第3話

「はずだった、と仰いますと?」

 不思議そうに珠城が僕を見る。僕は頼りなく笑って言った。

「友紀……僕の妻のことですが、おかしなことを言うようになって」

「おかしなこと。もしかして、それが化け物のことですか?」

 僕は頷いた。それから珠城の様子を伺う。本当にこんなことを話してもいいものか迷いがあったのだ。けれど彼は相変わらず優しい微笑みを僕に向けてくれている。その深い瞳の色に、何故だか僕は安堵した。この人になら、どんなに突拍子のないことを言ってもいいのだと、どんなことでも受け入れてくれるのだと確信できた。

「……ある日、仕事から家に帰ると、家の中が滅茶苦茶に荒れていたのです。

 友紀は、見た目は派手な女です。流行の化粧をして、ブランドもので自分を飾り立てるのが好きでしたが、でも家の中のことはきちんとしていました。それなのに部屋はどこもひどく荒れていて。

 友紀はひとり、寝室の隅にうずくまって何かを恐れて取り乱していました。その様子に僕も怖くなって、彼女に詰め寄ると言ったのです。『どうしたんだ?』と……」

 喉が渇いて、僕はグラスを持ち上げると半分ほどを一気に呑んだ。

「……彼女は言いました。これは化け物の仕業だと」

「化け物があなたたちの家を荒した、と?」

「ええ」

 僕は、グラスに残った琥珀色の液体を眺めながら答えた。

「その化け物は、友紀が……自分が連れて来てしまったのだと言うのですよ。何のことかと思いますよね」

「あなたは、その言葉を信じなかったのですか?」

「信じないでしょう? 普通」

「そうですね」

 微かに声を立てて珠城は明るく笑った。

 へえ、この人もこんな笑い方をするんだと、奇妙なことに僕は少し嬉しくなった。そうなると自然に口も軽くなる。

「でも、友紀は本気でそんなことを言っていたんです。だけど化け物なんて言われても、どうしていいか判らないでしょう? 僕はね、きっとこれは彼女が自分でやっていることだと思いました」

「自作自演と? それはつまり化け物などいないということですね?」

「ええ。友紀は家の中でずっとひとりきりでいて、きっと退屈だったんですよ。時々、僕に辛辣なことを言ってやつ当たりするなんてこともありましたから。

 この化け物の件も、きっと自分で部屋を荒して、いもしない化け物をでっち上げて、僕を困らしてやろうとか、構って貰おうとか、そんなことを思っていたのでしょう」

「お寂しかったのですね、奥さまは。お仕事を辞めて、ひとりきりで家の中にいて、あなたのお帰りを待つ毎日は、想像以上に息が詰まるものかもしれません」

「そうかもしれませんが……友紀が仕事を辞めて専業主婦になることは、結婚前に話し合って決めたことですよ。それを今更……」

 その時、不意に僕の頭の中に、友紀がかつて僕に言い放った言葉が蘇った。

『仕事を辞めてまで、あんたみたいな退屈な人と結婚するんじゃなかった!』

 じりと心の奥がきしむ。

 もう随分前に言われた言葉なのに、こうして思い出すたびに嫌な気持ちになる。

『親が金持ちだから楽できると思って結婚したのに、ちっとも楽しくない!』

 綺麗に化粧した顔を歪ませ、髪を振り乱して彼女は言った。興奮して体温が上がっているせいか、香水がきつく香る。

 友紀、何を言っているんだ?

 どうしたんだよ?

 お互い好きで結婚したんだろ?

『誰があんたみたいな真面目だけが取り柄の男に、恋愛感情を抱くって言うのよ!』

 暴言を吐いて僕を睨みつける彼女は、そんなきつい表情をしていても変わらず美しかった。

 会社で彼女の写真を見せると、上司も同僚もみんな同様に羨ましがる。

 いいなあ。こんな美人の奥さん、どうやって捕まえたんだよ。

 家に閉じ込めて、誰にも見せないようにしているんじゃないのか?

 そんなことないよ、と僕はへらへらと笑って返す。こんな時、僕の心を支配するのは、薄っぺらな優越感、それだけだ。愛情じゃない。

 その優越感のために、僕は友紀と一緒にいる。

 だから、友紀が僕と結婚したのがただの打算だったとしても、僕は何も言えない。怒ってはいけない。お互いさまなんだから。

 そんなことは結婚前から判っていたことだ。

 しかし、それでも。

「面と向かってはっきり言われると、やっぱり堪えますよね……」

 溜息交じりに僕が言うと、珠城が冷めた声で応じた。

「だから、化け物が来たのでしょうか」

「……え?」

 びくりとして、僕は顔を上げた。

 改めて見る彼の顔は、相変わらず微笑んではいたけれど、それはさっきまでのものとは少しばかり性質が違うような気がした。その微笑の奥にはぞっとするような冷気がある。

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