3.訪れありて/四か月前
第5話
白亜と深緑。
城壁と森が持つ二つのカラーが際立つその国を、シャグナ王国という。
シャグナは、存在する数々の都市の中で最も長い歴史を持つとされる国だ。
その始まりはあまりに古く、記録もはっきりとしたものは残されていない。生きている者の中でシャグナの始まりを知る者も居らず、故に、どうもこの国が集団都市としては初めて出来たものではないかと推測されていた。
そんな歴史あるシャグナ王国中央に位置する王城にとって、今日という日は非常に慌ただしい日であった。
それもそのはず、明日に大切な式典を控えているのだ。
国を挙げての祝い事に、城中に散らばった家臣たちは朝から忙しく動き回っている。
現在もその一室では、祝いの品が次々と部屋へ運び込まれていた。
並べられた品の数はとても多く、その種類もまた様々である。部屋の半分ほどを占めたそれらを眺めながら、
「…………」
対面の豪奢な椅子に腰を沈めた青年が、ことりと首を傾げた。
光を透かすようなプラチナブロンドの髪。
引き込まれそうなエメラルドグリーンの瞳。
彼の名はジラルド=サン=シャグナツィア――位置付けはシャグナ王国の第一王子であり、つまりジラルドは、順当にいけば次代この王国を担う者である。
王城全体が準備に追われている明日の式典とは、齢二十五となる彼が、正式に王位継承者と決まったことを国民へ向けて発表するものだった。
王国の伝統に則り、未だ式典を迎え終えていない現時点では、ジラルドの見目は国民に公開されていない。しかし煌びやかな色合いを持つ彼の容姿は、彼が幼い頃から周囲の者に口々に持て囃されていたため、それは既に国民の茶飲み話にまでのぼる内容となっていた。今はまだ「~というジラルドという名の王子が居るらしい」という噂止まりでしかないものの、麗しき彼の姿は既に国中の知るところである。
一週間後に開かれるパーティで初のお目見えの場を迎えれば、美辞麗句の連なる表現と違わぬ彼に、街中で交わされる声は更に大きなものへと変わっていくだろう。
だが……今の彼の両眼のエメラルドには、陰りの色が見えていた。
(――緊張だろうか?)
傾げた首を元に戻しつつ、ジラルドは真剣に考えた。
はっきりとは正体が掴めない、どこか落ち着きのない気持ち。
緊張というより、不安というのが近いかもしれない。もやりもやりと胸の内に沸くその感情の持って行きどころが、今の彼には分からなかった。
(このままで良いのだろうか)
考え込むジラルドの頭の中を、そんな漠然とした疑問が何度も過ぎる。
(だが、これは、何に対しての懸念なんだ?)
このままで良いのか――不安や悩みを抱く機会など持ってこなかったジラルドの中では、それは今までに感じたことのない迷いだった。
だからふと思い浮かんだだけの経験の無い言葉を持て余してしまっているだけなのかもしれない、と、彼は自身について推測する。今のジラルドには身に迫って不安を持つような事柄など無いのだから、そうとしか考えられないのだ。
普通なら、明日への式典への緊張だと考えられるだろう。だがジラルドに限り、それは選択肢に上がりすらしないものだった。
彼は生まれついての王子だ。
明日の式典を迎えることは、ジラルドが世に生を受けた瞬間から決まりきっていたことであり、彼はそう信じきる者たちに囲まれ、彼もそう信じきるように育てられてきた。だからジラルドは、この不可解な気持ちはそのことについての迷いではないと言い切れる。
それならば――
(聞いたところによると、人には誰にでも、些細なことを鬱々と考え込んでしまう時期があるらしい。それならば、今の自分のこれも、)
――長考の末、ふむ、とジラルドは少しだけ納得して頷いた。
「遅くきた思春期というやつか」
頭を過ぎる疑問が解消した訳ではないので、気持ちは晴れないままではあるが。
釈然としない表情のまま、しかし何かに得心したらしいジラルドの様子に、
「へ、あの、殿下?」
思わず、そう反応を返してしまった者が居た。
最後の品を猫足テーブルの上に置き終えたところの男は、ジラルドの付き人兼護衛である。
「どうした、デューイ」
「いやいや、殿下こそどうされたんです」
焦げ付いたような色の茶髪と三白眼を持つデューイは、二十八の時にその役をシャグナ王より仰せつかった。二人の歳はそれなりに、そして身分はかなり離れているが、短くはない付き合いの積み重ねによって、彼は今やジラルドとの関係が一番近い者といえる。
「何か悩みでも? お話なら聞きますよ、どうせ聞くだけしか出来ませんが」
「そうか。では聞かせろ、デューイ」
「分かりました何でも……って、『聞かせろ』?」
付き人に目線を定め、相手の戸惑いには触れないまま、ジラルドは訊ねた。
「お前が思春期の頃はどんな風だった?」
「し、思春期???」
なんでまた、とデューイは眉を寄せる。
側近であるとはいえ、彼には未だこの王子の思考回路がよく理解出来ていない。
今だってジラルドに茶化すような様子は微塵も無く、
「ああ。デューイ、お前の思春期だ」
と、至極真面目な表情で問うてきているのだ。
「……あー、まー、そうですねぇ……」
今回は一体何に感化されたんだかと若干の呆れを感じつつも、仕える主のご質問に答えるべく、デューイはしばし眉を寄せて考え込んだ。
「オレが思春期の時には、自分のその、何と言うか世間の狭さってヤツ? に嫌気がさして、碌な金も持たず、体力だけをアテに衝動的な旅に出てみたりしましたね」
「たしかお前はシャグナ生まれだと言っていたな。両親もシャグナの者なのか? お前はその旅までに、シャグナの外に出たことは無かったのか?」
「オフクロは生粋のシャグナ人、オヤジは元余所者で、シャグナに着いてオフクロと出会ってからは死ぬまで国外に出ることはありませんでした。そんな、シャグナが大好きでシャグナに根を張ってしまっているような二人の間で育ったオレなんで、その旅を決意するまで外に出たことはありませんでしたね」
オレが旅に出るって言った時も親からは猛反対されました、と思い出し笑いを浮かべるデューイに、ジラルドは目を細める。
「その制止を押し切ってでも旅に出たんだな」
「はい。といっても、オレのした旅なんて近隣の国や都市をうろうろっと回っただけで終わりましたけどね。どうしたって故郷や親のことが忘れられなくて、何かにつけて思い出しちゃって。まぁあと文字の隔たりに若干挫折したりもあってね」
「それでも国の外には出たのなら立派な旅だろう。それから、思春期にはほかにどんなことがあった?」
興味深そうに促すジラルドに、デューイは言い淀みつつ続けた。
「あー……あとまぁ所謂、年頃、ですから? それまではただ仲が良い友達程度に思ってた相手を、こう……なんとなく意識してしまう、とかもありましたね」
「意識? 意識とはどういうことだ?」
「………………ま、その、平たく言えば恋をする……と、いうような」
「なるほど。じゃあ、告白はしたのか?」
そっぽを向き、ばりばりと音が聞こえる程に強く頭を掻くデューイ。
しかしジラルドは追及を止めようとはない。
「キアラの持っている本に出てくる『デート』とやらもしたのか?」
「……その真似事みたいなことはしましたがね」
いつまでもこちらを見つめてくるジラルドに、諦めたようにデューイは口を開いた。
「いや、だけど、あれですよ。相手に対する気持ちを、その、恋だって自覚をしたとはいえ、別にそれで付き合い方が急変した訳でもなく……だからオレとアイツの間に、ラブロマンス地味たものは無いです」
「それは残念だな。ぜひキアラに話して聞かせようと思ったのだが」
ジラルドは本当に残念そうに言って、背もたれに深く身をあずける。王子の子供のような動作に、居た堪れない気持ちになっていたデューイはようやく笑った。
「今になって振り返れば、若さに任せてもうちょっと弾んでも良かったかなとは思いますよ。まぁでも、あれがオレたちの在り方だったんでしょう」
デューイの言葉の中に聞こえた『オレたちの』という響きに、ジラルドは椅子に沈めたばかりの身体を起こした。
「なぁデューイ、思春期を過ぎたら恋した相手を意識しなくなるのか? 今はその相手をどうも思っていないのか?」
恋は一人では出来ない。その対象が必要である。
この忠実な臣下の告白を受け、デートの真似事に付き合ったという者は。
「その相手は、今はどうしているんだ?」
ジラルドの問いに、いや……とデューイは再び言葉を濁した。片手に持っていた祝いの品のチェック表で、彼は顔の左半分を隠す。
「『初恋というものの大半は叶うことが無い』って、よく言いますよね? ……オレは、それの大半じゃない方のパターンだったんで」
ちなみに渡したのは緑色ですよ、とデューイは仄かに耳を赤くしながら言った。
目を見開いたジラルドは、ぽん、と手を打った。
「相手はジェシカだったということだな。今年は何を?」
「先月万年筆を送ったら、こんなもん使い時が無いだろうって怒られました。あんなのに毎日ときめいてたってのが、今となっちゃ不思議ですけどね。まぁ、あのじゃじゃ馬を貰ってやれるのはオレくらいなもんでしょうし、結果的に良かったんでしょうが」
「ああ、それは何かで読んだことがあるぞ。お前達のような組み合わせを、『
「さぁ……オレはその言葉知らないんで何とも言えませんが……それ、言葉からして褒め言葉では無いんでしょうねぇ……」
デューイはそう言うと、ふうっと息を吐いて机に向き直った。
チェック表に品名を書き込んでいく付き人の背を見ながら、ジラルドは小さく呟く。
「旅と、恋か」
ジラルドはそのどちらも、今までしたことがなかった。
ジラルドの日常生活は、幼い頃から将来のために学ぶということが主に据えられていた。城から出たことさえ、数度しかない。ジラルドにとってそんな毎日は王家に産まれたものとして当然のことであったため、不満を覚えたことも苦痛を感じたこともなかった。
だが、今、そんな自分と『疑問』が繋がったような気がした。
――自分は、自由を知らないのだ。
いや、この言い方には語弊がある。自由は常にあった。自分は不自由では無かった。しかしそれは既に用意された、言わば与えられた自由だったのだ。
ジラルドが知らないのは、『自分以外の誰もが持つ自由』だ。
それはふらっと旅に出てみるような自由だったり、それは幼馴染の女の子に恋をする自由だったり、それは今日をどんな風に過ごそうかと考える自由だったり、それは夕食に何を食べようかと悩む自由だったり、それは自分の未来を、どんな道を進むかを選ぶという、自由だ。
壁に囲われた国の中央の、壁に囲われた城。
若かりしデューイが嫌気を感じたという狭い世間の中の、更に限定された空間の中で。
一般国民の生活に溢れる自由など知らないまま育った先にて、間も無く自分は皆に認められた正統な王位継承者となる。
ゆくゆくは、そんな自由を知らない自分のまま、この国の統治者となるのだろう。
「……このままで、良いのだろうか」
「はい? 何か言いました?」
肩越しに振り返ったデューイに何でもないと首を振り、ジラルドはそれに目を留めた。
「デューイ、それは何だ?」
「は……これですか?」
ジラルドの目線から問いかけられたものを察し、デューイはそれを持ち上げる。
丁寧に編まれた黒いカゴに納まったその花は、シャンデリアの光を受けてきらりと光ったように見えた。目を細めたデューイは説明をする。
「ようやく直通の船が出来た貿易の相手都市、ネッサリアの市長からのものですね。ネッサリア以外の国からも花は送られてきてますが――あぁ、これが一番いい匂いだ」
「匂い……それは造花ではないのか?」
「ええ、ちゃんとした花、本物です。こんな造り物めいたモンだ、そこからじゃ分からないでしょうね。なんでも、ネッサリアでしか採取出来ない花なんだとか」
確かにこの辺じゃ見かけない、と、デューイは花に顔を近づけてまじまじと観察した。
ジラルドはそれを自分の手元へ持ってくるようにジェスチャーで指示をする。
「ああ。……たしかに」
芳香は、デューイが二歩ほど動いただけでジラルドにも届くようになった。
編みカゴがジラルドの両手に納まった。深い藍色の緩衝材の上に鎮座するその花は、近くで見ると一層美しく見える。ガラス細工のような薄い花弁は触れるとほろりと崩れてしまいそうで、だから指は伸ばせない。代わり、目が離せなかった。
そのままの状態で、デューイ、とジラルドは付き人の名を呼んだ。
「なんですか、殿下」
「シャグナ・ネッサリア間の船が出来たのはいつだ?」
「あまり詳しくは覚えてないですが、まぁ、ほんの最近ですね。三日前だったかな?」
「ならば親交は浅く、我が国はネッサリアについてまだ詳しくは知らないのだな」
「あぁはい。向こうは経済の大きな商業国ですし、貿易相手として申し分無いという調べはついているはずですが、国の内情についてはそんなにかと。今後更に互いの国が親しくなることを願ってという意味での開通でもあるようですしね」
そうかと呟いたジラルドは、編みカゴをじっと見下ろしている。
「相手のことを知るというのは重要だな」
「へ? ま、そりゃ、何事においても基本だとは思いますが……?」
「統治する国の民においても、今後の国交相手においてもだな」
真剣な声色でそう頷くジラルドに、デューイはなんだか嫌な予感がした。
前述した通り、長年の付き合いを経てもデューイにはジラルドの思考回路はよく分からない。だが、彼が急なことを言い出す前の空気をキャッチするレーダーは、付き人としての経験の中で確かに鍛え上げられていた。
「――よし。決まりだ」
ただ、空気のキャッチが出来たとて、回避出来るかどうかは別の話で。
「えぇと……殿下?」
ようやく顔を上げたシャグナ王国第一王子は、狼狽える付き人にきっぱりと宣言をした。
「僕は旅に出る。デューイ、付いてこい」
「流石にそれはいきなり過ぎですよ! 第一、継承認定の式典はどうするんです!!」
今日一日のオレの仕事は何だったんですかと焦りを全面に出して祝いの品を指さすデューイに、少しだけムッとしたような顔をしてジラルドは返す。
「なにも、今日から出立という訳ではない。ちゃんと明日の式典が終えてからと考えている。一週間後のパーティまでに戻れば問題無いだろう?」
「いや、それにしたって……」
「デューイ。僕は、僕が自由を知るチャンスは今しかないと思う」
珍しく強い意思が込められたその声に、敏腕な付き人である彼は。
「――……はぁ、で、どちらに向かわれるので? なんとなく察しはついてますがね」
頭の中で、今後数日の王子のスケジュールを組立て直し始めた。
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