第32話
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今日はヨーコがやって来ているため、庭園周辺にも雨が降っていた。
今回の目的はすずかも交えてのガールズトークのため、ガラスドームでは四人の女子がきゃっきゃと騒ぎ立てているのだろう。
――この、重苦しい和館とは真逆の雰囲気で。
伊久はそんなことを考えながら、ごくりと唾を飲み込んだ。
(何にしたって、謝らないとまずいよなぁ)
馨の部屋の前である。
主を貶す発言をしたことに対する怒りのようなものはまだ己の中にくすぶっているが、自分がやってしまったことは栽培者としてだけでなく、人としてどうかと思われるものだ。謝らねばいけないと、思う。
はぁ、と溜息をひとつ吐き、入るぞ、と襖を開けた。
「長らく突っ立っていたと思えば、溜息と共に入室か」
馨はもう布団を上げ、文机に向かっていた。しかし手は動いていない。
「そういうお前はいつものごとく客を正面から迎え入れる気も無しか」
同じように嫌味を言いながら茶卓の一面に腰を据える。盆の上に乗っていた簡易お茶セットで勝手に茶を注いでいると、
「正面からこの面を見て、心地が悪くなるのはお前だろう」
そう言いながら、対面に馨が座った。
その顔のほぼ半分、左頬には白い布が当てられている。
確かに、と伊久は思った。ドクドクと自分の血流を強く感じる。
入ったお茶を渡しながら、そのな、と、伊久は口を開いた。
「悪かった」
「何がだ」
「……手を出したことがだよ」
わざわざ言わせるか、とそっぽを向いて付け加えると、では、と馨は皮肉気に笑った。
「私はこれから更に謝罪の言葉を聞けるのだな」
「は」
「私がこれから告げること、見せるもので、頭に血が上りやすいお前が私を蹴ろう殴ろうすることは想像に難くない」
「俺はそんなに暴力的な男じゃねぇ」
「しかし手を出したことに対しては謝罪が必要だという常識がお前の中にあるのであれば、私はそれらの後からまた多くの謝罪の言葉を聞けるのだろう」
せめて無視をすんなよ、と、伊久が言う前に。
「この奇病を創りだしたのは幽ノ藤宮様だ」
と、右腕を抑えた馨は真っ直ぐな視線でそう言った。
「は、ぁ? 何を急に」
今の馨に植物は生えていないが、その腕に根が這っていることは知っている。
そして、植物を落ち着かせている毎時間の投薬を止め、その根に花の成分を含めた刺激を与えればすぐにでも発芽することも。
奇病、『苗床病』。
かつてこの世界の多くを襲い、死が前提とされた病。
伊久の故郷を滅ぼした病。
しかしそれを今の状態にまで抑え込んだのが『偉人』であり――、
伊久が愕然としているのをよそに、馨は何かを取り出す。
「これは幽ノ藤宮様の研究ノートを一般共通文字に書き下したものだ」
――『栽培の第一人者』と呼ばれる、伊久の主、幽ノ藤宮その人である。
表現は易いものに変えてあるが、と、机の上に出された束を、
「
伊久は、茶卓の上から乱暴な動作ですべて払い落とした。
何枚かには倒れた湯呑の茶がかかり、何枚かは廊下、庭先にまで飛んでいく。見られることもなく投げ出されたそれの字は、次々とぼやけてにじんでいった。
「主様が奇病を創りだした? 何言ってやがる?」
「……そのままの意味だ」
「奇病を治めて、奇病による差別を撤廃してみせた『偉人』本人だぞ? 人様の命を奪うだけの病を創りだす、主様が本当にそんな大悪党なら、なんでそんなことをしなくちゃならねぇんだよ」
「それは本人に聞いてみなくては分からないが、恐らく」
そこで黙り――馨は目を伏せた。
その態度が、
「お前はなぁッ!」
伊久の堪忍袋の緒を切れさせる。
「いつもいつも自分の人生やら自由やらも諦めた態度で、そのくせ大事なことは全部知ってて黙ってるような態度で、見てて苛々するんだよ!」
立ち上がり、伊久は馨の真横に近づいて右腕を取った。
「自由になったんだろ、自由にしてもらっただろ、それこそ幽ノ藤宮様のおかげで! だったら何を諦めることがあるんだよ!」
「…………」
「それで、何だって? その自由にしてくださった恩人のことを、お前はさっき何と言った? 大恩ある相手に、まるで仇を向けるような言葉をよく吐けたもんだなッ?!」
茶卓すらひっくり返さんばかりの勢いに、馨はぐっと堪えた。
(私も迷ったのだ、これをお前に伝えるべきなのか)
という、その言い訳のような言葉を飲み込む。
書物庫で見つけた幽ノ藤宮の古い研究ノートは、異国の知らない文字で書かれていた。
ちょうど新しい文字の会得に向かおうとしていた馨は幽ノ藤宮に訊ね、そのノートを翻訳してみてもよいかと窺った。
(あぁ、幽ノ藤宮様。あの時、あなたは何故快諾をしたのか)
――ゾタ山近郊文字など馨には会得出来ないと思われたのか。
――時折違った文字も混じるそれの解読は不可能だと思われたのか。
――真実を知った馨が何か言ったところで誰も信じないと踏んだのか。
――もしくは。いいや、恐らく。
「少し恥ずかしいですが、どうぞお好きになさってください」
――研究者として、自分の心偽りなく映したその内容を知られることは、誇りになりこそすれ、罪の証にはならないと思っていたのだろう。
笑顔でそう言い切ったあの時の幽ノ藤宮の気持ちを、日記も交えたようなノートの内容を解読済みの馨には分かっていた。
だが、それでもむしろ、自分の言った言葉に対し逆上している伊久の気持ちへの同調の方が易しいものに思えた。何故なら自分だって信じたくなかったからだ。自分に巣食う化物、シャグナの王子が称したような『価値がある』とは思えない病を創りだしたのが、いつもあれだけ穏やかに自分を見つめてくださっていた幽ノ藤宮だったなどとは。
(だが、いずれにしろ、これを伊久に伝えると決めたのは私だ)
馨は昨夜の死人使いとの会話を思い出し、引き結んでいた口を開いた。
「――では、ご本人に訊ねてみればどうだ?」
「は? そんなふざけたことを」
馨は立ち上がり、文机から写し取る前の本来のノートを取って来ると伊久に差し出した。しかし、伊久は受取ろうとしない。
「必要性を感じないからか?」
「あぁそうだ、そんなもんお前の妄想に決まってる、もしくは誰かが偽のノートを」
「それとも真実を確認するのが怖いか?」
「いい加減にッ――!」
普段は垂れ目がちな目を吊り上げて、伊久は馨に掴みかかる。
それでも馨は気丈に言葉を続けて行った。
「お前は主、主と崇め奉り、与えられるものだけを待つ信仰者か? 私の言葉が偽りであると本当に思うのならば、ご本人と話をし、そらやっぱり
「……だからそんな必要は」
「お前は私のことをよく人生やら自由やらを諦めていると言うが、隠され誘導されてきたお前の人生は、本当に自由だったとでも?!」
そこまで叫び、顔を歪めながらよろけた馨を、反射のように伊久は支えた。
畳に座らせ、二人ともが一息ついたところで馨が伊久の手を払う。
「カリスタが義肢の話を王子から伝え聞き自分の将来を決めたように――確かな真実を知った上で次の道行を選べるという状態こそを、本当に『自由』と呼べるのではないのか」
馨は目を逸らし、周りに広がった白い紙とぼやけた文字を見る。
「……私の第一の恩人は伊久、お前だ」
「…………」
「私なんかがお前に自由を与えてやりたいと思うのは、許されないことか」
しばらくして膝で移動し、馨は再度ノートを伊久に突き付けた。
「行け。どうせ我々の言い争う声など聞こえている」
どこに、とは、伊久ももう聞かなかった。
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