第9話

 巨大な水飛沫をあげながら、ルケンクロはサンゴ礁の連なる島の浅瀬に着水する。自身の体に寄生する植物たちに栄養を取られるため、ルケンクロは定期的に着水し海水から栄養を取り込む必要があるのだという。

 白い飛沫をあげるルケンクロを朝陽に照らされる砂浜から咲夜は眺めていた。水の中で大きく揺れるルケンクロから、色とりどりの鳥たちが羽ばたいていく。その鳥を追いかけるように、小型の竜たちがじゃれ合いながら朝焼けに輝く空を飛んでいた。

 白い陽光は竜たちの皮膜を透明に照らし出し、赤い血管を鮮やかに浮かびあがらせる。日に照らされる竜たちの翼はまるで紅葉のようだ。青白い翼もあれば、黄色い翼あり、赤い色彩を持つ翼もある。

 機械的な内装に覆われた竜艦と違い、ルケンクロには色が溢れている。ルケンクロに暮らす生き物たちの命、そのものの色だ。 

 そのルケンクロが、人間の争いによって狩られている。

「ベルダっ!」

 レイの弾んだ声が咲夜の隣からする。空を旋回する竜たちの群れから離れ、ベルダがこちらに向かってくる。その背にシロエは乗っていない。

 レイは白い砂浜を駆け、勢いよく跳ぶ。そんなレイの背中に小さな翼が生じていた。鳥の翼をジェラルミンで模したそれは、レイの体を朝空に浮かび上がらせる。レイは大きく両手を開き、近づいてくるベルダの首を抱きしめた。

「いつのまにそんな仲良くなったんだ、お前たち」

「咲夜が淫行を働いてるうちに……」

 冷たいレイの言葉が上空から降ってくる。シロエの柔らかな体を思い出して、咲夜は自分の息子が熱くなっていることに気がついていた。

「行こうっ! ベルダっ」

 そんな咲夜にかまうことなく、レイはベルダと共に空へと飛び立つ。

 くるくると体を回しながら旋回するレイを、蒼い翼を翻したベルダが追う。レイは小さな足をときおり海面につけながら、波紋を海に描いていく。ベルダはそんなレイの肩に前足をかけてみせた。甘えた声を発しながら、ベルダはレイの頬に鼻先をあててくる。レイは苦笑しながら、そんなベルダの頭をなでていた。

 戦闘機の少女と竜が空を飛ぶ光景。本来ならありえないはずの光景だ。咲夜はその光景に微笑ましさすら感じていた。

「ご無事で何よりです。マレビト様」

 そんな咲夜に声をかけてくる者がある。背後に視線をやると、銀の髪をなびかせるシエロが微笑みを浮かべていた。

「助けに、来てくれたんだな」

「あなたは私たちを導いてくれるお方。当たり前のことをしたまでです」

 そっとシエロは頭をさげてみせる。彼女の優美な所作に、咲夜は思わず息を呑んでいた。

「その……逃げなくて大丈夫なのか? 敵はまだこの空域にいると思うんだが」

「彼らの竜艦は索敵に来ただけでしょう。単機の竜艦では、私たちのルケンクロは倒せない。きっと仲間を引き連れて戻ってくるはずです。それまでは、大丈夫」

「逃げても、追いつかれるわけか」

「彼らと私たちの間にはルケンクロ巡る協定があります。もし、ルケンクロを得たい場合は住民である私たちに了解をとること。私たちから了解を得られず、竜艦の数が協定のそれに達していない場合にのみ戦闘による捕縛が許可されます」

「ワシントン海軍軍縮条約みたいだな」

「この竜艦抑制条約によって、彼らの国は大国の6割しか竜艦を保有できないことになっています。ですが、私たちを襲った海ノ国ではここ数年相次ぐ隣国との小競り合いによって、国の戦力たる竜艦を数多く失いました。彼らは私たちに話を持ちかけてきた。神であるルケンクロを渡すかわりに文明を授けると」

 シエロの眼を銀の睫毛が覆う。暗い光を放つ赤い眼をルケンクロに向けながら、彼女は言葉を続けた。

「彼らは私たちに死ねと言っている。ルケンクロのない世界なんて、私は考えられないのに……」

 白骨化した翼を海面に広げるルケンクロの表面には、木々が無数に生えている。ルケンクロの葉を通して、その下の海は美しい翡翠色の光を放ちゆらめいていた。

 その光の揺らめきの中を、小さな竜たちが行き交う。無邪気に声をあげる竜たちの中には、レイを背にのせたベルダの姿もあった。

「ルケンクロは、ただの竜たちの住処ではない。ここにいる竜たちはみな、私たちのルケンクロから生じた子孫たちなのです。竜の一族でも神話の時代から生きた竜たちが自らの眷属を守るために取った姿がルケンクロなのです。この世界に浮かぶ無数のルケンクロには異なる竜の種族が住み、異なる文化を持つルケンクロの民たちがいる。それを彼らは壊していく」

「俺は、君たちのルケンクロを守るために呼ばれたんだね……」

「はい。海ノ国の民はもともとルケンクロと共に生きていた私たち空の民の末裔なのです。だからこそ彼らは他の海の民に憎まれる。彼らもまた、この国の危機を打開するためにマレビトを蒼い星から、あなたたちの世界から呼び出した」

「それが、陽介か……」

 咲夜の言葉に、シロエの眼が曇る。咲夜を振り返り、シエロは口を開いていた。

「お知り合いの方ですか?」

「戦友だった。俺は今でもそう思ってるよ」

 ——次に会ったら、お前を殺す。

 そう自分に伝えてきた陽介の姿が忘れられない。再会したときも彼は本気で自分を殺そうとしていた。陽介にとって、もはやこの世界で得たものは、地球に残してきたどんなものよりも大切なものなのだろう。

「役目を終えなければ、この世界に呼ばれたマレビトはもとの世界へ帰ることができない……」

 かすかにシエロの声が震えている。彼女は白い砂浜を踏みしめながら咲夜へと近づいて来た。

「ルケンクロはこの世界を望む人間を異なる場所から呼ぶ。もしかしたら、あなたは海ノ国のルケンクロに引き寄せられたのかもしれない。海ノ国のマレビトがあなたを望んだから……」

「俺は君たちに望まれてここに来たんじゃないのか?」

「ルケンクロたちの心は深いところで繋がっています。お互いの中に生きる生き物たちの望みをかなえるために、彼らはこの世界にマレビトを呼ぶ。二つのルケンクロが話し合い、あなたとヨウスケをこの世界に呼んだのでしょう」

 話を締めくくり、シエロは気まずそうに咲夜から視線を逸らす。彼女が言葉を続けられない理由を咲夜は十分に分かっていた。

 陽介は海ノ国のルケンクロに望まれ、この世界へとやってきた。その陽介の望みをこの世界のルケンクロたちは叶えたのだ。

 海ノ国のルケンクロはシエロたちのルケンクロに、咲夜をこの世界に呼び寄せるよう働きかけたことになる。シエロたちのルケンクロは己が身を守るために、海ノ国のルケンクロに申し出を実行に移した。

 まさしく神の御業だ。陽介はルケンクロを神とすることは迷信だと言ったが、ルケンクロは神と言えるだろう。人の運命すらも操る存在を、ただの生き物だという方がどうかしている。

「この世界からルケンクロがいなくなったら、どうなるんだろうな」

「それは、あまねく万物を導く存在がいなくなることを意味しています。ルケンクロがいなくなることは、私たちにとって世界の滅びと同義……。それを地上の海の民は分かっていない……」 

 シエロの眼が伏せられる。彼女の銀糸の髪を海風が弄び、海の色彩を思わせる腰布を翻した。

 そっと彼女は咲夜から顔を逸らし、海へと向かっていく。透き通る海には空を飛ぶ竜たちの姿が揺らめきながら映し込まれている。

「ルケンクロがなくなれば、この竜たちは居場所をなくす。私たち人間は陸で生きることができるかもしれないけれど、そこで私の心はきっと死にます。私の心はルケンクロと共にあるから……」

 彼女は自身の胸を包む紺碧の布を引きはがす。布は風にあおられて、空へと舞っていく。シエロの青い腰布が、局部を覆う紺碧の布が彼女の褐色の肌からはぎ取られ、竜の舞う空へと放たれていくのだ。

 生まれたままの姿になりながら、シエロは歌っていた。

 静かな竜の鳴き声を想わせるそれは、まるで風の嘶きのように周囲に響き渡る。シエロの歌に応えるように、竜たちが高い声で鳴く。腰まで海につかるシエロのもとへと、子竜たちが集る。

 甘える子竜たちをなでながら、シエロは彼らを慰めるように歌を紡ぎ続けるのだ。それは、戦いで死んでいった竜たちの捧げられた歌のようにも聴こえた。

 レイが飴色の翼を翻し、砂浜へと飛んでくる。そっと咲夜の側を旋回しながら、彼女は甘えるように咲夜に手を差し伸べてきた。そっと咲夜はその手をとる。

「あの子のために、歌ってくれてるのかな……?」

 自分が殺した漆黒の竜のことを思い出しているのだろうか。レイの声は震えている。そんなレイの手を強く握りしめ、咲夜は口を開いていた。

「殺したのは、お前じゃないよ」

 レイを使い、竜を殺したのは他でもない自分自身だ。兵器になることを望まなかった竜を自分はこの手にかけた。そうすることでしか竜を救うことができなかったから。

「あの子は、救われたのかな?」

「お前が救った命だ、レイ」

 上空にいるレイを仰ぐ。レイは寂しげに桜色の眼を細め、咲夜に微笑みかけてきた。そっと咲夜の胸元へと彼女は近づき、両腕を咲夜の首に巻きつける。咲夜は両手でそっとレイを抱き寄せていた。

「泣いてもいい?」

 咲夜の肩に顔を埋め、レイが訪ねてくる。そっと潮風に翻るレイの髪を咲夜はなでていた。

 静かな嗚咽が咲夜の耳朶を叩く。レイの泣き声を慰めるかのように、シロエの歌が優しく砂浜を駆け抜けていく。

 レイの体は温かい。血の通った人の体だ。

 そんなレイの体を力強く抱きしめながら、咲夜はそっと眼を瞑っていた。


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