第11話 真実

 



 私が、私としての自己を取り戻してから、すぐの事。今更な話ではあるが、私は自らの身体に起こっている二つの変化に気付いた。



 まず一つは、『日の光』を浴びても何の問題も起こらなくなったということだ。



 以前の私……逃げる前の私は、日の光が大嫌いであった。



 この身体を寄越した者が残した注意書きにも『日の光が弱点』とあったし、実際に試して酷い目にあった。


 だから、私は日中に出歩くことを極力避け、どうにもならないときはパーカーや日傘などを使って徹底的に日差しを避けていた。



 けれども、今は平気なのだ。



 日の光を浴びた以前の時は、浴びた部分が焼け爛れた。その激痛は饒舌にし難い程に辛く、一瞬で気絶し、失禁した程のものであった。だが、今はそれがない。


 どれだけ日の光を浴びても平気だし、肌が焼けることはない。いや、むしろ心地よいとすら思え、森の中を歩いている時は、わざわざ日向を目指して歩くぐらいだ。



 どうしてそうなったのかは、正直、私には分からない。さらに、もう一つの変化は……あれほど私を悩ませていた『様々な衝動』を、感じなくなったという点だ。



 いや、これは感じないというより、落ち着いている、という表現が正しいのかもしれない。とにかく、自分でも不思議に思えるぐらいに私は落ち着いていた。


 半日飲まなかっただけで、飲みたくて飲みたくて仕方なかったのに、今はそれがない。皮膚を突き破って外へと溢れ出さんばかりに激しかった闘争心すら、今の私にはない。


 そりゃあ、向かって来る相手を前にすれば、心は躍る。殺してやろうとは思わないが、その全力を受け止めてやりたいという思いは今もある……でも、それだけ。



 とても……とても、心が平穏であった。



 あの時の涙と共に、全てを流し出してしまったのか。それとも、あの男が一切合財を連れて逝ってしまったのか。あるいは、無意識の内にまたもや忘れたふりをしているのか……それは、私にも分からない。



 分かっていることは、ただ一つ。



 それは、私が、私を、受け入れたということ。『俺』であった時の私も、『鬼』である私も、何も変わらない。ただ、目を逸らし続けていた私自身の醜さを、私は……初めて、あの時受け入れた。



 ――もしかしたら、この変化はその証なのかもしれない。



 そう、根拠は無くとも確信にも似た直感から導き出した答えを胸に……私は、ただひたすら歩き続ける。そうして気づけば、木々ばかりの辺りの景色に、ちらほらと建物が混じり始めていた。


 ……鬼の身体は、人間とは根本から構造が異なっている。見た目は同じでも、その頑強さは常識の外をゆく。山を下りてそのままえっちらおっちら、アスファルトを見付け、そのまま歩き続ける事、丸一日。


 徒歩とはいえ、一度となく休まず歩けば相応な距離になる。見渡す限り人っ子ひとりいない景色に、ぽつぽつと車と人の数が見られるようになってから、数時間。


 家を出発してから、おおよそ三日。辺りはもう真っ暗で、人はおろか車の気配もない。けれども気付けば、鬼の目を持ってしても遠いと思うほどの彼方に、かつて私がいたであろう街並みが広がっていた。



(……残り、70kmか)



 この調子だと、もう二時間も掛からずに行ける。ならば、このまま行ってしまおう……そう判断した私は、こきりと首を鳴らして……歩き始めた。







 ――そうして、いざ、かつての場所へと戻ってきた私が最初に思ったことは……何というか、そうだ。玉手箱を開けた浦島太郎……に近しい感覚であった。





 何故なら、私の中にある景色と、いま現在の景色とがまるで違っていたからだ。具体的にいえば……そう、何もかもが真新しく、それでいて建物の数が桁違いであった。


 頭上を見上げれば、何だろうか。ネオンではないが、きらきらとしている。ガラス……にしては、ガラスとは思えない程に滑らかだ。一瞬、鏡か何かだと思ったぐらいに、汚れ一つ見えない。


 加えて、高さも相当だ。10階……よりもはるかに高い建物の屋上が、私の目を持ってしても見えない。仰け反ってもその頂が分からないそれから視線を外せば……遠くの方で、大きなテレビが有るのが見えた。


 そう、テレビだ。大きなテレビが、ビルの上部に設置されている。今はちょうど夜の情報を流しているようで、神妙な顔をした見慣れぬキャスターがこちらを見つめ、報道を行っていた。


 他にも、似たような高さの建物がゴロゴロしている。そこから視線を戻し、辺りを見回せば……何だろうか、歩いている人々の顔ぶれが、記憶にあるソレとはだいぶ異なっていた。


 一言でいえば、衣服のセンスが違うのだ。私が知る『若者』……つまり、かつての私たちが見に纏っていた流行の衣服と、まるで違う。それも、一人二人の話ではなく……道行く誰もが、似たような恰好をしている。


 加えて……道行く人々の顔には、どうも覇気がない。いや、私がそう感じるだけなのだが……どうも、元気というか、気力を感じない。



(……いったい、何があったのだろうか?)



 とりあえず、人の波に合わせて歩きながら……考える。


 あの家には、カレンダーなる物はなかった。だから、今がいったい何時頃で、私がどれぐらい自我を喪失していたのかは分からない。しかし、相当な年月が経っているのだけは、推測出来た。


 そう……そうだ。私がこの街に居た時は、こうではなかった。そりゃあ、かつての私のようなしみったれた顔をしたやつは居るにはいたが、大半は目をギラギラさせていた。


 今日辛くとも、明日は良くなる。今日頑張れば、明日はもっと良くなる。気力が無くとも、働けば食うに困ることはない。誰も彼もがそう考えていたし、かつての私も……心の何処かで、そう思っていた。


 言うなれば、熱気があったのだ。この街には、強い熱気が渦巻いていた。時にそれを持て余しながらも、誰も彼もが未来に淡い希望を抱いて歩いていた。


 だが……ここには、それがない。そのうえ……人々の顔に浮かぶ表情が、まるで対照的なのも気に掛かる。


 片や、笑みこそ浮かべてはいないものの、人生を楽しめているのが一目で分かる風貌。身なりは綺麗で自身に溢れ、幸せの中をまっすぐ歩いているのが見て取れる。


 片や、笑みこそ浮かべてはいるものの、鬱屈した何かを溜め込んでいるのが一目で分かる風貌。身なりはどこか安っぽく……苦しみと不安の中にいるのが見て取れた。


 そこに、男女の違いはない。だが、よくよく見てみれば……年配に当たる男女ほど、前者の割合が多いように思える。いや、若者の中にもソレに当たる者がちらほらと見受けられるが……うん、やはり年配の方に割合が多い。



(それに、若者の数が何だか……外人も、多いような)



 それに、何だろうか。気のせいならばそれで良いのだが、どうも外人を多く見かける。どうしても目立ってしまう白人や黒人もそうだが、目を凝らせば……中国系らしき集団も、ちらほらと。


 しかも、それだけじゃない。何気なく周囲を見やった私の目に止まる、幾つかの建物。飲食店に金融にコンビニ……それはいいのだが、何よりも注意を引いたのは……点在する、様々な国の言葉であった。


 英語は、分かる。私が『俺』であった時も、英語の看板は至る所で見られた。だが、中国語を始めとして、ちらほらと……とにかく、様々な国のモノだと思われる言語が、至る所で見受けられた。



(……本当に、浦島太郎になった気分だ)



 今は、これが普通なのだろうか。



 何とも言い表し難い感覚に顔をしかめながら、私はそのまま人並みに紛れ、かつて私が働いていたあの店へと――行こうと、横断歩道を渡り終えた、その時であった。



「そこの君、こんな時間に一人でどうかしましたか?」

「――ん?」



 突然、声を掛けられた。振り返った私は……反射的に、うげっと声をあげてしまった。


 何故なら、そこに立っていたのは青い帽子に黒いジャンパーを見に纏った警官だったからだ。しかも、二人もいる。二人とも私よりも頭二つ分以上は背が高く、肩幅だって二回り以上はある立派な男性であった。



 ……よりにもよって、一番面倒なタイミングで、一番遭いたくないやつらが現れやがった。



 反射的に後ずさった私だが、それが悪かったのだろう。朗らかな笑みを浮かべていた二人の内の一人が、実に滑らかな動きで……胸元に取り付けたトランシーバーを使い始めた。



 ――あ、これアカンやつや。応援、呼ばれちゃう。



 そう思った私だが、相手も慣れているようだ。ごく自然に、それでいて有無を言わさずといった調子で回り込んだ警官Aは、「後一時間としないうちに終電だけど、塾の帰り? それにしては手ぶらだし、薄着だけど、何かあったの?」つらつらと話しかけてきた。


 おそらく、家出少女か、訳有りだとでも思ったのだろう。家出少女ではないが、悲しい事に訳有りなのは事実だから上手く言い返せない。


 それが、余計に警官たちの確信を招いてしまったのだろう。「――ちょっと、秋田さん連れてきて。同性の方が、この子も――」何やら意味深な様子で辺りを見回し、トランシーバー越しに名指しで誰かを呼び始めた……ああ、まずい。



(――集まってくる前に、逃げよう)



 下手に固められると、面倒だ。そう判断した私は、どんと地面を蹴って……傍の外灯の上に着地した。「――えっ!?」眼下で、警官たちが騒ぎ始めたのを見やった私は、そのまま数十メートル先へと一息に飛んで……着地した。


 振り返れば、警官Aが走って来るのが見える。だが、タイミングが悪い。ちょうど青信号になったところであり、横断歩道の上で、大量の車が往来を再開し始めた。


 夜とはいえ、ここは大都会。警官が車を止めようと思ったところで、そう上手くはいかない。しかも、何の予告もせずにやれば、事故を誘発しかねない。


 ひとまず、信号が変わるまでは安心だ。後は、このまま人並みに紛れて逃げ切ってしまおう……と、思った時であった。



 ――ぱしゃり、と。



 耳に届いたカメラの……カメラか分からんが、それに近しい異音と光に、私は足を止めた。振り返って確認すれば、私に向かって……何だろうか、かまぼこの板みたいなやつを向けている女と、目が合った。


 途端、その女は狼狽した様子で私から一歩距離を取った――ので、とりあえず私は距離を詰め、女の背後に回った。「ちょ、はやっ!」何やら驚いた様子の女を前に、私は……首を傾げた。



(カメラ……カメラ、なのか?)



 見た所、カメラというより携帯電話に見えるが……それにしては、私の知る『携帯電話』とは形が違う。あんな、かまぼこ板みたいに薄っぺらくはなく、もっと分厚くて大きかったような……ん?



 ――ぱしゃり、ぱしゃり、ぱしゃり、と。



 続けられる異音に、周囲に目を向ける。すると、今しがたの女だけではない。周りにいた者たちが一斉に、まるで事前に申し合わせていたかのように……私へと、そのかまぼこ板を向けてきたのだ。



 何だ……いや、何だ?



 本当に、わけが分からない。誰も彼もが私を見ているのは分かるが、何故撮影しているのかが分からない。男女の区別なく向けてくるかまぼこ板を前に、私は……とりあえず大地を蹴って、傍の店の2階窓枠へと飛び乗った。


 位置的に、外灯よりも少し低い。だが、それでも見た目は少女である私が、軽業師紛いなことをしたからだろう。目に見えて、周囲から向けられるカメラのシャッター音が増え、より多くの通行人たちの視線が私へと……あっ。



(いかん、信号が変わったぞ)



 夜だというのに、警官たちは元気だ。いや、夜だからこそ、なのだろう。建物等の反響によって位置は分からないが、遠くの方からパトカーのサイレンが聞こえてきた……ええい、もう!



 ――たん、と。



 反動で窓が割れないよう気を付けながら、壁を蹴って夜空へと飛ぶ。眼下にて警官Aを始めとした色々な人たちのどよめきが聞こえたが……構わず、人だかりの向こうへと着地した私は、そのまま一気に駆け出した。


 もちろん、まっすぐ逃げようなことはしない。適当な路地へと入り、建物から建物へと飛び乗って移動し、方向を惑わせる。それを続けながら、私は少しずつあのビルへと向かう。


 何もかもが様変わりしてしまったこの街だが、通りの名前まで改定されたわけではないようだ。なので、道に迷う事はあっても、覚えのある通りの名前が記された看板を頼りに走り続け……ついに、私は辿り着いた。



「…………」



 だが、しかし。息一つ乱すことなく、呆然と見上げる私の横を、初老の男女が通り過ぎてゆく。訝しげな視線を向けられているのは分かっていたが、私はそれに気を向けられないまま……こう、呟くしかなかった。



「ビルが、無くなっているじゃないか……」



 何故かといえば、だ。かつてそこにあったビルは影も形も無くなり、代わりに建てられているのは大きなパチンコ店であったからだ。


 パチンコ店の名前は、これまた聞き覚えのない名前だ。真新しく、己が知っているパチンコ店とは何もかもが違う。なのに、自動ドアの向こうに見える多数のパチンコ台と、弾と弾とがぶつかり合う音は……かつてと、何ら変わり――むっ!



「えぇ……何であいつら私の場所が分かんの?」



 遠くの方から近づいてくるサイレンの音に、思わず私はそちらを見やる。一瞬、別件を追っているかと思って肩の力を抜いたが……違った。



 ……間違いなく、こっちに向かって来ている。



 何となく、それが分かる。だって、音がちょっとずつ近づいて来ているからだ。これは早めに逃げないと駄目だと思った私は、とりあえずその場を離れた。



 ……。


 ……。


 …………だが、しかし。私は、なめていた。


 この街の警官たちの、その実力を。かつてとは違い、振り切っても振り切っても、数日後には場所を突きとめられて追いかけられることになるとは……まだ、この時の私は知らなかった。







 ……。


 ……。


 …………鬼とはいえ、無限ではない。何日も不眠不休で歩き続ける体力があるとしても、疲れはする。さすがの私も、走って走って走り続けた後は、眠気の一つも覚える。


 表通り(という言い方が正しいのかは、知らないが)に面した場所は何もかもが一変していたが、そこからそれなりに距離が離れれば、私の知る景色とそこまで変わってはいなかった。


 まあ、それでもあの時有った店が無くなっていたり、あの時駐車場だった場所に建物が有ったり、あの時は通れなかった場所に道が出来ていたりと、それなりの変化はあったが……まあ、とにかくは、だ。


 そこは、相も変わらず住宅街の一角であった。だが、あの時よりもずっと寂れている。立地的にバス停やら駅へ向かうには不便だからだろう。


 あの時寝泊まりにしようしていた建物は無くなっていたが、あの時古い建物だと思っていたソレは、立ち入り禁止の札が建てられていた。どうやら、もうすぐ取り壊しのようだが……私には、都合が良かった。


 鍵が掛かってはいたが力づくでこじ開けた後、私はそのまま……比較的綺麗な一室に忍び込み、そこでぐっすりと睡眠を取った。日数にしてかれこれ15日ぶりの睡眠は実に心地よく、私はたっぷり惰眠を貪ったのであった。






 ……。


 ……。


 …………貪っていた、のだが。鬼の優れた聴覚が拾った、どかどかと階段を駆け上ってくるその音に、目が覚めた。「何だ、工事か……」それなら、もう少し寝かせて欲しいと思った私は、そのまま二度寝に入ろうとした……のだが。



 ――ばたん、と。



 部屋の扉が、開かれた。まあ、ノブを壊して中に入ったから鍵なんて掛けていないし、入ろうと思えば誰でも入れる。


 でも、先客がここに居るんだから、入るのであればもう少し優しく入って来てほしいなあ……と、思いながら薄らと目を開けた、その瞬間。



「――確保ぉおお!!!」



 野太い雄叫びと共に、何かが私に覆い被さって来た。「――っ?」重くはないが、理解が出来ない。寝ぼけた頭で事態を認識する前に、何かの数が二つ、三つへと増えてゆく。


 瞼を開けても、視界は真っ暗だ。何も見えない……まあ、当たり前だ。私の上に誰かが乗っているのだから、それが邪魔をして見えないのは当たり前だ。さすがの『鬼』も、透視能力なんて持ち合わせてはいない。



 ……え、何で私の上に人が乗ってんの?



 そのまま、十数秒程が経って。ようやく己の状況というか状態を理解した私を他所に、外へと引きずり出された両手に……何かが、掛けられた。



 ……あ、これ、もしかして手錠かな?



 それを理解した瞬間、私は軽く身動ぎした。途端、「――っ!?」私の上に圧し掛かっている誰かが息を呑んだのが分かった……あ、この人、女だ。


 重さではなく、感触から分かった。固いプレート(たぶん、防弾チョッキみたいなやつだろう)越しでも、それがよく分かる。たぶん、『鬼』としての本能が、相手が男か女かを判別するのだろう。


 むくりと身体を起こせば、上に乗っていた全員がごろりと私から転げ落ちた……ああ、やっぱり婦警だ。私が女であるから、圧し掛かるやつも女にしたのだろうか。


 鬼を相手に、よくもまあ……一つ、欠伸を零す。「――確保ぉ!」途端、呆然としていた、男の警官が声を張り上げた。一拍遅れて、グイッと手を引かれ、またもや婦警が私に圧し掛かって来た。


 同じ女性とはいえ、婦警と私とでは体格が違い過ぎる。その上、私の両手の先には男の警官がいて、その腕と私との間は手錠で繋げられている。普通に考えれば、私は成す術もなく床に押さえつけられる……ところなのだが。



「――えっ!?」

「何を驚いているのさ。鬼を相手に、怪我させないように手加減しようなんて考えは甘いよ」



 この場にいる警官たちの誰もが考えていた結果には、ならなかった。


 何故なら、先ほどとは違い、私はもう目が覚めている。不意を突かれたならともかく、来ると分かっている私を押し倒そうなどと……出来るわけがないのだ。


 必死に私を押し倒そうとする婦警たちを、逆に押し退けて立ち上がる。その際、私の身動ぎに合わせて引っ張り倒された警官2人の呻き声が上がったが……構わず、私は傍の警官に尋ねた。



「あんたらもしつこいね……別に私が何かしたわけじゃないでしょ。何で、こうまでして私を捕まえたいのさ」



 けれども、そんな私の質問に返されたのは……無言の行動。すなわち、私を取り押さえようとする警官たち(婦警ではなく、今度は回りにいた男警官たち)の突進であった。


 どうやら、一連の流れから婦警では厳しいと判断したのだろう。先ほどよりもはるかに強い突進を受けた私は、思わずたたらを踏んで……四歩目で、静止した。


 私よりもはるかに大きな警官の、ギョッと見開かれた眼と私との視線が噛み合う。


 直後、その警官へとぶつかるようにして、別の警官が押し合いに参加する……と、同時に、両腕が引かれる感触。見やれば、身体を起こした警官二人が必死になって手錠を引っ張ろうとしていた……ふむ。


 グイッと引っ張り返せば、「うわっ!?」警官2人は前のめりになって膝をつく。青ざめた顔の二人だが、それでも諦めずに私の両腕を塞ごうと……頑張っては、いたのだが。



「あのさ、いいの?」

「――っ、――っ」

「私が……ほんのちょっと本気を出せば、木端を散らすぐらいにあっけなく一人か二人は死ぬことになるけど……本当に、それでいいんだな?」

「――っ!?」



 残酷だが、相手が悪すぎた。私が言うのもなんだが、『鬼』を相手に生身でどうにかしようというのが、間違いでしかなかった。


 唖然とする警官たちを尻目に、「ほら、暴れたりはしないから、一旦落ち着きなよ」そう促してやれば……恐る恐るといった調子ではあったが、私を押し倒そうとしていた警官たちは離れた。


 それじゃあ、お次はこっちだ。そう言いたげに両方の手首を軽く振ってやれば、私と腕を繋いだ警官……ではなく、別の警官が鍵を取り出し、手錠を外してくれた。


 その際、私と繋がれてしまっていた警官二人の手首が鮮血で濡れているのが見えた。怪我をしないように内側の金属を丸めてはいるだろうが、それでも腕事振り回されれば皮膚も裂けよう。まあ、勉強代だと思って……ん?



(何だか、外が騒がしいような……)



 廊下側ではない。ベランダの外から聞こえてくる騒音に、私は首を傾げた。私がいるこの部屋は、4階の真ん中だ。入れないわけではないだろうが、外から誰かが入って来るには些か高い。


 気になった私は、さっさとベランダへと向かう。途端、背後の警官たちが慌てた様子で私の後を追いかけて来たが……かまわずベランダへと出た私は、左右のベランダを見てから、地上を見下ろし……おお、と目を瞬かせた。



 何故なら、そこには大勢の人々でごった返していたからだ。



 十人、二十人などという数ではない。パッと見た限りでも、50人を軽く超えている。この建物への正面入り口に立つ警官たちを除いても、それぐらいの人々が集まっているのだ。


 そのうえ、集まっている人々だが……一般人ではない。恰好こそ一般人とそこまで違いはないが、担いだカメラやらマイクやらが……何だアレ、もしかしなくても……マスコミ?



 ――警官なら分かるけど、何でマスコミ?



 意味が分からず首を傾げた私が振り返れば、困ったように互いを見合わせている警官たちと目が合った。その中には、先ほど転がした婦警の姿もあった。



「……とりあえず、逃げたりはしないからさ。私にも分かるように説明してくれないか?」



 そう言って、ぐるりと室内を見回した。



「警官から逃げた小娘一人追いかけて来たにしては、ずいぶんと大掛かりだ。おそらく……っていうか、まず間違いなく御上の御意向が出ているんでしょ?」

「…………」

「ああ、いいよいいよ。無理に返事しなくて。その顔を見れば、だいたい察しはついたから。私、これでも昔は本とか読み漁っていた時期があるから……そのうえで、分からないのが一つ」



 何も言えないでいる警官たち……その中で、おそらくはこの中でリーダー的な立ち位置にいる一人の警官を、指差した。


 途端、指差した警官もそうだが、彼ら彼女らは一斉に目配せし合った。おお、アイコンタクトと感心する私を他所に、無言の間に結論を出した様子のその警官は……一つ、頷いた。



「あんたら、何処から私の事を知ったんだい?」

「……上からの指示だ」



 なので、率直に尋ねてみれば、その警官も率直に返してくれた。「上からの指示、ねえ」たった一言ではあるが、とりあえずはこの騒ぎの原因の一端は分かった。



 でも、上から……はてな、と。私は首を傾げた。



 何故なら、御上に喧嘩を売るような真似などした覚えがないからだ。かつての『俺』も、そんな事をした覚えはない。というか、警官相手にどうこうした覚えすら私には……あっ。



 ――もしかして。



 嫌な予感が、脳裏を過った。いや、それはもはや予感というより、確信であった。でもあれはあくまでヤクザを相手にやったことだし、それでこの人たちが出てくるわけが……そう思いつつ、私は……ポツリと、呟いた。



「もしや、『同隆会』?」



 これで反応すれば、黒だ。そう思ったのだが、この場にいる警官たちは誰一人反応しなかった。「ええ、マジかよ……」もう、それだけで全てを察した私は、困惑に頭を掻くしか出来なかった。


 いや、だって、さあ。昨日のことのように思い出せるが、現実は違う。私が『同隆会』の事務所に殴り込んで虐殺したあの事件から、二十年以上の月日が流れているのだぞ。


 ここに隠れて寝るまでに色々と見聞きしたから、さすがに、今がもう私が知るあの時代でなくなっているのは分かる。分かるからこそ、意味が分からずに困惑するのだ。


 乗り込んできたのが『同隆会』の者たちであったなら、話は分かる。要は敵討ちだ。彼らからすれば私は一方的に喧嘩を吹っかけて部下を殺しまくったやつだから、血眼になって殺そうとするのは想像出来る。



 だが、これが警察なら話は別だ。



 何故なら、私が襲ったのはヤクザの事務所だ。そりゃあ、ヤクザだろうと騒動が起これば警察が出て来ても不自然ではないが、こうまで執拗に追いかけ回すのは不自然だ。


 そのうえ……当時の経緯を知らないであろう若手(知っていたら、婦警をまず私に向かわせるのがおかしい)を連れて来るのもそうだが、銃器一つ使わずに私を取り押さえようとするのだって、あまりに不自然だ。


 これではまるで、逆にこの場の警官たちを殺せと御上が指示しているようなものだ。少なくとも、私の事を客観的に見たら、間違ってもそんな指示を部下にはしない。


 というか、私がその者たちの立場だったら、余計なちょっかいは掛けない。下手に手を出せば、無駄な屍を増やすだけだから。監視ぐらいはするだろうけど、大人しくしている間はそのまま放置して……あ、そうか。



(山奥で引き籠っていた私が、街に降りて来たから警戒したのか。すると、『同隆会』との繋がりが露見する可能性を消したかった……ってことかな?)



 経緯を知る者……は、ママさんたちを含め殺されてしまったが、私がいる。


 しかも、当時と容姿が全く変化していない、得体の知れない怪物が街へと降りて来た……なるほど、ガッツリ関与していた者たちからすれば、戦々恐々といったところだろう。


 見た目は小汚い小娘でしかない私の言葉を誰が信用するのかはさておき、火の無い所に煙は立たないという言葉がある。おそらく、監視カメラか何かで当時の様子を確認したはずだ。


 だからこそ、何処でどう作用するか分からない以上、放置するのは危険……と、判断されたのなら、こいつらが押し寄せてきた理由にも、ひとまずの説明は付く。



 ……もしかしたら、世間を含めて一般には、あの事件はほとんど報道されていないのかもしれない。



 そう思った私は、やれやれと大きくため息を零した。次いで、「この中で、今すぐ上司に話を通せるやつはいる?」全員を見回して尋ねてみれば……私の前にいる、先ほどのリーダーっぽい警官が手を上げた。



「それじゃあ、あんたの上司に伝えてくれ。『私はもう、同隆会のことはどうでもいいし、口外するつもりもない』」



 私の言葉を受けて、その警官は幾分か慌てた様子で胸元のトランシーバーを使い始めた。鬼の私にはノイズがうるさくて上手く聞き取れないが、その向こうで……何かしらの動揺が起こっているのは察せられた。



「『私は、私の思う通りにやる。でも、貴方たちとやり合うつもりはない。今更蒸し返した所で、何かが変わるわけでもない。だから、放って置いてくれるなら、それでいい。でも……それでも、だ。私に対して何かをしようとしたり、私を押さえつけて管理下に置こうと考えているなら……』」



 そう言い終えた直後、私は呆然としている傍の警官の腰から……銃を奪い取る。「あっ!」途端、我に返った警官たちがにわかに殺気だったが……それよりも早く、私は銃口を咥えて頬の内側に押し付け、引き金を引いた。


 最初は、空砲だった。火薬の臭いと風圧とを頬に感じた直後、弾丸が頬に当たって口内を乱打した。それは、一発だけではない、カチカチとリボルバーが回転する度に乱打の回数は増え……弾切れになったのを確認した私は、銃口を外し……大口を開けて、舌を垂らした。


 そうすれば、舌の上に乗せていた弾丸が唾液と共に滴り落ちてゆく。ぽとりぽとりと床を転がったそれと、私とを交互に見やる警官たちの青ざめた顔色を他所に、私は……ボールのように丸めて折り曲げた銃を、その場に放り投げると。



「『私の命が尽きるまで、殺し合いだ。何処へ逃げても、無駄だ。目に付くお偉方の建物に乗り込んで、そこのやつら全員を皆殺しにしてやる。お前たちの首に私の指が届くまで、延々と繰り返してやる。それが嫌なら、私から手を引け……私から言えるのは、それだけだ』」



 それだけを伝えると、私はその場に座った。直後、私は大欠伸を零した。眠っていた所を叩き起こされて、私は眠いのだ。「ほら、とりあえず撤退するよう指示を仰ぎなよ」なので、動けないでいる警官たちにそう言葉を掛ければ……後の行動は、早かった。


 ひとり、また一人と警官たちが部屋から離れて行く。撤退の指示が出たのか、それとも自主的に撤退しているのかは分からないが、もう、私にはどうでもよい。とにかく、私は視線をくれてやることもなく手を振って……二度寝をするのであった。






 ……。


 ……。


 …………そうして、ぐっすりたっぷり二度寝、三度寝、四度寝を楽しんだ後。顔に当たる日差しの眩しさに、目が覚める。体感的には二日ぐらいは寝ていたのかなと欠伸を零しながら身体を起こした私だが。



「……ん?」



 何気なく振り返った先にて。何時からそこにいたのか、どこか胡散臭い笑みを浮かべたまま正座している見覚えの無い男に気付いた時には、「――お、おう?」さすがに面食らった。



 おおよそ40代ぐらいだと思われる男の身なりは、一言でいえば大衆がイメージする官僚というやつだろうか。



 ピシッと揃えたスーツは、その方面には無知に等しい私にも『お高い』と思わせる。膝上に乗せられた両手は綺麗で、腕時計だって相当に値が張っていそうだ。


 何者なのかは分からないが、まず間違いなく一般人ではない。そして、ヤクザでもなさそうだ。軽やかな笑みを浮かべているその男からは自信が滲み出ていて、一目で優秀な人物であるのが察せられた。



「――おはようございます」



 けれども、だ。そんな私の反応など気にも留める様子もなく、男はそう告げた。「お、おはよう……」状況が呑み込めず、そう答えるしかない私を尻目に、その男は「これを、どうぞ」マイペースに名刺を差し出して来た。



(防犯課『日本太郎』としか書かれていない名刺……うん、こいつ、絶対にお偉方の内の一人だ……)



 大きく印字された名前に、私の頬が引き攣る。怪しいなんてものじゃない。けれども、ここでソレを突っ込んだ所で意味はない。「……で、日本太郎さんは、何用でここへ?」とりあえず、世間話ではなく用件を尋ねた。



「理解が早くて助かります。率直に申し上げて、わたくし防犯課どもは、貴方様が不用意に暴れ回らないという確約が欲しいのです」



 すると、日本太郎と名乗ったその男は、はっきりと用件を告げた。



「確約って、何だよ。契約書にでもサインしろっていうのか?」

「いえいえ、そんなものは何の意味もありません。アレは、あくまで社会に属する者、社会システムを利用しなければならない者にのみ有用な代物です。お気を悪くさせるつもりはありませんが、貴方様の場合……契約書のサインが有ったところで、気紛れ一つでどうにでもなりますでしょう?」



 ……言われてみて、納得した。



 確かに、この日本太郎と名乗る男の言う通り、私にとっては契約書など何の意味もない。やる気はないが、その気になれば食べ物だって得られるし、寝床だって自由に選べる。人間ではなく鬼である私に、人間のルールを押し付けた所で……だが、それならどうして?



「失礼を承知ではありますが、貴方様の場合は『鋼の契約書』よりも、『真綿の指輪』の方が有用だと思いまして」

「……具体的に」

「要は、恩を売っておいた方が良いだろうということです。『気に食わなければその時ぶっ殺す』よりも、『気に食わないけど、まあいいや』と思ってくださる方が、こちらとしてもはるかに気が楽なのでございます」



 ……なるほど。契約書よりも、ずっと私に対しては有効だろう。



「誤解を招く落ち度はこちら側にあるのは事実ですが、これだけは知っておいてもらいたい。少なくとも、ええ、少なくとも、わたくし共は暴力沙汰が嫌いなのです」

「……わたくし共は、か」



 思わず零れた笑みは失笑か、それとも侮蔑か。眼前の男の言わんとしていることを理解した私は、「それで、貴方たちが私に売りつける『恩』というのは?」少しばかりの好奇心を持って尋ねた。


 この日本太郎と名乗るこの男もそうだが、この男の後ろにいるやつは己など足元に及ばないぐらいに頭が良い。そんなやつが、金だとか家だとか戸籍だとかを餌にするわけがないし、そんなことは百も承知のはず。


 以前なら酒が飲みたいばかりに金に釣られたかもしれないが、今は違う。酒が好きな事には変わりないが、それはあくまで好きなだけだ。あの時に有った飢餓感はもう、私にはない。



「言っておくけど、金なんて貰っても私は何も嬉しくないよ。酒も、同じさ。昔と違って、今の私にはそこまで必要なものじゃないからね」



 だから、私はお節介の意味も兼ねて先手を打っておいた。けれども、やはり相手は格が違う。「ご配慮、痛み入ります」相変わらずの笑み浮かべた日本太郎は……ぽつりと、爆弾を私の前に差し出した。



「『同隆会』について、おそらくは貴女が知らないであろうことをわたくし共は把握しております」



 その……瞬間。不思議と、私の心は……落ち着いていた。けれども、戸惑いはあった。


 それはまるで、何年も前に落として見失ってしまった宝物を、いきなり目の前に置かれたかのような気分であった。



「ご存じの通り、あの事件は同隆会と、とある方々とで行われた密約の結果、起こってしまった悲劇。その密約によって、同隆会は飛躍的に勢力を伸ばし、一大勢力となって裏社会にその名を知らしめた」

「……知っているよ。それで?」

「では、当時、貴女が属していた組織……というより、貴方たちの店を贔屓にしていた組織が、裏社会におけるNo.2に当たる勢力だったことは、ご存じですか?」

「え、そうなの?」



 誰も教えてくれなかったから、それは知らなかった。



 思わず呟いた私の言葉に、「はい、実はバリバリの武闘派組織なのです」日本太郎はそう説明を補足した。



「しかし、そうなると疑問が一つ。いくら同隆会がとある方々の協力が有ったとはいえ、相手はNo.2。勢力図の変化は裏社会に限らず表にも混乱を招きます。正面から挑めば、同隆会の方も致命的な損害を被ります」

「それは、つまり?」

「後々の調査で分かったことなのですが、有り体にいえば貴女側にはスパイがいたのです。組織の内部にまで精通し、その動きを正確に把握していた『裏切り者』が、ね」

「…………へえ、そう」



 ……。


 ……。


 …………大きく、私は息を吐いた。合わせて、眼前に差し出されたのはオレンジのジュース缶であった。「私の、お気に入りです」顔を上げれば、何を考えているのかよく分からない笑みと目が合った。


 ……無言のままに、私はそれを両手に挟む。べきり、と。圧力に負けた缶はその至る所から黄色い液体を噴出させ、その飛沫が私の頬を掠める。


 その冷たさに、少しばかり気が晴れた私は……煎餅のように平べったくなった缶を、壁に投げつける。ごつん、と奥深くまで刺さって見えなくなったそれを見やった私は……で、と話の先を促した。



「その裏切り者の名は、『銀二』と呼ばれていた幹部の一人です」



 ……。


 ……。


 …………無言のままに、私は手招きする。「どうぞ、これもお気に入りです」それで察してくれた日本太郎は、新たなジュース缶を私の前に置いた。今度のはぶどうジュースであったが、私は先ほどと同じく潰して、壁に投げつけると……じろりと、日本太郎を睨んだ。



「銀二さんは、死んだはずだ。ほとんど鉄砲玉に近い最後になったと聞いていたが……違うのか?」

「死んだと、偽装しただけです。何せ、色々と便宜を図ってくれる協力者がおりましたようですので……それで、どう致しますか?」

「……どう、とは?」

「大病を患っておりますが、御存命です。お会いになりたいのであれば、こちらで場をご用意致しますが……どう、致しますか?」



 ……。


 ……。


 ……私は、すぐに返事が出来なかった。日本太郎と名乗るこの男も、何も言わなかった。ただ、人形のように変わらない笑みを向けるばかりで、沈黙だけがこの場に滞っていた。


 混乱は、有った。何故なら、私が知る銀二さんは義に熱く、誰も彼もが一目置いて、誰も彼もが信頼していたからだ。あのママさんだって、銀二さんに対してだけは、他とは違う態度を取っていた。


 その銀二さんが、裏切り者。組を裏切り、ママさんたちを裏切り、皆を裏切った……その事実が、紙に垂らされたインクのように、私の胸中へと浸み込んでいく。



「――そう、だね」



 そうして、全てのインクが私の中に浸み込んだ後。



「それじゃあ、会わせてくれないか」

「わたくし共は構いませんが……人払いは致しますか?」

「いや、いらない。だが、会う前に風呂と香水……そうだね、おめかしするから、風呂とか諸々を用意してもらえないか?」

「……畏まりました。それでは、明日の朝まで猶予を頂戴させて頂いても宜しいですか?」

「構わない。私はここで待っているから、用意が出来たら来てくれ」



 私は、眼前の男に少しばかり注文を付け足したのであった。




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