星巡りの結末 二 三根岸という男

 急激に問志の身体に纏わりついていた浮遊感が消え失せて、代わりに本来あるべき重力が少女の身体に圧し掛かる。体制を立て直すことの出来なかった問志は転倒を覚悟したが、幸い彼女の身体が固い地面に打ち付けられることはなかった。


「わっとっ」

 倒れ込もうとしていた身体の腰の部分を抱えるように何かに引き寄せられて、問志はその場でたたらを踏んだだけで済んだ。

 引き寄せた力の持ち主は、彼女が体制を整えたことを確認すると直ぐにその手を放す。


「お嬢さん、大丈夫かい?」

「っはい、ありがとうございます。……あれ?」

 五感全てがぼんやりと霞むような感覚の中で、問志は彼女を”お嬢さん”と呼ぶその声を無意識に槐のものだと認識していたが、後れてやってきた違和感に顔を上げた。


 いつも問志の鼓膜を揺らす槐の声よりも随分と低いし、何より声色の輪郭がはっきりとしている。問志が霞む視界を振り払うように瞬きを数回行えば、すぐに彼女の眼に光と色が戻ってきた。やがて完全に視力を取り戻した問志の目の前には、槐ではない見知らぬ男性が立っていた。

「……槐さん、じゃない」


 それは白髪しらがと黒髪が混ざった灰色の髪の上に、麦で編まれた中折れ帽子を被った男性だった。山鳩色やまばとの着流しに黒い帯を締め、インバネスコートの袖を通さず、肩に引っ掛けるようにして羽織っている。


「エンジュサン?私は三根岸 《みねぎし》だよ」

「ぼ、僕は東雲問志です」

 まるで偶然相席になった相手と雑談にきょうじるような軽い調子で自ら名乗った男につられ、問志も思わず自分の名前を口にした。


 三根岸と名乗ったこの男性が、道端でしゃがみ込んでいた自分が倒れ込むのに気づいて支えてくれたのだろう。しかし問志は思い出す。つい先ほどまで自分が立っていた通路から見える範囲には、自分と槐を除いて通行人などいなかった。あの見通しのいい場所で、もし彼が居たのであればもっと早くに気づけた筈だ。

 死角などあっただろうかと周囲を見渡そうとして、問志は思わず硬直した。


 男の身体越しに見える景色が、先ほどまでいた筈のものとはまったく違っていたのだ。

 確かに問志達は屋外に居たはずなのに、今彼女の眼に映っているのは何処どことも知れない十五畳程の広さの部屋の中だった。

 整備された道は古びた畳に変わり、太陽の光は丸く切り抜かれた窓から僅かに差し込むばかりで薄暗い。


 しかし、これで多少の推測は立てられる。自分の前を歩いていた筈の槐は、恐らくあの水溜に触れてしまったために、自分と同じようにこの場所に来てしまったのだろう。奇怪な話ではあるが、問志は自分の想像が実のところ一番現実的だという自負を持っていた。


「あの、此処は一体どこなんでしょうか?それに槐さん、じゃなくて、柘榴色の髪で、白い外套を羽織った鬼を見ませんでしたか?」

「いや、私がここで会ったのは君が初めてだよ。その槐という鬼を追いかけて此処にきたってところかな?……なんであれ、事情が有っても無くても封鎖された敷地内に入り込むのは感心しないね。そんなんじゃ、いくら”僕ら”が頑張ったって限度がある」


「封鎖?なんのことですか?」

「……なんのことだって?」

 身に覚えのない言葉に問志は改めて先ほどまで自分のいた場所の記憶をひっくり返してみたが、思いつくようなものはやはり周囲に何もなかった。


「潜り込んだことを誤魔化しているなら、撤回は今のうちにしてくれないか」

山葵野わさびのの神社近くの住宅街ですよね?」

問志の返答に、穏やかな笑みを貼りつけていた三根岸の顔が僅かに歪んだ。


「……山葵野だって?朝草寺ちょうそうじ付近じゃなく?」

「はい。黒い水溜まりがあって、それにさわって気が付いたらここに。証明できるものがないので、信じてもらえないかもしれませんが」



「……いや、信じよう。僕らの封鎖外から迷い込んできたという方が、”彼女”の状態をかんがみれば可能性は高い。疑って悪かったね」

 三根岸は深くため息を吐くと、「一カ所だけじゃなくなってきているのか。いよいよ不味いな」と独りごちた。

何が不味いのか問志にはわからないが、どうやら三根岸は少なからずこの場所についての知識があるらしい。


「あの、此処が何処かご存じならば教えて欲しいのですが」

 今度は問志が三根岸に質問をする番だった。問志に対する三根岸の不信はどうやら大方晴れたらしく、表情には柔らかさが戻っていた。

「そうだね。君には現状を正しく知る権利があるから教えよう。ここは、鬼の怪異の中さ」

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