【 第四章  ③ 】

「好きですよ」

「婚約者だから?」

「ええ」


 この世でたった一人の婚約者。ローゼリアは生涯、ジュストだけのものだ。

 国王親族封アパナージュは没収される可能性がある。爵位もそうだ。王族としての身分も。


 けれど、婚約者は――――〈妻〉は、違う。


 神の御前で神聖な誓いを果たしてしまえば、誰からも奪われることがない。ジュストに与えられた、ジュストだけの、大切な妻。


 たとえジュストが王族の身分を離れても、アルティノワ公ではなくなってしまっても、神に誓った婚姻が取り消されることはない。……ジュストが望まなければ、絶対に。


 何も得ることが許されなかった。すべてを手放すことを求められてきたけれど、妻だけは、ジュストが囲い込むことを許されている。


 初めて、得たのだ。

 自分のものだと、大声で叫んでいい存在を。


 だから、ジュストはローゼリアから好いて欲しかったし、彼女を喜ばせるためなら、どんなことでもしたかった。

 ローゼリアが怯えずにメルヴェイユで過ごせるよう、ベリエ公を脅迫するのは朝飯前。


 新居はローゼリアが好む室内装飾で完璧に仕上げたかったし、婚約者の挨拶などという習慣がなくても、贈り物を山ほど届けたかった。


 ローゼリアが〈黒髪の貴公子〉とやらにご執心なのは衝撃だったが、彼女の心を占める憎い男はメルヴェイユにいないという。そのまま永遠に戻ってこなければいい。


 ローゼリアが、どれほどその男を好ましく思っていても、目の前にいなければ進展のしようがないのだから。

 ジュストが夫として彼女の傍らにいて、誠実に接していれば、いつかは。

 ――――好きになってもらえるかもしれない。


「婚約者じゃなかったら、お姉さまのことは好きじゃないの?」


 なかなかに鋭いところを攻撃する質問だった。ジュストはしばし、言葉に詰まる。


 ローゼリアのことは人として好ましいと思っていた。ジュストとは違って、血を分けた妹を愛している姿が。


 けれど、ジュストは〈アルティノワ公〉なのだ。恋仲になってくれるような貴婦人は存在しない。恋人はおろか、結婚することすら不可能だと思っていた。


 恋する、とか。愛する、とか。

 そんな感情をローゼリアに抱いてしまうより先に、この婚姻が決定した。


 ジュストにとって婚約者を愛するのは自然なことで、その対象がローゼリアだった――というだけのこと。


「いいのよ。答えられなくても。アルティノワ公は真面目ね」


 即答しないジュストを見上げて、王弟妃は花が綻ぶように笑った。幸せがにじみ出ているような笑顔。


「婚約したから好きになってあげたんでしょう? わかってるわ。アルティノワ公は賢い人だから、ちゃぁんとお姉さまの本性に気がついているのよね?」


「……本性?」

 そういえば、先日の茶会でも女官がそんなことを口走っていたな。


「そう、本性。……お姉さまはね、見境がないのよ」


 どれだけ尋ねても好みを明らかにしないローゼリアに、それほどの好物があるとは信じられない。

 疑いを宿した視線を向けると、それすら予測していたように王弟妃が笑っていた。ぞっとするほど艶やかな微笑みで。


「お姉さまはね、妖婦なの」







王弟妃様マダムが、いかがされましたか」

「この場は私とおまえだけだ。儀礼を守らなくていい。王弟妃をレティと呼ぶことを許す」


 あれだけ言いよどんでいながら、一度言葉にしてしまうと躊躇いは吹っ切れたようだった。

 ベリエ公は、少しばかり身を乗り出してくる。


「私は、我が天使を愛している。だが、セレスティーヌは、そうではない。……どうだ?」

「…………」


 どうだ、と、言われても。

 ロジィは、ぎこちなくベリエ公から視線を逸らした。レティの「夫を愛していない」宣言は記憶に新しい。


「答えろ」

「……、……レティは、王弟殿下の素晴らしさに日ごと、心を奪われております」

「嘘は言うな」


 本当のことを言えないあまりに嘘を口走ったのは事実だが、ばっさりと切り捨てられて、ロジィもさすがに、むっとした。

 危害を加えない――というベリエ公の言葉に勢いを借りて、正面から反論する。


「嘘と仰せになりますが、それはいかなる理由があってのことでございましょう。レティと婚姻を結んでおいでなのは王弟殿下でいらっしゃいます。わたくしなどにお尋ねになるより、直接レティにお尋ねあそばすのがよろしゅうご……――」


「儀礼を守らなくていいと言っただろう!」

 急に立ち上がったベリエ公が、当たり散らすような大声で叫んだ。

「回りくどい言い方をするな! 頭が痛くなる! 王弟の命令には従え、馬鹿者!」


 簡単に言ってくれるが、畏まった物言いをしないでどうやって会話をしろというのか。ロジィの正式な立場はアルティノワ公婚約者。つまり、まだ王族ではないのに。


 ベリエ公も、レティと同じで我が儘だ。あの子も、堅苦しい言い方は嫌いだとかなんとか、ごねていた気がする。

 諦めの溜め息を落としたロジィは、面倒になったので答えを聞くことにした。


「では、どのような物言いをすれば王弟殿下のお気に召すのですか」

「レティと話す口調でいいと言っている!!」

「え……?」


 ロジィは思わず、ぽかんとしてしまった。

 王弟妃となったレティへの言葉遣いをしろ、という意味でないことは、ここまでの口喧嘩でわかる。

 姉妹で気兼ねなく交わしている言葉遣いで喋るように……と、そういうことだ。


「なんだ。私は何か、おかしなことを言っているか?」

「え、ええ……とても」


 うっかり正直に頷いてしまったが、ベリエ公から怒声が飛んでくることはなかった。すとんと座り直し、もっともらしい顔で言う。


「別におかしくはないだろう。おまえはセレスティーヌの姉だ。私にとっても義姉あねになる」


「…………。……は?」


「義姉上を敬わなければ命が危ういことを、この間、思い出した。しかも、おまえはジュストの妻だ。二重の意味で命が惜しい」

「………………」


 この間のように、一方的に怒鳴りつけて殴りつけてくるベリエ公は怖ろしかったが、この場にいるベリエ公も理解できない思考回路の持ち主だ。

 あれだけロジィに憤りと憎しみをぶつけておいて、けろりと「義姉」と言われても……。


「ああそうだ、訊こうと思っていたんだ。義姉上あねうえと呼ばれるのがいいか。それとも、レティのように、お義姉ねえさまと呼ばれたいか」

「……王弟殿下が、わたくしを……?」


 義姉、と、人前で呼ぶの!?

 真っ青になるロジィを見て、ベリエ公は唇をひん曲げる。拗ねた表情だ。


「敬意を示すなら〈公妃〉だろうが、おまえたちはまだ結婚していない。ジュストの婚約者……というのはいささか長ったらしくて面倒だ」

「……、ローゼリアと、」

「呼んだらジュストに殺される。私が」

「アルティノワ公爵閣下は、さようにお心の狭い方では……」


 国王フィリップもロジィのことを名で呼んでいる。アルティノワ公がそれを聞いて機嫌を損ねた様子はなかった。名を呼べば問題ないと思うのだが。


「いいから決めろ。どっちだ」


 どちらも嫌です――と、言えたらどんなにいいだろう。

 ベリエ公に対して、妹の夫という認識は抱いていたけれど、自分の〈義弟〉になるという認識はなかった。我が儘なのは妹だけで充分なのに。


「わかった。私が決める。……レティは私をどう思っているんだ、義姉上」


 それに落ち着くらしい。レティに呼ばれるのならともかく、ベリエ公から「お義姉さま」と呼ばれるのは心臓に悪すぎるので、こちらを選んでくれてよかったと思うべきだろうか……。


「早く答えろ、義姉上」

「わたくしの答えは、わたくしの主観によるものです。レティの気持ちはレティにしかわからないと存じますが……」

「だから、回りくどい言い方をするなと言っただろう。おまえは弟にそのような物言いをするのか!?」

「弟を持ったことがございませんので」

「だったらジュストの真似をすればいいだろう!」


 ……アルティノワ公の、真似?

 どういう意味だろうかと首を傾げたロジィに、ベリエ公はまくしたてた。


 ベリエ公よりも年下でありながら、儀礼をすっ飛ばしたあげく、敬語すら使わないで口を利いている不遜なアルティノワ公。彼を真似れば簡単だろう、と。


(無茶を言わないで)


 レティも、ベリエ公も、どうして「こう」なのか。

 宮廷儀礼という秩序によって上下関係が保たれているのだ。親子であっても、国王と王子の立場に立てば敬語を使う。市井の家族関係とは違うというのに。


「ああ、先に言っておくぞ。私のことを〈王弟殿下ムッシュー〉と呼ぶのも辞めろ。おまえは義姉だ。ルイでいい」

「いえ。それはさすがに……」

「では、ジュストに倣って〈ベリエ公〉と呼ぶなら、返事をしてやってもよい」


 ……なんだか上手に誘導されてしまったような気がする。だが、ここで抵抗を繰り返してもベリエ公の機嫌を損ねるだけだろう。


 人前で宮廷儀礼を守るのは当然のことだが、この場には確かに、ロジィとベリエ公しかいない。

 ロジィよりもベリエ公のほうが身分が高いのだし、彼の要求に従うのが妥当だ――と、ロジィはついに根負けした。


「……何か、レティの言動で気になることがあったの、ベリエ公?」

「!」


 ベリエ公の表情がわかりやすく輝いた。相手が自分の命令に従ったことに満足を得た、というよりは、単純に義弟扱いされたことを喜んでいる素直な反応だった。


「いいな」

 何がですか、と言いかけてしまい、慌てて「何が?」と雑に問いかける。

「義姉上はフロランタン侯爵夫人とは違って、私に意地悪ではない。なんだか本当に〈姉〉を持ったような気がする」


 異母兄はあれだし、ジュストは弟らしくないし……と、ベリエ公はぶちぶち続けた。

 産まれたときから〈姉〉だったロジィにすれば、妹の我が儘や甘えには慣れきっている。それが弟になっただけのこと。ベリエ公が望むなら、人目のないところで姉として振る舞うのは造作もない。腹をくくった。


「訊きたいことは何?」

「ラルデニア時代のセレスティーヌについてだ」







「……妖婦?」


 それは、おまえのことだろ――と、喉まで出かかった言葉をジュストは飲み込む。


 王弟妃が何を目的としているのか把握できていないが、姉を慕う妹として、ジュストの前に立っていないことだけは確かだ。貶める言葉を使っているのだから。


「魅力的な姫君を妻にできる幸運を喜ばなければなりませんね」


 ローゼリアを侮辱するな――と怒鳴りたい感情を堪えて、表面をなぞっただけの返答を返せば、王弟妃は残念なものを見るように顔を歪めた。


「男の人って、どうしてそうなのかしら。本当、馬鹿よね。騙されてるってわかってても、誘惑されたらふらふらと行っちゃうんだもの」

「私が、愚かだと?」

「ええそうよ。お姉さまは妖婦だって教えてあげたのに、幸運だなんて言うんだから」


 何を根拠としてローゼリアを妖婦と評しているのだろうか。理由を尋ねてみたいが、王弟妃の策に嵌まる危険性もある。

 どうしたものかと迷うジュストの横を歩く王弟妃は、進んで口を開いてくれた。


「アルティノワ公は宮廷に来ていなかったから知らないでしょうけど、お姉さまは、ルイ様の寝室に忍び込んだことがあるのよ」


(……ああ、あれ)


 ローゼリアがベリエ公に引きずられて、フィリップの寝室を訪れたときのことを言っているのだろう。ベリエ公も、自分の寝室にローゼリアが入り込んだと主張していた。


 ベルローズとしてローゼリアに接していたジュストから見れば、彼女がそのような大胆な振る舞いをする姫でないことは一目瞭然。ベリエ公は物事を大げさに語る人物なので、フィリップもジュストも、まともに取り合わなかったのだが……。


(そういえば、あのときローゼリアはどうしてベリエ公の部屋に……?)


 彼女は寝間着を着ていたから、寝室にいた――と主張していたベリエ公の言は偽りではないのかもしれない。

 では、なぜ、ローゼリアはベリエ公の寝室にいたのだろう。


 ベリエ公が一方的にローゼリアを糾弾している間、ベルローズとしてあの場にいたジュストは、ずっとローゼリアの表情を観察していた。


 ベリエ公の言葉に、いちいち驚愕して傷ついた表情を見せていたローゼリアが、彼が言うとおり「ベリエ公を寝取るため」に寝室へ忍び込んだとは、とうてい思えないのだ。


「お姉さまはね、ルイ様に恋してたの。わたし宛の縁談を横取りしようとしたくらいなのよ」

「……妃殿下宛の、縁談、ですか」

「ええ。ルイ様が見初めたのはわたしなのに、お姉さまは「ラルデニアの相続権があるのは自分だから」って言い張ったの」


(…………へぇ?)


 それは初耳だ。

 ベルローズの諜報活動からも、大臣たちの報告からも、あの縁談は「王太后が申し入れた」ことで一貫している。そして、縁談相手は最初から「ラルデニアの筆頭女子相続人」だった。


 ベリエ公が王弟妃を見初めたのは事実だ。だが、順序が異なっている。姉ローゼリアに縁談を申し入れた後でベリエ公が妹を見初めた、というのが正しい。


 王弟妃は何を考えて見え透いた嘘を口にしているのだろう。先日の舞踏会でも、息をするように嘘をつくとは思ったが。……まさか、本気でそう信じ込んでいるとか?


 思い込みが激しい人間を相手にするのは面倒だ。真実を懇切丁寧に説明してやったとしても、聞く耳を持ってくれないのだから。普段であれば問答無用で放置を選択するが。


(ローゼリアに関わることだからな……)


 ベリエ公本人に問い質しても「間違っている」と否定するだろう内容を、ここまできっぱりと言い切るからには思惑があるのだろう。

 ジュストは、ふと、ベルローズのサロンに招待したときのローゼリアを思い出した。


 ――――妹は、姉の思いを尊重したかった。


 妹の立場に我が身を置き換えたローゼリアは、そう答えた。

 この場にいるのが、もし、ローゼリアだったら。ローゼリアが本当にセレスティーヌの立場だったら、おそらく、躊躇わずにベリエ公の縁談を妹に譲っただろう。


 ……セレスティーヌは、どのように答えるだろうか。


「それをお聞きになった妃殿下は、いかが思われたのですか」

「え……?」

「姉君がベリエ公に恋しておられる。しかし、ベリエ公は御身を見初められた。……それをお聞きになって、いかが思われましたかと伺っております」


 王弟妃の歩みが止まった。左右に整然と並ぶ樹木に挟まれた、小道の真ん中。陽射しを遮る枝がないので、じりじりと照りつけてくる真夏の太陽が眩しい。


「どう、思った、か……?」

「はい」


 ベルローズの姿でなくてよかったと思いながら、ジュストは王弟妃の答えを待つ。

 黒髪の鬘を被った格好で炎天下の庭園に佇んでいたら地獄だ。素の姿に戻っていて本当に助かった。


「べ、別にどうも思わなかったわ」

「姉君の思いを遂げさせてあげようとはお考えにならなかったのですか」

「お姉さまの思い?」

「ご自身に申し込まれた縁談を、姉君に譲るお気持ちにはならなかったのですか」


 縁談が申し込まれたのはローゼリアだが、ここはあえて王弟妃の虚言に乗っかって問いかける。……真実を知らない振りをして。


「なんで譲らなきゃいけないのよ!?」

「妃殿下は姉君を大切にお思いでしょう。ベリエ公の初恋は破れることになりますが、縁談をお譲りになれば姉君の恋は叶います。妃殿下なら、そうなさるはずだと……」

「冗談じゃないわ! ルイ様が見初めたのはわたしなのに、それをどうしてお姉さまに!?」

「お嫌だったのですか?」

「わたしのものを、お姉さまにあげる義理はないって言ってるのよ!」

「なるほど」


 ジュストは、重々しく首肯した。妹のほうは姉に対して、自己犠牲の精神を持ち合わせていないようだ。――ならば。


「それでは、さぞお辛かったでしょう」

「な、何が……?」

「姉君がベリエ公の寝室へ忍び入った、例の事件のことです」


 ジュストは、にっこりと優しい笑みを浮かべた。王弟妃に対して「味方ですよ」と演技しながら。


「ご自分のものをお譲りになるのを、それほどまでにお怒りでいらっしゃるのです。ご夫君の寝室に姉君がお入りになったときは、さぞ苦しまれたことでしょう」


 これまでの話の流れから考えて「もちろんよ」と、絶叫すると予測していたのだが。


「え。あ。そ、そうね」


 おどおどと視線を泳がせて、逃げるように歩みを再開する。

 王弟妃との散策などさっさと切り上げたいが、まだ彼女の思惑がわからないので、ジュストは仕方なく追いかけた。


 独占欲が強そうな言動を繰り返しておきながら、決定的な場面でローゼリアを糾弾しない態度は奇妙だ。


「縁談を譲ることは許せないのに、ご夫君の寝室に姉君が入ったことは許せるのですか」

「お姉さまの恋路を応援したいから、お膳立てしてあげたの」


 ――――お膳立て?


 では、ベリエ公の寝室にローゼリアが入ったのは、王弟妃の差し金だったのか。

 その言葉で納得した。夫婦の寝室は隠し扉でしか入れない造りになっている。入り方を知っている「誰か」がローゼリアに教えない限り、寝室に入ることは不可能だ。


 ベリエ公も、少し考えれば協力者が存在するとすぐに思い至るはずなのに、なぜローゼリアをああまで殴ったのか。

 ……あるいは、協力者に愛妻の影を見たから、余計に激高したのかもしれないが。


「縁談をお譲りにならなかったのに、お膳立てですか?」

「わ、わたしのものをあげる気はないけど、貸してあげるくらいはいいかな……って」


 ――――貸してあげる。


 ジュストは少し、笑ってしまった。王弟妃にとって〈夫〉は貸し借りができる存在ものなのか。それを知ったら彼女を溺愛しているベリエ公が、どれほど打ちひしがれるだろう。


「でもでも。ルイ様をあげるつもりなんて本当にないのよ。だって、お姉さまったら、ルイ様一筋じゃないんだもの」

「……ベリエ公一筋ならお譲りになるのですか?」


 思わず混ぜ返してしまった。ぴたっと足を止めた王弟妃が、眦をきりきりと吊り上げてジュストを見上げる。


「譲らないわよ!」


 あれは、わたしのものなの――と、王弟妃は豪語した。否定する要素は見つけられないので、ジュストは軽く頷いて先を催促する。その視線を受けた王弟妃は、ふふん、と得意気に笑みを浮かべた。


「お姉さまはね、すごいの。次から次って男の人を虜にするのよ。ここに来たのも、わたしに対抗して貴公子を誘惑するつもりだったの。絶対そうよ」

「……へぇ」


 王弟妃が語る「姉」とは、いったい誰のことなのだろう。疲れが押し寄せてくる。

 ――――婚約者である自分とも面会してくれないのに、いったい誰を誘惑していると?


「ラルデニアにいた頃もそうだったわ。代々仕えてくれた騎士の子がいたの。その子、わたしのことを好きって言ってくれたのに、それを知ったお姉さまは、その子を自分付きの護衛にして取り上げたのよ、わたしから」


 それからずっとそうなのだ、と、王弟妃は物憂げな表情を作った。顔を斜めに俯かせ、瞳にはうっすらと涙の膜を張って、ちら、とジュストを見上げる。


「わたしが好きになった人は全部、ぜぇんぶ、お姉さまに盗られちゃうの」


 その言葉は、自身が恋多き女だったと告白していることになるのだが、自覚はあるだろうか。

 王弟妃がいかに移り気か、ということには興味がないので、ジュストは受け流す。


「では、ベリエ公は初めて、姉君ではなく妃殿下を最初から見初めた慧眼な男ですね。そして変わらず、一途に妃殿下を愛している」


 姉の話をしていたのに、ジュストがベリエ公を引き合いに出したので、王弟妃は面食らった表情をした。


「え。そ、そうね?」


 王弟妃の言葉を鵜呑みにするならば、ベリエ公はローゼリアの相続権にも揺らぐことなく、欲ではなく愛情でもって、結婚の意志を貫いたことになる。

 なるほど、貴婦人のサロンで一時期「愛に生きる理想の騎士様」と騒がれたのにも納得がいく。


「……もしや、ベリエ公の愛情が揺らがないという自信がおありだったから、姉君をご夫君の寝室へ誘うお膳立てをなさったのですか?」


 王弟妃は、自分が恋した相手はすべて姉に盗られると言った。

 その過去がありながら、王弟妃はよりにもよって夫を姉に貸そうとしたのだ。ベリエ公の心を奪われるという心配は抱いていなかったことになる。……ここでも矛盾が生じている。


「違うわ。ルイ様が、お姉さまをお姉さまだって見破ると思わなかったの」

「……?」


 首を傾げたジュストに向かい、顎をしゃくって歩くように促しながら、王弟妃は一人で喋り続ける。


「本当にびっくりしたわ。今まで、わたしたちの違いに気がついた人っていなかったもの。絶対騙されると思ったのに……」

「ベリエ公を騙すおつもりだったのですか? なんのために?」


「決まってるじゃない、それは……―――、わ、わたしのことはいいのよ!!」


 誘導尋問に失敗した。さっと顔色を変えた王弟妃は、誤魔化すような大声を出して話を打ち切る。


「とにかく! お姉さまは妖婦なの。アルティノワ公は、お姉さまを好きみたいだけど、絶対にあれよ、な……、な? ……泣きを見る! ことになるんだから!」


 覚えていないなら無理して難しい言葉を使わなければいいのに。隣を歩く栗色の髪を見下ろし、ジュストは内心で独りごちる。


「信じないならそれでもいいのよ。でも、これから見せるもので納得してもらえると思うわ」

「……見せるもの?」


 メルヴェイユ宮殿の東翼棟のほど近く。庭園の片隅とも呼べる場所に、古代風の四阿がある。

 コランヌ帝国式の三本の円柱で支えられた円蓋屋根が特徴で、屋根の頂には愛の女神の象徴である鳩が飾られているため〈恋人たちの四阿〉という異名を持っていた。


 この場合の〈恋人〉とは、表立って逢うことのできない秘密の恋人を意味している。つまり、愛人との密会場所にうってつけ、というわけだ。


 この四阿に近寄るのは後ろ暗い恋愛をしている人々だけ。この場で見たことは互いに一切、他言しないということもまた、メルヴェイユにおける恋愛遊戯アバンチュールのお約束。


 その場所に、わざわざジュストを連れてきた王弟妃の行為は、宮廷の常識に照らすとルール違反ということになるが。


「お姉さまは、さっそく新しい標的を見つけたみたいなの。ここで密会するって話してるのを聞いたのよ。黙ってようかと思ったんだけど、アルティノワ公は、お姉さまのことを好きだっていうじゃない? 本当のことを教えてあげないと可哀想かなって」


 ローゼリアの密会相手はセルマン伯だという。遊び人として宮廷で名高い男だ。一夜の恋の相手には適役かもしれないが。


(……接点、あったか?)


 ベルローズの姿で。そして今は、アルティノワ公の姿で。

 ジュストは陰に陽に、ローゼリアの傍近くにいた。彼女の交友関係はほぼ把握している。セルマン伯がローゼリアの周りをうろついていた記憶はない。


 考えられるのは、ローゼリアが王弟妃の茶会から姿を消していたときだが、彼女が不謹慎な行動を取るとは思えなかった。


「ほら。あれよ。……ね?」


 意味ありげな王弟妃の微笑みと眼差し。四阿に人影があった。

 地面までふわりと広がっているローブの裾。勿忘草色で涼を表現しながら、浅い黄色をアクセントに加えることで夏らしさを取り入れている。彼女が淡い色彩を好むのだと、ジュストは最近になって知った。


 柔らかな色合いのローブに身を包んでいるローゼリアが、真摯な表情で話を聞いている相手は――。


(ベリエ公じゃないか)


 セルマン伯の姿は影も形も見えない。顔は動かさず、視線だけを左右に展開して、ジュストは首をひねった。……これはいったい、どういう状況だ?


 ベリエ公には、たっぷりみっちりぎっちりと、教育を施しておいた。彼がローゼリアに暴力を振るうことは二度とないだろう。だから、二人が二人きりで会っているとしても、心配するには及ばない。


 ただ、まあ気になるのは、明らかに男性用宮廷服の上着アビをローゼリアが羽織っていることだ。向かい合っているベリエ公が胴着ジレ姿なので、おそらく彼の上着だろう。


 真夏とはいえ屋根で陽射しが遮られ、風が吹き抜ける四阿の中は少しばかり肌寒い。ベリエ公が気を使ったのかもしれない。

 ……あのベリエ公が、母と妻以外に気遣いを見せたというのは驚くべきことだが。


「こんなところで、お姉さまはセルマン伯と密会してるの。裏切りだと思わない?」

「ベリエ公ですが」

「え」

「ローゼリア姫が話をしているのはベリエ公ですよ」


 夫の姿も判別できないのだろうか。それとも、セルマン伯だという思い込みが、それだけ強かったということか。


 ベリエ公が熱心に口を動かし、ローゼリアはそれを真面目に受け止め、頷き、何かを答えている。どう色眼鏡で見ても、恋仲の二人が語らっている様子には見えない。まるで政策会議をしているかのような真剣さだ。


 ジュストの目にはそう映ったのだが、王弟妃の視界では違ったらしい。

 隣で息を呑んだ王弟妃は、走るような速さで四阿に近づいた。ジュストは二人の仲を微塵も疑っていなかったので、反応が遅れる。


「泥棒猫!」


 小気味いいほどの平手打ち。ローゼリアの頬を張った王弟妃は、ベリエ公の上着をむしり取った。


「ルイ様の服を着るなんてどういうつも……」


 王弟妃の声が不自然に途切れる。ローブのデコルテ部分のレースが破れていた。日に灼けない肌があらわになっていて目に眩しい。


「何よそれ。ルイ様を本気で誘惑したの!?」


 王弟妃の右手が高く持ち上がった。――また、叩くつもりだ。

 理解するより早く身体が動いていた。ローゼリアを傷つける人間はジュストの敵だ。


 排除しなければならない。

 伸ばした手で王弟妃の右腕をひねり上げようとして――――


「……ジュ……スト、落ち着、け……」


 締め上げていたのはベリエ公の首だった。先回りして王弟妃の傍に駆け寄ったベリエ公が、妻の代わりにジュストの攻撃を受けていた。


「…………」


 力を緩めると、その場にくずおれたベリエ公は派手な咳を繰り返す。首筋には、くっきりとジュストの指の痕がついていた。


 ベリエ公に突き飛ばされていた王弟妃は、四阿の柱に掴まりながら体勢を立て直し、憎悪の宿った瞳でローゼリアを睨みつける。


「ルイ様を誘惑しようとして、自分でレースを破ったんでしょ。厭らしい!」

「そんなこと……」


「してないなんて言わせないわ! ルイ様は優しいから、下心たっぷりのお姉さまを見ても怒らないで、上着を貸してくれたんでしょ。お姉さまの常套手段よね、そういうの」


「レティ、落ち着いて。話を……」

「聞かないって言ってるじゃない。泥棒猫! 最低! 穢らわしい!」


 王弟妃が投げつけた扇子がローゼリアの肩に当たった。

 その瞬間、ジュストは自身の視界が紅く染まるのを感じた。――あのときと、同じ感覚。


(……剣を持ってくるのを忘れたな……)


 頭の芯が冴え冴えと冷えて、どうやって敵を効率よく排除するか、そのことしか考えられなくなる。


 この場合の敵は――王弟妃。

 ローゼリアを殴り、罵声を浴びせる、許しがたい存在……。


「ジュスト!」


 切り裂くように鋭い声だった。

 真っ赤に染まった思考に飲み込まれていたジュストは、自分の名を呼ばれたのだと、すぐには気がつかなかった。


「ジュスト」


 もう一度。今度は近くで聞こえた。のろのろと視線を動かせば、真剣な表情でこちらを見るベリエ公がいた。


「義姉上には……おまえの大切な婚約者殿には、私は指一本触れていない」

「……それは、信用してる」

「そうか」


 ベリエ公は我が儘だが、口に出した誓いを破るような男ではない。王族としての矜恃はしっかりと保っている。


「私が上着を貸す事態が起きたことは事実だが、それについても保証しよう。婚約者殿の名誉はいささかも損なわれていないと」

「……ローゼリアは、そんな姫じゃない」


 目を閉じたジュストは、もう瞼の裏が紅く染まってないことを確認して、小さくベリエ公に礼を述べた。


「ありがとう。……正気に返った」

「そうでないと困る」


 ほっとしたように息を吐いたベリエ公は、すぐに妻の傍へと駆け寄った。


「戻りましょう、セレスティーヌ」

「嫌よ。お姉さまが、どれだけ男をたらし込む最低な女か、アルティノワ公に納得してもらうまでは帰らないわ!」

「あの二人がどのような夫婦になろうと、我々には関わりのないことですよ」

「あるわよ! アルティノワ公は、お姉さまの婚約者なんだから!」


 平行線だ。夫婦喧嘩を繰り広げる二人を横目に、ジュストはローゼリアの傍へ歩み寄る。


「お怪我は」

「大丈夫です」


 手を差し伸べると、一瞬だけ迷う素振りを見せたものの、ローゼリアは素直にジュストの手を取った。


「お姉さまはいつもそうよ! なんでも持ってる癖に、わたしから全部、取り上げるの!」

「では、私がもっとたくさんのものをお贈りしましょう」


 振り向いたベリエ公が、さっと目配せする。先に帰れ、という合図だ。ジュストは首肯した。この場に留まっていたら王弟妃の癇癪が鎮まらない。


「参りましょう、ローゼリア姫」

「……ええ」


 同じことを感じ取ったのだろう。王弟妃に視線を向けたローゼリアは、すぐに頷いた。


 歩き出すと、ローゼリアは胸元に手をやって不安そうな表情を浮かべた。ベリエ公の上着を返してしまったので落ち着かないのだろう。ジュストは、自分の上着を脱いで羽織らせる。


「ベリエ公とは何を?」

「子どもの頃のレティの話です」


 答えるローゼリアの顔は強張っていた。妹から面と向かってあれだけの罵声を浴びせられれば、心は傷ついただろう。


「あの、ありがとうございました」


 四阿が見えなくなるほど遠く離れてから、改まった様子でローゼリアが足を止め、ジュストに頭を下げた。


「……急にいかがされましたか」

「ベリエ公のことです。王弟殿下から伺いました。閣下がお心を砕いてくださったと」

 ああ、と、ジュストは苦笑した。

「当然のことをしたまでです。婚約者なのですから」


 そのことなのですが――と、ローゼリアはやけに真剣な瞳をジュストに向ける。


「この婚約は王命です。義務に過ぎない婚約に、そのようなお気遣いをなさらないでください」

「婚約は確かに王命ですが、義務と思ったことはありませんが……」

「無理をなさらないで」


 やせ我慢をする子どもを見るような眼差しで、ローゼリアはジュストに微笑む。

「わたくしは閣下の想い人を尊重しておりますから」


「………………はっ?」


 耳を疑った。想い人――とは、いったい誰のことを言っている?


「どうぞ、妻よりも恋人を大事になさってください」


 そう告げると、ローゼリアは静かに会釈をして去って行った。呆然とするジュストを置き去りに。







 ――――やっと、お伝えできた。


 ロジィは、ほっとした気持ちで足取り軽く居室へと戻る。

 メルヴェイユ宮廷では、夫の愛人についてとやかく言わないことが、理想的な妻であるとされていた。


 アルティノワ公は、婚約の義務を果たすために誠実に振る舞ってくれる。ならばロジィも、メルヴェイユ宮廷のしきたりに従って振る舞うべきだ。少しでも、アルティノワ公の負担にならないように。


「お帰りなさいませ、ローゼリア様」

 扉を開けるやいなや、飛びつくような勢いでミミに出迎えられた。

「え、ええ。ただいま、ミミ。何か、あ……」


 あったのか、と、ロジィが問いかけるより早く、ざっとロジィの全身に視線を走らせたミミは、破られた首元のレースを見るなり、痛ましそうに顔を歪めた。


「まあ、なんてこと。セルマン伯ですね」


 なぜ、散策の途中で出会ったのが〈セルマン伯〉だと知っているのだろう。ミミはずっとこの部屋にいたはずなのに……。

 不思議に思ってミミを見つめていたロジィは、彼女が続けて発した言葉に目を丸くした。


「おいたわしい。セルマン伯に襲われるなど……!」


 手荒な振る舞いを受けた意味での「襲われた」という言葉は正しいが、手篭めにされた意味を含む「襲われた」という表現は間違いだ。

 ミミの表情を見るに、どうやら後者の誤解をしているようなので、ロジィは慌てて口を開く。


「そう、だけど、でも……」


 ベリエ公が割って入ってくれたので怪我一つしていない――と、答えることはできなかった。火のついたような勢いでミミが泣き出したからだ。


「なんということでしょう。ご結婚を控えていらっしゃる身ですのに、他の殿方に襲われるなど取り返しがつかないご失態を!」


 ……ああ、やはり。

 ミミの言葉を聞いてロジィは苦笑した。セルマン伯に身体を奪われたという、とんでもない誤解をしているらしい。


「だから、大丈夫よ、ローブを破られただけで……」

「事の重大さがおわかりでないのですか!? 言い逃れはできないのですよ!」


 セルマン伯にローブを破損されたのは事実だが、それはアルティノワ公も承知している。言い逃れも何も、「何もなかった」のに、それをわざわざ宮廷中に説明する必要があるだろうか。婚約者に誤解されていないならば、それで充分。


 ロジィは単純に考えていたので、ミミを慰めることを優先した。

 ずっとロジィの居室にいたミミが、セルマン伯との一件を「すでに知っていた」ことを疑問に思わずに。


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