/3B 聖堂(九月七日)

 捜査の基本は現場百遍と聞く。


 曽我部まひろと神代祭という協力者を失った以上、学院内の情報は足で稼ぐほかない。さしあたっては土曜の午後、わたしは聖堂を訪ねることにした。


 聖餐式ミサのない時間を見計らってきたものの、詰めの甘いことに、今は聖歌隊の練習中らしい。入り口上方――中二階の楽廊から放たれる、伸び伸びとした歌声が、聖堂全体に響き渡っている。ともあれ、聖堂一階を彷徨うろつく分には邪魔にはならないだろう。幸いにも、今日は亡霊による妨害もないようだった。


 入り口から身廊をまっすぐ進み、中央交差部を左に折れる。懺悔室――もとい告解室は、主祭壇の左方に見える、袖廊の副祭壇前に鎮座していた。


 間近にすれば見上げるほどある箱部屋は、しかし息を潜めるかのごとく、その存在感をひた隠していた。告解室は袖廊の西側――入り口に近い方の壁際に置かれている。会衆席からは丁度死角の位置だ。そも密談のための設備である。使用を周囲に悟られぬよう配慮していたのかもしれない。


 ロープパーテーションの際に立ち、告解室を検分する。古い木に特有の重い光沢を放つ箱部屋は、幕屋を模したような台形で、左右にひとつずつ扉を備えていた。左の扉には知恵の実を持つイブの姿が、右の扉には竜を退けるミカエルの姿がそれぞれあしらわれている。そしてそのいずれもが、古い錠前によって固く鎖されていた。


(懺悔室に、マリアと言えば)


 振り返って、反対側の壁際に設えられた副祭壇へと近づいて行く。


 主祭壇の華美な祭壇彫刻レタブルムと比べれば、副祭壇はささやかな聖堂に見合った素朴な造りをしていた。とはいえ副祭壇の奥には、この場所で一番大きなマリア像が控えている。願いを叶える「懺悔室のマリア」と聞いて、まず思い浮かべるだろう場所だ。


 それにしても――


「なかなか結構な有様じゃないか」


 どういうわけか、副祭壇の上は硬貨が山積みになっていた。


 願掛けに使われているとは聞いていたし、見るのも初めてというわけではなかったが、こうして改めて目の当たりにしてみると、それなりにやかましく感じられる。一方で、小銭の量の割に、卓から零れ落ちるにはまだ大分余裕があり、またよく観察してみると、好き勝手に積み上げられているというよりは、整然とした印象すら受けた。祭壇らしく、中央にはきちんと花が供えられていることからも、誰かがこまめに手を入れていると想像できた。


 そんな風にしばらくの間、副祭壇の上を眺め回して、それからようやっと、花瓶と硬貨の陰に目当てのものを見つけた。


 硬貨の塔を崩さぬように、隙間からそれを引き出して、手に取る。


(――これが、聖母子像だと?)


 掌に収まった木彫りの座像は、確かに女性を象っているように見える――が、よほど古いものなのか、表面が摩耗していて細部ディティールがはっきりしない。顔に細かな凹凸が若干残っているが、木肌の色が濃く、さらに手垢で黒ずんでいるのか、表情を読み取ることすら叶わない。


 恐らくだが、この像は元々は彩色されていたものの、経年によって塗膜が剥がれ落ちたのではないか。奥まった箇所や筋彫りに、微かだが目の詰まったような痕があった。塗料の残りかすだろう。


 そして最も奇妙な点は――これも事前に把握していたが――聖母の腕の中に幼子キリストがいないことだ。ともすればただの聖母像だが、彼女の膝には明らかに何かを上に乗せていたであろう凹凸があり、また彼女の手もちょうど我が子を支えるような格好になっていた。


 ここまでは双子の姉――碓氷ミナから聞いていた通りだ。彼女はこのおかしな座像を用いて、懺悔室のマリアなる存在を喚び出したという。


 小脇に抱えていた鞄から、金色の聖品を取り出す。聖母が刻まれた、コインのような見た目のそれは、不思議のメダイと呼ばれる聖品だ。


 硝子から受け継いだ十字架ロザリオにも、これとほとんど同じものがついている。だとしても、彼女の遺品をこのに用いる勇気はなかった。鈴白あたりに頼めば譲ってもらえたかもしれないが、信徒でもないわたしが欲しがれば、当然その目的を訊かれるだろう。結局わたしは、帰省を言い訳にして、夏期休暇中に学外でこのメダイを調達したのだった。


 何にせよ条件は整った。あとはこのメダイを、聖母の腕に収めるだけで良い。


 指につまんだ金の聖品を、もう一方の手に持った座像に近づけていく。


 賛美歌の響きが、指先を微かに震わせる。





 その声で、反射的に座像を手放した。


「あ」


 しまった、と思ったときにはもう遅い。


 重力に身を委ねた座像は、真っ逆さまに落ちて行き――


「――っぶない!」


 床にぶつかる寸前で、駆け寄った彼女の両手が、辛うじて受け止めた。


「ギリギリセーフ、だよね?」


 振り返った浅黒い肌の修道女――ひもろぎ咲耶さく や教諭は像を掲げながら、誇らしげにそう言った。


「子どもみたいな真似しないでくださいよ、胙先生」


「ごめんごめん。何か持っているとは思わなくて。

 でも、そう言う貴家さんは一体何をしていたかな?」


 手に持っていたメダイを、咄嗟にスカートのポケットに隠す。痩身の女教師が、くりりとしたアーモンドアイでわたしを見た。


 異国の血が入っているためか、彼女の上背は、わたしからして見れば随分と高い。流石に鈴白並とは行かないが、それこそシェーファーと同じくらいはあるだろう。どちらかといえば自分の背の低さを恨むべきかもしれないが、何にせよ、こうして見下ろされながら追及を受けていると、子ども扱いされているように思えて、あまり良い気はしない。子どもじみた悪戯を好む教師が相手なら余計にだ。


「ただの散歩ですよ。

 これだって、別にちょろまかそうってんじゃないです。ただ、この聖母子像が気になっただけで」


「あ、すごい。よく聖母子像だって分かったね。

 もしや、これが噂に聞く流石の貴家さんというやつか」


「まひろしか言ってないでしょう、それ」


 一人しか使っていないのだから噂も何もない。まひろという例外を除けば、苗字でいじられるのも、精々小学生くらいまでだろう。


 抗議するわたしの視線を、胙は白い歯を見せて受け流すと、手に持った聖母子像を差し出した。鼻先に突きつけられたそれを、わたしは黙って受け取って、元通りに祭壇へと戻す。

 

「その様子じゃ、貴家さんは悪戯の犯人じゃないないみたいだね」


「だから、何もしてませんってば」


「いやそうなんだけど、そうじゃなくって。

 そのマリア様、お顔が真っ黒でしょ?」


 初めは意味が分からなかったが、改めて、祭壇の上の聖母子像をよく見てみると、成程彼女の言う通りだった。


 像が黒ずんでいるのは、ただ自然に汚れたわけではない。いや、大部分はそうなのだろうが、聖母の顔だけは、首から下と比べて僅かに――しかし明らかに色が深かった。


 不敬とは知りつつも、ほんの少しだけ、聖母の顔に爪を立てる。木目とは違う、ガリガリとした感触があった。恐らくは、絵の具か何かが塗られているのだろう。


「これは――一体どうして」


「さあ? 私も気づいたのは最近だし。

 時々拭いたりはしてたけど、それ、大分古いでしょ? 見落としてたんじゃないかって言われたら、正直否定できないよね」


「しかし、御子も失われているわけでしょう?」


「いやいや、そっちは昔から。それこそ、私が学生の頃からずっとこうだよ」


「――先生は、鈴懸うちのOGなんですか?」


 おかしな像を差し置いて、つい訊き返してしまった。


「そうだけど。

 あ、歳は計算しないでね」


 胙がこともなげに応じるものだから、こちらは余計に面食らった。


 胙咲耶がサマリア会のOGであることは、既に鹿毛綾乃から聞き及んでいる。鹿毛も胙から直接訊き出したと言っていた。それでも――


(あまりにも無警戒過ぎる)


 もし、サマリア会の解散に何か重大な秘密が隠されていて、当時の会員である胙が今なお続く生徒の退学に関わっているのなら、たとえ弾みでも自分がOGだと他人に漏らすだろうか。


 それに、鹿毛から聞いていた様子とも随分違う。サマリア会について探っていた鹿毛を、胙は牽制したのではなかったか。だからこそ鹿毛は、彼女こそが神代の協力者――生徒を連れ去る笛吹き男パイドパイパーであると、そう主張していたはずだ。


 対して、今目の前にいる彼女はどうだろう。胙には、何一つ隠し立てする素振りはない。それこそ、サマリア会や笛吹き男パイドパイパーについて尋ねても、窘められる程度で済むのではないか。


「? どうかした?」


 咄嗟に「いえ」と濁して、不思議そうに小首を傾げる胙から目を逸らしつつ、思考の整理に走る。少しの空白なら、朗々と響く歌声が埋めてくれるはずだ。


 前提として、わたしと鹿毛の見立ては異なっている。わたしは十五年前の一斉退学とここしばらくの連続退学を同根とは考えていないし、売春の噂も信じていない。サマリア会も笛吹き男パイドパイパーも、恐らくは事の本質ではない。


 わたしの本命は、あくまで懺悔室のマリアだ。呼び出した者の願いを叶えるというマリア――あの噂だけは、ほぼ間違いなく今の退学騒動に関係している。

 

 だから、少なくともが終わるまでは、余計な波風を立てるべきではない。


「別にどうもしちゃいませんよ。悪戯が過ぎるようなので、ちょっと面食らっていただけです。てっきり賽銭泥棒くらいの話だと思っていたので」


「ああ、だからあんなに焦ってたんだ。

 確かに、副祭壇がこの状態じゃあね」


 苦笑しながら、胙が硬貨の山を一瞥した。


「差し出がましいようですが、注意を呼びかけるべきでは? このままにしてもしょうがないでしょうに」


「掲示くらいは出してるんだけど。

 でも、これも昔からだから、正直あんまり目くじらを立てたくないんだ。悪いことをしているわけじゃないからね」


「昔から」


「そ。貴家さんがよちよち歩きの頃から」


 胙が顔の前で右手をわさわさと動かして見せる。ひょっとして、赤ん坊に見立てたつもりだろうか。


 ――やはり、彼女はOGであることを隠す気はないらしい。どころか、こうして嗅ぎ回るわたしを、不審に思っているようにも見えない。


 その態度が、かえってそれ以上踏み込むことを躊躇わせた。


「いっそ、本当に献金箱を置いてみるとか」


「それも考えたけどね。

 そもそもあなたたち、お財布を持ってないはずでしょ? それで献金箱っていうのも変な話じゃない」


 いちいち尤もな話だった。


 生徒の財布や通信機器などの貴重品類は、寮監に預ける規則になっている。勿論、学院の敷地を出る際は返却されるが、生徒は長期休暇を除けば、通院くらいでしか外出許可が出ないため、基本的に預けっぱなしだ。


 学院内で金銭を使うこともないから、特段不便もしないのだが――とすれば、目の前のこの山の出処が気になってくる。


 その場凌ぎの、当たり障りのない問いを投げたつもりが、なかなかどうして妙な話ばかりが出てくるものだ。


「じゃあ、教職員の目をかいくぐってまで、わざわざここにお金を置いているってことですか?」


「大げさだけど、そういうことになるのかな? やりようはあるよね。やろうと思えば」


 胙が長い前髪を無造作にかき上げた。


 胙の言うとおり、やりようだけならあるかもしれないが、たかが願掛けにしてはいささか手間がかかり過ぎている。それとも願掛けというのは、多少労を要するくらいが説得力もあるのだろうか。実際、長い期間かけて積み上げられたであろう硬貨の山々は中々に壮観だ。これを見た生徒が何かしらご利益り やくを期待しても、そうおかしくはない気もする。


 いや――ご利益り やくというのなら、そもそもこの願掛けは、副祭壇奥に鎮座ましますマリア像に対して行われているはずだ。


 ――だとすれば、懺悔室のマリアは、古くから行われていたマリアへの願掛けを利用し、その歴史を借り受ける形で成立したのではないか。


 鹿毛によると、懺悔室のマリアはここ数年で出来上がった噂らしい。しかしマリア像への願掛け自体は、少なくとも十数年は続いている。懺悔室のマリアより先行しているのだ。


 懺悔室のマリアを呼び出すにメダイを使うのも、この硬貨の山と――元々あったマリアへの願掛けと関連づけるためだとしたら――


(そのを行う機会を、完全に逸してしまったわけだけど)


「あら、もう帰るの?」


 潮時と見て、軽く会釈してから胙の脇を通り過ぎると、背後から声がかかった。


「散歩のついでですので。

 それに、待ち合わせの時間が近いんです。実はお茶会に招待されてまして」


 振り返って、正直にこのあとの予定を伝える。


 ここへ来た目的こそ果たせなかったが、それなりの収穫もあった。例のは、のちほど隙を見て行うほかないだろう。


「それは羨ましい話ね。

 私もお呼ばれしたかったな」


「――今日は勘弁してください。

 お茶会とは名ばかりの憂さ晴らしです。何が飛び出すか分かったもんじゃない。先生方にはとてもお聞かせできませんよ」

  

 軽口で返すと、胙も「冗談だから」と微笑わらった。


(食えない女性ひとだ)


 不意に――しかし何故だろう、酷く窮屈な感じがした。


 わたしの返答は、ともすればすべて彼女の期待通りではないか――などと、そんな不安を振り切るように、わたしは黙って踵を返す。


 足早に立ち去ろうとするわたしを、後ろの彼女はきっと、笑って見送っているに違いない。


「それじゃあね、貴家さん。

 また用があれば――いえ、用がなくても、いつでもおいで」


 言われなくともそのつもりだ。


 調べに追われるようにして、わたしは聖堂を後にした。


 

 

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