/9 学舎前(五月二十六日)
予想に反して、深夜になっても小雨が降り続いていた。
聖堂から出たわたしは、空模様に諦めをつけると、小走りで帰ることにした。幸い濡れ鼠になる程ではなさそうだが、時折顔に落ちてくる細かい雨粒が鬱陶しいことには違いない。忌々しく曇天を睨んだところで、一向に月が顔を見せる気配はなかった。
聖堂からまっすぐ学舎に向かって、それから建物を迂回するように進む。まひろのことだから、在室確認も上手く誤魔化しているだろうが、一刻も早く部屋に戻るべきだろう。
――そう分かっていたのに、わたしはその場所へ足を向けた。
そこは何の変哲もない、ただの
心臓痕硝子が
小雨の中、わたしは意味もなく立ち止まる。生活空間の一部に過ぎないためか、彼女の最期の場所を顧みる者は、今や皆無と言って良い。
――それとも、あの
山上他界という言葉がある。死者の魂は、生者の手が届かない高所に導かれるという考え方は、何もこの国に限った話ではない。分厚い鉄の扉で
「いるんだろう、硝子」
誰もいないはずの薄暗闇にそう呼びかける。案の定、幻影が背後に立つ気配を感じた。
「――何だ。気づいていたのね。せっかく驚かせようと思っていたのに」
振り返り、その
「やっぱり、学舎から出られるようになったんだな」
「ええ。貴方が先生の呪いを引き受けてくれたおかげよ。あの聖堂と、彼がわたしを看取ったこの場所くらいなら行き来できるわ。
勿論、貴女がそう望めば、だけどね」
硝子の瞳が蘭々と輝く。その色は、昨日までのそれとも、先ほど聖堂で見たそれとも、わずかだが異なっていた。
――呪いを祓うとは、つまりこういうことだ。
鈴白には、もう硝子を知覚できないだろう。しかし他人の幻影を消し去れば、それだけわたしの幻影も存在感を強めていく。そんなことは
年度末の
「いくつか、訊いておきたいことがある」
「ええ、構わないわ。私の質問にも答えてくれるのならね」
「――お前が、今更わたしに何を訊くと言うんだ」
自分でも驚くほどに、怨嗟の籠った声が聞こえた。
わたしの反応がよほど嬉しかったのか、硝子は白い頬を美しく歪めて嗤う。
「そんなに怯えないでよ。本当に大したことじゃないんだから。
私が知りたいのは、金澤さんが飛び降りた理由よ。彼女が
拍子抜けするほどに下らない質問だった。しかし、それでも皮肉としては十分だった。
「わたしや鈴白先生には、到底不可解な理由からだよ。
――金澤は、きっと先生に構って欲しかったんだ」
「――それだけ?」
「ああ、それだけさ」
金澤は、恐らく鈴白が死者に囚われていると気づいていた。だからこそ、男の視界に入ろうと躍起になったのだろう。
同時にそれは、少女Sの存在を肯定することにほかならない。そのせいで、金澤の精神は少なからず変調を来していたのかもしれない。もしかしたらそれは、
真実、金澤が少女Sを視ていたかは分からない。だが金澤にとって、少女Sは畏ろしい存在であると同時に、彼女が鈴白と共有できる唯一の秘密でもあった。
『やっぱり少女Sはいるんだよ』
だから、彼女は赤木にそう言った。金澤莉音は、鈴白要のただ一人の理解者になりたかったのだ。
「本当に――恋心というのは度し難い」
わたしには、二度と理解できないだろう。
胸中を見透かすように、亡霊の嘲笑う声が響いた。
「ごめんなさい。だって、貴女が恋なんて言うものだから」
「そんなに可笑しいかよ」
問いには答えず、硝子はただ含み笑いをしてみせた。語るまでもないということだろう。
「さあ、いたみの番よ。貴女は何を訊きたいのかしら?」
仄かな灯りに誘われるように、わたしは彼女の方へ歩いて行く。
「――交霊会に使われた机を見た」
「あら。確か処分されたんじゃなかった?」
「先生のいつもの方便だよ。処分したとは言っていたが、廃棄したとは言っていなかったからな。
何のことはない。聖具室に普通に置いてあった」
聖具室の扉は施錠こそされているが、聖歌隊員など、一部の生徒たちも日常的に利用していた。屋上とは違って、言い訳さえあれば職員室で簡単に鍵を借りることができる。
今回は生徒会長の
「――ふうん。それで?」
もっとも硝子にとって、そんな経緯はどうでも良いことだろう。彼女の興味は、残された謎にのみ向けられている。
「刻まれていた聖句も確認した。先生の言った通りの文面だったよ。
それに――確かにあれはお前の筆跡じゃなかった」
ペンに力を入れて刻み込んだのだろうが、だとしても生前の硝子の筆跡とあまりにかけ離れていた。
硝子がわざとらしく嘆息する。わたしの回りくどい言い方が癇に障ったのだろう。
「分からないわね。先生の言葉に嘘がないなら、一体何が問題だと言うの?」
一歩ずつ、幻影に迫る。造り物のように精緻な顔は、もうすぐ目の前にあった。その瞳に吸い込まれそうになりながら、わたしは彼女を行き過ぎると、ガス灯から数歩離れたところで立ち止まった。
「ああ、嘘はないさ。先生の言うことだからな。
あの男は詭弁も弄すれば隠しごとだってするが、嘘だけはつかない。だから問題なんだ 。
あれがお前の文じゃないとして、昨年度には噂にすらなっていなかったから、早くても春休みか、今年度になって刻まれたんだろう。わざわざあんな意味深な文を選んだ以上、お前の遺書を装う意図は明らかだ。
だとすれば、誰が、何のためにそんなことを?」
彼女に背を向けたままそう呟く。そんなのは嘘だ。わたしの後ろには、本当は誰もいやしない。
それでも、わたしは振り返り、彼女の姿を
心臓痕硝子が、まっすぐにわたしを見ていた。
――わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。
生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか――
「――種を蒔いたな、心臓痕」
「やめてよ、そんな呼び方」
愉しげに、彼女はそう答えた。
「テーブル・ターニングは、去年にも一度話題になったらしいな」
それどころか、あの儀式は何十年も前から連綿と学院で受け継がれて来たらしい。わたしたちの代は、心臓痕硝子という明確な死の
しかしそれは、硝子の瞳を知らない下級生に対して逆効果だった。そして、ただの怪談に過ぎなかった交霊会は、特定の個人を呼び出すための降霊術に転じてしまった。
――いや、その象徴を利用した者がいたのだ。
あの遺書を刻み込んだ人間――わたしや鈴白のように硝子に呪われた誰かが、テーブル・ターニングを下級生の間で流行させることで、少女Sへの恐怖を植え付けようとしたのではないか。
「お前には分かっていたんだ。お前の遺書を装った書き付けが見つかることも。霊媒じみた噂話が再び流行ることも。
それだけじゃない。鈴白先生は殺させてくれとお前に懇願した。あの男が
お前はすべて承知の上で、だからこそあの場所から飛び降りたんだ」
言葉が、声が、熱を帯びていく。硝子の行動は、そのすべてが悪意に基づいていたと、わたしは断じ、糾弾した。
「――つまらないわ」
思わず、息を呑む。零れた硝子の声は、本当に退屈そうで。
――硝子の瞳が、ちっぽけで取るに足らないわたしの虚勢を、冷徹に見据えていた。
「本当に、つまらない。
「お前は――!」
掴みかかろうとして、バランスを崩し転倒する。当然だ。そこには誰もいないのだから、何かに触れようとしたところで、叶うはずもない。
――しかし亡霊は、泥に
「弱いわね。貴女はあの男と比べ、あまりに惰弱よ」
心底見下げ果てた様子で硝子が言った。
「いや、そもそも貴女ほど脆い存在もそういないか。
今も、吐き気がおさまらないんでしょう? だって貴女は、この世の何もかもを嫌悪しているんだものね」
こめかみを殴りつけられる錯覚。鋭い痛みに視界が
それでも彼女の瞳の輝きだけは、眩しいくらいにはっきりと網膜まで届いていた。
――すべてを愛した男と、すべてを嫌悪した
鈴白要は、間違いなくわたしの逆説だった。
「生理的嫌悪。人も、物も、出来事も。教師も、友人も、兄も、妹も、両親も。
そして他者を蔑む自分自身にさえ、貴女は堪え難い
でもそれが、貴家いたみにとって当たり前の世界だった。何者も愛せない苦しみこそが、貴女にとってのありのままだった」
歌うような美しい声がわたしを責め立てる。
分かっている。糾弾されるべきは、彼女ではなくわたしの方だ。
「だから貴女は、私という不自然が許せなかった。
いたみは私のことを愛してしまったから。貴女にとって唯一世界を知るための
それでも堪えて、堪えて、堪えて、そしてついに、堪えきれなくなって。
――だからあの日、貴女は屋上から飛び降りようとしたのでしょう?」
そう言って硝子は跪くと、わたしに覆い被さった。
濡羽色の長い髪。病的なまでに白い肌。作為すら感じさせる整った顔立ち。不自然なほどに大きな両の
――好きだった女の微笑が、すぐそこにあった。
無意識に手が伸びる。彼女の頬に触れているはずの指先には、ただ空虚な感覚だけがあった。失われたものの大きさに、否応がなく気づかされる。
自失するわたしを見て、硝子が美しく笑った。そして彼女はゆっくりと顔を寄せると、わたしの耳元で囁いた。
「いたみは、私に赦して欲しいのよ。
貴女は自分のせいで私が死んだと思い込んでいる。だって、あのとき屋上の扉を
すぐそばで、死人の声がする。
――あの秋の日、屋上にわたしを呼び出したのは、ほかでもない彼女だった。
そこでわたしたちは、そのままではいられなくなってしまったから。わたしが、死のうと思ったのに。
――硝子はわたしの代わりに、屋上から飛び降りて、
――わたしはつまらない感傷で、屋上に鍵をかけた。
ロザリオと屋上の鍵は、あのとき彼女自身から手渡されたものだ。だからあんな
ゆっくりと、硝子の身体が離れていく。何の感触もなかったはずなのに、何故か酷く名残惜しかった。びしょ濡れの身体が、今さらのように震え始める。
そんなわたしを満足げに見下ろしながら、硝子は立ち上がった。
「種を蒔いたかと訊いたわね。
でも、気づいているのかしら? いたみはそうやって他人を嘲るけれど、私とただ一人契約を交わした貴女こそ、私が手ずから育て植えた苗であることに」
「そんなこと、分かっているさ」
「わたしはお前が植えた苗で、永遠にお前の瞳の
だから――望み通り、お前の存在ごと消してやる」
虚ろな視界と、酷い頭痛を堪えながら、泥だらけの指先を彼女に突きつける。
心臓痕硝子は悪霊だ。
たとえ彼女がわたしにしか視えなくとも、この呪いは確かに存在する。
「お前が遺した
わたし以外の誰も、二度とお前に囚われることのないように」
それが、わたしたちの
呉れ
――私を、消してくれる?――
硝子の
彼女はまたしても嬉しそうに、それでもどこか寂しげに、わたしへ笑いかけた。
――話は、それで仕舞いだった。
これ以上身体を冷やす前に、わたしはその場から立ち去ろうと踵を返す。
しかし――つい、それを問わずにはいられなかった。
「――なあ。
やっぱり硝子も、わたしのことが好きだったのか?」
半身を返して、彼女にそう尋ねる。
硝子は一瞬、本当に驚いたように目を見開いて、またいつもの小馬鹿にするような顔に戻った。
「さあ。
「――そうかよ」
まったく、訊くだけ無駄だった。
亡霊の哄笑を背に受けながら、わたしは夜道を一人歩く。
――見上げれば、下弦の月が雲間に覗いていた。
わたしは、また一つ呪いを抱え込んだ。呪いを受ければ受けるだけ、
「それでも、きっともうわたしには分からない」
届くはずもない夜空に手を翳す。わたしの恋は、もう二度と取り戻せない。
――わたしたちは、既に死によって別たれているのだから。
『死がふたりを別つから』
第一章「交霊会-Agape-」了
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