最終話 決断






 ――そうして、翌朝。



 一睡もせず(散々寝たので、眠気が無かったのもあるが)夜が明けるのを待っていた私の元にやってきた日本太郎は、昨日と同じスーツと髪型で、昨日と同じ笑みを浮かべていた。


 案内されるがまま、部屋を出る。外の気配から分かってはいたが、昨日とは違い、外にはもう人の気配はない。実際に下りてみればその通りで、建物の外には誰もいなかった。


 まあ、こんなお偉方がのこのこ来ているのだ。人払いはしっかりやっているだろうし、好奇心は猫を殺すというし……代わりに有ったのは、私がいた時代には無かった、見慣れぬ車であった。


 外車……にしては、些か小さいように思える。だが、日本車にしては何というか……私が知る流行(デザイン)とは、少し異なる。形としてのイメージは、ひし形から……長方形といった所だろうか。



 ――どうぞ、と。



 ホテルマンのように上品に、それでいて落ち着き払った所作で誘導する日本太郎に案内されるがまま、その車に乗り込む。運転席には、目深く帽子を被った男がいた。


 私はさっさと運転席の後ろに腰を下ろしてしまったので、もう私の位置からは、その顔色を伺うことは出来ない。だが、『鬼』の本能が教えてくれる。ただの運転手ではない、ということを。



 ……ボディガード、というやつだろうか。



 実際にその職業に就いている者を見たことはないが、何となく全体の雰囲気で分かる。体格や息遣いもそうだが……気配が違う。さすがに、攻撃的な感じではないが……ふむ、落ち着かん。



「――お隣、よろしいですか?」



 そういえば、車に乗ったのは何時以来だろうかと思っていると、日本太郎が声を掛けてきた。好きにしろと答えれば、「では、失礼致します」日本太郎はそう言って、私の隣に腰を下ろした。



 ――一拍遅れて、車が動き出す。それを感じた私は……思わず、目を瞬かせた。



 何故かといえば、音がしないのだ。何がって、車のエンジン音だ。耳を澄ませば聞こえるが、それでも明らかに小さい。『鬼』の聴力を持ってしてもそうなのだから、私の驚きが如何に凄いかが想像出来るだろう。


 かつて、私が幾度となく乗った車は、こんな静かではなかった。だから、私は車が動き出すまで、車のエンジンは止まっているかと思っていた。故に、私は隣の男を見やった。



「――何か、ご要望でも?」

「何でこんな静かなんだ? 正直、エンジンを切っているモノだとばかり思っていたんだけど」



 私の質問に、日本太郎は……おそらく初めて表情を変えた。それは侮蔑的なものではなく、予想外の質問に困惑する発表会の学生みたいであった。



 ――こいつ、こんな顔も出来るのか……いや、この人たちとて人間か。



 官僚と呼ばれる人が見せた意外な反応を前にして、逆に私の方が驚きに目を見開いていると、日本太郎はハッと我に返った。直後、些か居心地悪そうに居住まいを正した後、「そう、ですね。あの時代には無かったものです」そう言って今しがたを誤魔化した。



「車の名称は省きますが、今の車の主流はかつてとは違い、ハイブリットと呼ばれる技術が使われています。車内を含めて静穏なのは、そのおかげでしょう」

「はいぶりっと?」

「要は、電気モーターとガソリンエンジンとを連動させた、新しい構造の車のことです。無学ゆえ、その構造原理まではわたくしにも……申し訳ありません」



 そう言って頭を下げる日本太郎に、「説明されても理解出来ないから、それでいい」私は幾分か慌てて頭を上げさせた……あと、場の空気を変えたい意味もあって、ふと思いついたことを口にした。



「ところで、こういう時って、リムジンとかそういうので移動するんじゃないの?」



 別に、これといった根拠はない。ただ、ドラマや漫画なんかでは要人が移動する際はリムジン等のどでかい車で送迎されるイメージがあったから、そう思っただけである。


 別に、乗りたいから口にしたわけではない。いや、興味はある。というか、今の人達がどうなのかは知らないが、少なくとも私がいたあの時代では、リムジンに乗るのは一流……つまり、エリートの証であり、特大のステータスでもあった。



「ご希望でしたら、ご用意致しますよ」

「――嘘だろ!?」

「嘘ではありません、今すぐは無理ですが、ご用意出来ますよ」

「お、おお……り、リムジン……!」



 だから、己は一生その機会はないだろうと思っていた。それは私が『鬼』であることとは関係なく、かつての『俺』も同様で、己にはけして届かない世界であると思っていた。


 それ故に、こうもあっさり機会が巡って来るとは……いったい、どんな運命の巡り合わせだろうが。『初リムジン』という響きに思わず私は唾を呑み込んだ……その直後。



「――ただし、非常に目立ちます。どうあっても注目を浴びることとなりますよ」



 一つ、これを頭に入れておいてください。そう前置きされた私は……思わず、日本太郎を見やった。「……今でも、目立つの?」恐る恐る尋ねてみれば、日本太郎ははっきりと頷いた。



「はい、目立ちますよ。貴女がいた時代に比べれば人々の注目は集まりませんが、絶対ではありません。やはり、何時の時代もリムジンは目立ちます」

「……なら、いいや」

「ご賢明な判断、感謝致します」



 何だか、気が抜ける。どっさりと座席に身体を預け、脱力する。さよなら、リムジン。そう、心の中で呟く私を他所に、車は相変わらずの静けさで走り続けた。







 ……。


 ……。


 …………そうして、案内された場所は、だ。


 かつての『俺』では眺めるだけでそのフロントにすら入る勇気(理由もなかった)が持てなかったホテルの、最上階であった。いわゆる、三ツ星ホテルと呼ばれているやつであった。


 中は、私が想像しているホテルよりもずっと広く綺麗で豪奢で、学生時代に一度だけ行った新潟のホテルよりも凄かった。ここで凄いという感想が出る辺り、己の貧困な語彙に情けなくなったが……まあいい。


 ちらほらと見受けられる客の身なりは、富裕層のソレだ。誰も彼もが綺麗な恰好をしている。そこに老若男女の違いはなく、一目で一般階級でないのが見て取れた……と。


 私の……いや、違うか。私の隣に立つ、日本太郎を見て気づいたのだろう。フロントにいた受付の一人(初老の男性)が、小走りでこちらに近寄ってくる。「――少々、お待ちを」こちらを見下ろした日本太郎は、そう言い残してそいつへと駆け寄った。


 ぽそぽそと、こちらに聞こえないように何かを話し合っている。おそらく、私に余計な情報を与えない為なのだろうが……あいにく、『鬼』の耳は並ではない。声を潜めたところで、私の耳はばっちり二人の会話を聞き留めていた。



(……へえ、わざわざ最上階のVIPルームを取ってくれたのか……まさか、この私がVIPに入る日が来ようと思わなかった)



 まあ、だからといって何だという話ではある。見方を変えれば、それだけ日本太郎たちは私を恐れているということなのだろうから……仕方ないか、と私は一人納得すると、ホテル内をぐるりと見回した。


 私がいるのは、正面入り口より奥へと進み、フロントの受付より少しばかり離れた場所だ。どうやら二階以降に寝泊まりする部屋が設置されているらしく、一階はレストランを始めとした飲食店等があるようだ。


 私がいる位置からは、レストランの中がどうなっているかは見えない。ただ、ある程度は見える。ちらほらと見え隠れする親子連れのその顔には、満面の笑みが揃っていた。



(……レストラン、か)



 傷一つない滑らかな床を、ぺたぺたと歩く。その時初めて、私は己が素足であることを思い出す。というか、あの家には私に合う靴など無かったから、その時からずっと素足だった……まあいいか。



 このレストランは人気なのか、入口と思わしき場所の傍には椅子が設置されていて、そこには既に……4人腰掛けていた。また、空いている椅子の上にはメニューが置かれていて、並んでいる間に見られるようになっているようだ。



 ……並ぶつもりはないが、こういうホテルではどのような料理が出されるのだろうか。



 気になった私は、一つ手に取って開いてみる……間を置いてから、「うわぁ……」思わずため息を零した。何故かといえば、そこに記された料理があまりに美味しそうなのもそうだが、何よりも……値段が高かったからだ。


 ハンバーグ一つが、かつての『俺』の二日分の値段だ。そりゃあ、高いのは想定していたが、それでも高い思ってしまうのは、私が貧乏性なのだろうか……いや、ここが三ツ星だからか。


 正直、食べてみたいなあ、という気持ちにはなった。でも、次から次へと我が儘を言うのは、何だか違う気がする。そう思った私は、少しばかりやるせない気持ちになりながらも、メニューを置いてその場を―ー離れようと、した。



 ――何あれ、いやぁね。小汚い恰好で、何処から入って来たのかしら?



 だが、離れる前に。私の耳が拾ったその声に、私の足は止まった。振り返った私の視線の先には……世辞抜きで身なりの良い恰好をしている、二人の婦人が、ソファーに腰を下ろしてこちらを見ていた。


 そこは、おそらく待合席というか、待合スペースみたいな場所なのだろう。幾つか置かれたソファーには婦人の他にも何人か腰を下ろしており、その視線の先にはテレビ(に、してはずいぶんと薄っぺらいテレビだが)が設置されていた……いや、そうじゃない。


 私が見ていることに気付いているのかいないのか、婦人の二人はこちらに視線を向けては何かを囁き合っている。その内容は聞いていて気持ちの良いものではないが……まあ、致し方ない。



 実際、今の私の身なりは酷いモノだ。客観的に見れば、今の私はこの場においては場違いでしかない。



 ホテルマンを含めた関係者には事前に話を通しているのか、私を見ても何ら反応を見せたりはしないが、客たちは違う。


 婦人たちに限らず、私に気付いた彼ら彼女らは不思議そうに、あるいは訝しんだ様子で私を見ている……その事には、ホテルに入った瞬間から気付いていた。



(……まあ、あれじゃあ軽く小突いただけで死にそうだしな)



 でも、それで何かをしようとは思わなかった。「――こちらにおられましたか」とりあえず、幾分か慌てた様子で私の元に駆け寄って来た日本太郎の顔色を見て、溜飲を下げておくことにした。







 さて、ホテルマンに案内された最上階のVIPルームは、VIPと名付けられるだけあって、豪奢であった。何処を見ても、見上げても、見下ろしても、三ツ星の自信に満ちていた。


 細工が見事な照明器具には、汚れ一つない。手間の掛かった壁紙も同様に、床だって埃一つ見えない。置かれているベッドは私が4人で寝てもまだ余裕がある程に大きく、傍のソファーですら、一般的なベッドよりも寝心地が良さそうであった。


 まるで、映画の中の世界がそのまま表に出てきたようだ。一泊何万……いや、何十万するのだろうか。「――ご希望に添えられましたでしょうか?」正直、入るのに気後れしていると、私の後から部屋に入って来た日本太郎が尋ねてきた。



 いや、まあ、部屋の質は考えていなかったから、別に何でもいいのだが。



 そう言い掛けた私ではあったが、それを口に出すことはしなかった。「それでは、入浴が終わられましたらそこの内線をお使いください」けれども、それで十分だったようだ。日本太郎はそれだけを言い残すと、部屋を出て行った。



 ……。


 ……。


 …………風呂は、まあ豪華というか、大きかったという以外の感想はなかった。風呂に入っているというより、温水プールに入っているような気分ではあったが……まあ、身体を洗えれば一緒だ。


 おそらくは綺麗になったであろう全身を(鬼の身体の弊害なのだろうが、お湯に何時間浸かろうが温まった感覚がないのだ)タオルやらドライヤーやらで乾かした私は、内線電話の傍に置かれたメモの指示通り、日本太郎へと連絡した。



 ……すると、おおよそ2分程あと。部屋の扉がノックされた。



 どうぞ、と促せば、失礼します、という言葉と共に日本太郎が部屋に入って来た――が、私の姿を見て、ピタリと動きを止めた。「……どうした?」何か有ったのかと首を傾げれば、「いえ、失礼しました」再起動を果たした日本太郎と、その後から続々と女性たちが入って来た。


 その女性たちは、ハンガーラックを押している。ラックには様々な衣服が掛けられている。合わせて、大量のアタッシュケースを乗せた台車が室内に通され……私だけだった空間が、少しばかり手狭になった。


 姿勢良く直立する女性たちと、同じく直立する日本太郎。対して、仁王立ちする私。映画の中の世界に現れたギャグ漫画みたいな構図だなと思っていると、「……わたくし、席を外しますので」恐る恐るといった様子で日本太郎が頭を下げて来た……え、何で?



「いえ、その、気になさらないのであれば構わないのですが……」

「あいにく、男も女も私にとっては些事みたいなものだよ。あんたが気になるなら、席を外せばいい……別に、暴れたりはしないから」



 それだけを告げると、私は日本太郎の脇を通り過ぎて女性たちの前へと来る。事前に私の話は聞いていたのか、少しばかり緊張しているのが気配を通じて分かる……なるほど、ただのホテルマンではないわけか。


 しかし、ハンガーラックに掛かっている衣服は分かるが、その傍のアタッシュケースは何だろうか。気になって見やれば、察した女性たちの内の一人が、一つを手に取って私に見えるようにケースを開いた。



 ……中に入っていたのは、下着であった。「……おお」それを見て、思わず私は手を叩いた。比較的裸であったり半裸であったりすることが多かったせいで、すっかり忘れていた。



 下着の種類は、様々であった。細かく刺繍が施されたアダルティなものから、子供っぽいものまで。知らないキャラクターがプリントされているものから……おお、褌まであるぞ。


 他のケースには、多種多様な香水や、宝石(いわゆる、ランジェリーだ)、靴等が入っていた。そのどれもがテレビの向こうに有ったものばかりで、私の目には逆に玩具に見えてしまう。


 考えてみれば、特に好みがどうとか伝えていなかったら、どれか一つでも該当するように厳選したのだろう。ちょっと悪い事をしたかなと思いつつ、私はまず並べられたハンガーラックへと歩み寄った。



「――そういえば、銀二さん……いや、銀二のやつは、大病を患っていると、話していたよね?」

「はい、左様でございます。わたくし共が把握している限りでは、余命幾ばくもないとか……」



 選ぶモノは、もう決まっている。とはいえ、無言のままにいるのも何だと思った私は、少しばかり気になっていたことを、背筋を伸ばしたままの日本太郎に尋ねた。



「病名は?」

「幾つかありますが、直接的に命を蝕んでいるのは『癌』です」

「……直接的でないのは?」

「有り体に言えば、精神病です。極度の鬱に不安障害、妄想に幻覚……はっきりしているのだけで、七つの診断が下されています」



 あの、銀二が……脳裏に浮かぶ当時の姿からは、想像が付かない。いったい、銀二の身に何があったのかと尋ねれば、「少し、長くなります」日本太郎はそう前置きをしてから語り始めた。



「既にお察しの通りだとは思いますが、彼はかなり早い頃から同隆会と繋がっていたようです。そして、死を偽装して名を変えた後、見返りとして、立場上『新入り』でしかない彼は幹部の一人に名を連ねたそうです」


「裏切りという行為はまた別として、彼は大変優秀な男でした。わたくし共が把握しているだけでも、幾つかのシマ(いわゆる、業界用語で縄張りのこと)を手中に治め、瞬く間に組の中で発言力を増していったそうです」


「少なくとも、貴女様が起こしたあの事件の時にはもう、同隆会の中ではNo.2……次期組長候補として最も有力視されており、順当に行けばそのまま組長になっているはず……でした」



 そこで、日本太郎は一旦言葉を止めた。合わせて、これはと思えるドレスを手に取った私は、それを傍の女性に手渡し、次いで、下着に視線を向ける。



「――ですが、その事件を契機に……様子を一変させるようになったそうです」



 あまり線が見えず、けれども完全に見せないわけではない。細いが細すぎず、刺繍だってくど過ぎない程度のモノ……まるで、あの時に戻ったかのような気分だ。



「おそらく、監視カメラに残されていた映像を見たのでしょう。それからはまるで人が変わってしまったかのように周囲を恐れるようになり、酷く臆病な正確になってしまったそうです」


「わたくし共の世界に限らず、臆病であることはけしてマイナス要素ではありません。しかし、度が過ぎればそれはマイナスでしかなく……彼の具合は、マイナスへと振り切ってしまっていたそうです」


「最初は、他者を恐れて一人では行動しないようにしていただけのようです。ですが、徐々に悪化し始めたらしく、傍に誰も……特に女性を置くことを恐れるようになり……最後は、11歳の女子小学生を暴行して、刑務所行きです」



 選び取った下着を身に着ける。次いで、香水の入ったケースへと向かう。眼前にて提示された香水瓶の隣には湿ったパフが置かれていて、その一つ一つが異なる香りを漂わせていた。



「その後の彼の経歴は、一言でいえば転落です。裏稼業に従事する者が転落というのも不思議な話ですが、時期が悪すぎました。当時、世間は暴力団追放運動が盛んで、どの組も事件を起こさないよう気を張っていましたから」


「事件一つとっても、裏稼業の世界では扱いが違います。その中でも、児童暴行は最悪です。只でさえ追放運動が盛んな中、例え幹部であろうとも組を破門され、追放されるのは当然の結果でした」


「それが原因かはわたくし共も分かりません。ですが、破門された彼は明確な精神疾患の症状を見せるようになり、裁判の途中で入院。その後、判決が下されましたが、もはやまともに他者と会話することすら出来なくなっているようで、それから一度として病院を出たことはないそうです」



 見つけた香水を、一振り。次いで、ドレスを身に纏う。女性たちの内の一人がいつの間にか用意していた姿見で、全身を確認。前も後ろも横も、しっかり『女の矜持』が固まったのを見やった私は……次いで、宝石に手を伸ばす。



「治療は一進一退のまま、時は流れ。『癌』が発見されたのは、半年前だそうです。長年、精神疾患のせいでまともに食事が取れていないせいでしょう。治療に耐えられるだけの体力がないらしく、鎮痛処置以外は出来ないそうです」


「そのせいで、今の彼はかつてとは別人な程に痩せ衰え、実年齢よりも10歳以上は老けて見えるそうです。自力では立つことすら出来ず、点滴と流動食でどうにか……」


「医者の見立てでは、もうひと月も持たないそうです。『癌』に蝕まれているのもそうですが、何よりも生きる気力を失っているらしく……おそらく、会えるのはこれが最後だと思われます」


 髪は、下手に細工はせず整えるだけ。ピアスも、私には似合わない。ネックレスを首に掛け、並べられた様々な靴から……ドレスに合う、パンプスを履く。ハイヒールは、私の柄ではない。


 あの時、よく使っていた色合いの口紅を差す。頬紅は、いいだろう。右に左に前に後ろに、全身の準備を終えた私は……着替えはじめてから初めて、日本太郎へと向き直った。



「――用意は出来た。連れて行ってくれ」

「畏まりました。近くの病院に彼を移送させております。ここからですと、おおよそ20分程になります」

「頼みます――ケジメを、付けに行きます」



 率直に願った私の言葉に、「後悔の無いよう願っております」日本太郎はそれだけを告げて、頭を下げた。





 ホテルに向かう時と同じ車に乗り込み(当然、運転手も同じであった)、そのまま静かな車内で揺られること、20分。「――到着、致しました」その言葉と共に日本太郎に手を引かれて車を降りた私の前に有ったのは……小さな、診療所であった。


 いや、それは診療所というよりは、廃業して放置された建物、という方が正しいのかもしれない。病院だと日本太郎は話していたが、私の前に建っているそれは、あまりに寂れ過ぎていた。


 外から確認出来る茶色く変色した窓もそうだが、全体的に、建てられてから相当な年月を経ているのが、素人の私にも見て取れる。実際にもう使用されていないのか、敷地内に見られる駐輪場には自転車一つ止まっていなかった。


 案内されるがまま、敷地の中を進む。既に、日本太郎のお仲間が先行しているのか、扉は開け放たれている。「そのまま、まっすぐお進みください」背後の声に従うがまま中に入った私は……思わず、目を見開いた。



 一言でいえば、そこは懐かしい風景であった。



 まだ、私が『俺』であった頃。その、子供の時に何度か来たことがある、病院の風景、そのままだ。まるで、あの時代にタイムスリップしたかのような気分に、私は足を止め……大きく、息を吸った。



「……すみません、彼はもう話せない身ではありますが、その立場上、一般の病院を使うわけにはいきません。なので、このような場所しか……どう、致しましたか?」



 それを見て、何を勘違いしたのか。申し訳なさそうにする日本太郎の姿に、私は……我ながら何様だとは思いつつ、「いや、大したことじゃないよ」苦笑を零し、歩き始める。


 二階は使用しておらず、銀二がいるのは一階の通路奥。病室というよりは、職員の仮眠室として使われていた部屋らしい。そこにベッドともども搬送しているらしく、時間にして1分15秒ほど歩いたところで……扉の前に立った。



 振り返った日本太郎は、何も言わなかった。ただ、静かに頷いただけ。けれども、それで十分だった私は、一度だけ深呼吸をした後……ゆっくりと、扉を開けた。







 ……そうして私の前に姿を見せた銀二は、私が知る『銀二さん』ではなくなっていた。





 広さにして、8畳分だろうか。何もないガランとした部屋に置かれた簡素なベッドの上で、銀二は目を瞑っていた。身体の至る所から伸びる管は点滴やら機械やらに繋がっていて、心電図の音が規則正しく室内に響いていた。



「…………」



 言葉は、出なかった。無言のままに、歩み寄る。そうして、改めて見えてくる。髪はまばらで真っ白で、酸素マスクに覆われた顔は小さく、頬はこけていて骸骨のよう。掛布団からはみ出ている首元は皺だらけで、内臓の形がはっきりと見える。



 死に瀕した者。死を目前に控えた者。そして、信頼を裏切った者。



 様々な言葉が、私の脳裏を、胸中を、過って行く。けれども、不思議と……それが、私の口から出るようなことは無かった。


 『鬼』の力を使わなくてもいい。少女のように非力さで、このマスクを外す。見た目相応の手を伸ばし、身体に刺さった管を抜く。たったそれだけのことで、こいつは死ぬ。


 私を裏切り、ママさんたちを裏切り、皆を殺す手助けをして、その結果、裏社会を駆けあがろうとした男が……今では、ちょいと指を捻るだけで、命を落とす。



(……なんと)


 軽い、命なのだろうか。



 死の臭いを立ち昇らせている眼下の老人を見やりながら、そう、私は思った。



 ママさんたちも、お姉さん方も……ミキちゃんも、あっさり死んだ。あの男も、私意外に知られることなく息を引き取った。そして、私の大事な者たちを結果的には殺したこいつも……もう、死ぬ。


 私は……気付けば、手を伸ばしていた。眠り続ける銀二の首へと、その指を掛けた。その瞬間、背後の者たちが僅かに身動ぎしたのを感じながら、私は、その掛けた指先を。



「……憐れなやつだ」


 そっと……外した。それが、私にとっての契機であった。



 結局、銀二が何を想ってママさんたちを裏切ったのかは分からない。日本太郎の情報が事実であるならば、成り上がる為の踏み台にしか過ぎなかったのだろう。



 だが、それはあくまで日本太郎とその後ろにいる者たちの見解だ。



 真実……そう、銀二が本当に願っていたモノが何だったのか。何を得る為に、何を掴み取る為に、信頼していた者たちを裏切ってまで手を伸ばした先に……何を見ていたのか。



 それはもう、おそらくは、永遠に分からないことなのかもしれない。



 だが、もう、分からなくていい。全ては、終わった事だ。ここにいるのは過去の幻影、過去に追い付かれた残骸。死にかけている老体に背を向け、さっさと廊下へと出た私を……日本太郎が、追いかけてきた。



「――よろしいのですか?」

「いいよ。あいつはもう報いを受けた」



 何が、とは尋ね返さなかった。言われなくとも、言わんとしていることが分かったからだ。



「報い、ですか?」

「そう、アレはもう死んで……いや、ちょっと違うか。アレは、死を願っている。開放されるのを待ち望んでいる骨と皮の塊さ」

「骨と、皮?」

「放っておけばいいんだよ。死にたいのなら、勝手に死なせておけばいいってことだよ」



 はあ、と。横目で見やれば、呆気に取られた様子の日本太郎と視線が合う。二度目となる、作り笑いではない、素の表情を見た私は……そのまま外へと出た……と。



 ――ひらり、と。



 頬に当たる雪に、顔をあげる。何時の間に雲が出ていたのか、雲一つ無かった晴天は陰っている。ぎゅっと押し固めたような彼方から、押し出されたように幾つもの雪が街中に降りているのが見えた。


 山奥で見た雪も、ここで見る雪も違いはない。有るとしたら、粒の大きさぐらいだろうか。手をかざせば、雪は残ることなく私の指先に溶けて、見えなくなる。


 冷たくは、ない。鬼の身体は頑強だ。「――ここでは、これが初雪です」傍の日本太郎は少しばかり寒いようで身震いしているが、私にとっては、この程度は春のそよ風にも等しい。



「あんたらは、私に何を望む?」



 振り返ることなく、私は尋ねる。我ながら言葉足らずだとは思うが、さすがは官僚の一人と思われる人物だ。「……特に、難しいことではありません」1を聞いて10を推測した日本太郎は、限りなく正解に近い返答をした。



「わたくし共が求めるのは、ただ一つ。『あくまで中立の立場を貫いて貰いたい』、ただそれだけであります。中立でいらっしゃるのであれば、何をしても構いません」



 ただ、出来ることなら反社会的行為は慎んでほしいと、お願いはしますけど。その言葉に、私は小首を傾げた。



「中立、と、いうと?」

「率直に申し上げますと、困るのですよ。下手に貴女が特定の勢力に加担されますと……バランスが崩れてしまいます」

「バランス?」

「貴女は、言うなれば自我を持つ人の形をした戦車であり、鋼鉄の猛獣。熱気にも冷気にも強く、銃器では歯が立たない。その手足は人体を容易く引き千切り、人並みに知性を働かせる。それを、私たち人間は……怪物と呼ぶ」

「――中々言うね」



 思わず苦笑する私に、「仕方ありません、事実ですので」そう、日本太郎は言葉を続けた。



「なりふり構わなければ、対処は可能でしょう。ですが、成功する保証はない。それに、周囲への被害を考えれば現実的ではない。そんな存在が、どこぞに加担しようものなら……待っているのは裏社会の、泥沼な勢力争いです」

「へえ、そう……私の事を過大評価し過ぎなんじゃないかい?」

「『安全』というのは、ただ確保すれば良いだけではありません。例え見せかけだとしても、今日を怯えずに過ごしていられる、いや、怯えるという考えすら思いつかない……それが、本当の意味での『安全』というものなのです」



 ――それこそ、過大評価というやつだよ。



 そう言い掛けた私だが、それを言葉に出すようなことはしなかった。けれども、それは紛れもなく私の本心であった。



 だって、私はずっと蚊帳の外だったのだ。



 あの事件自体は私が起こしたモノだが、それ以外はその詳細すら私は知らない。どの組織がどう絡んでいたのかも、ママさんたちが裏でどんな駆け引きをしていたのかも、私は知らない。


 自ら離れ、ようやく前を向こうとした時にはもう、全部が終わってしまった。結局の所、この話はそれが全てなのだ。


 だから私は、それ以上を日本太郎に尋ねようとは思わなかった。日本太郎も、それ以上この話題を話そうとはしなかった。ただ、思い出したように、「――ああ、そうそう。その服はお渡しします」私が纏っている衣服を指差した。



「お近づきの証というわけではありませんが、ご自由になさって結構です」

「へえ、いいの? けっこう高そうだけど、手入れなんて全くしないからすぐにボロボロになると思うよ」

「構いません。貴女が中立を保持してくれてさえいれば、それぐらいお安いものです……ところで、貴女様が着ていたあの衣服……ゴミ箱に入れられていましたが、どう致しますか?」

「そのまま処分してほしい。あの男は、それを望んでいた。私の心にあの男が刻まれている……それでいい。だから、処分してくれ」

「――畏まりました」



 それが、この場においての日本太郎の最後の言葉であった。もしかしたら、またどこかで何かの拍子に、あるいは向こうから、それとも私の方から……出会うかもしれない。しかし、それは今ではない。


 敷地の外に出れば、ここに来る時に乗っていた車の運転手が、こちらを見ている。


 視線を返せば、彼は車の扉を開けた。私が首を横に振れば、彼は扉を閉め、深々と頭を下げた。正直、顔も知らない相手から頭を下げられるのは嫌でしかないが……まあいい。



 彼らに背を向け、歩き出す。行き先は……どこが良いだろうか。



 もう、この街に私の場所はない。ママさんたちと過ごしたビルも無くなり、当時を知る者たちだって、言われなければ思い出せないぐらいの彼方になってしまった。


 私も、結局は幻影だ。かつての『俺』の親だって、もう生きてはいないだろう。それに、この姿で会いに行ったって信じて貰えないだろうし……所詮は、今更だ。



 ……でも、私は……あそこが好きだった。いや、今も、あの時の思い出が、私の中にある。



 そう思った時にはもう、私の心は決まっていた。と、同時に、私は気付いた。ひたりとアスファルトを踏みしめた、自らの足を見つめる。次いで、私は雪の降る曇り空を見上げ……笑みを零すと。



「そうだね……天秤になるのも、悪くない」



 それだけを呟いて……再び、歩き出すのであった。



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