/1 屋上~空き部屋(一年前~十五年前)

女は自然の関係を自然にもとるものに変え、同じく男も、女との自然の関係を捨てて、互いに情欲を燃やし、男どうしで恥ずべきことを行い、その迷った行いの当然の報いを身に受けています。

(ローマの信徒への手紙 1章26-27節)



   *



 ――きっと、わたしは彼女に恋している。


 そう気づいたとき、世界が足許から崩れ去っていくような錯覚があった。


 いや、決して錯覚などではなかった。わたしにとって、それは紛れもなく世界の崩壊だった。十五年という年月をかけて築きあげてきたわたしの価値観は、その瞬間粉々に、完膚なきまでに打ち砕かれてしまったのだから。


 わたしには、何も愛せない。生まれたときから、ずっとそうだった。わたしにとっての世界は、いつだって醜くて、息苦しくて、どうしようもなく恐ろしいものだった。


 ただ目を開けているだけで、酷い吐き気を催した。少し大きな音がすれば、頭が割れそうなくらいに痛んだ。誰かに触れられでもすれば、全身に怖気が走った。


 その感覚を誰も理解してくれないことが、悲しくて仕方なかった。そして何より、自分がその世界なかにいることが、不自然に思えてならなかった。


 だからこそわたしは、身の回りのありとあらゆるものから距離を取ろうとした。わたしが何より嫌っていたのは、他者を忌み嫌う自分自身だったから、せめて無意味に誰かを傷つけることだけはしたくなかった。


 それがわたしにとって、他者を慈しみ慮ることのできる、ただひとつの生き方。


 わたしは周りとの繋がりを断つことで、他人より自分を貶めることで、どうにか世界と折り合いをつけようとした。


 そう、思っていたはずなのに。確かにそう、願っていたはずなのに。


 ――彼女をひと目見たそのときから、彼女以外の世界のすべてが、わたしにとって無価値になった。


 父母も、兄も、妹も、師も、親友も。誰も彼も、所詮はあの美しい瞳に及ばない。あの瞬間、わたしの世界は、彼女と彼女以外に別たれてしまった。この汚れた世界の中で、彼女だけが唯一、ぴかぴかと輝いて見えた。


 あるいは、元よりふたつは別々だったのか。彼女という生命球せかいは、しかし何者も宿さないがゆえに、これ以上なく完結して見えた。ただひとりで満ち欠けることのない彼女が、他者の存在を必要とするはずはなかった。


 つまるところ、わたしは彼女以外のすべての存在を軽んじていた。彼女さえあれば、ほかの人間がすべて死に絶えてしまっても、世界が滅んでしまっても良いとさえ思えたのだ。


 ――そして真っ先に、わたし自身が不要になった。


 落下防止用の手摺に体重を預けながら、向こう側を覗き見る。学舎前の庭園が夕日に照らされ煌めいていた。


 屋上ここから地面まで、十四、五メートルといったところか。確実とは言えない高さだが、石畳の辺りを狙って落ちれば、可能性は上がるだろう。


 ――だってわたしは、わたしが死んでも良いと思った人たちより、ずっと価値のない存在なのだから。


 思わず口許が緩む。おかしいったらない。その矛盾から、わたしは目を背け続けていた。彼女と出会ってすぐ、そのことに気づいていたはずなのに。


 けれどもう、見て見ぬ振りもしていられない。わたしはこれ以上、自分を想ってくれている人たちを、貶めたくはなかったから。


 吹きつける強い風に、つい瞼を閉じる。二、三歩後退あとずさり、勢いが弱まるのを待った。

 

 伺うように、怖々と目を開ける。前髪は相変わらず煩わしくはためいていたものの、幾分風は和らいでいた。日中の生ぬるい空気の流れに比べれば、心地良いとさえ思えてくる。


 気づけば、随分と日も傾いている。遠くをまっすぐ見通すと、暗い空に北極星が瞬いていた。


 その景色に、わたしはまた否応なく彼女の瞳を想起する。透明な薄いガラスの向こうに見える、夜の海の色に似た、深い深い、終わりのない闇。


 あの闇は酷く蠱惑的で、まるでわたしたちを絡め取ろうとしているかのように見えた。けれど、それは見る側の勝手な思い込みに過ぎない。彼女は完全なのだから。自分以外のモノなんて、ひと欠片も欲していないのだから。わたしたちは彼女の美しさに憧れて、惹かれていただけなのだろう。


 ――だからこれも、何かの間違いに違いない。


 つい右手に力が入ってしまい、持っていた封筒を握り潰す。すぐに拳を緩めるが、何度も同じことを繰り返したから、封筒はすっかりぐしゃぐしゃに潰れていた。


 呼び出しの手紙に気づいたのは、聖書の講義中だった。わたしが聖書を開くと、ページの間から封筒が滑り落ちたのだ。恐らくは昼休みの間にでも仕込まれたのだろう。中を確認すると、花の香りのする便箋には、今日の放課後に屋上に来て欲しい旨と、彼女の署名が記されていた。


 訳が分からなかった。呼び出しに応じるかどうか、正直すごく悩んだ。


 当然、本人から事前に用件を確認することなどできるはずもなく、どうするべきか考えているうちに放課後を迎え、わたしは仕方なく屋上へと足を向けた。


 だが、その結果がこれだ。普段は施錠されているはずの扉が開いていることには驚いたが、勇気を振り絞りいざ立ち入った屋上には、この通り誰も待ってはいなかった。

 

 緊張していたのが馬鹿みたいだ。考えてみれば当たり前だった。彼女がわたしなんかを相手にするはずがない。直接確かめるまでもないじゃないか。彼女が誰かひとりを求めたりなんてするはずがない。


 誰かの悪戯に違いない。自分自身に、何度もそう言い聞かせて、はやる鼓動を抑え込む。


 ――それでも、わたしがこの場所から離れられずにいたのは、確かな予感があったからだ。


 ああ、やはりわたしはすっかりおかしくなってしまったらしい。彼女と出会ってからは、まるですべてが夢のようで、だからこそ生きた心地がしなかった。


 わたしの世界は罅割れて、もう元には戻らない。わたしはきっと、彼女以外の世界を蔑ろにし続ける。


 ――ならいっそのこと、やはり今すぐにでも、自分自身を断ち切ってしまうべきではないか。


 向かい風に抗いながら、再び屋上の端まで歩を進める。あとは手摺を乗り越えて、一歩足を踏み出しさえすれば、すべて終わらせることができる。後悔や罪悪感なんて、きっと跡形も残らない。


 ――それからようやく、すべての未練を断ち切ろうと、わたしの指先が手摺に触れた刹那、


 ――階下から聞こえてくる、規則的な音に気づいた。


 今更、わたしは何を期待しているのだろう。彼女がここに来るはずない。わたしたちは、ただのクラスメイトでしかないのに。一度だって、言葉を交わしたことさえないのに。


 それでもわたしは、振り返らずにはいられなかった。


 音は次第に大きく、強くなっていく。階段を駆け上がる音だ。誰かがわたしのいるこの屋上に近づいて来ている。


 そして疾う疾う、屋上の鉄扉てつぴが勢い良く開かれると、小柄な人影が飛び込んで来た。


 彼女はしばらくの間、こちらに頭を垂れながら、荒い息を整えていた。乱れてなお美しく伸びた長髪が、横風に微かに揺れている。


 人影はやがてゆっくりと姿勢を正し、私に向き直った。御簾のごとき髪の向こうに、あの輝かしい瞳が透けて見えた。

 

「遅れてごめんなさい!

 ――それから、来てくれてありがとう、


 そう言って彼女――は、花のようにわらった。




  ◆




 ――陽だまりの匂いがする。

 

 春の陽気のせいか、私はそんなことを思った。


 多分、私のちょうど正面に窓があって、それが開けたままになっている。それからすぐ、答え合わせをするみたいに、部屋の奥からやってきた春風が、私の鼻をくすぐった。


 白杖で足許を確かめながら、部屋に足を踏み入れる。教室ほどではないけれど、それなりの広さがあることは、音の響き具合から分かっていた。


 部屋に入ってすぐ、杖の先が何かに引っかかった。左手で恐る恐る周りを探ってみる。冷たいスチールと、革やビニールの感触。それに古い紙の匂いがした。背の高い本棚がいくつも並んでいる。会の集まりはここで行われると教わったけれど、資料室か何かだろうか。そういえば、部屋本来の役割を聞いていない。


「――――?」


 風の音とも違う小さな音が、部屋のどこからか聞こえた。心に引っかかりを残しながら、私は本棚の間をすり抜けて行く。


 部屋の奥にある少し開けた空間に出ると、杖の先がまた何かに当たって、甲高い音を立てた。今度は随分背が低い。触って確かめると、思った通り大きな机がひとつと、その周りに教室にあるみたいな椅子がいくつか並べられていると分かった。あくまで触れた感じだけど、特に変わったところはなさそうだった。


 ――だから気になるのは、部屋の隅でじつとしている誰かの方だ。


 立ち止まって、耳を澄ませてみる。うん、やっぱり気のせいじゃない。部屋の隅――少し下の方から、誰かの息遣いが聞こえる。多分、身を屈めているのだと思う。


 部屋に入る前にノックをしたときは、返事がなかったから、てっきり誰もいないものだと思っていたのだけれど――


(まさか、寝ているわけじゃないよね)


 私が声をかけようとした、そのときだった。


「――わっ!!」


 カラカラと、乾いた音が続く。


 杖を床に落とした音だ、と他人事ひ と ごとのように思った。だって部屋の隅にいた誰かが、突然私の前まで走って来て、大声を出すだなんで、全然予想できなかった。


「おーい。大丈夫?」


 脳天気にそう言って、誰かが私の鼻先でブンブンと手を振った。私だって、目の前で相手がどんな動きをしているかくらいはすぐに分かるし、相手に悪気はないのだろうけど、何だかすごく無神経な仕草に思えた。


 この娘は私を驚かせようと、物陰に隠れていたのだろう。私はといえば、部屋の隅にあるらしい障害物には気づかずに、彼女の動きだけを感じ取っていたらしい。


「ごめんごめん。そんなに驚くとは思わなくて。

 ノックなんてする人いないからさ。つい悪戯したくなっちゃったんだ。

 ――あれ? あなた二年生? でも――うん、やっぱりはじめましてだよね? こんな可愛い子がいたら、忘れるはずないし」


 お世辞だと分かっているのに、心臓が小さく跳ねた。そもそも、この娘は何でわたしが二年だと分かったのだろう? ――そうだ、きっと制服のリボンの色だ。


「――わ、私っ、は、Schäferシエーフアー――ズザンネ・シェーファーって言います。

 ここには今日初めて来て、えっと、ここっていうのはこの部屋にじゃなくて、ここには、ここには先生に誘われて――」


 話すうち、どんどん顔が熱くなっていくのが自分でも分かった。


 私は転校してきたのだと、ここには先生の薦めで来たのだと、ただそう言いたかっただけなのに。久しぶりに同年代と話すからか、上手く舌が回らなくて、代わりに頭の中ばかりがぐるぐるとしていた。


 そしていつもみたいに、すぐに言葉を見失って、どうしようもなくなって、ついには途方に暮れてしまう。


(これじゃ、また――)


 変わるって決めたのに。今度こそ上手くやるって、そう思ってこの鈴懸がくいんにやって来たのに。先生に薦められたこの会にも、勇気を振り絞って訪ねに来たのに。


 喉の奥がヒリヒリと痛み出す。こんな下らないことで泣くなんて、馬鹿みたいだって分かっている。ここで急に泣き出したら、初対面の相手は困るだろう。


 けれど何よりも、こんなことで悲しくなる自分が情けなくて、ますます目頭が熱くなった。


「目が見えないの?」


 ――酷く、不躾な言葉が聞こえた気がした。

 

 伏せていた顔を上げる。その娘は私の手を取って、何かを細長いものを握らせた。手に馴染む感触。私の白杖だ。いつの間に、拾ってくれていたのだろう。


「――ズザンネ。

 変な名前。呼びにくいし、それに可愛くない。

 ねぇ転校生さん。あなたに何かあだ名はないの?」


 本当に、何て失礼な人だろうと思った。


 だけどその娘の言葉には、嫌味なんか少しも含まれていなくて。代わりにすっと胸のうちに染み込んでいくみたいな、不思議な温かさがあった。


Su――Suseズーゼ――」


 つかえながら、どもりながら、古い記憶を探りながら、私は子どもの頃の愛称を、やっとのことでその娘に伝えた。


「ズーゼ。ズーゼ、か。

 うん、悪くない。ズザンネよりずっと呼びやすくて可愛いし。

 ズーゼにぴったりだね!」


 舌触りを確かめるみたいに、その娘は何度か私のあだ名を口にしたあと、嬉しそうにそう続けた。


 子どもっぽいあだ名だから、あまり好きではなかったはずなのに、その娘にズーゼと呼ばれるのは、ちっとも嫌じゃなかった。ううん、嫌じゃないどころか――私は喉の痛みを忘れてしまうくらい、嬉しくて仕方なかった。


 何でかほっとした私は、そこでようやっと、この娘がさっきからずっと私の手を取ったままだと気がついた。お陰でまたすぐに恥ずかしさが顔まで上ってくる。むしろ、さっきよりもずっと頬が熱くなっていた。


 離して、と言おうとして、それも言葉にならなかった。けれど、やっぱりさっきとは違っていて、恥ずかしくはあっても、嫌な気持ちに少しもならなかった。


 だって私は、この手の温もりを、心地良いとさえ思っていた。


「ズーゼってば、恥ずかしがり屋なんだ。

 ――でも、そんなところもすごく可愛い」


 囁くみたいにその娘は言って、それからクスリと悪戯っぽく笑った。私はついまた俯いてしまったけれど、その娘はもっと身体を寄せてきて、それから私の指先に、その娘自身の指を絡めた。


 間近にして気づく。この部屋の扉を開けたときから感じていた匂いは、部屋の外からやって来たものじゃない。目の前にいるこの娘の匂いだ。


 柔らかくて、それでいてどこか懐かしい春の香り。温かな陽射しの匂い。


「私、咲耶。胙咲耶ひもろぎ さく やって言うの。

 サマリア会――きサマリア人の会にようこそ!

 これからよろしくね、ズーゼ!」


 ――それが私、ズザンネ・シェーファーと、一生の友人となる、胙咲耶の出会いだった。

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