第4話

 *****


 しばらくは、情報集めも交えて旅が続けられるらしい。

 伊久のことを弟子として迎え入れた幽ノ藤宮は、それでも自分のことを「師匠」とは呼ばせなかった。そのため伊久は、かの人のことを「主様」と呼んでいる。幽ノ藤宮の方はそれも快諾した訳ではないため、初めの頃は呼ばれる度にむずがゆそうな顔をしていた。

 そんな、伊久の主様呼びに幽ノ藤宮が慣れた頃。

 旅の途中、次の都市への歩みの中で、伊久は唐突に訊ねてみた。

「主様、俺の名前ってどっちかっつーと和系音に近いですよね」

「えぇ。わたくしはそのつもりでつけましたからね」

 伊、久、と手のひらに書かれた文字は、伊久にはまったく理解出来ない筆順だった。

「どうしてこの名前に?」

「この世界では、いくつか地方ごとに読み書き用の文字がありますね?」 

 今、伊久や幽ノ藤宮が交わしている言葉は、一般共通語だった。

 この世界の人間であれば、成長過程のうちに多くにはこの言葉で会話をし、一般共通文字で読み書きをすることになる。それとは別に、書き下し用の文字として、地方で使われている文字があった。それが和系人集団の使う『和系文字』や、シルタ族内で使われている『シルタ文字』である。伊久の故郷であるソルバノの近隣国サルバサエクでも、古来には国内のみで使われていた文字があったと聞いている。

「貴方の名前の音、『イク』というのは、『はぐくむ』という意味を持つ和系文字と同じ音なのですよ。それに当て字をさせていただきました」

 和系文字には、一般共通語とは別な意味の訳し方があるのが特徴である。

「じゃあ、主様の名前一つ一つにも別な意味が?」

「えぇ、ありますよ。ですが長くなりますのでそれはまた今度。それよりも、貴方の名前の理由のもう一つをお伝えしなければ」

 まだあったのか、と伊久が話を聞く体制を取ったところで、

「もう一つの理由は、貴方のご両親の残された欠片です」

 思いがけない言葉に、次の都市へ向かっていた伊久の歩みが一時止まった。

 しかしすぐに歩き出すと、平然とした声を意識しつつ、

「どういうことですか」

 と尋ねる。彼の動揺を分かっていながらも、幽ノ藤宮もいつもと同じ調子で答えた。

「貴方の家に泊まらせていただいた夜中に、貴方のご両親と秘密のお話をしたのですよ。もしも自分たちがバチネの家系でなければ、三人の息子たちにそれぞれ何と名づけていたかというね。その中の三男、貴方のお名前は――教えませんが」

 始めと終わりの二文字をいただきました、と、幽ノ藤宮は言った。

 ――『イ××××ク』。

 いくつかの候補がパッパッと頭の中に点灯し、すぐに消え去っていく。

「ついでにもう少し話をさせてくださいな」

「あ、……はい、なんです?」

 少しばかり呆けていた伊久に、幽ノ藤宮は語った。

「貴方方ご家族は、バチネ様からとても愛されていたのですよ。三か月前、今際の際いまわのきわに、バチネ様はこう仰いました。『最後に残ったのが自分で良かった、こんな地獄絵図を体験するのは自分で良い』と」

「…………」

 伊久は想像する。それを言った、父親の顔を。

「ソルバノの最後は半狂乱になった村民同士の殺し合いでした。バチネ様はきっと、思い出のある故郷がそのように哀しく滅んでいく様を貴方方には見せたくなかったのでしょう。だからこそ、『今だけはこの赤い布を巻き付けた腕を誇りに思う』と、あのように綺麗なお顔でお亡くなりになったのでしょう」

 バチネの家系といえど、村への出入りが禁止されていた訳ではない。

 汚れ仕事を請け負ったとき、その時以外でも、村の店で買い物をしたり公園で休んだりすることは出来た。特に幼いころには、壁の中も外も関係なく、子供たちの塊と一緒になって遊んでいた記憶がある。

 今まで自分の家から石壁の向こうまでの距離を遠く感じていたが、思い出の中に村の様子が沢山溢れ、時には楽しかったという感情も浮かんでくるあたり、そんなことはなかったのだろう。

 ――自分は本当に故郷を嫌いなだけ・・だったか?

「貴方のことも、最期まで心配しておられましたよ」

「死んだはずの俺の心配を?」

 眉を寄せ、幽ノ藤宮を見る。その穏やかな表情を見ていて、伊久は気付いた。

 それは、もしかすると。

 自分を突き落とした時、父親が浮かべていた笑み、あれは。


(自分でなくてよかった)

(最後まで村に残るのがこいつではなくて良かった)

(此処からなら助かるかもしれない)


 ――(生き抜けよ、イ××××ク)


「……主様」

「なんでしょう?」

「俺は、主様の弟子というお役目を誇りに思い、必ずその肩書に恥ずかしくない、相応しい者になってみせます」

 ずびりと鼻を啜った弟子に向け、

「頼もしいですね。ぜひ、よろしくお願い致します」

 と、やがて『偉人』と呼ばれる者は優雅に笑った。

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