2-23 崩壊

 データリンクが途絶える。レーダーからGleipnir《グレイプニール》のアイコンが消失する。


『……生きて……』


 ノイズ混じりに照の声が残る全機に届いた。


「――ノルン」


 リコの意識の先にノルンも目を向ける。遥か上空、薄い雲から何かが燃えながら落ちてゆく。破壊されて尚目立つ、特徴的な大型のクリップドデルタ翼と大型レーダーのレドーム。ノルンが見紛うはずもない。かつて自身が乗っていた機体。E/S-05 Gleipnir。――照の乗る機体。


 超高空を飛んでいるはずのそれは重力に引かれ、海面に飲まれ、爆発。巨大な飛沫を上げた後、二度と上がってくることはなかった。


 誰も、状況が理解できなかった。レーダーには自分たち以外誰も映っていない。だが現に一機が落とされた。次の瞬間、また一機がレーダーから消える。その方角をノルンは見る。光学ズーム。


 レーダー上にはいない、本来存在するはずのないものが、そこにいた。


 闇。セヴンスの形をした闇。


 ノルンは戦慄する。


「ねえ、照は――照は?」


「リコ。落ち着いて聞いて。照はもういない。今はあれを何としても落とさないといけない」


 八洲軍のセヴンス部隊はこれまで対ベイカント戦しか想定してこなかった。いや、ミサイル等の装備が一切供給されなかったことを考えると、想定させてもらえなかったと言うのが正しい。


「照――どこ、ノルン」


「リコ。お願い。今は――あれを見失うと、全員死ぬ」


 対人戦闘機の基本中の基本性能。ベイカントに対して効果のないそれは、こと人と人との戦場において最も基礎的で大きな効果を発揮する。


 中東の紛争地帯では使用されていると耳にしていたが、ここまでとは。ノルンは声を張り上げる。


「こちらエインヘリアル1、羅刹。指揮を引き継ぐ。ステルス機だ。対ベイカント用のパルスレーダーでは捉えることすらできない。決して見失うな!」


「ノルン!!」


「――大丈夫。私がいる。だからリコ。力を貸して」


 前推力をもって羅刹が加速。今まさに戦隊の一機を堕とそうとしていた闇色の機体――ガルムの間に割り込む。機首を引き起こし百八十度回転、ガルムに向け短機関銃を発射。当然回避されるがそれでいい。敵の注意をこちらに向ける。


 最悪撤退させるだけでもいい――と、ノルンは一瞬、ガルムとすれ違った瞬間にレーダーが反応したことに気付く。


 観察。凹凸すら判別できないその機体のシルエットに足りないものがあった。左腕がない。それによって敵のステルス機能が完全ではなくなっている。きっと、照がやったのだ。ノルンは確信した。戦闘機にとって重量バランスの崩れは飛行に大きな支障をきたす。全てコンピュータが的確に補正をするセヴンスであっても、それによるメモリ消費は馬鹿にならない。


 羅刹は翼を広げガルムの後を追う。パイロットの腕は相当なものだ。しかし幸いなことに敵の性能は羅刹よりも低かった。機動性能のみに特化したこの機体が負ける道理などない。


 勝機はある――戦隊機の皆が確信した刹那、背後で巨大な爆発が起こる。八洲軍基地が炎上していた。


 バンカーバスター。遠距離から飛翔してきたものはなかった。であればその主は目の前の黒い機体によるものであることは明白だった。逃げながら、的確に爆撃を行ったのだ。


 何のために? ――証拠を消し去るために。欲しいものを得られたかは別にして、この無法の行いを語る者を一掃するために。


 それは、DDLのことを黙っていたことに対する報いにしては、あまりに重過ぎるではないか。


 ノルンは激昂した。クレイドルを通して流れ込んできたその感情で、リコは理解した。死というものを。照が死んだということを。基地が沈んだと言うことを。それが意味するすべてを。


 あの黒い機体を、何としても撃墜せねばならないことを。




 残る戦隊機は羅刹ともう一機の天雷、そして駆け付けたベイカントのみ。しかしベイカントにもガルムの存在を知覚することは難しいようだった。だが盾として、健気にもリコたちを守ろうと行動していることはノルンにも理解できた。


 最後の天雷がガルムに取りつき叫ぶ。


「一番機! 撃て!!」


 ベイカントはそれにならい動きを止めるためガルムの周囲に集まり始める。羅刹は最大出力で接近。だがその中央、黒い機体の各部が展開し、内部構造が露になってゆく。爆発。いや、機体がステルス性能を限界まで高めるため内部のヒートシンクに貯め込んだ膨大な熱量を一斉に吐き出し、周囲の大気が燃えたのだ。


 固まっていたベイカントと天雷ははじけ飛ぶ。体勢を直すその一瞬の隙に的確に散弾が撃ち込まれる。


 ついに八洲軍基地部隊はノルンとリコのみとなった。


「――リコ。もう、やめよう」


 ノルンの声は、諦めであり、リコに対する許しでもあった。


「もういいよ。大丈夫」


 それでもリコは、照を殺したあの機体を、基地を壊したあの機体を破壊することしか考えられなかった。


「……守る」


 それは、リコの中に初めて生まれた感情だった。


 自分を守ってくれていた者たちを失い、失うことへの恐怖と、奪う者への怒りを覚え、今己の後ろにいる家族を守る。そのためにあの闇色の機体を破壊する。


 ノルンの中に、リコの感情が伝わる。3年半ともに過ごしてきて、リコがここまで苛烈な感情をもったのは初めてだった。止めるべきか、助けるべきか。数舜の逡巡の後、助けることを決めた。せめてリコが、人を殺してしまわないように。


 リコとノルンは羅刹を己の体のように扱い、着実に追い詰めてゆく。だが銃弾が当たらない。弾は尽き、投棄。素手で眼前の敵機に挑む。


 


 増速。羅刹はガルムを追い越し行く手を阻むがガルムは上昇、雲の中へと逃げ込む。羅刹も追う。見失えば即ち敗北を意味する決死の追跡。リコとノルンは四つの目で捉えながら、薄い雲の中を往く。追われている間は不利なだけと判断したガルムがゆったりと反転。正面から散弾を発射。九つの劣化ウラン弾が羅刹を襲う。しかし羅刹の翼が羽ばたくように撥ね、音速を超えた機体が速度と進行方向はそのままに直角に上昇、回避。ガルムと交差する瞬間に左手を伸ばす。ガルムは右百三十度ロール、下方へ離脱を図るが左の噴射飛翔翼を掴まれ翼が折れる。衝撃で横向きに回転を始めたガルムに羅刹は再度接近。左翼への油圧供給を停止させたガルムは体勢を立て直すものの眼前には羅刹の巨大な腕。脚部のバーニアを吹かせ蹴り上げる形で旋転、下方に逃げ出す。尚も追う羅刹。それはなかなか捕まらない羽虫と、それを叩き潰そうとする人間のようだった。だがガルムは左の翼と左腕を失っている。捕まるのは時間の問題だった。


 ついに羅刹がガルムを捕らえる。それでもガルムは諦めない。先程の機動によって溜まった熱を再度放出。羅刹が離れ、生まれた一瞬の隙。ガルムの放つ散弾が羅刹のコクピットを撃ち抜く。勝負あった、とガルムのコクピット内のパイロットは思った。しかし羅刹が動きを止めることはない。


「私が守るんだ……だからお前は……お前だけはッ!!」


 リコが叫ぶ。衝動による暴力性の全てで、眼前の敵を倒そうと――殺そうと行動する。


 ガルムは逃げる。だが羅刹は瞬時に追いつき、素手でその機体を捕らえる。再度の放熱はできなかった。


 羅刹の両腕がガルムを掴み、武器を持った腕を、足を、翼をそれぞれ千切ってゆく。オイルで汚れたその手は最後にコクピットを引き剥がし、内部で体を縮める一つの人間を太陽の光のもとに晒す。


 ヘルメットのせいで、顔は見えなかった。


 羅刹は――リコは、そのパイロットをコクピットごと握り潰し、海へと棄てた。


 空が再び、静かになる。太陽が羅刹を照らし、赤と白の装甲を輝かせる。ただ一機生き残った羅刹のエンジン音だけが、どこまでも続く空の大気を震わせていた。


 終わったよ――そうリコは言おうとして、ノルンがいないことに気付く。ずっと繋がっていたはずのノルンを感じられないことに気付く。


 後ろを振り向くと、そこには誰もいなかった。先程の銃撃による弾痕と、壁中に飛び散るDDLと混ざった赤い液体と、そこに浮かぶ見慣れた明るい色の髪の毛が、少しだけ。


 リコは、ひとりになった。


 リコはしあわせだった。ノルンがいて、照がいればそれでよかった。それなのにもう二人はいない。帰る場所もない。居場所がない。あるのはこの羅刹と呼ばれた機械の巨人のコクピットだけ。


 遥か後方、家のあった基地はもう、見えなかった。


 後ろに座っているはずの、繋がっているはずのノルンを感じることができない。


 一緒に飛んでいたはずの、照の機体はどこにも見えない。




 ここにいるのは、二人がいてくれるからだった。


 ここにいられたのは、二人がいてくれたからだった。


 生きて、と照は言った。大丈夫、とノルンは言った。


 けれどもう、私は、ここにいる意味なんてないじゃないか。


 手に、先程握り潰した敵の金属と、柔らかい何かの感触が残っていた。


 叫んだ。声という指向性を持たないそれはコクピットを反響する。


 リコは本能的に、旧軌道エレベーターへと飛んだ。逃げたはずの敵と、途方もない海と空が視界を埋める中で、それは唯一の道しるべのように見えた。羅刹の持つ推力全てを後方に回す。その速度は刹那のうちに音の壁を破り、銀の尾を引き彼方へと消えていった。


 気化DDLが充満した空間に突入する。時間の歪んだ大気に触れた機体の装甲は捻じ曲がり、分解されてゆく。


 日本に行って、雪を見たかった。照の生まれた場所を見たかった。ノルンともっと色々なことを話したかった。二人のことをもっと知りたかった。二人ともっと、生きたかった。


 基地のルールはいつも守っていた。二人が仕事の時は一人で留守番もした。病院は嫌だったけどいつも我慢した。苦しかったけれどそれも我慢した。手術も怖かったけど勇気を出した。テレビや本で見た友だちも欲しかったけれど、二人がいるから我慢した。もっと遊びたかった。大好きなのに。大好きだって言ってくれたのに――どうして。


 会いたい。二人に。言いたいこともやりたいことも、たくさんあったのに。


 リコは思う。こんなに辛いのなら。こんなに悲しいのなら。こんなに痛いのなら。もう、消えてしまいたい。


 リコは、その術を持っていた。この全ての苦しみを消す術を。


 駆け抜けた先。かつて自分のいた場所。リコが生まれた揺篭。旧軌道エレベーターという地球のへその緒の中心で、リコはこの宇宙すべてのDDLと、接続した。

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