第27話 隣にいても、いなくても


 新居に引っ越し、荷解きを終えて部屋に馴染む頃、季節は冬に移り変わった。


 灰色がかった曇り空の下、白い息を吐きつつ出勤した朱里はすっかり葉を落として裸になった並木を横目にコートの襟を顎まで引き上げた。会社に到着すると暖房のおかげで温かく、ほぅ、と安堵のため息が零れる。


 部室入口に並ぶ個人ロッカーのハンガーに上着を掛けていると、神野と鉢合わせた。


 「神野室長! おはようございます」

 「おはよう雪村さん。ちょうどよかった、今朝の部内会議が終わったらそのまま残ってもらえる? 話があるんだ」

 「? 分かりました」

 「よかった。じゃ、後でね」


 にっこり人の好さそうな笑みを残して神野は去って行った。


 (話って何だろう?)


 改めて呼び出しを食らうようなヘマはしていないはずだ。木山の事かなと想像し、悶々としている間にその時はやってきた。


 部内会議の後、最後の同僚が出て行くのを見届け、神野は会議室の扉を閉める。神野と二人きりで話す機会なんてそうそうない。直立不動の朱里の顔つきから不安を感じ取り、神野は苦笑した。


 「そんなに緊張しないで。悪い話じゃないから」

 「は、はい」 


 座るよう促され、おずおず腰かけた朱里は生唾を飲む。


 「実はね、君の異動を考えてる」

 「えっ……異動ですか?」

 「うん。とある海外支部に人員の空きが出て、うちの部室に適任者がいないか内々に打診があったんだ。そこの支部長とは同期でね、先方は即戦力になる人材を求めてる。僕は雪村さんを推薦しようかと考えてるんだけど、どうかな」


 呆然と目を丸くした。室長直々に推薦してもらえるとなれば誠に光栄な提案だが、異動なんてまだまだ先だと悠長に構え、当たり前のようにこれからもここで――九条の隣で働けると思っていた。しかし社内では2~3年を目安に異動があるので、タイミングとしてはおかしくない。 


 「ありがとうございます。光栄ですが……少し考える時間を頂けますでしょうか」


 朱里が深く頭を下げると、神野は鷹揚に手を振った。


 「もちろんここで即答する必要はないよ。赴任するとしたら3か月後になるから、そのつもりで検討してみて」

 「承知しました。ところであの……本件について九条さんはご存知なのでしょうか」

 「いや、まだだよ。まずは君の感触を確かめてからと思ってね。迷いがあるなら九条くんに相談してみたら?」


 彼は海外支部経験者だし――暗に含められた意味を汲み取り、首肯した。本来であれば異動は正式な辞令が出るまで他言しないのがルールだ。だから神野から相談の許可が下りてホッとした。できれば九条の助言を仰いで結論を出したかった。



 * * *



 同日昼休み後――ランチから戻ってきた同僚達がチラホラ席に戻り始める頃。膝にブランケットを掛けていた朱里は猫背を正し、座ったままクルリと椅子を90度回転させ、PC画面を見つめる九条に声を掛けた。


 「九条さん。折り入ってご相談があるので、できればお手すきの際にお時間頂けませんか?」


 ドキドキと鼓動が逸る。九条の横顔が振り向き、朱里の思い詰めた面持ちを一瞥した。


 「構いませんよ。ちょうど今手が空いているので聞きましょう。会議室に移動しますか?」

 「お忙しいところすみません。助かります」


 二人ほぼ同時に立ち上がり、以前使用した定員4名の小さな会議室に移動した。


 朱里はまるで面接を受けるような表情で唇を真横に引き結び、膝とかかとをぴったりつけてソファに腰掛けた。ただならぬ様子に九条は眉をひそめる。


 「深刻な顔でどうした」

 「室長から異動の打診があったんです。3か月後に海外支部に赴任しないかと」


 九条は微かに驚きを浮かべたが、態度は落ち着いていた。


 「なるほど。あんたは今の部室に配属されて2年目だっけ。そういう話があってもおかしくないな」

 「そうなんですけど、正直寝耳に水でした。どうしようか迷ってます」

 「これまでずっと本社勤務だったよな。海外支部は興味ないのか?」

 「あります。というかありました。ただ、いざ現実味を帯びてくると尻込みしてしまって。外国で生活したことないですし、語学面もあまり……英語はなんとかするとして、それ以外の言語圏だと正直お手上げで不安です」


 弱音を零すのは恥ずかしかったが、今更九条相手に取り繕っても仕方ない。朱里は眉尻を下げ、長いため息を吐いた。九条は短い沈黙の後、口を開いた。


 「あんたは今所属してる部室の役割についてどう考えてる?」

 「へ? なんですか唐突に」

 「いいから答えて」


 ポーカーフェイスの九条の意図は分からない。深読みしても仕方がないので、朱里は素直に従った。


 「んー……。うちの部室、社内では花形部署って言われてますけど、実際は『縁の下の力持ち』でしょうか」

 「理由は?」

 「プロジェクト型の業務では現場の人達が主役だからです。わたしたちはあくまでサポートすることが仕事なので。ただ、現場は本社と違って情報へのアクセスが限られてますし、何か問題が起きれば本社頼りになります。だから現地支部の人達にとってわたしたちは欠かせない相談相手です」


 朱里の答えに頷き、九条は更に問いを重ねた。


 「じゃあ、うちの部室の強みは何だと思う?」

 「プロジェクトに関する制度そのものを変える権限があることでしょうか。そして制度改善に必要な情報を各現地支部から吸い上げているので、問題が起きた時、広い視野であらゆる前例を元にトラブルシューティングが可能です」

 「そうだ。ちゃんと分かってるみたいだな」


 満足げな笑みを浮かべられ、朱里は胸が誇らしくなった。


 「先日実施したフォローアップ調査で、改めて自分の立ち位置というか、役割を実感したんです。それは本社ここでPCに向き合っているだけでは気付けないことでした。あと、ただの感想になりますが、現場でプロジェクトの恩恵を受けた人々とお会いできたのがとても嬉しかったです」


 恩恵を受けた人々――『裨益者』の感謝を直に受け取れるのは、現場で汗をかいた人間の特権だが、朱里は幸運にもフォローアップ調査制度を利用することで、彼らからの感謝を肌で感じることができた。また、整備されたインフラが人々の暮らしに根付き、日常に溶け込んでいる光景には言葉に表せない感動があった。


 「そう。現場は本社ここからでは見えない問題点やヒントで溢れてる」

 「確かに……大変でしょうが、有意義な経験になると思います」

 「苦難の中で身に着けた知識や経験は、必ず自信につながる。今のあんたに足りないものがあるとすればそれは自信だ。そういう意味でも自分を成長させるいい機会になるんじゃないか」


 九条の助言は的確だった。それでもなお乗り越える自信を持ちきれない朱里の迷いを見抜き、九条は言葉を重ねた。


 「あんたの強みは色々なことをスポンジみたいに吸収できることだ。そしてこれまでのやり方にまずい点があったと気付いたら、隠したり、放置せず、改善しようと行動する。うちの会社では頻繁に異動がある分、それを逆手に面倒な業務を先延ばしにして、後任に押し付ける人間も少なくないってのに、見上げた根性の持ち主だ」

 「……っ!」

 「自分を過少評価するな。将来の可能性を広げるチャンスがあれば掴め。異動するかしないか決めるのはあんただが、たとえ隣にいてもいなくても、俺は味方だ」


 九条の眼差しは真摯だった。朱里は喉に熱い塊がせり上げ、息が詰まる。彼の言葉は常に、暗闇を照らす眩い光のように胸に明りを灯す。


 どうしようもなく九条に触れたかった。


 異動の話を聞いた瞬間、一番に浮かんだのは九条の顔だった。側にいたい、離れたくない。


 朱里はやましさが膨らんでひどく恥ずかしくなった。心のどこかで九条に引き留めてもらうことを期待していたと気付いたのだ。だけど九条が朱里の立場なら、室長の信頼に応えようと全力を尽くすだろう。朱里が憧れる九条はそんな人だ。


 甘えるな、と朱里は心の中で叱咤激励した。


 「……ありがとうございます。九条さんのおかげで勇気が湧いてきました。異動の件、前向きに考えます」


 瞳が潤みそうになるのを堪え、精一杯笑顔を浮かべた。声が揺れたことにきっと九条は気付いただろうが、あえて追及しない彼の優しさに感謝した。


 「あー、でも残念です。せっかくいい物件を探して頂いたのに、長く住めなそう」

 「気にするな。不可抗力だ」

 「いえいえ、そうはいきませんよ! ちょうど新居にも慣れましたし、居候&物件探しでかなりお世話になったんで、今度ちゃんとお礼させて下さい」

 「まぁ……それであんたの気が済むなら」

 「約束ですよ! それじゃ先に戻りますね」


 明るい笑みを返し、朱里は立ち上がった。足早に会議室を後にする。それから振り向くことなく部室に向かって廊下を突き進む途中、「雪村!」と背後から声がした。

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