第1話

 シトシトと雨が降る6月上旬。梅雨前線が訪れ、例に漏れず今日も雨模様。玄関口で女は傘を手に取り、扉を開けた。


 女の名前はさかきれい。都内の大学に通う20歳だ。実家を離れて一人暮らしをしている。週に1度しかない1限のために今日は大学へ出向く。大学へ向かう途中、ずっと足元へ向けていた目線を、彼女はなんとなく左脇へとやった。すると、「喫茶ビードロ」という看板が置かれた喫茶店が目に入った。

(こんなところに喫茶店なんてあったかな……)

 不思議に思いながらも、その喫茶店から目が離せない。店内の窓際の席には老婆が座っており、じっと彼女を見つめていた。ちらりと左手首の腕時計と確認するが、遅刻ギリギリの時間を指していた。今は諦めるしかなかった。

(今日、大学終わりにでも寄ってみようかな)

 彼女はそんなことを思いながら、大学へ向かう足を止めることはなかった。


 大学終わりに同じ道を通って、右側に目線をやるがどれだけ目を凝らしても朝見た喫茶店の看板は見当たらない。思い違いかと思い、行ったり来たりしていた彼女だが、やはりそこには古びた家屋があるだけだった。

(おかしいな……疲れてたのかな?)

 彼女は首を傾げながらその場を後にした。


 しかし、これは彼女が喫茶ビードロに遭遇した初回に過ぎなかった。

 それから何度か看板を目にすることはあったが、タイミングが合わず、その扉を叩くことはなかった。だが、彼女にとうとう我慢の限界が来た。4度目の看板出現に耐えきれず、1限を放ってついにその扉に手をかけることにした。幸い、今日の1限は出席しなくても良いと教授が言っていたのだ。傘を畳んで傘立てに立てた。


 カランカラン。心地の良い鐘の音色が店内に鳴り響く。少し照明を落とした店内は初めて来たにも関わらず、なんとも言えぬ居心地の良さがそこにはあった。なんとなく、彼女は家を想像したのだった。

「いらっしゃい」

 心地よい低音の声に吊られて前方を見ると、黒いチョッキに白いシャツといういでたちの男性がにこやかな笑顔で榊を見つめていた。黒曜石のようなアーモンド型の瞳はどんな女性をも、いや、人間でさえも虜にしてしまうような、そんな魅力が讃えられていた。短い黒髪は丁寧にセットされ、誰がどう見ても美男だった。

「待っていたよ。ようこそ、喫茶ビードロへ」

 男は拭いていたお皿をカウンターに置いて彼女の前に現れた。身長は優に180cmはあるだろう。160cm弱しかない彼女が彼の顔を見るには見上げなければならなかった。

「こちらへどうぞ、礼」

 名前を呼ばれたことに礼は心臓が跳ねるほど驚いたが、男はそれに構わぬ様子でカウンターの目の前の椅子を引いた。彼女も促されるままに座った。

「はい、これが本日のメニュー。この店にはこれしかないんだ」

「あの、本日のメニューって……?」

「珈琲だよ」

「え?」

 思わず聞き返した礼に対して男は丁寧に答える。

「珈琲だよ。キリマンジャロ産の上質な豆が手に入ったから」

「じゃ、じゃあそれで」

「畏まりました」

 男はニコニコと微笑むと、カウンターへ戻った。

(どうして私の名前を知っているのかしら?彼は何者?それと……)

 礼は首を少し回して窓側に顔を向けた。こちらをじっと見つめる老婆の姿がそこにあった。

(どうしてあの人はずっと私を見つめているのかしら。気味が悪いわ)

 そんなことを思う彼女だった。


 幾分かすると、珈琲の良い香りが漂ってきた。

「お待たせいたしました」

 男は礼の目の前にコーヒーカップとスコーンが置かれたお皿を置いた。

「ありがとうございます」

「珈琲はぜひストレートで飲んでね。……何か色々聞きたそうな顔をしているね」

「あなたは何者なのですか?」

「僕?僕はね……」

 少し悩む素振りを見せる彼だったが本気で悩んでいる様子はない。寧ろどこか楽しんでいるようにも見える。

「ただのオーナーだよ。この風変わりな喫茶店の」

「風変わりな喫茶店?」

「そう。僕があなたの名前を知っていたのも、この喫茶店が教えてくれたからだよ」

 彼は辺りを見渡しながら言う。その目はひどく優しかった。

「それに、この喫茶店は心に隙間がある人が誘われるんだ。悩んでいる時などに看板が目に入るんだよ」

 そう言われて、珈琲の湯気を見つめていた榊ははっとした。

(私、恋愛で最近悩んでたけどもしかしてそのこと……?)

 彼女の様子にオーナーは朗らかに笑って見せた。

「どうやら心当たりがあるみたいだね。どれ、僕にちょっと話してみないかい?なに、他言無用だよ。これでもたくさんのお客さんを相手にしてきたんだから」

 お茶目にウィンクして見せるオーナーに心を開きつつあった彼女はぽつりぽつりと話し始めた。


 礼が所属していたサークルは音楽サークルだった。様々な楽器の演奏者が適当に声を掛け合ってバンドを組む。演奏会等に出演しては解散し、再び結成するといったような具合で活動を行なっていた。勿論、個人で演奏することも可能だ。大抵バンドを組むことになるのは飲み会で意気投合した成り行きが多い。

 ある日、彼女は飲み会に参加していた。隣にはあまり話したことのない同期の男が座った。はじめのうちは緊張していた礼だったが、アルコールが体を巡り、お互いに気分が高揚してきたところで意気投合した。そして、2人でペアを組むことになった。それから学内で時間が合えば練習する日々で、演奏会に向けて努力していた。演奏会が終わる頃にはサークル内でも話題のカップルというような扱いを受けるようになった。お互い満更でもない感じで、付き合うのも時間の問題かと思われた時、事件は起きた。なんと、相手の男が同じサークル内の1年生の女と付き合い始めたのだ。後から聞いた噂話によれば、アプローチをかけたのは女の方で男は圧される形で付き合ったとのことだった。当時、サークルのメンバーは衝撃を受けて男を責めもしたが、実際礼とその男の間には何もなかった。よって、男が「俺は悪くない」と反論してもメンバーは何も言うことができなかった。結局、気まずくなって居場所がなくなった男とその彼女は早々にサークルをやめてしまった。

 礼はそれ以来、悩んでいた。客観的に見て誰も悪くなかった問題。しかし、彼女がメンバーに擁護されたばかりに犠牲になってしまった2人。結局、男とその彼女はすぐ別れたそうだが、キャンパス内で鉢合わせする度に何とも言えない微妙な雰囲気が2人の間に流れることは認めざるを得なかった。しかし、解決方法など見当たらないまま1週間が過ぎようとしていたのだった。


 オーナーは長い指を顎先に当てて、難しい顔をしながら話を聞いていた。

「なるほど。きっとそれがあなたをビードロへ導いた原因だね」

「かもしれません」

 すっかり湯気は消え、冷え始めた珈琲は半分ほどなくなっている。

「礼はさ、その男がサークルをやめた後に、2人で話はしたの?」

「いえ……。メッセージするのも憚られて送ってないです」

「僕は2人で1度話すべきだと思うな。あなたの心情を彼は知らないし、彼の心情もあなたは知らない。そうでしょう?」

「それはそうですけど……」

(お互いの傷を舐め合う真似なんて真っ平御免だわ)

 残りの珈琲を飲み干し、カップをソーサーの上に戻した。

「傷の舐め合いは避けたいって顔をしているね」

 オーナーはクスクスと楽しそうに笑う。

「もう、何で笑うんですか!」

 礼がいじけながら言うと、オーナーは「ごめんごめん」と言いながら続けた。

「礼の顔があまりにもわかりやすいものだから、ついね」

「失礼です」

「だからごめんって」

 男は一頻り笑った後、ようやくまともに言葉を紡ぎ始めた。

「人間、言葉じゃないと伝えられないことが山ほどあるんだよ。状況や性格を鑑みて推測することは可能だ。でも、それは”正解”に限りなく近い推測でしかなくて、結局”正解”ではないんだよ。礼、あなたがこの件で悩むことは、はっきり言おう、不毛だよ。これ以上、悩まないで済むよう2人で話し合ってご覧。怖いだろうけれど、あなたにはそれをできるだけの勇気があるはず」

「ね?」とオーナーはニコニコと言った。綺麗な顔で諭されると、どうにもいけない。彼女は結局断ることができず、珈琲の代金を払ってその喫茶店を後にした。


 外は雨が止んでいた。傘立ての傘に手を伸ばし、滴る雫を見つめる。ふと覆水盆に返らずという言葉が脳裏を過るが、彼女がしてしまったことなど特に何もない。それは彼もまた然り。ならば、正々堂々と顔を付き合わせて、あの日意気投合した飲み会のように感情を曝け出すべきだ。そして、彼女たちは乗り越えなければならない。誰のせいでもない理不尽な問題を。

 礼の表情は、喫茶店に入店する前とは打って変わって明るい。早速、鞄の中に手を突っ込みスマホを取り出すと、例の男の連絡先を探し出して電話をかけた。

「……もしもし?」

 遠慮がちな男の声が耳元で聞こえる。彼女は今にも溢れ出しそうな高揚感を抑えて、答えた。

「もしもし?私、礼よ。あのね、例の件について2人で話したいの。12時半に食堂で落ち合いましょう。それじゃあ」

 男の返事も聞かずに一方的に切った。彼女が振り返ると、そこにはまだ「喫茶ビードロ」の看板はあった。だが、心なしか霞んで見える。礼はそれを寂しく思いながらも、大学へ向かう道を再び歩き始めたのだった。

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