/2 書庫(九月四日)
扉を開いた途端、押し寄せた夏の残り香に、つい顔を顰めてしまう。
むんとした熱気を払い除けながら、薄暗い部屋を縦断する。部屋の奥に至ってすぐ、我ながら乱暴な手つきでカーテンと窓を開け、涼やかな風を招き入れた。揺れる前髪が、制服の裾が、肌を微かに掠める感触をこそばゆい。少しの間、微風に身体を弄ばせてから、やがて振り返ると、何かきらきらとしたものが、部屋中に漂っていることに気づいた。すぐ傍の長机にあった本の表紙をひと撫でしてみれば、案の定、指先に細かな埃が纏わりついた。
当然といえば当然だが、この夏の間、書庫に足を踏み入れた者は皆無らしい。雑多に積み上げられた本の山も、床に零れ落ちたガラクタも、何もかもが休み前のままだった。
部屋の惨状を前に嘆息しても仕方がない。二ヶ月近く人が入らなければ埃も積もろうが、わたしが夏休み以前から掃除を怠っていたのもまた事実である。
肩にかけていた鞄を椅子に下ろす。ハタキと雑巾くらいは部屋の何処かにあったはずだ。これも書庫の主の役目と諦めて、ひとまず机周りの片付けから取り掛かった。
独り、しばらく黙々と作業を進める。今日は風があって良かった。書庫にはエアコンがないから、残暑の厳しいこの時期に、扇風機だけでは心許なかった。隣の図書室はエアコンがあるから、最悪熱中症になる前に逃げ込むことはできるが、読書もせずにへばっていると、司書の粟島教諭に睨まれかねない。
それでもやはり、身体を動かしていると、じわじわと汗が滲んでくる。張り付く髪とブラウスの布地がうざったい。いっそ服などは脱ぎ捨てて作業したいところだが、流石に馬鹿な考えと、浮かんだ端に
掃除に集中しようと、布切れを握る手に余計な力を込めて、ゴシゴシ机の表面を拭き上げる。実際作業は捗ったが、不思議なことに、没頭すればするほど周囲の音がよく聞こえてきた。
たとえば、廊下を急ぐ足音。たとえば、少女らの談笑。遠く響く賛美歌。やわらかなつむじ風。それから寂しげな蜩の声。
不意に、何故だか胸が逸って、わたしは窓の外を見遣った。意識していなかったが、それなりに長い間作業を続けていたらしい。太陽も既に大分傾いて見える。
焼けつく西の空は、不思議とどこか優しく感じられて。
――その夕暮れが、胸の奥に仕舞い込んでいた光景と同じものだと、ようやく気がついた。
ふわり、と、微かな振動が肌を撫ぜた。息が詰まる。背筋が凍る。総毛立つ。
確かめるまでもなかったけれど、確かめずにはいられなかった。この感触は紛れもなく、わたしだけの恋人が、傍らに舞い降りた実感だ。
「――いたみ、久しぶり」
闇色の瞳が、隣に座したままわたしを見据えていた。
――そうしてわたしは、実に三ヶ月ぶりに、己の幻想と再会する。
九月四日。心臓痕硝子の命日は、十日後に迫っていた。
*
「こうして貴女と話をするのは、いつぶりだったかしら?」
絵本を捲る手を止め、彼女の方を見る。隣に座った硝子は、相変わらず視線を頁に落としたままだったが、その横顔すら非現実的なまでに美しかった。解れることなく流れる黒髪が、薄く艶めいた唇が、何よりあのすべてを取り込もうとする強欲で昏い瞳が、どうにもわたしの心を乱して仕方がない。
「――さあな。随分姿を見ないから、てっきり成仏してしまったものと思っていたよ」
欲情を飲み込んで、努めて冷静に言った。わたしのささやかな抵抗すら嘲笑うように、硝子の瞳がこちらを見た。
「あら、また随分なことを言うのね。カトリック相手に成仏だなんて」
「亡霊風情が敬虔ぶるな。
そもそも、キリスト教がお前みたいな
「それを言ったら仏教だって本来そうじゃない。六道輪廻に現世を彷徨う霊魂なんて挟み込む余地はないわ。
いたみの言う成仏は日本仏教特有の混乱で葛藤ね」
硝子が意地悪く口の端を歪めた。彼女の言う通り、日本では仏教と祖霊信仰が習合した結果、本来は否定されるべき
しかしそれも、やはり揚げ足取りと言うものだ。
絵本から手を離す。パタリ、とページが倒れる感触があった。わたしは半ば飽き飽きしながらも、捻くれ者の亡霊と向かい合う。
「結構なことじゃないか。混乱も葛藤も、それがどうしたと言うんだ。
いずれにせよ、
「あら、それは予断じゃないかしら? 何もキリスト教は魂の存在を認めていないわけではないのよ。霊肉二元論という言葉すらあるでしょう。
それに――そうね。例えばスコラ学ではこう考えるわ。人間の魂は肉体の実体的形相であると同時に個的実体――自存可能なこの或るものである、とね。
だからこそ、肉体が滅んだあとも、魂は存在し続けられるのよ」
「お前もトミズム被れか。
魂と肉体が別であろうが、死した後も魂が連続しようが、教理において、人は死後すぐに裁かれる
ついでに言っておくがな。聖書が言及している悪霊とは
そう言い捨ててから、はたと気づく。こんなものは茶番だ。彼女がわたしの幻でしかないことは、疾うに分かっていたはずだ。
わたしの胸中を見通したように、硝子は悪戯っぽく笑いながら、ゆっくりとこちらへ身体を寄せてくる。ブラウスの前立てからわずかに覗いた彼女の胸元に、思わず息を詰まらせた。
「貴女の言う通りよ。悪霊なんてこの世にいるはずがない。
だからこそ、わたしを今ここに存在させているのは、貴女自身の願望にほかならないわ」
じっとりとした汗が、額に滲む。視界が少しずつ狭まって、閉ざされていく。まだ大丈夫。これはいつもの発作で、錯覚だ。
わざわざ
心臓痕硝子は悪霊だ。たとえ彼女がわたしにしか視えなくとも、この呪いは確かに存在する。だとしても、心臓痕硝子は空想上の存在に過ぎない。心臓痕硝子の存在は、彼女の呪いを受けたものにしか知覚できない。彼女はわたしの脳内現象でしかない――はずだった。
だが、今の硝子はどうだ? 亡霊を否定するキリスト教の論理で、彼女を説明することは難しい。そして、幻でしかないはずの彼女は、六月のあの夜から益々その実在感を強めていた。彼女は生前から異質な雰囲気をその身に纏っていたが、しかしそれは、今の彼女と果たして同等だっただろうか。
何もかも錯覚に過ぎない。彼女の息遣いも、芳しい香りも、薄昏く輝く瞳も、すべてはわたしの視る幻でしかなかった。
けれど――今わたしが手を伸ばせば、あの夜みたいに、彼女の肉感が伝わってくるであろうことが、畏ろしくて堪らなかった。
ぐらぐらと足元が揺れる。酩酊する感覚。荒い呼吸が喧しく響く。彼女以外の目に映るすべてが歪んで見える。あの瞳だけが、
「そう。貴女の根源には、いつだってその畏れがある。
いたみが鈴白先生に何と言ったか、覚えている? ヌミノーゼ――誰もが私に畏れを抱いていたと、貴女はそう言ったのよ」
硝子の瞳に覗く黒い水面が、ゆらゆらと波打っている。彼女の口調は、いつしか酷く悲しげで、まるで自分自身を嘲っているかのようだった。
「だけど――分かっているのでしょう? それすらも、その場凌ぎの詭弁であると。
貴女の論理は破れている。あの日あのとき、相手があの男だから通じたに過ぎない。
いたみがわたしに感じる畏れと、ほかの人間がわたしに抱く畏れが、まったく同一だと――本当にそう思っているの?」
夜の海の輝きが、わたしの心を鷲掴む。
――わたしが一番畏れていることは、何だ?
何者かがわたしの思考に爪を立て、ガリガリと削り取っていく。既に彼女以外の存在は、わたしの世界になかった。それでも――きっと大丈夫。いつものことだから。
頭を抱えて縮こまる。眼球の裏側を刺すような痛みも、喉の奥が罅割れそうな渇きも、頭蓋を掘り進む耳鳴りも、全部、全部、少し我慢していれば治まるから――
――パチン、と。弾ける音に、驚いて顔を上げる。硝子が柏手を打った途端、辺りの暗闇が一掃され、わたしの現実は明るい午後の書庫に引き戻された。先程までわたしを蝕んでいた鈍い痛みも、嘘みたいに消え失せている。
「――そこまで自覚しているのなら、ひとまずは良しとしましょう。
それで、貴女はこの夏の間、どうしていたの?」
彼女らしからぬ、ゆったりとした穏やかな声に、つい面食らってしまう。そのお陰かしれないが、今の寝惚けた頭でも、音の連なりを問いかけとして認識することができた。
「どうしてたって、実家に帰ってたんだよ。二年ぶりだったけど、特に変わりはなかったかな」
散らばった思考の中から、手近な記憶を手繰り寄せる。まひろと夏祭りに行ったり、妹の宿題を見たり、兄貴の深夜怪奇映画耐久鑑賞に付き合わされたりと。思い返してみれば、それこそ中学の夏休みと何ら変わらなかったように思う。
だというのに、それはそれは不満げな嘆息が聞こえて、見ると硝子がわざとらしく額を押さえていた。どうも的を外したらしい。もしかすると、まだ頭が回り切っていないのかもしれない。
「誰が夏休みの過ごし方を訊いたっていうの。懺悔室のマリアの件に決まっているでしょう」
「――ん、ああ。その件か。
硝子も知っているだろう。碓氷姉妹の一件から、この学院は実に平和なものさ。目立った騒動もなければ新しい情報もないんだ。当然、分かりやすい進展だってないよ」
――懺悔室のマリアと、
最早まひろも神代も頼ることはできない。自分なりに調べてみたものの、前期には目に見えた成果を挙げることは叶わなかった。だが――
「何が進展はない、よ。
その顔、何か掴んでいるのでしょう?」
「まあ、ある程度は」
やはり一度実家に帰って正解だった。母は鈴懸のOGだし、鈴懸に入学するくらいの家柄ともなれば、家同士の繋がりもある。生憎退学した生徒に直接コンタクトを取ることは叶わなかったが、その過程でいくつか気になる情報を得ることができた。
それに加えて、碓氷ミナから聞き出した、懺悔室のマリアを呼び出す方法も、ようやく試せるだけの条件が整った。
「相変わらず勿体つけて。
貴女の推理が当たっているよう、精々祈っておくことにするわ」
硝子が鬱陶しそうに後ろ髪を手で払った。黒い魚影が身を攀じるようで、酷く印象的に写った。
――そうして今日も、来客を知らせるかのごとく、廊下を打ち鳴らす足音が聞こえてくる。
わたしが気づくが早いか、硝子も来客を察したらしく、書庫の入り口に目線を遣った。
足音の主は想像に難くない。始業式前に、話があると声をかけてきたのは彼女の方だ。だがそれがなくとも、遅かれ早かれ、わたしから彼女を訪ねていたと思う。
控えめなノックの音に、わたしは座したまま応じる。ゆっくりと扉を押し開き、部屋に入って来たのは、真っ直ぐに伸びた長い黒髪と、クラシカルなカチューシャが目を惹く、凛とした佇まいの上級生。
「貴家さん、お待たせしました」
わたしの姿を認め、彼女は柔らかい笑みを象って見せる。淑やかさと鋭さの同居したその微笑は、確かに見事な均整で、成程生徒らが気後れするはずだ。
眉目秀麗、才色兼備。目の前にいる彼女こそ、良家の息女ばかりが通うこの学院において、令嬢とは斯くあるべしと一身に羨望を集める、前生徒会長――
*
「貴女とふたりきりでお話しするのは、いつ以来だったかしら?」
既視感のある切り出しに、思わず咳き込みそうになる。
まさか盗み聞きされていたのではないかと勘繰ったが、当然鹿毛は部屋を気儘に泳ぐ亡霊に気づく様子はなく、単なる偶然であったらしい。とりあえずアイスティーを啜って喉を湿す。勿論茶葉から準備する時間はなかったので、冷蔵庫に突っ込んであったペットボトルを使ったが、この際贅沢は言うまい。扇風機しかないこの部屋では、涼を取る数少ない手段である。
「さあ。
先輩とは接点もほとんどありませんし――ひょっとすると、初めてかも分かりませんね」
「もう、
――けれど、ええ。構わないわ貴家さん。
こういうの、惚れた弱みとでも言うのかしら?」
向かいに座る鹿毛が、グラスを片手に微笑んだ。無論冗談だろうが、実のところ、わたしは鹿毛のこういうところが苦手だった。つい頭上の亡霊には目線をくれると、喉を手で抑えながら舌を出して見せた。
「――ええと。それで、今日は一体どのような御用向きですか。
まさか貴女ほど多忙な人が、わざわざ不味い茶を飲みにここまで来たわけではないでしょう?」
「いけない?」
「いけなくは」
ありませんが――と言ってみたものの、その続きは出て来なかった。わたしが答えに詰まるのが可笑しかったのか、鹿毛がくつくつと喉を鳴らした。
「ごめんなさい、意地悪だったわね。
今日来たのはね、貴家さんならきっと、この
そう言って、鹿毛はどこからか幾葉の紙片を取り出すと、目の前の長机の上に並べて見せた。
「――退学者の写真ですね」
見覚えのない残りの三名の写真は、恐らくわたしたちの二つ上の代の生徒だろう。強いて言えば赤木るいの写真が足りないが、彼女が例外視されていることも何となしに悟った。
「そう。昨年から今までにかけて退学した生徒、八名の写真よ。
端的に言えば、貴家さんには、この娘たちの退学の理由を突き止めて欲しいのです」
「理由、ですか」
頷く鹿毛の面差しが、微かな憂いを帯びた。
「どの生徒の退学も、本当に突然だったの。同室の娘たちにも確認はしたのだけれど、詳しい事情は誰も知らなかった。ルームメイトが部屋を開けた隙に、荷物から何まで片付けられていたということもあったようで、皆困惑していたわ。
それでも学院は、退学者のプライバシーを理由に、残された生徒に対しては何の説明しなかった」
鹿毛の言うように、退学時の様子が判然としないことは、前期の時点で見聞きしていた。だからこそ直接本人たちを問い質すべく、実家まで頼ったのだが、結局誰ひとりとして接触することはできなかった。しかし――
「少女Sの呪い、なんて噂もありますよね。
先輩は突然と言っていましたが、退学者の中には不安定になっていた者もいると聞いています」
カマをかけてみる。正直なところ、わたしは執行部全員を疑っていた。
会長である神代も、役員であるまひろも、懺悔室のマリアに関わっている。そしてマリアこそが、硝子の意志を歪ませる張本人であると、わたしは確信していた。だからこそ、マリアについて訊くのは、ひとまず後回しにしておく。
意外なことに、鹿毛には少しの思案があった。
「貴女の言う通り、振り返ってみれば、恐らく退学の兆しを見出すことはできるでしょう。
けれど――ああ。貴女、本来は彼女に纏わる相談のみ取り扱っているんでしたね。
だとすれば、申し訳ないことをしたわ。
貴家さんも、善きサマリア人の会は知っているのでしょう?」
そして、その答えすらも慮外のものだった。
「鹿毛先輩まで売春を疑っているんですか?」
我ながら怪訝とした声で聞き返してしまう。鹿毛は一度、軽くグラスに口をつけた後、表情を繕ってから話を続けた。
「今の段階で、そこまで断言するつもりはありません。ただ、一連の退学に何らかの形でサマリア会が関与しているとは思っているわ。
勿論、何の根拠もなくこんなことを言っているわけじゃないの。それに、呪いや霊なんて話よりは、多少なりとも現実的には思えない?」
「組織的売春が現実的かどうかはともかく、貴女とて少女Sの――硝子の瞳の
――いや、すみません。先輩はカトリックでしたね」
鹿毛はまた愛想笑いとも取れる、複雑な表情を浮かべた。聞くところによると、彼女はそれなりに熱心な信徒だったはずだ。信徒だから少女Sの噂を信じられない、というわけでもないだろうが、事実としてキリスト教はまつろわぬ霊を認めてはいない。
鹿毛の背後で自己主張する硝子を、視線で牽制する。しかし反応したのが良くなかったのか、亡霊はむしろ得意げに胸を張った。自分もカトリックだと言いたいのだろうか。だったらなおさら
「何にせよ、わたしはサマリア会についてほとんど知りません。
ひとまず、ご存知の範囲で詳しく教えてもらえませんか?」
軽くグラスを煽ってから、机上に戻す。ひとまず鬱陶しい幻は無視して、話を進めておくとしよう。
「実のところ、サマリア会のことは、昨年からずっと気がかりだったの。
学外での活動を許された数少ない、由緒ある奉仕団体ですもの。十五年前の突然の解散だって、それに足るだけ理由があるはずよ。
執行部では、学院の沿革を記した年鑑は勿論、課外活動についての書類も過去数十年分保管しています。けれど十五年前――サマリア会の解散の年だけ、明らかに資料が少なかった。サマリア会そのものについても、解散に伴う諸手続きの書類や、課外活動全体の予算編成変更などの記述はあったものの、解散理由だけはどこにも記されていなかったわ。
でもその代わり、サマリア会が解散してしばらくの間、何人もの生徒が立て続けに退学していたことが分かったわ」
「執行部には、過去の全生徒の名簿も残っているんですか?」
意外に思えたが、考えてみれば当たり前だ。部活動や委員会の活動予算を管理するのも生徒会執行部の役割だ。名簿くらいあるだろう。
しかしながら――これはむしろ予想がついたことだったが、鹿毛は小さく首を横に振った。
「残念だけど、十五年前の名簿だけは、やはりどうしても見つけることができなかったの。
それでも部活動や委員会の記録から、生徒の総数は都度割り出すことができたし、幸い卒業アルバムはすべて残っていたから、入学年度との差を求めることもできた。生徒がどの時期にどのくらいの人数減ったかは、おおよそ把握できたわ」
整然とした理路に、つい気圧されてしまう。実際、素直に感心できる手際だった。流石というか、学院一の才女と呼び声高いのも納得がいく。
「――先輩は当時の退学と、今の退学を同根だと考えているわけですね」
「これだけ退学が立て続いた例は、十五年前にしかないのよ。関連を疑って然るべきではないかしら?」
だからこそ、その結論はいささか以上に性急に思われた。
手に取ったグラスを軽く揺すり、かちかちと氷塊を弄ぶ真似をしながら、対面に座す鹿毛の顔色を伺う。翳りこそあれ、緊張しているようにも、冷静さを欠いているようにも見えなかった。どころか汗すらほとんどかいていないようなのが羨ましい。
元より外面だけで内面まで推し量れるなどとは思っていないが、それにしても鹿毛の様子は、不自然なまでに自然だった。
「それで――組織的売春の根拠というのは?」
仕方なしに、今度はわたしから口を開く。鹿毛もまた一呼吸置く代わり、紅茶を口にしてから、僅かに険しい声音で続けた。
「決定的な証拠、とは到底言えないわ。けれど、
サマリア会解散の年から数年先までの、執行部の日報や議事録を調べるうち、かつて学院で囁かれていたという、ある噂話に気づいたの。
夜な夜な生徒を拐かすパイドパイパーの怪談に」
「
またしても噂話か、と内心うんざりしながら復唱する。しかしこの流れで笛吹きと来れば、噂の内容も概ね察せるというものだ。
わたしの予想を裏付けるかのごとく、渋面の鹿毛が少し顎を引いた。
「言葉通り、十五年前の退学者たちを、ハーメルンの伝説に
今となってはほとんど忘れられている怪談だけど――OGを当たってみたら、何人かは記憶していたわ。四、五年くらい前までは、ある程度認知されていた噂のようね」
解散当時のOGからも話が訊ければ良かったんだけど、と鹿毛が零した。当時勤めていた教職員さえ残っていないのだ。十五年前の生徒ともなると、さしもの鹿毛にも伝手はなかったらしい。
――ハーメルンの笛吹き男は、ドイツ北西部の都市ハーメルンに纏わる伝説だ。
ハーメルンに現れた
約束を反故にされ激高した男は、狩人の出で立ちで
これはグリム伝説集にも収録された有名な物語だが、無論、後世の脚色が多分に含まれるとされる。中世史料からは、十三世紀にハーメルンの子どもたち一三〇人が失踪した、という部分のみが歴史的事実として確認されており、よって笛吹き男や鼠取り男といったイメージは、後から付け足されたと考えられる。
子どもたちの失踪について、広く支持されている説では、ドイツ中世における東方植民――
さらに言えば、これは明確な根拠のない異説だが――性的異常者だった笛吹き男が子どもらを連れ去ったと唱える者も、いないわけではない。
「それでも、まだ根拠としては弱いでしょう。ただ生徒らが退学したというだけで、そんな噂が立つものでしょうか?」
言い終わると、何とも間の抜けた音が響いた。硝子が口笛を鳴らした
当然、鹿毛はそれを知る由もなく、神妙な顔つきで応答した。
「そうね。けれど笛吹男の噂が流布していたこともまた事実です。何の背景もなく、こんな噂が立つとはそれこそ考え難いでしょう?
それにね、これも状況証拠だけど――ほかに根拠がないわけではないの。記録によれば、サマリア会の解散後間もなくして、有栖川という教師が退職しているとあるわ。そして彼女はサマリア会の顧問を務めていた。つまり――」
「その有栖川教諭こそが、子どもを連れ去った
ええ、と鹿毛が首肯する。
実際に売春があったどうかはひとまず置いておくとして、かつて学院では売春を想起させるような事件が起きたとする。そしてそれは学院に露見したものの、隠蔽のために有栖川は退職に追い込まれ、サマリア会に関わった、あるいは事件にショックを受けた生徒らが立て続けに退学した――鹿毛はそう主張しているのだろう。
「いくつか、腑に落ちない点があります。
仮に、
それに――これも大したことではないかもしれませんが、何故この学院で笛吹き男の噂が広まったんでしょう?」
本来忌むべき――忘れ去られるべきは、原型であるサマリア会の風聞だったはずだ。
また、そもそも女学院に広まる噂として、笛吹き男という言葉は奇妙にも思える。男子禁制だからこそ、かえって男の影が囁かれたのかもしれないが、鹿毛が彼女というからには、
「あくまで噂話です。偶然途絶えることあるでしょう。
けれど、誰かの意志によって噂が消された可能性もまた否定できない。
先ほど
だからこそ貴女には、これについても詳しく調べてもらいたいの」
伏し目がちながら、鹿毛は今までより強い調子で言った。彼女自身、いずれについても結論できていないらしい。それができていれば、わざわざわたしに話を持ちかけることもなかっただろうが――
「もうひとつ質問ですが――何故わたしなんですか? 貴女なら、わたし以外のアテがいくらでもあったでしょうに」
その点も疑問だった。鹿毛はしかし、それこそ大した話ではないと言いたげに、穏やかな声で答えた。
「言ったでしょう。
それにね。
「――神代は、鹿毛先輩の
鹿毛が無言で肯定する。わたしへの世辞はともかく、彼女が神代を疑っているとは考えていなかった。鹿毛の会長時代、神代は彼女の右腕だったはずだ。
「家も近かったから、ほとんど姉妹のようなものね。
あの娘、昔は
高い音が鳴る。今度は亡霊の仕業ではない。グラスの中で、氷塊が罅割れたのか。
「でも、それも昔の話。
今の祭は、
懐かしさと寂しさの同居する鹿毛の瞳が、湖面のように揺れている。
「――先輩は、神代が今の
既に鹿毛の答えを待つまでもない。
神代祭が、ここ一年間の退学者について何か知っているのは間違いない。実際、生徒会長である神代は、他の生徒と比べて行使できる権限も手にできる情報も大きいだろう。そんな彼女が、かつての売春を手引きしていたという
「直接問い質しもしてみたけれど、駄目ね。はぐらかされちゃった。
――けれど、もしも祭が一連の退学に――何か良くないことに関わっているのなら、
彼女にとっても、思いの外重苦しく響いたのか、鹿毛は大きく目をしばたたかせた後、気まずさを紛らせようと、僅かに視線を逸らした。
「繰り返すようだけれど、組織的売春が事実だと断言するつもりはありません。
ただ、今この学院では、かつてと同じように退学が相次いでいて、解散したはずのサマリア会の噂まで囁かれている。
そして、仮に十五年前と同じであるなら、本当の
実際、生徒を学院の外と行き来させるにしろ、周りに悟られないよう退学させるのも、学院側の助けがなければ難しいでしょう?」
胸のうちを秘め隠すかのごとく、一転鹿毛は淡々とした口調で持論を推し進める。
彼女が何を言わんとしているのか、薄々察しがついた。鹿毛が告発しようとしているのは、わたしにとっても馴染み深い、彼の修道女に違いない。そう考えていた。
「
だから、鹿毛の言葉はまたしてもわたしの予想に反していた。
――何故ここで胙の名前が出る?
聞いていない。そんな話、母からは聞かされていない。
「十五年前のOGは見つからなかったと、先程はそう言いませんでしたか?」
困惑するわたしを見て、鹿毛は微かに眉根を上げた。向こうにとっても、わたしの反応は予想外だったらしい。
「
いずれにしても、生憎胙先生は詳しく教えてくださらなかったの。彼女は執行部の顧問でもあるから、真っ先に相談してみたのだけれど、詮索しないよう釘を刺されてしまったわ。OGであったことも、そのとき御本人からお聞きしただけよ」
鹿毛の補足は、いかにも筋が通って聞こえた。恐らく胙がサマリア会OGというのも嘘ではないのだろう。
一方で、わたしの持つ情報が正しければ、鹿毛の説明にもまた不足がある。
それが作為なのかそうでないのか――見極めのつかない今、手札を晒し切るのは早計だろう。
噛み合わないわたしたちを、隣で見ていた幻影が嘲笑った。涼やかな笑声がどうにも耳障りで、わたしは気を紛らわせようと手に取ったグラスを傾ける。カランコロンと氷の転がる音はしたが、中身を疾うに切らしていたらしい。向かいを見ると、鹿毛のグラスも空っぽだった。
「お代わりは要りますか?」
席を立ち冷蔵庫の方へ身体を向けてからそう言うと、鹿毛は笑ってわたしの誘いを固辞した。
「ありがとう。でも十分いただいたわ。
貴家さんから質問がなければお
ごく真剣な様子で鹿毛が問うた。勿論、彼女にもこちらに伝えていない意図があって当然だし、いかな優れた手腕を持っていようと、一人では厳しいのも事実だろう。
わたしとて神代に動きを知られているわけだから、彼女の協力者として妥当かは分からないが、実際鹿毛にも神代にも知られていない伝手を持っているのだから、やれることはあるだろう。
何より、ここで立ち止まる理由はない。わたしは彼女を――心臓痕硝子の遺志を知る唯一の人間なのだから。
「ご期待に添えるかは分かりませんが――あくまでここ一年の退学の理由で良ければ、お調べしますよ」
わたしがそう言うと、鹿毛は小さく礼を言って、また令嬢然とした微笑を浮かべた。既視感のある顔だ。あの司祭のものとはまた違う、どこか作り物めいた笑み。まるで誰かを模倣するかのようなその表情を貼りつけたまま、鹿毛は静かに席を立った。
彼女の長い黒髪が揺れるのを見ながら、まだその背が見えるうちに、用意していた最後の問いを投げかける。
「――ああ、そうだ。
懺悔室のマリアを知っていますか?」
歩みが止まる。黒髪が空を滑り翻る。振り返った彼女は、変わらずあの令嬢顔だ。
「願いを叶えるというあのマリアのこと?
ええ、もちろん。退学者たちが、夜な夜な彼女に会っていたという噂もね。
――けれど貴家さん、あの話は無関係よ」
「どうしてそう言い切れるんです?」
鹿毛が眉を顰めて訝しんだ。
「どうしても何も、あの噂はごく最近――ここ一、二年で出来上がったものよ?
サマリア会の解散とは、恐らく関わりないでしょう」
実に淀みなく鹿毛が言った。彼女が語る理屈も、至極真っ当なものだ。
しかしそれは、だからこそ奇妙であり――また、そもそもの前提が正しいという保証もなかった。
次手を思案するわたしが、答えに窮するように写ったのか、鹿毛は頬を緩め、また柔らかく笑いかけた。
「それにね、貴家さん。この学院に懺悔室なんてないのよ?
あれは、正しくは告解室と言うの」
「――そうですね。
それは失礼しました」
唯一納得の行く説明に、ひとまずは頷いておく。これについては尤もだ。聖堂に一角にある、今はもう使われていない
いずれにせよ、鹿毛の真意はまだ見えない。鹿毛が信頼できるかも、まだ分からない。
「いいえ。
ではくれぐれも、何か分かったら宜しくね。期待しているわ、貴家さん」
最後にそう持ち上げて、鹿毛は軽やかに書庫から立ち去った。
*
かくして、わたしは書庫に一人取り残された。
背もたれに身体を預けると、椅子の骨組みが甲高い悲鳴を上げた。喧騒から離れた書庫に一人きりでいると、
「あら、大きな溜息」
呆けるわたしを気遣いでもしたのか、亡霊が姿を現した。
「あれだけ壮大な陰謀論を聞かされればな」
「何だ。
やっぱり信じてないんだ、あの売春の話」
「当たり前だろ。
いつもと同じさ。あんなのは、話を聞き出すために頷いていただけだ」
鹿毛の話は、控えめに言って穴だらけだ。その不自然さは、才女たる彼女らしからぬと感じてしまう程だった。
まず、鹿毛は十五年前の退学と、今の退学の原因が共通していることを前提にしていたが、そもそもこれに確証はない。
サマリア会の解散には何か事情があるようだし、未だに会の存在が噂されていることも確かだ。この規模の退学に過去例が少ないのも事実だろう。しかし聞く限り、十五年前の大量退学は、サマリア会の解散だけでなく、有栖川教諭の退職も契機となっていたようだ。
厳密には彼女の退職前に、既に退学者が出ていたのかもしれないが、一方で、少なくとも去年から今年にかけて職を辞した教師はいない。唯一、美術の
そして彼女が疑っている
現段階で考え得るのは、元より売春はなかったという可能性だ。もし組織的売春が事実だとすれば、教師一人を辞めさせたくらいで隠蔽できるものだろうか。この学院の非常識さからすれば、有り得ない話ではないと思えるあたり恐ろしいが、とはいえ教師一人の仕業だとは到底考え難い。だとすれば、売春には学院そのものが関わっていたと見るべきだろう。しかしそこまで話の規模が大きくなると、やはり現実的とも思えない。
では、仮に売春がなかったとすれば、何故サマリア会は解散したのか? 何故有栖川と生徒たちは学院を去ったのか? 何故
「つまり、何も分かっていないってことね」
隣に座った硝子が、机に
「そうでもないさ。
少なくともひとつ、確実に言えることがある」
――懺悔室のマリアが、一連の退学と無関係であるはずがない。
このことは、神代の態度からも明らかだ。神代祭は、間違いなく事件の核心に関わっている。彼女は碓氷ミナの症状を、サマリア会に起因するものと印象付けようとしていた。ミナの症状や一連の退学が、少女Sの呪い――ひいては懺悔室のマリアと結び付けられることは、彼女にとっては不都合だったのだろう。
そしてこのことは、今の退学と十五年前の退学が同根だという鹿毛の理路を、わたしが疑問視している根拠でもある。鹿毛も言っていたが、十五年前にマリアの噂がなかったとすれば、サマリア会の解散に伴う退学は、マリアと直接的な関係にないはずだ。
「サマリア会は、わたし――少女Sの呪いを打ち消し、マリアの噂を覆い隠すカモフラージュとしてのみ使われている、ということかしら?
なら、調べるべきはやはりマリアの方ね」
「いや、そう切って捨てられるものでもないと思う。
一応の優先順位をつけるということさ。マリアの調査に専念したくはあるけど、前期はそうやって
サマリア会解散当時のOGが、二人も学院教師として勤めている現状は、実際奇妙ではある。これが偶然でないのなら、サマリア会の復権もまた必然であるのだろう。
「マリアについては、ミナから聞いた呼び出し方を試すとして、
OGらにもどうにか探りを入れたいところだが――噂好きがもう一人、ようやっと復学したみたいだし」
長らく入院していたという下級生に思い浮かべる。厳密には夏休み前には学院に戻っていたらしいが、生憎と渡りをつけるには時間がなかった。直接対面したことはないから、まずは彼女の友人に話を通さねばならない。
「――いたみは、本当にそれで良いの?」
冷水を浴びせる声が聞こえて、思わず視線を持ち上げる。
隣に座していたはずの硝子の姿が亡い。いつの間に背後に回られたのか、視界の端を風に流れた黒髪が掠めた。
「ねえ。もう十分じゃなくて?」
耳元で声が響く。後ろからゆっくり腕が回ってくる。身体が強ばる。あの夜触れた彼女の体温を思い出す。それでもその手は、
「十分って、何だよ」
自分でも声が震えているのが分かった。わたしは、畏れているのか。それとも、怒っているのか。
――懺悔室のマリアは、少女Sの呪いを捻じ曲げている。彼女の元を訪れた生徒は、元々は呪いによって退学したと言われていたはずだ。それが売春の噂に書き換えられた。恐らくはマリアと接触したことによって。
それだけではない。マリアは、他の少女Sの呪いにも介入していた可能性がある。金澤たちの交霊会は、誰が机に刻んだとも知れない、少女Sの遺書に端を発した。あれは呪いを打ち消すのではなく、逆に拡散するものだったが――あの事件でも結果的に退学者が出てしまった。果たしてこれは偶然だろうか。そもそも、呪いを捻じ曲げようと暗躍する意志が、そういくつも並立するだろうか。
もし、偶然でないのなら――懺悔室のマリアは、生徒を退学させること自体を目的としているのではないか。
硝子の遺志を捻じ曲げ、広げ、打ち消そうとする者が、あの箱部屋に隠れている。硝子の最期を知るわたしに、それが許せるはずもなかった。
――だというのに、どうして彼女は、こんなにも悲しそうに話すのだろう。
「そこには何もないわ。いたみがいくら私の欠片を拾い集めても、他人の心から私を追い出しても、その先にあるのは、
言ったでしょう。私たちは結局ひとりきりでしかないのだと。
それなのに――どうして? どうしていたみは、私のためにそこまでしてくれるの?」
その声は、いつしかわたしと同じくらい震えていて。
(――ああ、そうか)
硝子は――わたしを案じてくれていたのだ。
「優しいな、お前は」
席を立つ気配を察したのか。背後にいた硝子が素早く身を引くのが分かった。
ゆっくりと立ち上がり、振り返る。秋の夕暮れに照らされた彼女は、いつかの姿に重なって見えた。
――わたしは、彼女のことを悲しませたくはなかったから。
自分でも不思議なくらい自然に頬が綻んで、そうして今度はわたしから、彼女の手を取った。
全身が/打ち震えて/いる。
眼球の/裏が/熱い。
周囲が/嫌に/五月蝿い。
思考が/散り散りに/なる。
――それでも、今度はきっと大丈夫。
六月の夜とも、さっきとも違う。指先の幻触こそが、今はわたしを繋ぎ止めている。だからわたしには、まだ何もかもが見えている。
驚く硝子の顔も、あの夕日も、秋の庭園も――彼女の死んだ世界は、何も変わらずそこに在り続けた。
「勘違いするなよ。わたしは何も、硝子と心中するつもりなんてない。
――それに、言っただろう。硝子が残した
約束したじゃないか。だからわたしは、硝子のために、硝子のいない世界を生き続けるほかないんだ」
硝子の瞳を――あの底知れない深淵をまっすぐに見据えたまま、わたしは誓った。
「わたしはもう逃げない。
もう二度と――硝子から逃げたりはしないから」
「――ええ。
貴女なら、きっとそう言うと思っていたわ」
それでも硝子は、やっぱりとても悲しそうに、小さく笑うだけだった。
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