第2話

 「な、んで……?」

 礼は呆然と立ち尽くしていた。彼女の目の前には「喫茶ビードロ」の看板がある。思わず、喫茶店の扉を開けると以前来訪した時と変わらぬベル音が店内に鳴り響く。


 カランカラン。


「やあ、いらっしゃい」

 オーナーはニコニコと礼を迎えたが、彼女はやはり腑に落ちない様子だ。それを敏感に感じ取った男は彼女のために椅子を引きながら口を開く。

「どうやら、あの一件は原因ではなくだったみたいだね」

「要因……?」

「そう。礼は例の男と蹴りをつけたんでしょ?」

「はい」

 礼は鞄を隣の席に下ろしながら答える。

「暫く看板も見なかったし、もう大丈夫なのかなって。もうここに来ることはないのかなって私は思ってたんですけど……」

「今日、見えちゃったんだね」

 オーナーは「不思議だねえ」とおもむろに言った。

「あの、私、今特に問題を抱えていないはずなのに、どうしてここの看板が目に入ったんでしょうか」

 オーナーの吸い込まれそうな黒い瞳をじっと見つめながら問うと、彼もまた彼女をじっと見返した。深淵を覗けば深淵もまた覗き返すかのように。

「うーん、僕の見立てでは、礼の中には常に抱き続けている心の問題があって、例の一件が解決されたことによって、気が緩んで顔を出したからって感じかな?」

 礼はさっぱりわからないといった顔をしながら、オーナーがカウンター越しに出してきた皿に目をやった。

「あ、ニューヨークチーズケーキ!」

「うん、今日はちょっといいチーズケーキが手に入ったからね。このインドネシア産の珈琲と一緒にぜひ召し上がって」

 チーズケーキにフォークを入れ、淹れたての珈琲に口をつける。上品でいて、しかし濃厚な味が口一杯に広がる。きっと、これが幸せだと彼女は思った。

「私が常に抱き続けている心の問題……」

 一口目の余韻に浸りながらこれまでの人生を礼は省みたが、特に問題という問題は見当たらなかった。いじめられたこともなければいじめたこともない。受験で挫折を経験することもなく、何不自由なく育ってきた。こんなに人生が順調でいいのかと心配になるほど困ったことがない。

「やっぱり、私には何も問題という問題は見当たらないです」

「それはそうだよ。だって、自分で思い返せる記憶しか思い返さないからね」

 オーナーの言葉は非常に意味深だった。

「どういう意味ですか?」

「そのままの意味だよ。人間は都合の悪い記憶には蓋をする。最終的には良い思い出ばかりが残ることが多い。これってつまりどういうことだと思う?」

「失敗や挫折のない幸せな人生だと錯覚する……あ……」

 自らの口から出た言葉に思わず驚く。

「そういうことだよ」

 オーナーはニコニコ笑った。

「じゃあ、私が忘れている記憶の中から問題の箇所を見つけ出して、解決するしかないってことですか?」

「そういうことになるね」

「でも……」

 チーズケーキを一口頬張ってから礼は言った。

「私、このままでもいいかなって」

 オーナーはそれを聞いて首を傾げる。礼は珈琲を楽しんだ後に続ける。

「だって、私、ここのスイーツ気に入り始めてるし、珈琲も本当は苦手だったけど、ここのなら飲めるし、それに何より……」

(オーナーがカッコいいし)

「それに何より……なに?」

「オーナーには関係のないことです!」

 礼は顔を真っ赤にしながら、またチーズケーキを口の中に放り込んだ。

「それは、ダメだよ。礼」

 硬い声でオーナーは言った。

「ここのお店は問題を抱える人の手助けをする場所であって憩いの場じゃないんだ。そこを穿き違えてはいけないよ」

「……ごめんなさい」

 しばらく2人の間に沈黙が落ちたが、すぐにオーナーが「ごめんごめん。これはお客さんに徹底しておかなきゃいけないってオーナーになる時の規約に書いてあったから」と笑った。「僕、雇われ店長なんだ」とも。

「記憶を取り戻すというのはとても簡単なことではないから、アルバムを見るとか、実家に帰って両親と話してみるとか、実家の自室に行ってみるとか、そういうことから始めてみたらどうだろう?」

 礼は最後の一口を食べ切り、珈琲も飲み干した。

「確かに、この春は実家に帰ってなかったですし、今度の土日にでも帰ってみます」

「うん、それがいい。きっとご両親も喜ぶんじゃない?」

「どうでしょう?あ、ご馳走様でした」

 鞄の中から財布を取り出し、支払いを済ませて出口へと向かった。先日と同じ場所にはやはりあの老婆がいた。窪んで奥に隠れてはいるが、瞳の光は失われていない。顔には深い皺が刻まれている。彼女を見ていると懐かしいような背筋が伸びるような不思議な感覚がする榊だった。

「それじゃあ、また」

「うん。あなたはきっとまた来ることになる。その時に備えて最高に美味しい本日のメニューを用意しておくよ」

「はい、よろしくお願いします」

 礼はオーナーに微笑んでから、扉に手をかけた。外は相変わらず身体中に纏わりつくような湿り気を帯びていた。大きく深呼吸をしてから帰路へと着いた。


 帰宅した礼は早速母親にメッセージを送る。電車を乗り継ぎ、3時間の距離にある実家は日帰りできるほどの近さではあるが、利便性を考えて大学の近くへ住むことになった。金曜日の夜に帰り、日曜日の夜中に都内へ戻ってくる案が採用され、早速荷造りを始めた。アルバムなど長いこと見ていなかったため、荷造りが進むにつれて楽しみになっていた。


 帰省する当日を迎えた礼は、大学終了後、一度帰宅して講義の資料を部屋に置いた。そして、小さめのスーツケースをゴロゴロと転がして駅へ向かう。左側に目を向けるが、今日は看板が見えなかった。

(問題に向き合おうとしてるからかしら?)

 彼女は立ち止まることなく歩き続け、電車を乗り継いだ。予定通り、夕食は久々の家族団欒となりそうだ。

「ねえね、おかえり!」

 玄関扉を開くや否や、4歳年下の妹が礼に飛びついた。彼女は蹌踉よろめきながらも妹をなんとか受け止め、再会を喜んだ。玄関口まで夕食の芳しい香りが漂っていた。

「今日はねえねの大好物、キッシュだよ!」

「ほんと!?嬉しい!早く食べないとね」

 礼はそう言いながら靴を脱ぎ、スーツケースを自室へと運び込んだ。

「ただいま」

「おかえり」

「おかえりなさい」

 父母が同時に礼に応える。そこには彼女が上京する前の状況そのものがあった。

「ほら、まどかお皿用意して。席に着いて」

 妹は「はあい」と気の抜けた返事を返しながらも母親の言う通り、皿やカトラリーを机上に並べていく。母親がオーブンからキッシュを取り出し、ダイニングテーブルの中央にある鍋敷きの上に置いたところで夕食は完成した。

「はい、どうぞ」

「いただきます」

「召し上がれ〜」

 切り分けられたキッシュを各自で取り、周りにあるサラダやパスタにも手を付ける。久々に口にする母親の味にはやはり何人も敵わない。

「でも、珍しいわね。礼が急に帰ってくるだなんて。しかも、なんでもない日に。彼氏こっちにいたっけ?」

「お母さん、なんでそんな変なこと言い出すかな」

 噎せそうになりながらも礼は反論する。

「あら、彼氏じゃないの」

「違うわよ。単純にちょっとアルバムとか懐かしい思い出に浸りたくなったの。あるでしょ、そういう気分の時。向こうの家には一切そういうの持って行ってなかったから……」

「なるほどな」

 今まで黙っていた父親が口を挟む。

「と、いう訳で私はアルバムを今日からひっくり返します!」

「程々にねえ」

 母親は呆れたような口調で言う。円は「私もやる!」と挙手している。

「じゃあ、円も一緒にアルバムひっくり返そう」

「やったー!」

「円、中間テストの勉強終わったの?」

「中間テストの勉強は終わってるよ〜。この前学年1位取ったからいいでしょ〜」

「確かに、そんな順位取ってたな。お前、いつ勉強してたんだよ」

「ん?だいたい黒板に書いてあることは全部記憶してるし、教科書も1度読めば全部覚えられるでしょ」

「……この子、天才なんだよ」

「そうだった。忘れてた」

 家族全員で円を褒め称えながら、夕食は和やかに終わった。


 お風呂上がりに礼は自室の本棚に仕舞い込まれていた分厚いアルバムを引っ張り出した。どうやら彼女が最初に開いたのは小学校に上がる頃のようだ。まだ赤ん坊の円と一緒に楽しそうな様子が写真に収められている。それから小学校から高校までを一気にアルバムを見た。と言っても、中学生以降は母親が作るのを放棄したようで、写真が束になって挟まれているだけというなんともお粗末なものではあったが。しかしどれも懐かしく、楽しい思い出ばかりだった。そして、抜け落ちていた記憶もあまりない。写真を見ればそれに関連した話がすぐに思い出せた。オーナーが言っていたような記憶の欠如は見つけられなかった。そこで、幼稚園の頃に戻ってみることにした。幼稚園の頃は自我という自我が芽生えていた感覚がなかったので、自然と後回しになっていたのだ。幼稚園の頃のアルバムをめくり始めると、途中までは今までのアルバムと同じように写真がページいっぱいに貼られていたが、ページを捲るにつれて空白が増えていく。ただの空白ではない。元々そこに写真はあったが、あとで取り除かれたような明らかな空白。とうとう最後のページには写真が1枚しか貼られていなかった。そしてその写真は半分、破り取られていた。の隣で楽しそうに笑っている礼の幼少期の様子が収められている写真だった。彼女は背筋が凍りつくような感覚を覚え、アルバムを急いで閉じた。すると、お風呂から上がったばかりの円が部屋にやって来た。


「ねえね〜、回顧は進んでる〜?」

「え、う、うん!まあね」

若干声が上ずっていたが、円は気にせず彼女の隣に腰を下ろした。そして、礼が止めるよりも前に、目の前にあったアルバムに手を伸ばして開けた。そこには当然、破り取られた写真がポツンとあるだけだった。

「え……何、これ」

円は掠れた声で呟いた。2人揃ってその場に縫い止められたように固まっていた。




  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る