終章

 梅雨が終わりを迎えた。

 兄と朝食を共にしながら、咲子は地元新聞を広げる。紙面の隅に小さく載ったある記事に目を通した。穴が空くほど何度も読み返す。味噌汁から立ちのぼる湯気が途切れると、兄が急かすような視線をよこしてきた。咲子は新聞から顔を上げる。

「ねぇ兄貴」

「んだよ、さっさと食え」

「うちの家族愛って、絞りカス同然だよね」

 兄はぽかんと口を開け、空中で箸を止めた。妹の寝言でも聞いたかのような余所余所しい反応を見せる。かと思えば、大まじめな顔つきで茶碗に箸を置き、腕組みをして考え込む。なにか勘違いされていることは明白だった。

「お前、今日は学校サボれ」

 今度は咲子がぽかんとする番だった。兄が清涼感あふれる笑みを浮かべた。

「たまにはドライブにでも行くか」

 咲子は冷ややかに息を吐く。新聞紙をいい加減に畳み、音もなく箸を取った。

「いや、普通に学校いくわ」

「ざけんな」


 ■■■


 ――山梨で一家心中?

 15日午後2時ごろ、本栖湖近くの山中ログハウスで、複数の白骨遺体と、神奈川県真白ヶ丘市の大学事務職員の男性(43)が死亡しているのを県警署員が発見した。また、同ログハウス内に居た長女(14)は昏睡状態で病院に搬送され、いまだ意識は回復していない。

 調べによると、違法増築と思われる地下にて男性や白骨化した遺体が発見され、一階の浴室内には血の付いたナイフや包丁が発見された。遺書はいまだ見つかっていないが、いずれも室内に荒らされたような形跡が無いことから、警察は一家心中の可能性があるとみて遺体のさらなる身元確認を進めている。


 ■■■


 放課後になって携帯を開くと、吉村からメッセージが届いていた。

『裏門で待ってます』


 携帯を閉じると、前方にはにこやかに突っ立つ小峰真由が居た。四月に転校してきて、つい先日には文芸部に入部した咲子の追っかけである。

 ショートヘアの毛先を軽くウェーブさせており、型どられたアヒル口がいかにもあざとい女子だ。

「咲子さん、部活いこ」

「悪いけどあたし、今日休むわ」

 どうしてだというように真由が首を傾げる。咲子はスクールバッグを引っ掴み、理由も残さず立ち去っていく。真由が慌てて追いかけてきた。

「ずるしたら堤くんに言いふらしちゃうよ。堤くん怒るよ」

 咲子はかまわず廊下を進む。眼鏡男子が不真面目な部員に注意喚起してくるほど他人に熱心なやつだとは思えない。彼は自分さえよければいいのだ。


 容赦なく生徒玄関まで行き、ローファーを履いて振り返ると、真由が涙目でうらめしげにこちらを見ていた。さすがの咲子も心が痛み、後ろめたくなって、苦手な愛想笑いを無理矢理作った。

「寂しくなったらメールでもしてよ」

 それを聞くと、真由は無邪気な子供のようにお花満開で笑った。

「電話もする!」

 空恐ろしいものを感じながら、咲子は苦々しい笑みを保ち続けた。真由に見送られながらそっと玄関を出る。

 真由の顔を思い出すと、肌寒いような気持ち悪さを禁じえない。あれじゃまるで恋する乙女じゃないか。友情の尺度を計りかかねる咲子だった。




 裏門付近に人の気配はほとんどなく、壁に背をあずけて待つ吉村はすぐに見つかった。

 特にこの季節になると、裏門から登下校を試みる生徒は居なくなる。

 門を抜けると右前方には雑木林があり、蝉や蚊でにぎわってそこに居るだけで憂鬱になってしまう。歩きづらい上り坂や下り坂、暗い車道やささやかな住宅地帯ぐらいしかなく、正門側と比べると交通の便も悪くて、なにより娯楽店や飲食店がない。

 明るいお日様を好む花の高校生たちには需要はないが、咲子にとってはこの殺風景な景観が逆にお気に入りだったりする。


 吉村は腕に止まった蚊をデコピンで弾き返しているところだった。

「どうしたの咲子さん、死んだ魚みたいな顔して」

「目じゃなくて、顔なんだね」

 どうしてこんな顔をしなければならないのか、面倒なので説明は省いた。端的に、真由のストーカー振りにうんざりしてるからだ、の一言で済む話だったが、一言で済ませて「なんだそんなことか」程度の返しで吉村に侮られてしまえば、咲子の中の何かが崩壊してしまいそうだった。


 微妙に顔をうつむかせ、吉村と並んで裏門を出る。

 ただ、これ以上吉村から心配されるのは癪なので、咲子は無理を押して明るい話題を振る。

「天気がいいなぁ吉村くん」

 咲子が絞り出せる明るさは天頼み以外にない。おぼろげに農家経営の気分を味わう。

「やっぱり元気ないね。ちょっと猫背になってるよ」

 背筋を正しながらも、咲子の心の芯は折れていた。




 斑紋混じりの家の塀を抜けていくと、住宅街の片隅に隠れ家じみた喫茶店があった。何故か駐車場の奥にあり、洋風の一軒家を改築したような外観である。

 店の前に設置されたベンチでは高校生くらいの若い男性店員が煙草をふかしていた。客が来たにも関わらず、しかも未成年のはずなのに平気で煙を吸い続けている。いい加減な店なのだろう。なんとなく怖いので、咲子はそれとなく彼から視線を逸らした。


 みすぼらしい見た目とはうらはらに店内は木造の明るい雰囲気を醸し出していた。店奥のテーブルを選び、吉村と向かい合って座る。幅広な藤椅子は座り心地がいい。ただし吉村の爽やかな笑みだけは不快だった。

「お洒落な店だろ」

「女の子とのデートで重宝しますって感じだね」

 皮肉めいて言うと、吉村はとんでもないという風に片手を振った。

「咲子さんとのカップル騒動以来、ぜんぜんだよ。ていうか君だよね? 僕のいかがわしい風説を流布してるの」

「風説っていうか、ほとんど事実でしょ」

 吉村は困ったように細目を見開きつつ、「否定はしないけど」と弱々しくつぶやいた。


 しばらく待っていると、先ほどの未成年喫煙店員がオーダーを取りに来た。

「注文は」

 態度も目つきも悪かったが、咲子は黙ってメニューを広げる。

「アイスティー二つで」

 吉村が勝手にオーダーした。不良風店員は小さくうなずいただけで、さっさとカウンターに下がっていく。笑顔の苦手な咲子も、あれはどうなんだというレベルだった。店の奥から「笑顔がない!」という女性店員のお叱りが聞こえた。

 吉村がおかしそうに笑う。

「ほんと面白い店だよ。客足も少ないし、これからも密会はここでしよう」

「吉村くんと定期的に密会なんてしたくないんですけど。あたし暇じゃないし」

「まぁそう言うなって」


 吉村は膝の上に置いたスクールバッグのファスナーを開き、中から一葉のA4判茶封筒を出した。咲子はそれを受け取り、上目遣いで彼を見る。


「なにこれ」

「今日の本題。小夜ちゃんのその後について」

 咲子は今朝の朝刊を思い出した。それを見越したように吉村が言う。

「もちろん新聞にも載ってたし、僕も読んだよ。地元新聞の端っこにこじんまりと収められていたね。一家心中だなんて嘘ばっかり。あんなものは真実じゃない」

「こっちは真実だっての?」

「淡白な新聞記事なんかよりは、よっぽどリアリティがあると思うよ。なんせ梶原さんが撮った写真だからね」

「まだあのおっさんと繋がってたんだ」


 とある写真家の顔を思い出しながら、咲子は封筒に目を戻す。封筒には切手も宛名もなく、薄っぺらい感触からは内容物の気配すら感じられない。口を開くと、中にはA4大の写真が一枚入っていた。後方に人がいないことをたしかめ、中から写真を取り出す。


 息を呑んでそれに見入る。数グラムほどの写真がやけに重く感じた。現場を間近で体験するかのように感じるのは、この写真を撮った者の技量ゆえだろうか。禍々しいと言えば失礼に当たるし、不気味と呼ぶには神秘性をはらみ過ぎている。何も言えずに顔を上げると、吉村は遠い目で咲子の後方を見ていた。


 振り返ると、そこには向日葵やハナミズキで彩られたオープンテラスがあった。あまりのまぶしさに目を細める。薄陽の入る場所にはよく合う草木ばかりが植え込まれていて、まるで一枚の絵画を切り取って現れたように思えた。


 不良風店員がアイスティー二つを運んでくる。咲子は、グラスを淡々と並べていく彼を見上げた。

「店員さん。このお店、なんて名前だっけ」

「ソレイユっすけど」

「ソレイユ?」

 彼は尖った目つきを細めて、何をそんなに気にかけるんだ、という顔をした。

「たしかフランス語で、太陽って意味だったと思いますけど」

「いい名前だね。ぴったりだと思います」

「はぁ、どうも」

 素っ気ない返事をして、店員はトレイを胸にその場を去っていった。満足して前に向き直ると、吉村がなにか当惑したように咲子の顔を見つめていた。

「どうしたの咲子さん。やけに社交的だね」

 暗に普段の社交性のなさを指摘されたように思えて癇に障った。咲子は一度咳払いをする。

「別に。ただ確認したかっただけ。その、店の名前じゃなくて、あたしらが居る場所みたいな。分かんないかな。あぁ、うちら太陽の下にいるんだなって」

「まったく分かんない。やっぱおかしいよ、今日の咲子さん」


 咲子は茶封筒をばんと叩いてみせた。

「ちょっとだけ羨ましくなったの、小夜ちゃんのこと。この写真見たらさ、自分を見失いかけたんだ。不完全でいて落ちるところに落ちない、常に浮き足立つ自分が不安になったのさ。誰に憧れるでもなく、好きになるわけでもなく、ふらふら人を避けてばっかり。他人に不感的なあたしこそが本物の欠陥なんじゃないかって、ちょっと思っちゃったの。それだけ」


 吉村はまだ何か問い詰めたそうにしていたが、咲子は弁解に飽きてそっぽを向いた。自らの話し下手をこれだけ恨んだことはないし、今日はなにを言っても伝わらない気がした。特に、彼のような人間には一生分からないことなのだから。

 困り果てて黙りこくる吉村を尻目に、咲子は改めて写真を見直した。


 そこに映っていたのは暗い岩壁の一室。切れかかった裸電球が、有るか無きかの微光で独房を照らしていた。

 地面には三崎小夜が横たわっていた。両親と思しき二つの頭を抱き、枕元には肉片のこびりついた人骨が山形に積み上がっている。山には、樹木から生える小枝さながら、陶磁器のような白い指先が突き出ていた。小夜は心地よさそうに目を閉じ、なにか囁きかけるように緩く口元を開いていた。無音に身を任せると、写真の向こう側から聞こえてくる。彼女は三人の名前を呼んでいた。


 閉鎖的な愛。憧れへの羨望。誰にも理解されない嗜好。退廃的なまでの独占欲。何一つ体感し得なかった叙情が流れ込む。咲子は息を吐いて焦がれる。幸せそうに笑う小夜に、いつまでも見とれた。

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食人鬼 小岩井豊 @yutaka_koiwai

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