【 第四章  ④ 】

 ローゼリアが言った「閣下の想い人」とやらは、いったい誰を意味しているのか。

 まったく心当たりがないジュストは言葉の真意を確かめようとしたのだが、翌日からメルヴェイユ宮廷を席巻した噂によって、ローゼリアに逢うこともままならなくなってしまった。


 ――アルティノワ公の婚約者は四阿で密会していた。

 ――相手の男は名うての遊び人セルマン伯。

 ――姫の白い背に這うセルマン伯の手は実に淫らだった。


 噂というのは広がるのが速い。それがスキャンダラスなものであれば尚更に。

 王命で成立した婚約であること、婚約披露の舞踏会も大々的に開催されたこと、それらも加味したのだろう。


 あれよあれよという間に膾炙され、ラルデニア伯女は婚約者を裏切る淫奔な女である――という話を知らぬ者は、メルヴェイユにいないと言っても過言ではないほどの勢いになっていた。


 もちろん、ジュストはローゼリアが潔白であることを理解している。

 ローゼリアがセルマン伯に出くわした瞬間を見ていた誰かが、面白おかしく吹聴したに違いない。可能性が高いのは、あの四阿までジュストを案内した王弟妃だ。


 彼女はローゼリアがセルマン伯と密会することを「知って」いた。噂の出所としては王弟妃が怪しいとジュストは睨んでいるが……。


(それにしては悪意が過ぎる)


 双子の姉を貶め、下劣な噂で侮辱し、どうするつもりなのか。

 家族の悪評は自身へも跳ね返ってくる。王弟妃のやっていることは、はっきり言って愚かなことだ。

 そう、ジュストは達観していたのだが。事態は意外な方向へと急速に転がった。



 ――――ラルデニア伯長女の審問会を開く。



 ベルローズを辞めて貴婦人の情報網を失ったため、ジュストがようやく状況を把握したときには、止めようがないところまで話が進んでしまっていた。


 ジュストにしてみれば、そんなくだらない密会の噂よりも、想い人がいるとローゼリアに誤解されていることのほうが大問題。姫への説明を優先しようとして、噂の対処を放置していたのがまずかった。


 王命で婚約したことをなんと心得ているのかと、重臣たちが騒ぎ立てたのだ。

 最初はフィリップも取り合わなかったらしいが、一ヶ月にわたって騒ぎ続けた重臣たちの圧力に屈する形で開催が決まったという。


 つまり、その一ヶ月間、ジュストはろくにローゼリアと逢うことが叶わず、彼女の誤解を解く手段を得られなかったということになる。


 非常に不本意だった。

 いや、非常に不愉快だった。


 顔を合わせるたびにジュストが苛立ちを濃くしていくので、フィリップは周囲から剣を遠ざけさせたほどだ。


 ――今のジュストに剣を見せたら、あの惨劇が再来する。


 楽天的なフィリップにそう言わしめるほど、ジュストの目つきは危ういものになっていたらしい。


 政治的なことを考えれば、ローゼリアに降りかかっている噂をどうにかすることが最優先だ。


 メルヴェイユの宮廷は、結婚後の恋愛については寛大だが、独身時代の恋愛については嫌悪を示す。婚姻とは、貴族が王家に忠誠を示し、また、王家が貴族の支配を強固にするための手段であるからだ。自由恋愛で婚姻が成立したら、王の権威は蔑ろにされるのと同じ。


 そのため、婚姻前の貴公子や令嬢に親しい相手がいると噂されると、潔白が証明できるまで結婚できなかった。ローゼリアの場合は婚姻が王命であることも加味して、余計に厳しく指摘されたのだろう。


 だから、優先すべきは噂への対処。彼女が抱いている「想い人」の誤解など些細なことで、弁明の機会はこれからいくらでもあるのだから、こだわる必要はまったくない。


 頭の片隅では冷静に考えているのに、なぜだろう。


 悪意に満ちた噂を気に病んで自分に逢うことを遠慮するローゼリアを見ると、拒まれているような気持ちがして苦しくなる。

 あんな根も葉もない噂を立てられて哀しいだろうに、どうして頼ってくれないのか。


 審問会に召喚される段階になっても相談してくれないので、ジュストは強引に彼女の居室に乗り込むことにした。


「私もご一緒いたしますよ。姫の御身が潔白でいらっしゃることは承知しておりますから」


 粘りに粘って扉を開けさせ、一ヶ月ぶりに顔を見たローゼリアは、いくぶん痩せたようだった。頬の丸みがなりを潜め、儚げな印象が強くなっている。


「これは、わたくしの問題ですから」

「私は、姫の婚約者です。姫の問題は私の問題。……違いますか」


 あまりに頑なな態度を見せるローゼリアに苛立ったジュストは、口調を強いものに変えて言い切る。ローゼリアは困り気味の表情で口を開いた。


「女官を伴わず散策していたのは、わたくしの落ち度でございます。不用意な行動で閣下にご迷惑をお掛けしてしまい、申し訳なく……」


「迷惑と仰せになるなら、審問会にお連れください」


 こういう言い方はジュストの好みではないが、ローゼリアの罪悪感につけ込むことにした。


「私の与り知らぬところで一人歩きをなさっていた。その結果、このような事態になったのですから、今再び、私の与り知らぬところで、お一人で、審問をお受けになることだけはなさらないでいただきたいのです」


「…………」

 黙り込んだローゼリアに畳みかける。

「偽りの噂がこれだけ信じ込まれてしまうのが宮廷です。審問会でも、どのような話が飛び出すか……」

 少し脅しをかけるつもりで言えば、ローゼリアは目を丸くした。


「審問会には国王陛下がご臨席です。そのような神聖な場で、偽りの言葉を口にする人がおりますでしょうか」

「――――」


 閉口するのはジュストの番だった。このメルヴェイユで、心から国王に忠誠を誓っている貴族が、どれだけいるだろうか。


 王に讒言を吹き込み、ライバルを蹴落とし、出世したいと考えている人間の巣窟なのだ。

 嘘と悪意で塗り固められている宮廷会話に真実などない。それでいて、今回のように誰かを陥れる噂だけは、あたかも真実のように広がっていく。


 それが本当に真実かどうかは関係ないのだ。どれだけ面白いか、どれだけ耳目を集めるか。噂の価値はそれだけで、それによって失脚する人間は「弱い」の一言で片付けられてしまう。


 ローゼリアはメルヴェイユの悪習に染まりきっていない。この宮廷の裏側を、まだ知らない。

 ――――格好の餌食になる。


「陛下から、姫のお許しがあるなら出席せよと頼まれているのですよ」


 嘘だった。

 どうしても出席したいから許可してくれと頼み込んだのはジュストのほうだ。


 そして、しれっと嘘をつきつつ、国王の頼みという言葉も加える。そこまで言われたローゼリアが「許さない」と返答できるはずもなく。

 短い問答で圧倒的勝利を収めたジュストは、ローゼリアが身支度を調える間、部屋の中で待たせてもらえることになった。


「ローゼリア様より、こちらを」


 メラニエ男爵夫人が、カップの載った盆を捧げ持ってきた。甘ったるい香りが湯気とともに立ち上っている。


「……ショコラ?」

「はい。お待ちいただく間に、お召し上がりいただくようにと」

「…………」


 ジュストは無言でカップを見つめた。――――変だった。


 ローゼリアは、ジュストが甘い飲み物を好まないことを知っている。紅茶か、珈琲か。先日以来、ジュストが薔薇茶を気に入ったことを伝えてからは、薔薇茶を用意してくれることが多くなっていた。

 それなのに、ジュストが苦手としているショコラを用意したのは、なぜなのか。


(……ついて行きたがった俺への嫌がらせか?)


 とも考えたが、ローゼリアがそこまで回りくどい方法を選ぶとは思えない。それに、相手が苦手としている飲み物を出してくるような意地が悪い人でもない。


「ローゼリア様が手ずからお淹れになったショコラです。冷めないうちに、ぜひ」

「そこに置いて。下がっていい。姫のお支度をお手伝いして差し上げなさい」


 修道院生活を送っていたためか、ローゼリアはあまり人手を必要としないで暮らしてしまう。仕えさせている女官はメラニエ男爵夫人だけで、侍女もいない。

 それでも、盛装用のローブの着用には女官の助けがいる。メラニエ夫人がここにいては困るだろう。


「お口に合うかどうか伺ってくるようにと命じられておりますので」


 ジュストは、ぴくりと眉を跳ね上げた。

 ローゼリアがそのような命令を出すとは思えなかったし、何より……しつこい。


「姫をお手伝いしなさいと言っている。私の命が聞けないのか、メラニエ男爵夫人?」

 ジュストは王族公爵だ。少しばかり偉ぶった物言いを意識して尋ねたが、メラニエ夫人は背筋を伸ばして反論した。


「わたくしがお仕えしているのはアルティノワ公爵閣下ではありません。必ず、お召し上がりいただくお姿を拝見するようにとのご命令です」


(……なんだって?)


 飲む姿を確認しなければならない。……それは、飲んだ後にジュストがどのような反応をするか確かめたいということ。

 つまり、メラニエ夫人の言動は、このショコラに「何かある」と暴露しているようなものだった。


 無表情にこちらを見つめるメラニエ夫人を、ジュストも表情を変えずに見つめ返す。ろくでもないこと……平たく言えば悪事に手を染めているのだろうに、この堂々とした態度は見事だ。


 自身には咎が向かないことを確信しているのだろうか。すべてをローゼリアになすりつけると?


 ジュストは用意されたショコラを改めて見た。ふわふわと漂う甘ったるい香りは正直に言って気持ち悪いが、カップ一杯くらいなら飲み干せる。

 問題は、このショコラに何が混ぜられているのか、ということなのだが。


(ま、いいか)


 ジュストは、これまでの抵抗が嘘だったかのように躊躇いのない仕草で、カップを手に取った。


「!」


 メラニエ男爵夫人がわずかに息を呑む。あからさまなその態度に思わず笑いそうになるのを堪え、ジュストはカップを口元へ寄せた。


「…………」

 すん、と香りを嗅ぐ。甘い匂いの裏側に、これといって特徴的な香りはしない。

 そこまで警戒している姿を見せつけておいて、ジュストは、ショコラを一息に飲み干した。


「!?」


 メラニエ男爵夫人が目を丸くして硬直している。その表情から察するに、なかなかの量をショコラに混入したらしい。……たとえば、毒薬ならば確実に致死量となる分量を。


 メラニエ夫人がどこまで事情を教えられているのかは不明だが、ショコラに混ざっているのは毒ではなく、単なる睡眠薬の類だった。ただし、ショコラ一杯に混入するには多すぎる量。


 さらに言えば、ルガールで生産されている眠り薬ではなく、効能が強い舶来の薬だ。使用している薬草の特徴的な苦みを隠すため、甘さで誤魔化せるショコラを選んだのだろう。


 舶来品の元締めに近い存在なのはラルデニア伯家だが、メルヴェイユ宮殿で生活している貴族には監視がついているので、誰と会い、何が届いたか、ある程度は把握が可能。


 しかも、ローゼリアはジュストの婚約者。フィリップの部下と、ジュストの部下。双方から厳重に監視しているので、彼女にラルデニアからの不審な献上品が届いていないのは確実だった。実家から届いてくるのは薔薇茶だけなのだから。

 このメルヴェイユでフィリップの監視下に入っていない人間は、王太后と王弟夫妻。


(……となると、やっぱり王弟妃か)


 メラニエ夫人をローゼリア付きに引き抜いたのは失敗だったなと、ジュストは内心で苦笑した。

 故郷で馴染みがあった人間を傍仕えにすればローゼリアも安心するだろうと思ったのだが、肝心のメラニエ夫人が王弟妃と繋がっていたとあっては元も子もない。


 二人の関係性はこれからじっくり暴いていくとして……目下の課題は、睡眠薬だ。

 この量はおそらく「ゾウも眠る」と言われるほどの分量だが、ジュストには効かない。「ああ。薬が入ってるな」という程度だ。ローゼリアの審問会に出席することに問題はないのだが……。


(切り札は取っておくに限るからな)


ジュストはショコラの混入物に従ったふりをして、寝椅子に体重を預け、静かに目を閉じた。

 視界は闇に閉ざされたが、鋭敏になった聴覚は、ほっとしたように嘆息したメラニエ夫人の気配を拾う。とりあえずはこのまま、相手の策に嵌まった芝居をするのが上策だろう。


「お待たせいたしました、閣下……」

 扉が開く音がして、続いて聞こえてきたローゼリアの声が不自然に途切れた。

「いかがなさいましたか」


 ふわっと空気が大きく動く。ローブを蹴飛ばす勢いでローゼリアが近寄ってきたのだろう。

「閣下。……閣下」

 少し甘めのローゼリアの香水が間近で薫った。ジュストの肩を、そっと揺り動かす手つきはあまりに優しすぎて、相手を起こすには至らない。

「医師を呼んだほうがいいかしら……」


 ぽつりと零された不安げな呟きに反応したのはジュストではなく、メラニエ男爵夫人だった。

「眠っておられるだけでございます」


 ジュストは内心で失笑した。語るに落ちるとはこのことだ。寝椅子で倒れ込んでいる人間を見て「眠っているだけ」などと。ローゼリアのように体調不良を疑うのが普通だろうに。


「でも、部屋にいらしたとき、お疲れのご様子ではなかったわ」

 ローゼリアにしてみれば、着替えている間にジュストが眠り込んでいたのだ。心配になるだろう。

 大丈夫だと、彼女の手を取って安心させてあげられないのがもどかしい。


「そのようなことよりも、ローゼリア様、お時間でございますよ」


 きびきびとしたメラニエ男爵夫人の口調。有能な女官に思えるが、ジュストを案じているローゼリアに対して冷たい物言いにも受け取れる。


「陛下は閣下のご出席をお望みだと……」

「審問会に召喚されているのは、ローゼリア様とセルマン伯のお二人です。アルティノワ公爵閣下にご出席の義務はありません。こちらでお休みのままでも問題はございますまい」


 ……なるほど?


 目を閉じたまま、ジュストは内心で口角を吊り上げる。

 審問会でジュストが同席し、ローゼリアを弁護する発言をされると困るので、ここで足止めしておこうという魂胆だったらしい。


 だから、混入させたのが「ただの睡眠薬」だったのだろう。致死の毒を盛るほどではない、という判断で。


「……そうね。このままにして差し上げましょう」


 遠ざかったローゼリアの気配が再び近づいてくる。ふわり。ジュストの体に掛けられたのは大ぶりのショールだった。

 暑さの名残はまだまだ頑張っているが、窓を開けていると風に涼しさが混じる季節になってきた。眠っている間に体を冷やさないようにという心配りだ。


「お急ぎくださいませ、ローゼリア様」


 メラニエ男爵夫人に急かされて、ローゼリアが足早に部屋を出て行く。それにメラニエ夫人も続き、二人の気配が完全に消えたのを確認してから、ジュストはゆっくりと目を開けた。ローゼリアが掛けてくれたショールを軽くたたんで椅子に置く。


 メラニエ夫人に睡眠薬の混入を指示した「黒幕」の予想が正しければ、ジュストと同じ目に遭っている人物がもう一人いるはずだった。

 メルヴェイユ宮殿の一階から二階まで一気に駆け上がる。


「ベリエ公はいるか?」

 問うと、従僕たちは顔を見合わせて一様に困り果てた表情を浮かべる。

「寝ているんだな」


 そう告げると、彼らは咳き込むように口々に語り出した。「そうなのです」「審問にご出席なさると仰っていたのに、突然、眠り込んでしまわれて」「宮廷医を呼ぼうと思いましたが、王弟妃様が「お疲れなのよ」と仰ったのでそのままに……」等々。


「わかった。入れてくれ」

「は? いえ、しかし……」

「ベリエ公にはうまく言っておく。おまえたちが罰せられることはない」


 約束すると、従僕たちは渋々といった様子ではあったが、ジュストを王弟夫妻の居室へと入れてくれた。


 居間として使っている部屋の寝椅子で、ベリエ公は健やかに惰眠を貪っていた。口の端からは涎がたらりと垂れていて、小さなテーブルの上には、飲みかけの珈琲が置かれている。


「起きろ」

 声を掛けてみたが反応がない。頬をつねったが、瞼も動かない。……駄目だ。


 ジュストは嘆息すると、心配そうにこちらの様子を窺っている従僕に、水を持ってくるよう命じた。上着のポケットから小瓶を取り出し、従僕が差し出したグラスの中へ数滴、落とす。


「あ、アルティノワ公爵閣下、それは……」

「王室に伝来の気付け薬だ」


 半分は本当だが半分は嘘だった。だが、それを詳しく説明する必要はないので、ジュストは口を閉ざす。

 眠るベリエ公の顎を掴んで上向かせ、強引に口を開けさせると、ジュストはグラスを一気に傾けた。


「……、……ッ!? っほ、げっほごほがほッ!?!?」

「起きたか」

「げほッ、……も、こ、ぐふッ、ま、……げっほ、お、げほげほげほッ!!」


 もう少しまともな起こし方はできないのか――と、ベリエ公は仰りたいらしい。ジュストはにこやかに微笑んだ。


「この程度の眠り薬で熟睡するな馬鹿が」

「おまえと一緒にするな阿呆!」

「肖像画を描いてやる」


 軽口の応酬のために起こしたのではない。ベリエ公の文句を封じるつもりで呟けば、彼は軽く目を瞠って「いいのか?」と言った。探るような物言いをするベリエ公に、ジュストは肩を竦める。


「それはこちらの台詞だ。覚悟は決まったのか?」


 ローゼリアに関する悪意ある噂がメルヴェイユに蔓延した一ヶ月。ジュストはベリエ公と水面下で協力関係を築いていた。ベリエ公の頼みだった。

 嫌っているはずのジュストへ頭を下げて休戦を申し入れたベリエ公は、ジュストの問いにしっかりと頷く。


「フィリップの名の下に出されたアルティノワ公の報告だ。おまえの言葉は真実だと理解している」

「へぇ? 信じてもらえるとは思ってなかったけどね」

 しみじみ呟くと、ベリエ公は傷ついたような表情を見せた。


「私はおまえを化け物だと思っているが、嘘つきだと思ったことは一度もない。……フィリップと違って」

「フィルは仕方ないだろ。国王なんだから。嘘も方便って言うでしょ」

「ああ。だからあいつを今ひとつ信用できないんだが……」


 言葉を句切ったベリエ公は、表情を真摯なものに変えて言う。


「私が嫌っていてもあいつは国王だ。王の御前で偽りを口にすることは、王弟である私が赦さない」


 ――――たとえ妻であっても。


 冷ややかな声音だった。鋭利な刃を突きつけられた心地がして、ジュストは、ふるりと身を震わせる。

 ベリエ公は王族としての自尊心が誰よりも高かった。王権を神のように信奉しているので、王族の権威や王権が脅かされる事態には、過敏なほどに反応する。


 それは対象が自身ではなく国王であっても同じだった。ベリエ公がフィリップを嫌っていることは周知の事実だが、そのフィリップが他者から侮辱される事態が発生すると、烈火の如く怒る。


 フィリップを馬鹿にしていいのは自分だけだ――という、非常に子供じみた主張だとジュストは解釈しているが、王弟として、まさしく国王の盾になっていた。


 マリー王太后がフィリップを失脚させようと策略を巡らせても、あと一歩のところで詰めが甘い事態を招いているのは、意外と馬鹿正直なベリエ公のせいだと思う。

 控えている従僕を呼びつけ、謁見用の上着に着替えながら、ベリエ公は言った。


「母上の思惑に反し、ルガール王室が正式に申し込んだ相手ではない姫と、身勝手に婚姻を結んだのは私だ。私の妃が宮廷を騒がせるならば、その責任は取る」


             ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★


 審問会の場は、国王が廷臣と私的に引見するために使われる比較的広い部屋だった。

 だが、貴族たちがひしめき合っているので熱気がすごい。宮廷中の貴族が集っているのではないだろうか。審問の内容がゴシップに近いので、男女比でいえば貴婦人たちのほうが圧倒的に多い。


 ロジィは従僕の指示に従って、広間の中央に用意されている椅子の前に立った。

 審問の場であっても、アルティノワ公婚約者のロジィは王族同等の待遇を許されているので、着席の許可を与えられていた。正面には玉座だ。


(……珍しい)


 まだ主を迎えていない玉座の隣には〈王弟妃の椅子〉が設けられていて、彼女らしい華やかなローブに身を包んだレティがいた。広げた扇子で顔の下半分を隠しているが、澄ました表情で前を見据えているのがわかる。ロジィが入室したのは察しているだろうに、こちらを見ようともしなかった。


 堂々と着座した国王フィリップが、ロジィを含めた王族たちに座ってよいと合図してから、侍従のロッシュ伯に頷いた。奥の扉が開き、衛兵に両脇を囲まれて部屋に入って来たセルマン伯がロジィの隣に立って、調べが始まる。


 ロジィが愕然としたのは、セルマン伯の第一声からだった。


「アルティノワ公の婚約者殿は、畏れ多くも王弟妃セレスティーヌ様の御名を騙って、わたくしめを欺し、自ら進んで関係を持つよう迫ってきました」


 周囲に詰める貴婦人たちが身をよじらせながら「キャ――ッ」と歓声を上げる。

 ロジィを王弟妃と見間違えたのはセルマン伯自身だ。無理矢理ローブに手を掛けてきたのもセルマン伯。それがなぜ、ロジィが主導した話になるのか。


 ――――信じられなかった。

 国王の御前で平然と嘘を並べ立てるセルマン伯が。


 ルガールにおいて国王とは神にも等しい至高の存在ではなかったのか。王を目の前にして偽りを述べる人間がいるなんて。


 今すぐ彼の口を黙らせたいが、ここは審問の場。発言は国王の許可を得てからでなければならないし、説明は交互にという条件がついている。セルマン伯が陳述を終えるまで、ロジィは黙っているしかなかった。


「畏れ多いことに、わたくしが妃殿下をお慕い申し上げていたのは事実でございます。しかしながら、妃殿下よりお声を賜ることなど夢のまた夢でございました」


 四阿でロジィが聞いた言葉とはかけ離れた証言を、セルマン伯は滔々とまくし立てる。まるで舞台に立っている主演俳優のようだった。


 伯の地位を有していることから、セルマン伯は一般の罪人のように縄を打たれていない。

 洗練された宮廷服をきっちりと着込み、身振り手振りを交えながら切々と恋心を語る姿は、見ている者たちに一種の真実味を感じさせてしまう。


「伯はそれほどまでに王弟妃様をお慕いしていたのね」

「王弟妃様は天使のようにお美しいんですもの。仕方がないわ」


 貴婦人たちが口々に囁きあってセルマン伯に同情を寄せる。セルマン伯は彼女たちに視線を向けて寂しげな微笑みを形作ると、今度は憎々しげにロジィを見下ろした。


「遠くよりお姿を拝するのみで幸福を得ておりましたわたくしに、アルティノワ公の婚約者殿は近づいてきたのです。公の婚約者は妃殿下と顔が瓜二つであることを利用し、わたくしに「王弟妃だ」と名乗りました」


 レティは扇子で顔の大部分を隠したまま、黙ってセルマン伯の言葉を聞いていた。

 ロジィが四阿で聞いた話が、すべて真実だという確証はない。だが、近い内容の言葉を交わしていたのだとしたら、それを暴露されたらレティは破滅する。

 セルマン伯がどれだけロジィを貶める言葉を並べ立てても、レティは口を拭っているだろう。――保身のために。


「妃殿下の名を騙るだけでも重罪。そればかりか公の婚約者は妃殿下に成りすましたまま、「夫には飽きた、メルヴェイユの流儀で遊びたい」と言い、大胆にも逢引を提案したのです!」


 審問の場にどよめきが走った。危険な恋物語に興奮する貴婦人や、ロジィの慎みのなさを糾弾する貴族の声が、そこかしこから聞こえてくる。

 喧噪が鎮まるのを待ってから、フィリップはセルマン伯に問いかけた。


「それで、伯は応じたのか。いくらベリエ公妃が自ら誘ったとはいえ……」

「陛下! お間違えのなきように。妃殿下ではあられません! 王弟妃を騙った不届き者が誘ってきたのでございます!」


 声高に言い募るセルマン伯を焦らすかのように、フィリップは国王らしい鷹揚な態度で口を開く。


「伯は本物だと信じたのだろう。その瞬間、伯の中では、間違いなく本物のベリエ公妃から誘われたと思っていたはずだ。なのになぜ、断ろうと考えなかったのか。不遜だろう」

「高貴な貴婦人からの誘いを拒絶することはメルヴェイユにおいて侮辱でございます、陛下」


 胸を張り「我こそは正義」といった態度で答えるセルマン伯に、フィリップは笑みを零した。苦々しい微笑。

「確かに、そのような作法がまかり通っていることは余も承知しているが……」


 玉座で優雅に足を組み直したフィリップが横目でレティを流し見る。国王から視線を向けられたことにレティは気がつかない様子で、前を見つめ続けていた。

 すぐにレティから視線を戻したフィリップは、今度は、からかうような口調でセルマン伯に尋ねる。


「公妃の夫は、あのベリエ公だ。妃を熱愛している我が王弟と、本気で競うつもりだったのか?」

「畏れながら。わたくしの愛はベリエ公に勝るとも劣らないと自負しております」

「ほう」


 フィリップはセルマン伯に黙るよう手で示すと、今度は視線だけでなく、体ごとレティのほうへと向き直った。

「この話を聞いたベリエ公は、公妃になんと言った?」


 自分に話が振られるとは思わなかったのだろう。レティは、ぎょっとしたように目を丸くしたが、すぐに取り澄ました表情を取り繕った。


「わたしがそんな馬鹿なことはしないと信じてると言ってくれました」

「では、ベリエ公妃は姉姫のことをいかが考えている」

「え?」


 フィリップは少しだけ顔を傾けてセルマン伯を目線で示し、にこやかな雰囲気で言葉を続ける。


「セルマン伯の証言は真実だと、公妃の姉姫はそのような振る舞いをするのだと、公妃は信じておいでか」


 ここでレティがロジィの肩を持つ発言をすれば、セルマン伯が嘘の証言をした――と片付けることができる。そうした意味合いを含んだフィリップの問いかけだったのだが。


「お姉さまに訊けばいいんじゃなくて?」


 レティは、さっと裾を払って立ち上がるとロジィを見た。広げていた扇子をパチリと閉じ、ぽんぽんと掌で打ち鳴らしながら口を開く。


「どうなの? 本当に、わたしに成りすましたの?」

「いいえ」

 レティに問われたので正直に答えたら。


「嘘をつくな恥知らず!」


 隣のセルマン伯が大声で怒鳴った。あまりの大声に思わず首を竦めてしまう。


「おまえは妃殿下の振りをして、このわたしの純情を踏みにじったのではないかッ!」

「そんなこと――……」

「黙れ! そこまで白を切るならいいだろう、すべて暴露してやる!!」


 顔を真っ赤に染め上げたセルマン伯は、国王ではなくレティに顔を向けた。恭しい態度で一礼すると、これまた丁重な態度で口を開く。


「わたくしがこれから申し上げることは、この女を妃殿下だと信じたがゆえの愚行でございます。わたくしの言葉が妃殿下のお耳を穢しますことをお許しいただけたら幸いに存じます」

「許すわ。本当のことを話してちょうだい。お姉さまはセルマン伯の証言が終わるまで黙っていてよね!」


 ロジィが途中で発言しないよう釘を刺したレティは、座り直さずに立ったまま成り行きを見守ることにしたようだった。

 セルマン伯は芝居がかった態度で腰を屈めてレティに一礼すると、フィリップに向き直る。


「この女とわたくしの間に起こりましたことを、すべてお話しいたします」

「偽れば罪になるぞ、伯」

「承知の上」


 自信たっぷりに笑みを浮かべたセルマン伯は、ちらりとロジィに視線を寄越してきた。馬鹿にするような眼差しだった。


「この女は妃殿下に成りすまし、わたくしを「あの」四阿に呼び出しました」


 ……「あの」?


 セルマン伯に呼び止められた四阿は、特別な曰くがある四阿だったのだろうか。

 発言を禁じられているため内心で首を傾げるロジィの周囲で、貴婦人たちが「んまあ、恥知らず」「確信犯だわ」などと口々に騒いでいる。


「……ああ、今から思えば気高い妃殿下があのような振る舞いをなさるはずがなかった。しかし、わたくしは焦がれる想いに目を曇らせ、妃殿下ご本人だと信じてしまったのです」


 それで続きは!? と、野次馬よろしく貴婦人たちが叫んだ。セルマン伯は彼女たちに、片手を挙げて「まあ焦らずに」などと役者のように応じている。


「伯、続きを」

 フィリップにも促され、セルマン伯はわざとらしく恐れ入った態度を示すと、改めて口を開いた。


「この女は自分の手でローブを脱ぎました」

「していません!」

 さすがに聞き捨てならなくて思わず反論したら、

「お姉さまは黙ってて!!」

 レティの一喝が響き渡った。


 烈しい怒りに染まった瞳で見据えられ、ロジィの口は縫われたように動かなくなる。その隙を突くかのようにセルマン伯は一息に語った。


「そして、わたくしは誘われるがまま、想いを遂げてしまったのです」



 ――――想いを遂げてしまった。



 セルマン伯の言葉は決定打だ。ロジィと彼との間に、男女の関係があったと証言している。


 嘘なのに。

 どうして、そこまで作り話を語るの。


 呆然とするしかないロジィの耳に、貴婦人たちの黄色い悲鳴がこだました。中には失神する貴婦人もいたらしく、審問会の場はちょっとした大騒ぎだ。


(気絶したいのは、わたしのほうよ)

 衆目の場で、不名誉な事実があったと虚偽証言されたのだから。


「……ローゼリア姫、反論は」


 フィリップが冷静な声で言った。場の喧噪を一瞬で鎮めてしまえる声だ。はっと視線を向けると、彼はロジィを促した。


「セルマン伯の言い分は聞いた。ローゼリア姫、申し開きがあるなら述べなさい」


 その言葉に背中を押される。椅子から立ち、ルガール王の顔を正面から見つめて、ロジィは口を開いた。


「畏れながら申し上げます。セルマン伯が仰ったことを、わたくしは一切、しておりません」

「わたしの証言が偽りだというのか、この牝狐!!」


「控えよ。伯の発言は許可していない」

 国王に制止されてセルマン伯が引き下がると同時に、今度はレティが口を開いた。


「いいえ! いくら陛下の言葉でも黙らないわ! だって、お姉さまの言い分を信用したら、わたしが悪女になるじゃないの!」


 ロジィは静かな声で反論する。


「わたくしは、セルマン伯が仰る「四阿で出逢った不埒な女」が、わたくしではないと申し上げただけです。セルマン伯は、どなたか違うご婦人をマダムと思い込まれたのかもしれません。マダムも、わたくしも、巻き込まれただけかと存じます」


 セルマン伯は、王弟妃に成りすました「誰か」と事に及んだと証言した。そしてその「誰か」はロジィだと。


 一方ロジィは、その「誰か」が自分ではないと主張しただけのこと。その「誰か」が「王弟妃だ」とは一言も言っていない。


 言葉遊びに過ぎない言い訳ではあるが、名指しで糾弾しないことは貴族階級における重要な処世術だ。


「わたしにそっくりな女なんて、この宮廷でお姉さましかいないじゃないの!」


 レティの怒鳴り声に「それもそうですわ」と貴婦人たちの同意が聞こえてくる。


「わたくしは、セルマン伯が証言なさった「女」が、わたくしではないことを神に誓って申し上げます」

「セルマン伯の証言は嘘だって言うの!?」

「伯が仰ることは一つの真実でございましょう。ですが、伯が「女」を「わたくし」だと信じておられるという一点について、わたくしは違うと申し上げているのです」


 ――セルマン伯は王弟妃に成りすましたロジィに言い寄られた。


 これが、審問会の肝だ。

 だが、ロジィはそれを、セルマン伯は王弟妃に成りすました何者かに言い寄られた――という話にすり替えようとしていた。


 真実を言うわけにはいかない。証拠もないのに王弟妃を責めれば不敬罪になるし、何より、レティは妹。不謹慎な行動を取っているからといって、吊し上げるつもりはなかった。


 ……でも。

 妹の罪を被るつもりも、ロジィにはなかった。


 していないものを、していると偽るのは、神に背く行為だ。リジオン教では嘘を重罪としているのだから。

 しかも、ここは国王が臨席している審問会の場。二重の意味で偽ることは罪。


 さりとて、セルマン伯は虚偽証言をしていると正面から言い張るのも問題がある。立場上、国王は中立を守るだろうし、この場にいる貴族たちはどうやら王弟妃派だ。ロジィの主張こそ「嘘だ」と捨てられるだろう。


(自分の身は、自分で守らなければ)


 あの場に来てくれたアルティノワ公は、ロジィが潔白だと信じてくれている。彼がこの場で証言してくれれば、周囲がロジィに向けている心証は一気によいものへと変化するだろう。


 けれど、婚約者に過ぎない立場で、アルティノワ公を煩わせてはいけない。

 もう一人の証人候補はベリエ公だ。王弟の証言がもらえれば潔白をたちまちに証明できるが、彼はレティの夫。愛妻を追い詰めるような証言をしてくれるはずはない。――助けなど来ない。


「水掛け論だな」

 フィリップも、ロジィとの考えと近しいことを想像したのだろう。困ったように笑みを浮かべた。


「伯も、ローゼリア姫も、公妃も。それぞれが、それぞれの言い分と真っ向から対立する持論を持っている。目撃者が当事者である以上、客観的な意見を求めることもできない。手詰まりだな」


 この場はこれでお開きにしよう――フィリップの心の声が聞こえたのか、レティは苛立ちを隠さない眼差しでルガールの国王を睨み付けた。


「あら、陛下。わたしは「客観的に」言っているわ。この宮廷で、わたしに成り代われる女が、お姉さまの他にいると思って?」


 顎をそびやかしたレティの言葉に、この場に集う貴婦人たちが「そのとおりですわ」と口々に追従する。それに力を得たかのように、レティは勝ち誇ったような微笑を、その美しい口元に浮かべた。


「陛下の前でセルマン伯が嘘をつくはずがないわ。わたしはもちろん、ルイ様を裏切るようなことは絶対しないし。怪しいのはお姉さましかいないもの」

「わたくしも陛下の御前で偽りを口になど――」


「お姉さまは」


 鋭い刃のような声音で割り込まれ、ロジィは思わず口を閉じた。

 レティは、ことさらゆったりとした足取りで自分の椅子へと戻ると、ローブの裾を丁寧に整えながら時間を掛けて腰を下ろす。そうして、王弟妃らしい寛いだ雰囲気を作り上げてから。


「お姉さまは、お姉さまのことが怪しいという、わたしの言葉を偽りだと言うのね?」

「!」


 セルマン伯の証言をすり替えることに意識を向けすぎて失念していた。伯とレティの意見は「ロジィが悪者だ」という点で合致しているのだ。セルマン伯を否定することはレティを否定することと同義になってしまう。


 反論の言葉を見失って押し黙ったロジィに、レティは獲物を見つけた狼のような眼差しを向けてきた。


「ひどいわ、お姉さま。わたしはお姉さまのことを信じようと思ってるのに、お姉さまは、わたしのことを嘘つき呼ばわりするのね」


 ロジィを信じようと思っているのなら、どうして庇ってくれないのか。レティの発言はことごとく、ロジィを糾弾するものばかりだというのに。


「自分はしてない、違うって、そればっかりだわ。自分の悪行を、わたしのせいにするのね」

「そんな……」

「つもりはないって言うの? 冗談でしょ。わたしの振りをできるのは、お姉さましかいないのよ。お姉さまがセルマン伯を誘惑して、それを、わたしがやったって言い張ってるようにしか聞こえないわ」


 自分の身を自分で守ろうと思った。なのに、ロジィがこの場で潔白を主張することは、翻ってレティを糾弾することに繋がるというの……?



 ――修道女となって信仰の道に進むことと同じくらい、現実の世で、苦難に立ち向かうこともまた、立派な修行。



 ベアトリスの言葉が蘇った。まさしく、これは苦難だ。

 物的証拠がなく、証言だけで罪人を作れる状況で、偽証されているのだから。

 無実を主張すれば妹を貶めることになる。妹を庇えば、無実の罪を認めることになる。

 いったい、どうしたら……――。


「セルマン伯だけじゃないわ。ルイ様のことだって誘惑したくせに」


 ロジィの「え」というか細い声は、広間に響き渡った貴婦人たちの盛大な悲鳴によって、跡形もなく消し去られてしまった。


「わたしが四阿に行ったとき、お姉さまのローブは、はしたないほど乱れていたわよね!?」

「あれは……」

「わたしのルイ様を誘おうとしたんでしょう、恥知らず!」


 レティが投げた扇子がロジィの左肩に当たった。軽い音を立てて床に転がる扇子が、何か、自分とレティとの間を決定的に切り裂くものに思えて、ロジィは唇を噛みしめる。


「陛下! この女は婚約者がいながら、わたしの振りをして有能な貴族を誑かしたわ。それだけじゃなくて、わたしのルイ様まで誘惑しようとしたのよ! 処罰して欲しいわ!」



「――この私が、我が天使の他に心を動かしたと疑っておいでですか?」



 聞こえるはずのない、声。

 審問会の場は一瞬だけ鎮まり、次の瞬間、音にならないどよめきが走った。


 王弟ベリエ公ルイ・フランソワ。妃を愛してやまないその人は、盲目的に妃を愛するあまり、いかなることが起ころうとも王弟妃セレスティーヌの味方をすると、もっぱらの噂だったが……。


「ルイ様!?」


 自身を溺愛する夫の姿を認めたレティは、見る間に表情を強張らせた。その顔色は心配になるほど青ざめていて、まるで悪事が露見した罪人のようだ。


「私がどれほど、あなたに愛を捧げているのか、まだおわかりではないのですか」


 コツリ、コツリ。ベリエ公が歩み寄ってくる靴音が響くたび、レティは怯えの色を濃くした。


「アルティノワ公の婚約者殿は、我が天使の姉姫。つまりは、私にとっても義姉上です」

「!?」


 レティの瞳が限界まで見開かれる。ベリエ公がロジィを「義姉」と認めていることに、心の底から驚いたようだった。


「私は、私の義姉上が、実に貞淑な貴婦人であることを充分に承知しております」


 そこで言葉を句切ると、ベリエ公は視線をセルマン伯へと転じた。軽蔑を可視化したような眼差しだった。


「私が、あの四阿で見たことを、すべて陛下にお伝えしようか?」

「!」

 セルマン伯が息を呑む。

「困るだろう? 今までの証言がすべて偽りだと暴露されるのは」

「ベ、ベリエ公……」

「ああ。それとも」


 ベリエ公が艶やかな笑みを面に浮かべた。彼もまた端麗な美貌の持ち主なので、怒りを湛えた微笑みは、ぞっとするほど美しく、恐ろしい。


「貴様が、我が妃と交わした会話のすべてを、この場で詳らかに語ろうか?」


 セルマン伯と王弟妃の会話。その言葉は、疚しいことがあるのはこちらの二人だと、暗に物語っている。

 この場に集う人々の疑いの宿った眼差しは、今や、ロジィにではなく、レティへと向けられていた。無言の圧力を受け止めたレティは、唇を震わせながら叫ぶ。


「お姉さまね!?」


 椅子から立ち上がったレティは、荒々しい歩き方でこちらに寄ってくると、ロジィの頬を張った。小気味いい音が響き渡る。


「ルイ様に、あることないこと吹き込んだんでしょう! なんて性悪なの!? わたしとルイ様の仲を引き裂いてそんなに楽しい!?」

「我が天使。義姉上が私に偽りを仰るはずがないでしょう。――すべて、私がこの目で見たことですよ」

「!」

 見た、ですって? レティが口の中で小さく呟いたのが、間近にいるロジィの耳に届く。


「どういうこと、お姉さま。まさかあの四阿にルイ様を呼びつけたの!?」


 レティの言葉は「アルティノワ公婚約者が王弟をいわくのある四阿に招いた」と聞こえる。

 審問会の場が、再び騒然としたざわめきに包まれる中、ベリエ公はのんびりと口を開いた。


「私が、メルヴェイユの庭をそぞろ歩いてなんの不思議がありますか、我が天使よ。歩いていたら不穏な会話を耳にした、その相手は我が妃の姉姫だった――助けるのは貴公子として当然の振る舞いでしょう」


「ルイ様は、お姉さまを庇うの!?」

「我が天使の大切な姉姫の名誉を、お守り申し上げているのです」

「!」


 レティが言葉を失って立ち尽くす。ベリエ公はフィリップに視線を移すと、いつもどおりの冷ややかな表情で言った。


「陛下。ご裁可を」


 審問会をさっさと終わらせろ――という無言の要求だ。それに頷いたフィリップの口から、処分が言い渡された。



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