第33話


 *


 ――本当の自由とは何だ。

 ノックをすると、開いておりますよ、との返答は早かった。

「お待ちしておりました、伊久」

 七年間自分の主であり、これからもそうであり続ける筈の幽ノ藤宮は、いつものようにそこに居た。

 男性とも女性ともつかない中性的な風貌をしており、仕草にはどこか気品を漂わせる。馨に指摘されたように七年前から主として崇め続けているせいか、伊久にとっては威厳などを超えた、神格のようなものさえも感じられていた。

 ――七年前、あの日の俺は、まだ自由ではなかったのか?

「馨さんには大変辛い役を負わせてしまいました」

 伊久の手にあるノートに目をやり、幽ノ藤宮はそう言った。

「……主様、……俺は」

 くすり、と幽ノ藤宮は笑った。

「長いお話になるでしょう。お掛けなさい」

 主の背後にある窓からは、雨が降っているのがよく見える。そんな関係のないことをぼんやりと思いながら、伊久は今までは固辞してきた椅子に座った。

「ジルさんほど美味しいものは出せませんが」

 そんな幽ノ藤宮の言葉で、伊久はいつの間にか自分の前に紅茶が出されているのに気が付いた。この部屋で飲み物が出されたのは初めてだし、この館で和系茶以外が出されたのも初めてだ。

「これは故郷の味のお茶なのです、特別ですよ」

 紅茶と幽ノ藤宮に目線を巡らせ、伊久は呟いた。

「主様は、和系人かと思っていました」

「この髪色に、この目でも、ですか?」

「えぇ。名前もですけど、顔だちが……」

「わたくしは間の子ですからね。和系と、それからシュリカの」

 聞き慣れない地名に首を傾げると、無理もありません、と幽ノ藤宮は笑った。

「シュリカはゾタ山の近くにある、とてもとても小さな村ですから」

 幽ノ藤宮の過去の話を聞くのは初めてだった。

 まだ二十代前半、弟子になったばかりの伊久は、自分から主のことを詮索するのは不躾ではないかと思っていた。それが今日までに至り、今までに至り。

 ようやく、伊久は訊ねることが出来た。

「シュリカってのは……主様の故郷は、どんな村ですか」

「貧しいところでした。貴方の故郷であるソルバノの半分以下の規模――そしていつも、雪か雹の降っている村でした。そのせいもあってか、シュリカでは花は咲かないのです」

 ――花。

 その単語が出てきただけで、伊久はぴくりと肩を震わせる。

 幽ノ藤宮は知らずの顔をして、自分の分の紅茶を一口飲んだ。自分の失態に気付いた伊久も、同じようにする。

 幽ノ藤宮はどこか遠くを見るようにして話を続けた。

「生える植物も短い芝のようなものぐらいで、景色に見える色は黒か白か灰色か。わたくしはいつも他地方に咲く花の画集を見ては、その色とりどりの美しさ、それを見られる羨ましさに、溜息を吐いていたものです。幼かった頃のわたくしは、まだ一人で旅立つということが考えつけませんでしたので」

 幼い幽ノ藤宮など想像がつかない。

 失礼にもあたるかもしれない気持ちを、伊久は紅茶と共に飲み込んだ。そして、ふと思いついたことを口にする。

「でも、家族と旅行に出るくらいは」

 にこりと笑った幽ノ藤宮は、

「シュリカに家族制度は無いのですよ」

 と答えた。

「生まれた子供は五歳まで村全体で面倒を見られます。しかし、その後は自分で何か役割を見つけ、その村に役立つ者として、一人で生きて行かなくてはならない。同じ屋根の下で暮らす共同体のようなものもありませんでした。わたくしは図書館、と言えるほどでもない村の書物室に寝泊まりし、その書物室の管理役をすることで生きていました」

 そしてその部屋はね、と、幽ノ藤宮は懐かし気に語る。

「ほとんど人が寄り付かず、研究をするのには持って来いの場所だったのですよ」

「研究……と、いうのは……」

「おや。貴方はもう知っているはずでしょう」


「花を咲かせる研究です。最終的には、人にね」


「……まさか、うそだ」

 目を見開く伊久の様子を面白がるようにして、幽ノ藤宮は続ける。

「もちろん初めからそうだった訳ではありません。一番初めは、土を部屋の中に運び込み、家畜の飼料の中からより分けた種を埋めてみました。それでも駄目で、土を用いた研究はすべて失敗しました。もしかしたら種の方が問題だったのかもしれませんが、その時のわたくしが得ることの出来る植物の種はそれしかなかったのです。ですからまず、土に埋めるという手順の方を諦めました」

 伊久は想像する。

 ――求める花が咲かない。

 ――種はこれしかない。

 ――ここの土壌では問題があるようだ。

「それで人間に? そんなことを」

「思ってしまったのですよ、幼い発想は愉快ですね」

 ふふふ、と、少し恥ずかしそうに幽ノ藤宮が笑う。

「でも、墓場の死体では上手くいきませんでした。しかし、おかげでどうやら種は寒冷地では育たない種類であるということを突き止めることが出来ました。そこで今度は土と同じく、死体を、しかも今度は新しめの死体を室内に運び込み、埋めてみました。それは惜しいところまで行ったのですが、やはり、失敗に終わりました」

 溜息を吐いてから、幽ノ藤宮は伊久に向けて笑顔を浮かべる。

「それならば暖かな、生きた人間に埋め続ければ? ――わたくしはそう思い、自分の腕に種を埋め込みました」

「主様の腕、って、それは……」

 伊久の目線が幽ノ藤宮の示す左腕に向かう。

 伊久は、幽ノ藤宮が肘の見えるまで袖を捲ったところを見たことが無かった。そしてそれに今の今まで気付かなかったのだ。たったの一度も。

「えぇそれも、もちろん盛大な失敗に終わりましたよ」

 と、なんでもないように幽ノ藤宮は頷きつつ、盛大な失敗という箇所で自分の左腕を二、三度摩った。

「それでも、その方法は今までで一番成功に近かった。希望を見出したわたくしは、故郷に居た頃の親友で試してみることにしました」

「腕に種を埋めさせてくれという頼み、それを承諾させたんですか?」

 いいえ勝手にです、と、幽ノ藤宮は首を振る。

 そして、今までの話からは少しそれた質問を出した。

「五年前、わたくしは感染源を突き止めましたね? その感染源はどこから突き止められたものだとされています?」

「協力してくれたジルさんやすずかの細胞から……」

「そうですね、正解です。では、貴方の村で一番に発症した男の子。その男の子は何から感染したのだと思います?」

 そこで伊久は、今の二問の文末が違っていることに気付いた。

「まさか、――五年前の時には既に感染源が分かっていたのですか?」

「えぇ。分かっているも何も、感染源はわたくしの血液を元に生み出すものですからね。故郷シュリカを出るまでには、自分の身体を使った実験と研究を重ね、既に感染源もそれを防ぐ薬もわたくしの手元に出来上がっていました」

 書物室にあったのが医学に関する本に偏っていたことに感謝しなければ、と幽ノ藤宮は笑った。人里離れた貧しい村では、特にそれらが重要だったのだろう。

「じゃあ、感染予防の薬が出来る五年前まですずか達と同居してた俺や主様が感染してこなかったのも」

「わたくしはそもそも既に苗床病……の成りそこないです。そしてわたくしの側についていただくと決めた貴方に感染予防薬を飲ませることなら、出会った翌日のうちにはしておりましたよ。すずかとの同居が始まった頃の貴方はひどく感染を恐れているようでしたが、そんなことはけして起こり得る筈が無かったのです」

 話を戻しましょうか、と、笑顔のままで幽ノ藤宮は言った。

「わたくしの親友は墓守の役目をしており、ちょうど感染源を受け付けてくれる体質でした。そのため飲み物に混ざった感染源を飲み、いわゆる苗床病にかかり、一ヶ月ほどで花を咲かせて死にました。美しくもなく、可憐でもない、ただ汚らしいだけの花。それでもそれは、シュリカで初めての花だった。わたくしはそれだけでも嬉しかったのですが、それでも、シュリカの誰も、その花には見向きもしなかった。だからわたくしは親友の死体を埋めながら決めたのです」

 この研究を続けようと、と、幽ノ藤宮は伊久を射抜いた。

「いつかこの研究を極め、シュリカの住人に美しい花を咲かせようと心に決めました」

 伊久は目の前の双眸から視線を外すことが出来なかった。

 決意の籠った、揺るぎのない、自分の夢を諦めない目だ。

「わたくしの最終目標は人体に美しい花を咲かせること。そのためにはまず、もっと多くのサンプルが必要でした」

「その手始めに偽の発生地として選ばれたのが……」

「えぇ、貴方の故郷、ソルバノです。山際の小さな村というシュリカと似た立地、約二倍の規模、そして何より普通の植物が育つ土地として、サンプルには丁度良かったのです」

 それだけで選ばれたのか、と怒りが湧いてもおかしくないはずなのに、伊久の頭はただひたすらにぐらぐらと揺れていた。

「わたくしは年を重ねて入念な準備を行いました。その間に、感染源や感染予防の薬も作ったのです。準備すべてが揃い切った頃、わたくしは貴方の故郷を目指しました」

「そしてソルバノまでたどり着き、俺の家に泊まった」

「そうです、懐かしいですね」

 その時のことを思い出しても、幽ノ藤宮はこれから奇病を広めようとしているような、まるでそんな素振りは見せていなかった。

「感染源と普通の植物の成分が上手く結びつけば、その時点で普通の植物を発芽させることが出来るのではないかと思い、わたくしは伊久の家の花瓶からいただいた花の成分と感染源を合わせ、ソルバノ村にあった共同の井戸へ混ぜ込みました。また、水祭りの際に出会った男の子へ買い与えた飲み物の中にも、同じものを含ませました」

 現実離れした話に、ぱしり、と伊久は自分の頬を打つ。頭が揺れるだけでなく、耳鳴りまでしてきた。残っていた紅茶を飲みほして耐える。

 そんな伊久の様子に微笑みながら、それでも幽ノ藤宮は話を止めない。

「花の成分が上手く定着しなかったのは仕方なかったとして……シュリカで一人実験を行っていた時には分からなかったことが、ソルバノでの実験で分かりました」

「感染力の、高さ……?」

「えぇそうです、流石ですね、伊久」

 出来の良い弟子を褒めるような上機嫌さで幽ノ藤宮は言う。

 どこか霞がかったような頭の中、伊久は思い出していた。

 ソルバノで一番に発症した男の子。その次の発症者は、その家族の中から出た。そしてその先は男の子を診察していた医者――。

 シュリカという家族制度も共同体も無い村では感染した一人が死んだ時点で広まりはしなかったが、ソルバノではそうはいかなかったのだ。感染源を受け入れる体質を持つ者の間で、苗床病はどんどん感染うつっていってしまった。

「そのせいで実験は、わたくしの望まないものを運んで来てもしまいました」

「それは……差別、ですか……?」

「はい。その時既にわたくしの手元には感染を抑える手段がありましたが、それを一人掲げたところで、その時勢いを増していた差別の波には勝てようもありませんでした。ですからわたくしは考えたのです、しかるべき時に、しかるべき研究をした、しかるべき者の発表として、この差別を収めるしかないと」

「…………」

 黙りこくった伊久を前に、その道行に、と、幽ノ藤宮はそう言った。

「その道行に、貴方を引き込めたのは何よりの僥倖ぎょうこうでした」

 しかし、その表情は苦し気なものに見えた。ジルの話によれば、幽ノ藤宮は自分と同じ道に伊久を立たせたことを後悔していることがあったと言っていた。

「伊久、ごめんなさい」

「何を……謝られるのですか」

「あの時の話の誘導は、告白した時点ではまだ続いていたのですよ。さも自分で選んだかのように思わせて、わたくしは貴方を引きずり込んだ。大事なことには蓋をして知らせることなく、貴方を良いようにこき使った。この七年間、わたくしは貴方から本当の『自由』を奪っていたのです」

 ――あぁ、主様までもが、馨と同じことを言う。

 それでも、と、伊久は思った。

 紅茶を口にしたはずなのに乾ききっている口を開いて、自分の思いを紡ぐ。

「本当の自由って、何なんですか。俺が、差別を許せなかったのは本当で……結果的には、主様も差別を収めようとしていたんじゃないですか。その思いは、同じだ。それが見せかけだったとはいえ、それを収めるための研究の手伝い、すずかやジルさんに協力をしてもらった研究のお手伝いをさせてもらったことは……俺は、後悔はしていません」

 拳に落ちる水滴と滲む視界。いつからか、伊久の両目からは涙が溢れていた。

 幽ノ藤宮が穏やかな笑みと声を向ける。

「伊久、無理をしなくてもいいのですよ」

「してませんよ無理なんか。……それに、だって、だってどうです、この庭園を見て。この庭園はあなたが居なければ出来なかった。こんなに美しくて、優しくて、居心地の良い庭園は、あなた一人が居なければ存在していなかったんだ……!」

 膝の上の拳を握り締めて、伊久は幽ノ藤宮に向けて喚いた。それに対する幽ノ藤宮は、穏やかで静かな表情を浮かべている。

「今、貴方の心中はどろどろになっていることでしょう。自分でも分かっていますね? わたくしは確かに、結果的には差別を止めました。そして、この庭園を創り上げました。しかし、その差別の根源となる奇病を生み出したのもわたくしで、貴方の故郷を滅ぼしたのもわたくしだというのは、確かな事実なのです」

「それでも、俺は……主様を」

「七年もわたくしの元に居たせいで、貴方はわたくしを敵視出来なくなってしまっている」

 悲し気な顔をして、幽ノ藤宮はゆっくりと言い聞かせた。

「今があるのは元があるから。確かにそうです。しかし、それはこうも言えるのです。元が無ければ今を知ることも無かった」

 異なる色の両目が、静かに言い渡す。

「貴方には、もっと別な道が選べていた可能性があった」

 ――故郷で病が広がらなければ。

 バチネを継ぐのは一人だと決まっている。いずれ三兄弟の中から選ばれた一人が、あの家に村から妻を娶っていたのだろう。そしてあとの二人は、その結婚を機にバチネから外れ、村の中へと戻っていただろう。

 ――故郷の石壁の中で、平和に家庭を築いていた道もあった。

 ――故郷に居続けるのはごめんだと、自分の意思で旅に出ていたかもしれない。

 ――もしくは同調してくれる誰かを見つけて、バチネ制度を撤回していたのかも。

 いくつも考えられる選択肢に、しかし、伊久はただただ首を振った。

「それはもう今は消えた可能性だ。俺は、今の俺は、主様を尊敬し続ける弟子です」

「わたくしは貴方に軽蔑されてもおかしくない存在なのですよ。貴方は知らず誘導され、良いように使われていた被害者に過ぎないのですから」

「被害者じゃない!」

 七年前に、目の前の人から名前を貰いうけた栽培者は。

「俺は、伊久です。あの日から最後まで……あなたの弟子です……」

 思わず口を開いて、それまで長く語っていた主の言葉に――、

「そうですね。貴方はいつも自分のことをそう言ってくれた」

 七年。七年。七年。

 二十三歳の若造が、三十路にもなる、その時の長さ。

「わたくしには本当に勿体ない、とても良い弟子です」


「…………――――――」


 ――自分の思いを返した、はずだった。

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