃除や書類の整理を行なったり、蝉達をじっと観察したりしている。沙夜さんはというと、例のごとく店の奥にある私室でぐうたらしている。たまに様子を見に行くと、気が散るから入ってくるなとドヤされる。気が散るといっても私には何かしているように見えなかった。よくこんな生活を続けられるものだ。あの人は「自分は魔女だ」とよく嘯いているが、本当に魔女だから時間の感覚が普通の人間と異なっているのかもしれない。それにしても暇だ。宗教勧誘でもセールスマンでも強盗でも良いから誰か来てくれないものか。

 あくびを押し殺してひたすら暇を耐え忍び、ようやくそろそろ閉店という頃合いとなった。暇なのに給料を貰えると聞くと、聞こえはいいが体験してみると苦痛なものだ。行動に自由がある分、窓際のサラリーマンよりはマシなのかもしれない。

「片付けに入ろうか」とカウンターから立とうとしたら、ガチャリと玄関のドアが開いた。店先に吊るされた来客を知らせる鈴が鳴る。

「い、いらっしゃいませぇ」

 完全に油断している所の来客だったので声が上擦った。ドアの陰から青年が顔を覗かせている。「どうぞー」と声をかけると、警戒心を滲ませながらゆっくりと入ってきた。容姿を見るに今時の若者らしい格好をしていて、明るめの髪色から理屈よりもその場のノリで行動しそうな軽さを感じた。

「どうされました?」

「あの、バーのマスターから聞いて……」

 ということは彼が例の紹介客なのか。とりあえず待ち合いに通して、沙夜さんを呼んだ。

 沙夜さんを待つ傍ら、飲み物を用意していると、彼は物珍しそうに店内をきょろきょろと見ていた。植物や装飾で溢れ返ったこの空間は、知らない人からしたらやはり珍しいものなのだろう。

「すごい所っすね」

 圧倒された様子で彼は一言呟いた。

「来られた方は皆さん驚かれますね」

「お姉さんも初めてはそうだったんっすか?」

「お姉さん」という物言いに若干馴れ馴れしさを感じたけど、そこは気にすることではない。「ええ、まあ、はい」と適当に流して、主の到来を待つ。

「はいはいお待たせ」と慌ただしく沙夜さんがやってきた。店じまいの指示もなかったし、さてはこの人、寝ていたな。

 沙夜さんの姿を見て、青年が「え?」と小さく声を漏らした。男性が彼女にまみえた時、皆一様な反応を示すことにも慣れてきた。ただ、少しばかり羨ましい。

「シミールのマスターから聞いているけど、確認の為にまずは簡単にお名前と年齢、それとご職業でも伺おうか」

源光みなもとひかると言います。二十一歳で学生っす」

 古典の授業でいじられていそうな名前だな。でも、彼ならそれも笑いに変えていそうだ。勝手ながら源氏君とでも呼ばせてもらおう。

「うんうん、事前情報通りだね。結構結構。それでうちにどのようなご用命で?」

 沙夜さんは椅子に深く腰掛け、源氏君を真っすぐ見つめて不敵に微笑みかける。この魅惑の微笑を前に、胸襟を開かぬ男性はいない。女の私でさえ、そうしたくなるのだから。

「ここは一生に一度だけ、どんな願いも叶えてくれるってマスターから聞いたんっすけど、マジですか?」

 彼は怪しいセールスに対するような、高圧的かつよそよそしい口ぶりで尋ねる。初めから信じている態だと逆に心配になるから、お姉さんは安心したよ。

「マジもんのマジだよ。私に任せてくれたら、あと必要な物は君の決心くらいだ」

「証拠はあるんですか? 利用者の声とか」

「質問で返して悪いが、「当店にご相談いただいたお客様の中に、お金持ちになって彼女もできた方が居られますよ!」と謳って、信用する人がいるかい? 信じてうちに任せるも良し。信じずに自力で願いを叶えるも良し。そこは君の気持ち次第だよ。むしろ、仕事が増えるから自力でどうにかしてもらった方がこっちは助かる」

 つい先ほどまでぐうたらしていた癖に、よくもまあいけしゃあしゃあと言えるものだなあ。

「……それなら聞くだけ聞いてもらえますか? 聞いて解決法を出してもらって、その上でそっちを頼るか判断したいっすよ」

「別に良いよ。一生に一度の権利だし、しっかり考えな」

 沙夜さんが鷹揚な態度で応じると、彼は自身が抱える願い事について語り始めた。


 俺、好きな女性がいるんです。幼馴染というか昔から世話になってるお姉さんで、彼女の妹が俺と同い年ってこともあって、よく一緒に遊んだり勉強を教えてもらったりしていたんっすよ。家族同士の付き合いも多くて、本当に仲良くさせてもらってました。いつからこんな感情を抱くようになったかというと――あ、すいません。これは余計っすね。簡潔に話します。

 端的に言うと、彼女と結ばれたいんです。え? さっさと告白しろ? 実はもう何回かアタック掛けているんっすよ。でも、彼女からは「一男性というより兄弟としてしか見られない」ってにべもなく振られちゃって……。兄弟のように見てくれているって本当にありがたいことなんですけど、神様を恨みますよ。まぁ、それでも諦めきれなくて、どうにもならなくて行き場のない鬱憤をバーで酒に委ねて垂れ流していたら、マスターからここのことを聞いたんです。ここなら良い解決法を見つけてくれるかもしれないって。俺はどうしたら良いっすかねえ? スッパリ諦めるって意見は無しで頼みます。


「なるほどな。まとめると君の恋愛が万事、君の思い描く通りに成就するようにしてほしいってことだな」

「万事って訳ではないですけど、そういうことですね」

「まあできないことはないが――」

「本当ですか! じゃないと俺……」

 源氏君がテーブルにつんのめって沙夜さんに縋りつく。先ほどまで半信半疑だったのに、悩みを吐露する内に気持ちが高まったのかもしれない。

「まあまあ落ち着け。できないことはないと言ったのには理由があるんだ」

 彼を押し戻して沙夜さんは続ける。私もお茶のおかわりを注いで彼に勧める。

「そうだな……。具体的な方法については契約しないと話せないが、端的に言うと願いを叶える方法は二通りある。一つは君の想い人と確実に結ばれることはできるだろう。しかし、この方法は強引に相手の心を縛りつけると言ったら良いかな。あまりお薦めはしない」

 沙夜さんは過去にも何度かお客さんに対して、「お薦めしない方法」を提案している。私にはその意図を推し量れない。その方法を取ったお客さんのその後は、どれも決して後味の良い物ではなかったからだ。

 彼女は仕事中、よく私に「幸か不幸かは物の捉え方次第だ。私の仕事は人の願いを叶えることだが、その結果、幸福になろうが不幸になろうが関係ない」と語っていた。そのことが関係しているのだろうか。

「そんなことダメですよ! 人の心を縛るなんて。脅しとか暴力とか無しで、妙案は無いんですか?」

 源氏君は反社会的なお方にどうにかしてもらう方向で想像したらしい。実際はそれすらも生易しい、筆舌に尽くしがたい方法であることを私は知っている。

「それならもう一つの方法だな。こっちはそうだな……。君が相応しい相手と結ばれるように、サポートするといえば良いかな。君が努力して彼女に相応しい男になれば、それで願いは叶う。私達はその手助けをするって訳だ。具体的な方策については契約してから話す。この方法だと、彼女が振り向くかどうかは君次第な所がある。ただ、「想い人とより近い仲になりたい」という願いは確実に叶うことは約束しよう」

 沙夜さんの申し出を聞き、彼は改めて「契約をしないと、具体的な方法については話してもらえないんっすよね?」と念を押す。

 沙夜さんは「そうっすね」といい加減に返す。閉店前だからさっさと帰したいのか、あえて突き離して契約に結びつけようとしているのか、はたまた何も考えていないのか、この人の思考はいちいち謎だ。

 源氏君はしばし沈思した後、面を上げて決意を表明した。

「そちらと契約します。このまま悩んでいてもどうにもならないんで」

「良いねえ、うじうじしてるよりそっちのが好感を持てるよ。決断できなきゃ良い未来なんて木に生る果実と同じだしね。しがみついて登らないと掴めないものさ」

 現実は木を蹴って実を落としてる人もいれば、登れる人に媚びて実を受け取っている人もいる。そんな野暮な指摘が浮かんだが、ここは空気を読んだ方が良いのかな。

 私は用意していた契約書をテーブル上に差し出す。契約に関する取り決めを一つ一つ説明し、彼にサインを求める。恐る恐るペンを取る彼の心中を察するに、今もなお悪徳商法かそうでないかで判断しかねていることだろう。ただ、一度ペンを紙に触れさせるや否や、意を決したかのように素早く署名を記した。ええいままよと言わんばかりに殴り書きされた文字を眺め、沙夜さんは満足げに頷いた。

「よし、それじゃあうちの商品について説明するとしようか。皆、出ておいで。」

 主の呼び掛けに蝉があちこちの物陰からもぞもぞと這い出てくる。源氏君が小さく「うわっ」と声を漏らした。慣れない人には寒気立つ光景かもしれない。

「飛びかかってきたりはしないから怖がりなさんな。この子らがうちの商品だ。うちの蝉を肌身離さず大事に世話していたら、それに込められた特別な力が君の願いを叶えてくれる。信じられないかもしれないけど、これが具体的な方法って奴だな」

 荒唐無稽な話に源氏君は明らかに失望している。「悪徳商法の方だったか」とでも言いたげだ。

「本当にそんなことあるんっすか。そこらへんの蝉と変わらないように見えるんですけど」

「藁にも縋る思いでうちに来て、契約までしたのにそんなこと言うかねえ? 今の季節とか考えてもらったら、こいつらが普通じゃないのはわかると思うんだけどねえ」

 今の季節は冬が終わり、そろそろ春を迎えようという頃だ。暖かい日が増え始めたものの、それでも外はまだ昆虫には厳しい気温だ。店内は虫が生育しやすい温室にしている訳でもないし、むしろ節電の為に暖房を控えめにしてある。湿気も気にしていないし管理はかなり杜撰だ。そもそもアルバイトの私に対して、蝉の飼育についてほとんど指導がなかった。唯一の指導は、幼虫もほっとけば土から這い出てくるし、成虫も空腹になれば勝手に樹液を吸うから店内の植物に適度に水をやっておけば良いというものだった。そのような環境での飼育だが、これまで蝉の死骸を見ることさえなかった。

 このおおよそ昆虫の飼育に適さない環境を改めて確認して、源氏君も多少不信を解いたようだ。不信を解いたというより、サイコな言説にまみえて、半ば思考を放棄したと言った方が正しいかもしれない。宗教勧誘の話を受け流して、とりあえずその場を逃れるのに似ている。

「なるほどっすね。とりあえずその半端ない蝉を買っときますよ。学生なので高いのは無理ですけど大丈夫です?」

「とりあえず」とは何だ。支払いも少々の勉強料くらいにしか思っていないのだろう。露骨に興味を失った口調に私は憤りを覚えた。彼のような人に蝉を譲るのは気を憚ったからだ。ただ、それも仕方のないことなのかもしれない。私は不満な表情を見せないよう、お茶を盆に上げて奥へ退いた。それからも沙夜さんは表情を変えずに粛々と商談を進め、彼に蝉を与えて帰していった。



 彼が店を後にしてからのことである。片付けをしていると、沙夜さんが私の頭に握り拳をこつんと当ててきた。

「客と話し中に茶を下げるのは失礼だぞ」

「すいません」

 謝る私に彼女は優しく語りかける。

「まあ売り物があれなだけに、客に不満が出るのは仕方ないね。それよりお前がこの子たちに対して、多少は愛着を持っていてくれていたのがわかって私は嬉しいよ。売った子もあの客に不満はないようだし、務めは果たしてくれるだろうよ」

 あんな人の願いを聞く必要はあったのだろうか。彼の為に大事な蝉を手放す沙夜さんの気持ちを想うと、やり場のない怒りが湧き起こってくる。

「それを決めるのは私じゃない。客の助けになりたいかどうかを最終的に決めるのはあの子達の意志よ。皆にやる気がなかったら適当に追い返していたし、今回は客と波長が合った子がいたから任せただけよ」

 そうだとしても私には割りきれない。悪用されたり粗末に扱われたりする可能性があるのに、沙夜さんは蝉のことが心配にならないのだろうか。

「あの子らは人間と見える世界が違う。価値観や先入観に振りまわされる人間よりもずっと正しく物の分別がつくのさ。だから心配はいらないよ」

 強い確信を纏った言葉に救いを感じる。そうだよね、大丈夫だよねと思わせてくれる優しい言葉だった。誰よりも蝉のことをわかっているからこそ、沙夜さんは乱れないのだろう。

「それよりさ、商談中に彼を透視した時、違和感があったんだよね。「何だろうなあ」と思っていたんだけど、が意志を見せたことで疑念が確信に変わった。彼は自分の真の願いに気付いていない」

「透視」という行為が可能なことに違和感を覚えない辺り、私も沙夜さんに毒されてきたのかもしれない。

「どういうことですか? あの子ってどの子です?」

「彼に渡した蝉で「空蝉」って種類の子よ。こいつの能力はまあ良いんだけど、由来が曰く付きでな……」

「ちなみにどのような能力なんですか?」

「……相応しい人と結ばれる」

 世の非モテが群がりそうな能力だ。正直、私も欲しい。幼馴染のお姉さんと結ばれたいというあの男の願いにもぴったりだ。

「いやいや、恋愛成就の利益持ちは他にもたくさんいるんだよ。でも他の子が彼に興味を示さなくて、あの子だけが反応したのがな……」

 それが何か問題あるのだろうか。

「問題はない。願いは叶うだろうけど、彼が想像する結末とは違うものになるかもしれないってだけだな」

 いつもとは異なる奥歯に物が詰まった口振りにもやもやする。こんな沙夜さんは初めてだ。何故か少しどきどきもしてきた。

「いや、それって結構やばくないですか?」

「まあ悪くはならないでしょ……たぶん」

 しんと静寂が一寸流れる。

「あともう一つ、空蝉の由来って……」

 私の質問に対し、沙夜さんは無言で書棚から一冊の本を取り出す。それをパラパラとめくり、とあるページを開いて私に手渡した。

「源氏物語……空蝉?」

 渡された本を流し読みする。一通り内容を理解できたのでパタンと本を閉じる。ほこりがふわっと舞った。

「蝉の由来って大事なんですか?」

「そこそこ大事。能力の作用の仕方を示していると言っても良いくらいには」

「これどうなるんでしょ……?」

「どうなるかねえ。ま、契約まで至っているしクレームは来ないでしょ。それに言っただろう? 幸せかそうでないかは物の捉え方次第だって。どんな結果にせよ、あの適当男は満足するでしょ」

 岩西さん、やっぱりこの人はとんでもない人だよ。ラックに置かれたティーカップから水雫が垂れた。


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