9.それから/五か月後

第35話


 幽ノ藤宮が長い旅に出たと知り、すずかはそれはもう泣き喚いた。

 加えて、ヴァネシアもすずか同様に泣き喚いた。

 すずかの前では姉ぶる様子の多かったヴァネシアのそんな姿に、最近泣き続くことが多かったせいで涙腺が壊れたのではないかと、伊久は内心不安に思っていた。

 しかし流石にあれから五月も経てば落ち着きもしており、幽ノ藤宮が居なくなって半月は沈み込んでいたすずかも、今日は朝から観光客を相手に東屋で話をしている。好きな花や、好きな食べ物や、好きな歌。笑顔でそれらの話をしている。

 また、すずかよりも早く、三日ほどで立ち直ったヴァネシアは、幽ノ藤宮が居ない間に自分がしっかり躾けてみせると、新しく自分の担当となった『新入りの指導』に今日も精を出していた。

 二人とも、なんだかんだいってプライドを持った『苗床様』だ。

 自分のしなければならないことも、在るべき姿も分かっており、それら全部が、幽ノ藤宮から教わって来たことだった。

 それは伊久も同様だった。同様でなければならないはずだった。

 しかし。


 ――(何が偽物で何が本物で何が真実であろうと、あなたの元で学べて良かったという、その気持ちは本当に確かなものなんです)


 あの日に伝えきれなかった言葉、もう伝えることは出来ないのだろう言葉が、伊久の中ではずっと渦巻いていた。

「結局、取り残されてるのは俺だけってか」

 洋館の廊下で止めていた足を再び動かし、呟き、伊久は自分の部屋へと荷物を運ぶ。

 しなければならないことは、この通り長年の染みつきのおかげと、幽ノ藤宮が残した書置きの内容のおかげもあって行えている。

 しかし自分は、……在るべき姿で在れているだろうか?

 伊久はずっとそれを悩んでいた。

 こうして何事も無かったまま、いつか流石におかしいだろうと誰かに思われ追及されるまで、自分は『この俺じぶん』を演じ続けるのか。

 伊久と馨と死人使い、そしてドク以外に、苗床病の発生についての真実を知る者はいない。もはや苗床病と切り離れての暮らしが不可能な苗床たちには、伏せておいてほしいとの書置きの内容を尊重した結果である。

 だからすずかもヴァネシアも、カリスタも。

 幽ノ藤宮は未だに庭園管理責任者で在り続けていると思っている。いつか長い旅が終われば、また帰って来て、また皆と共に生活をするのだと思っている。

 溜息を吐いて、伊久は荷物を机の上に置いた。

 椅子に座り、荷物の中身――庭園への花の注文を仕分けていく。

(ヴァネシアのバラ? あー、今ちょうど咲いてるけどなぁ……この額じゃちょっと本人納得しないと思います)

(ジルさんのハーブティーが飲みたいです、ってこれは花の注文じゃねぇな。返事に『ぜひ庭園にお越しください』とでも書いておくか)

(各色のアスターでアレンジメントを五種類――……うーんその期日は間に合わ……いや間に合う……か?)

(すずかの花で花束ねぇ……あの種類で出来るもんだか――)

 四通目の内容に目を通していた時、

「どこにでも現れる女暗殺者です、ドーモ」

「は」

 ひらひらっと横から手が差し出され、伊久はがたりと椅子を蹴った。

「暗殺者? ってことは、俺を殺しに」

「来た訳じゃないのよね。っていうか私は、本来は便利屋であって暗殺者じゃないんだけど。どこぞの刺叉坊やがそう呼ぶせいでそう定着しちゃったのよ」

「はぁ……じゃあ、何の御用で」

「お手紙のお届けよ」

 スーツのベストから取り出した封筒を、女暗殺者は伊久に手渡した。

「じゃ、確かに渡したから。……本当はようやく素直になったってフィバンテとやらを見に行ってヘウラが居ないか探そうと思ってたんだけど」

 言葉の途中でカツカツと窓に近づいた女暗殺者は、

「邪魔なヤツが来たから今日はサヨナラ。縁があれば、またいつか」

「伊久さんこっちにあの暗殺女――あーッ待てコラ逃げんなッ!」

 ばーんと大きな音を立ててレヴィンが姿を現すのと同時に、既に退却していた。

「レヴィン、警備は庭園に対して怪しい者に向けてだけで良いんだぞ?」

「あぁはい、ちゃんとそっちにも注意向けながら警備してますよ?」

 ただアイツはどうしても仕留めないと……と、刺叉と殺意を揺らめかせながら部屋を出て行った様子を見ると、レヴィンはあの女暗殺者――いや便利屋に知り合いでも殺されたのだろうか。

 それにしても。

「ヘウラって誰だ。手紙って」

 ――これ、何語だ。


 *


 俄かに階下が騒がしくなったことで、伊久は客間に降りてみた。

 階段を降りるごとに、花ではない、甘い匂いが増していく。

 客間に顔を覗かせ、そこで目に入ったのは、ぽっかりと口を開けた状態のすずかとテーブルの上に乗せられた沢山の洋菓子だった。

「おたんじょうびおめでとう、すずかちゃん!」

「本当は昨日だったんだろう? だけど庭園がお休みだったからね、こうして今日お祝いさせてもらうことにしたのさ」

 洋館のキッチンを借りてこれら甘い香りの元を作りだしたらしいケーキ屋のおかみの言葉に、すずかは慌てて口元を覆う仕草をした。

「どうしたんだい?」

「お礼のまえに、およだれが出そうになっちゃったんです」

 そう言い終えるとにっこり、ありがとうございます、と笑顔を向けた。

(なるほど、さっきまでのは時間稼ぎか)

 東屋で話をしていたメンバーの中にすずかのことをとても気に入っているおかみが居なかったことを、伊久はそこで納得した。

 伊久がキッチンに寄ると、そこではすずかの誕生パーティの参加者のお茶を淹れ終え、その際に使用した薬缶などの片付けをしているジルが居た。

「お疲れさまです、ジルさん」

「あぁ、伊久君か」

「あれって、すずかには内緒にしてたんですよね」

 ジルは、おかみさんから三日前の開園日にやってきたおかみさんからこの話を持ち掛けられたこと、その開催を自分の判断で了承したことを伊久に話した。

「すまなかった。本来であれば、伊久君にも相談するべきだったね」

「いえいえ、最近ちょっと立て込んでましたし。……庭園管理副責任者ジルさんだって、それで遠慮してくださったんでしょうに」

 なんのことかね、と手を拭くジルは、やはり大事なところには踏み込まない。

 以前――五月前の馨の言っていた通りに、ジルは苗床病の発生のこと、そして幽ノ藤宮のことについて、察しているところがあるのかもしれなかった。

 しかしジルの方から何か言われることは無かったため、あえて、伊久もそうしている。この件についてだけは、誰に相談することも無く、伊久がそう決断した。

「『プッティハウス』の菓子か……残りますかね」

 ネッサリアでは特に若い女性に人気の高い店名を口にして、こっそりと相談するように伊久は言う。

「あの量だ、ヴァネシア嬢やカリスタ嬢の分も残るだろうし」

 そもそも別に預かっている、と、ジルはラッピングされた可愛らしい箱を指さした。

「そうですか。じゃあ午後のお茶時にでも持って行ってやろう」

 頷いてキッチンを出て行こうとした伊久の背中に対し、

「安心したまえ。今日のテーブルにバウムクーヘンは並べないように忠告はしてあるよ」

 と、ジルは何事もないかのように告げた。

(……御見通しってやつ)

 ちらりともう一度大盛り上がりの客間を覗いてから、伊久は洋館を出た。

 その際に確認した限りでは、確かに主が一番好んでいたバウムクーヘンはどの皿の上にも乗っていないように見えた。


 *


「あ、伊久だ。要るものなら無いよ!」

 伊久がガラスドーム内のクリスタリアの樹の前に立つ前から、カリスタはそう言っていた。

 いつものように明るい表情を浮かべる彼女に、にやり、と伊久は笑って見せる。

「……本当か?」

「本当だってば――って待って待って、何かあるんだな? はいはいはい! 貰えるもので良いものなら欲しいです!」

 と、カリスタは精いっぱい指を広げて見せた。

「じゃあ午後のお茶時に持ってきてやるよ」

「うん、で、何を?」

「『プッティハウス』のマドレーヌ」

「本ッ当? やった! あったらでいいからあたしチェリー入りのやつね!」

 分かった分かった、と、伊久は頷いた。

 ――カリスタも、ジル同様、幽ノ藤宮が旅立った前後で態度が変わらない。

 むしろカリスタは初めの頃、泣き喚くすずかとヴァネシアに向かい、

「幽ノ藤宮様はあたしたちを助けてくれたみたいに、きっとまた誰かを助ける旅に出られたに違いないって! ね、そんな凄い方をあたしたちだけで独占してここに閉じ込めちゃってるなんて駄目だよ。それよりもあの方が返ってこられた時に恥ずかしくないよう、あたしたちはあたしたちでシャンッとしとかなきゃ」

 と励ます側に回り、幽ノ藤宮の旅を肯定しているようだった。

 後で聞いたところ、中盤と後半は本音、と彼女は言った。

「前半の、誰かを助ける~っていうのはどうだろうって思ってる。あたしね、幽ノ藤宮様がゾンビマスターさんやドク先生と話されてるところを何回も見てきた。その、あたしには入り込めない世界を前にする度に、あぁこの御方は本当に研究者なんだなぁって思ってたんだよね。……だから今回の旅がご自身の研究のためだけの旅に出たのであっても、まさか責められなんてしない」

 大好きな人には一番自由で居て欲しいから、と、その時も彼女は笑っていた。

「カリスタ」

「なぁに?」

「……俺、おまえが居てくれて良かったと心底思ってるよ」

 なに急に、と笑った彼女は、まさか伊久、とすぐに表情を変えて茶化して見せた。

「もう既にチェリー味食べちゃったから機嫌とろうってんじゃないよね?」

 そういうとこだよと思いつつ、伊久は何も言わずに笑った。


 *


 周りに観光客が居ないのを確認して、伊久はその扉の鍵を開けた。

 巨大なバッタ、フィバンテの前では、

「やれば出来るじゃない!」

 と、珍しく上機嫌なヴァネシアがハイビスカスを片手にしている。しかしその優しい笑顔のままでフィバンテに近づくと、

「で、出来るならなんで今までやってこなかったの? これ四回目の実験よね?」

 と、腰からバラの蔓をずるりと伸ばした。

「そこそこにしておいてやれよ、ヴァネシア」

「あら来てたの。というか、来て早々にわたしの教育方針に口を出さないでくれる? フィバンテにはこのわたしがカバレムに劣らない能力を持たせるって決めたんだから」

 もぞり、と少し動いたフィバンテに向けて、

「文句がおありかしら? そんな訳ないわよね?」

 と、ヴァネシアは更に蔓を……正確には蔓のトゲを近づけた。

 はじめは植物を受け入れることを拒んでいたフィバンテが大人しくなったのは、中に入っているのがあのの意思であると知ったヴァネシアが、調教役を申し出て以降である。

 このことからして、庭園が未だにフィバンテ宛ての注文に答えられているのは、幽ノ藤宮と死人使いの対決など知った事かという勢いで(……実際知らない訳だが)フィバンテに対し日々指導訓練を続けている彼女のおかげと言っても過言ではない。

 人間の頃の記憶がまだ強く残っているらしいフィバンテは、あの時は幽ノ藤宮の生体実験の被害者であるとばかり思い込んでいた(……真実のところそれは外れても居ない訳だが)ヴァネシアまでもがこのような凶暴な力を持つ恐ろしい者であることを知り、もはや抵抗する気を無くしたのであった。

 かくして、幽ノ藤宮VSフィバンテ&死人使いの対決は、早々に第三者ヴァネシアの勝利となっていた。

 落胆していたのは純粋に研究成果と生体意思のどちらが勝つのか気にしていたドクくらいなもので、フィバンテ陣営だったはずの死人使いは、フィバンテが美しい花を咲かせる度に「なかなかやんじゃんフィバンテも!」と喜んでは「わたしの躾けが良いせいだって言ってるでしょ!」とヴァネシアに怒鳴られていた。

「それにしても伊久、いいところに来たわ。見てちょうだい、この色!」

 くるりと伊久に向き直ったヴァネシアは、手に持っていたハイビスカスを伊久に手渡した。その色は晴れ渡った空のように真っ青である。

 白旗を上げて以降フィバンテは次々と注文通りの花を咲かせるようになっていたが、このような品種は伊久も初めて見た。

「花の成分だけじゃなくて、色の成分も混ぜて刺激をしてみたのよ」

 得意げに話すヴァネシアに、そんなことが出来たのか、と伊久は目を見開く。

「青なんて……特に植物じゃ出すのが難しいとされてるってのに」

「栽培の知識なんてまるで無いわたしが出来たんだから、まぁひとえにフィバンテの意思の強さのおかげ……と、やっぱりわたしの教えのおかげかしらね」

 そう言って胸を張ったヴァネシアがフィバンテの頭を撫でて見せると、フィバンテの方も満更でもないというようにすり寄って来たように見えた。

 ルポライターだった頃のフィバンテに対し、ヴァネシアが酷く怒りを燃やしていた話は死人使いから聞いている。そしてフィバンテの方は前述のとおり、ヴァネシアのことをはじめは可哀想な被害者と、そして五ヶ月前には恐ろしい者と感じていたようだ。

 しかし、伊久が見たところ、フィバンテは最近こういった生活も悪くないと思い始めているようであり、ヴァネシアの方もカバレムの見た目がポイントの底上げになっているにしろ、フィバンテのことをそれなりに気に入ってきているようだった。

(不思議な巡りあわせもあるもんだよな……)

 しかし、と伊久は首を捻る。

「そもそもヴァネシアって虫嫌いじゃなかったか?」

「大嫌いよ。小さく蠢いているのを見るとぞわぞわするもの。そんなのとフィバンテを一緒にしないで頂戴!」

「あぁそうかい……」

 額を合わせるようにして、ねぇフィバンテ? とヴァネシアは話しかける。

「次はどんな注文がくるかしら。予想されてる以上に大輪で美しい花を咲かせて見せて、『やっぱり幽ノ藤宮様の庭園は素晴らしい』って思わせなくちゃね。幽ノ藤宮様がお帰りになるまでに、もっともっと庭園の人気を高めておかなくちゃね」

 キィ、と小さく鳴いたフィバンテの意思は、この場の誰にも読めなかった。


 *****


 結局、伊久は『それ』を日が落ちてから馨の元に持って行った。

 今、庭園内の植物の紹介プレートには様々な文字で名前が書かれている。

 観光客はその文字と庭園のパンフレットに書かれた一般共通文字とを見合わせながら、気に入った花の名前を確認しているのだった。

 そしてそのプレート変更の担当を一身に請け負ったのは馨であり、

「『庭園に行き、好きな花の名前の紹介で書かれた文字でラブレターを書き、それを苗床様の馨さんに添削してもらった後で出すと恋愛成就!』だって?」

「若い女性はいつでも無意味なもの同士に関係性を創りだすのが好きだな」

 そう言いながら、伊久が訪れた時の馨は桃色の便せんと赤ペンを手にしていた。

 数年前には和系文字すら忘れてしまい、一般共通文字は読み書きも出来ていなかった馨が、と考えると、伊久には感慨深いものがあった。

「ま、お前にも観光客と戯れるきっかけが出来たのは良いことだ」

「お前がどうせならと出来るだけ多くの文字を使ったせいで、私でも碌に会得出来ていない文字で書かれた恋文を持ってこられることもあるのだぞ。その添削の困難さがお前に分かるか」

「あーあー悪かった悪かったそれよりも」

 と、伊久は長い愚痴が始まる前にと話を切り替えた。

「これ、何語だ?」

 あれからなんとなく気になって一日中ポケットに入れていた。ただし封は開けていない。真っ白なその封筒には、ほのかに伊久の体温が移ってしまっていた。

 伊久が取り出したそれを始め胡乱気うろんげな顔で見つめた馨は、

「これは」

 と、その短い言葉を発したのちに、しばらく沈黙した。

「……お前はプレートに書かれた文字だけなら覚えたと言ったな」

「あ? そりゃ庭園の植物で知らないものはないからな」

「これは何と読む」

「コルト、メ、イトス……、コルトメイトスだろ?」

「ではこれは」

「あぁ、それはクリスタリアだ」

「次」

「ドリー、ミ、ング……って、何なんだよ?」

 次々と一般共通文字以外で書かれた花の名を言わされた伊久が眉を寄せると、気付かないか、と馨は封筒の文字を指さした。

「これと似た文字で書かれた、庭園内にある花は何だ?」

「似た文字……? ……あぁ、そういやここの文字に使われてんのは……」

 ――庭園の入り口に張り巡らされた高く長い棚。

 それが一斉に咲き乱れた際には、その優雅さに溜息を吐きたくなる。

「『ウィスティリア』……、こりゃ、ゾタ山近郊文字じゃねぇか!」

 それがつながった瞬間、伊久は大声を上げていた。

 ゾタ山近郊文字で書かれた手紙なら、差し出し主として思い当たる相手は一人しかいない。その相手を思い浮かべ、伊久は封筒の端を破いて中の便せんを引っ張り出した。

 そして、

「~~~~~~~~~~~~~ッ」

「それはそうだろう」

 中の便せんがびっしりと異国の文字で書かれていることに頭を抱えた。

「なぁ馨、これの訳……」

「悪いな。私は期待に応えるのに忙しい。私に恋愛成就の利益があるとは思えないが、どうにか自分の思いを伝えようと、知らない国の文字に手こずりながらも机に向かった女性たちの気持ちを、無視したくはないのでな」

「ひょっとして例の研究ノートのお前が訳したヤツを俺がダメにしたのまだ怒って」

「辞書を渡すから自分で解読しろこの大ウドが」

 そう言って、伊久はゾタ山近郊文字の辞書と共に馨の部屋を追い出された。


 *


 しばらく文句を言っていた者の足音が完全に去ったのを確認してから。

「……ありがとうございます」

 と、馨は裏口の方を向いて一人呟いた。


 ――『出来ればふたつ』

 ――『内容にもよりますが、何でしょう』

 ――『ひとつに、落ち着いたら伊久に向けて現状を知らせる手紙をください』

 ――『それは』

 ――『ゾタ山近郊文字で良いですから。そして、私はそれを訳さない。必ず自分で解読させ、同じ文字で返事を書かせます』

 ――『……ふたつめは』

 ――『その伊久からの返事を読んで……今は分からないというその自分の心が定まれば。ぜひ、帰って来てください。真実を知らないままの皆や伊久はもちろんのこと、私も、幽ノ藤宮様のお帰りをずっとお待ちしています』

 ――『……こんな大悪党を、ですか?』

 ――『そんな大悪党から離れたくない程度には私もいい加減に悪党なんですよ』


 馨はひそやかに笑んだ。

 封筒の宛名だけは、すぐに訳せてしまったのだ。

 ――自分が主だという自覚があるのなら。

「さっさと戻って来てやってくださいよ」

 あの手紙の宛名を訳せた頃には、恋しさのあまりあなたの弟子の涙腺は誰より緩んでしまっているでしょうから。

 そう思いながら馨は裏口の、しかし心はそれよりずっと遠くを見つめた。




【わたくしの唯一の、そして永遠の弟子へ】




                                      (了)

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ウィスティリア/とある栽培者と周囲についての 前田 尚 @saki-ta

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