十二話 あの後

 新築分譲マンションの最上階、ある一室のインターホンを鳴らす。

 まもなくして玄関扉を開けたのは、エプロン姿の咲子さんだった。彼女はわたしたち二人に虚を突かれてしばし固まった。


 背後から吉村さんのご機嫌そうな声がする。

「本日をもって疑似新婚生活は終了です」

「軟禁生活、の間違いじゃないかな」

 エプロンを脱ぎながら咲子さんは言う。そのままぐしゃぐしゃに丸めて後ろの廊下に放り、「よっしゃあ」というような意味の雄叫びを上げた。


 通されたのは十五帖ほどの広いリビング。キッチンと地続きになっているので余計に広大に見える。部屋の中央に革張りのソファ二つとガラステーブルが一台。部屋の角には大インチの薄型テレビ。その対角線の隅にはパソコン台もある。

 でも、家具らしきものはそれだけの殺風景なリビングだった。


「あたしが来る前はゴミ屋敷同然の有様だったけど」と咲子さん。

 吉村さんは恥ずかしそうに頬を掻き、「咲子さんって無機物には容赦ないよね」と意味不明なことをつぶやいた。


 エプロンを脱いだ咲子さんの格好は、すごくラフだった。涼しそうなTシャツに、下は高校指定らしき紺のジャージ姿。頭の上ではいい加減にひっつめたようなお団子を作っていた。ソファーに寝転がると、さっそく棒付き飴をくわえ動物のようなうめき混じりに伸びをした。わたしはそんな咲子さんと正反対で、終始落ち着けずに壁際で突っ立つばかりである。


 吉村さんが苦笑した。

「炊事洗濯掃除以外はずっとこの調子。家主の僕よりくつろげるんだから、彼女の肝っ玉の強さったらないよ」

 わたしは今まで、このマンションはてっきり咲子さんの住居だと思っていたのだが、どうやらわたしはあの日咲子さんに嘘を吐かれたらしい。

 しかし不思議と怒りは沸いてこない。今は脱力することで精いっぱいだった。現状把握がうまく出来ていない。


「小夜ちゃん、こっち」

 パソコンラックのそばで吉村さんが手招きをした。わたしはデスクチェアに座らせると、モニターに表示された記事を読むように指示してくる。

「それを読んでる間、お茶でも煎れてくるよ」

 吉村さんがキッチンへと去っていく。わたしは呆然として、小棚からお茶葉を探る吉村さんの背中を眺めた。


「吉村くんのこと、あんまり信用しない方がいいよ」

 テレビを点けながら咲子さんが言う。

「吉村くんは人間のクズみたいなやつだからね」

「咲子さんだって嘘つき妖怪でしょ」

 すぐにキッチンから反論が飛んでくる。吉村さんが不機嫌そうな顔を出した。

「聞いくれよ。咲子さん、ここに居座る間はカレーしか作ってくれなかったんだ」

「居座るってなに? あたしは身を粉にして吉村くんのわがままに付き合ってあげてんの。ご飯作ってもらえるだけ有り難いと思ってよね」

 息を吸うように口喧嘩を始める彼らにわたしはまた混乱してしまった。この二人って、付き合ってるんじゃなかったっけ。


 居心地が悪くなってパソコンへと目を移す。違和感の根元はそこにもあった。

 見たこともない出版社のニュースサイト。黒字に白の小さなフォントで、一記事読むだけで目が疲れてしまいそう。記事のタイトルには『某年少ピアニストの不審死 謎を呼ぶ事件の末路』とある。

 恐る恐る文字を追っていく。


 ――M市の私立中学に通う女生徒が殺害された事件で、S県警T署は二十日、住所不定無職の男を強姦と殺人及び死体遺棄の疑いで再逮捕した。


 匿名性の高い怪しいニュース記事だけど、これが奈緒ちゃんのことを指す殺傷事件だということは容易に汲みとれる。この一文を二度三度、繰り返し読み返す。

 男。強姦、殺人、死体遺棄、逮捕。たしかに、そこにはそう書かれていた。しかも二十日って、今から八日も前のことだ。

「正確には強姦じゃない」

 わたしの手元に湯呑みを置きながら、吉村さんが感情のない目で画面を見つめた。

「彼女は絶命したのちに犯された。この男にね」

「これ、どういう」わたしは頭を抱える。「誰なんですか、この男……」

 奈緒ちゃんが犯された? わたしと同い年の、あんなに毎日が輝いていた女の子が、あろうことか、わたしが殺したあとに。

「君は知らないんだね、この男を」

「知るわけありません。誰ですか? 奈緒ちゃんに、こんなひどいこと、」

 それっきりわたしは閉口した。わたしが言えた義理じゃない。彼女を殺したのは間違いなくわたしなんだ。そのせいで奈緒ちゃんは物言わぬ人形となった。彼女の体は無防備になり、それを狙った卑怯な暴漢魔に……。

「本当に、小夜ちゃんは見ていないんだね」

「だからっ……」

 絶句し、それ以上の否定を止める。暴漢魔。物欲しげに奈緒ちゃんを見下ろす、卑劣で哀れな巨大な人型。


 あの廃墟邸宅に居た黒い影だ。あの血走った目は犬や猫でも、ましてやわたしの想像する鬼でもなかった。全ては錯覚だったのだろうか。あれは、わたしの錯乱した衝動が創り出したに過ぎない単なる幻影だったとしたら。

 背筋に冷たい液体を浴びせられたような感覚がした。あのときのわたしはやっぱり普通じゃなかった。幻覚や妄想にとらわれ、自身の危機管理能力さえ失っていた。もしかしたらわたしも、運が悪ければこの男に襲われていたかもしれない。

 マウスを操作し、記事を下へとスクロールしていく。


 ――また、男は重度の知的障害を持つ側面もあり、動機や殺害方法も曖昧な上、「女の子は鬼に殺された」など、供述内容にも意味不明な点が見受けられる。宗教関連への疑いは今現在も認められない。専門家は「法廷は精神遅滞の性質に配慮すべきだ」と警鐘を鳴らす。


 この男も同じように、わたしのことが鬼に見えていたのだろうか。


 ――T署の会見では、男が「強姦目的の勢いで殺してしまった」と供述していることを明らかにしており、「本人には最低限の理解力がある。殺意は確定的だ」と述べた。また、物的証拠をさらに明らかにすべきとし同署は調べを進めている。


 記事はここで終わっている。目を離し、胸のうちにもやもやを残しながら吉村さん見上げた。彼はニュースを今一度読み返すと、肩をすくめてソファへと歩み寄っていった。

「警察ってたまに矛盾したこと言うよね。被疑者の供述は意味不明だって明示したくせに、殺意だけは明らかだと言い張るんだから」

 わたしは湯呑みのお茶を口に含み、飲み込んでから尋ねた。

「この人が、奈緒ちゃんを殺したことになってるんですか?」

「少なくとも強姦はしたんだ。現場や遺体に精液の痕跡もあったらしいからね。しかしなにより、記事にあったように殺人の物証が見つからない。警察もこのまま冤罪まで持っていくつもりだろう」

「物証なんか見つかるわけないよね」咲子さんがだるそうな声で合いの手を入れる。

 吉村さんは深くうなずき、ガラステーブルの上にあのクーラーバッグを置いた。

「全ては、これが警察に見つかっていないのが原因だ」

「こんなニュース、わたし、今まで知りませんでした」

「報道規制が掛かったんだよ。誰が知りたいと思う? アイドルのような扱いを受けた華やかしい女の子の凄惨過ぎる最後を」

 わたしは唾を呑み込み、二の句を継げずに黙り込んだ。わたしだって、出来ることならこんな事実、知りたくなかった。


「被疑者が重度の精神遅滞者だってことは記事の通り。ちなみに彼、初公判は欠席したらしいよ。弁護士の話によると裁判の呼び出し状や催促状を理解出来なかったためらしい。独り身の浮浪者だったし、付き添い人や立会人もいなかった」

「それも、こういうマイナーなニュース記事にあったんですか?」

 それに答えたのは咲子さんだった。

「吉村くんのお兄さん、弁護士なんだってさ。この男の弁護を担当してるみたい」

 吉村さんは肩をすくめた。

「兄さんも業界ではうだつが上がらない方でね。結構苦労してるみたい。強姦までは知的障害を盾に弁護できても、なにしろ、被疑者のコミュニケーション能力につけ込んで警察が供述調書をでっち上げてるんだ。ひどい出来レースだよね。法廷の荒れっぷりったらないって、兄さん頭抱えてた」


 こんなことになったのが誰のせいか、それはまごうことなく殺人の証拠をいつまでも隠し持つ吉村さんたちのせいだろう。市民としてどれだけ間違った行為をしているか、彼らは理解しているのだろうか。


「法律は弱者の味方だけど、実際はどうだろう。都合や世間体が優先される中、誰が罪を犯したかなんて、さして民間は求めない。早期逮捕、早期解決、そして一番重要なのは罪がどのようにして裁かれるかだ」


 テレビでは土曜ドラマの再放送が始まっていた。咲子さんが興味を示したように半身を上げ呑気に画面に見入る。日常的に展開される風景に寒気がして、わたしは思わず口を開いた。

「殺したのはわたしなんですよ。どうして見過ごすんですか? どうして、この人が殺しの罪まで押しつけられなきゃいけないんですか」

「小夜ちゃんがそこまで言うなら、警察に届けないこともないけど」

 何も言えなくなる。そんなわたしに、吉村さんは軽く笑いかけた。

「冗談だよ。今さら提出したって、僕たちも犯人蔵匿で罪に問われちゃうし」

「僕たちって、あたしも?」

「咲子さんもに決まってんじゃん。僕らはすでに立派な共犯です」

 咲子さんは放心したように虚空をあおいだ。「ま、今に始まったことじゃないし」と、舐め切った飴の棒を手元の小型ゴミ箱に放り投げた。

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