第2話

「悲しそう? 僕が?」

「はい。悲しそうに月を見ていらしたので……」

「ああ、月か」

 言われて、彼に声を掛けられるまで、ぼんやり見ていた少し足りない月の姿を思い出す。

 確かに、僕はあの月を見ながら、悲しいと思っていた……いや、月を見たから悲しくなったのか?

「判らないな」

 僕はつい笑って言っていた。

「自分のことなのに判らないよ。何が悲しいのか、悲しくないのか……。なんというか……何を悲しがっていたのかすら忘れてしまった、そんな感じだな」

「そうですか……」

 珠城は考えるように少し沈黙した後、言葉を続けた。

「少しずつ、思い出してみるというのはどうでしょうか」

「……思い出す?」

「はい。無理をせずに、少しずつ思い出すことで心を整理ができると思うのですが、どうでしょう」

「そんなことして何になると?」

「そうすれば、あなたの『悲しみ』の正体が見えてくる、かもしれません。見たくはありませんか?」

「悲しみの正体……」

 心の奥がちくりと痛んだ。

 何だろう、この痛みは……?

「……あの、珠城さん」

 僕は恐る恐る珠城に問うていた。

「心の整理とはどうすれば?」

「まずは話してみるのです? 僕でよければ聞きますよ」

「……何を話せというのです? それすら僕には判らないのに……」

「心に浮かぶもの、すべてを」

「すべて……? あなたとはさっき知り合ったばかり。失礼だけど、他人のあなたに僕のすべてを話すなんて」

 軽く笑ってやろうとしたのに、顔が強張って失敗した。

 そんな僕と真逆に、穏やかに微笑んでいる珠城が自由に見えて、不意に憎らしくなった。皮肉のひとつも言ってやろうかと口を開いたが、しかし肝心の言葉が出てこない。唇が頼りなく震えるばかりだ。

 何だ? これは……迷い?

 一体、僕は何を迷っているのだろう?

 結局、中途半端に開いた口を持て余して、僕は俯いてしまった。すると静かな口調で珠城が言った。

「あなたがお話しくださるまで僕はいくらでもお待ちできますが、あなたの方はそうはいかないのではありませんか?」

「え……?」

 弾かれるように顔を上げた。

「それは……どういう意味ですか?」

「時間です」

 当然という顔で彼は言う。

「思う以上に夜は短いものですよ」

 夜?

 その言葉に呼応するように脳裏に浮かんだのは、暗い空に小さく瞬く星々と、そしてあの月だ。少し足りないあのいびつな月。

 小さく息を吐く。

 心は決まった。この珠城という人に話を聞いて欲しいと思った。いや、そんな生易しいものではなく、話さなければ、何か取り返しのつかないことになる、そんな焦りに似た感情に突き動かされて、僕はグラスをカウンターの上に戻すと、身を乗り出して言っていた。

「僕らの家には……あれがいるんです。あれがいる限り、僕たちは……」

「あれ、とは何でしょうか?」

「それは……」

 ぐっと息を呑んで、そして僕は言った。

「あれは、きっと化け物です……」

 珠城が短く息を呑んだ。その後、すぐに小さく頷くと言った。

「その化け物はあなたやご家族に何か悪いことをするのですか?」

「あれは僕たちを壊す者です。……そもそも、簡単に壊されてしまうほどに、僕たちの関係はもろかったのかもしれないけれど」

「その脆さを化け物に付け込まれた、と?」

「そうかもしれない。だけど」

 一呼吸ついて僕は言った。

「幸せだと思っていました。僕も、彼女も」


 大学を卒業し、社会人二年目の秋に僕と友紀は結婚した。結婚すると同時に彼女は仕事を辞めた。

 そうすることは結婚前からの約束だったから、揉めることなく友紀はすんなりと家庭に入り、専業主婦となった。

 そもそも僕の実家は裕福だったし、仕事も順調だった。だから、友紀が働く必要なんてまったく無かったのだ。

 こうして僕たちの順風満帆な新しい生活が始まるはずだった。だったのだけど……。

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