第2章 魔女の集会④

 翌朝、私が目覚めたときにはすでにエルザは荷物をまとめているところだった。

 私はエルザから昨日の昼食に摂った焼き菓子と冷めかけのお茶を受け取ると、手早く朝食を済ませた。

 エルザは馬に荷物を括り付けると、手綱を引いて砦の出口へと向かった。

 私はエルザの後を追いながら、一夜を過ごした砦跡を眺めた。日の光の下で見る廃墟には、暗い影があるわけでもなければ、獣の息遣いもせず、恐怖を感じさせるものは何もなかった。昨夜、山犬に襲われた後は気が動転していたが、エルザが明け方まで見張りをしてくれたこともあり、ようやく安心して眠りにつくことができた。

 私は前を歩くエルザの背中を見つめながら、昨夜彼女が見せたこの世ならざる技を思い出していた。あれが魔法と呼ばれる神秘の力だとすれば、人々が恐れるのは無理からぬ話だと感じた。だが、昨夜の彼女は、私を守るためにその力を使った。その時私が抱いた気持ちは、魔女という存在に対する恐れではなく、エルザという一人の頼もしい女性に対する信頼だった。

 砦の正門につくと、エルザは私を持ち上げて馬の上に乗せた。

「ここからの道程は鶯谷を抜けて、山の中に入っていく。夕方には集会の場所である『黄昏館』に到着するだろう。」

 そういうと、エルザは私の体に巻かれた火傷の包帯を見やった。

「傷は痛まないか?」

 私は腕の包帯をさすりながら、正直に答えた。

「少しだけ痛みます。」

「そうか。黄昏館についたら包帯を変えてやる。もう少し我慢しろ。」

 エルザは軽やかに馬にまたがると、右手に手綱と杖をにぎり、左手に私を抱きかかえ、谷の方向へ馬を進めていった。


 砦を出発してしばらくすると、次第に左右の山が迫ってくるような地形に変わっていった。鶯谷は、谷の底というには日当たりは良く、私たちは新緑に萌える若葉に彩られた木々のアーチの下を快調にくぐっていった。鶯谷という地名の由来になっているかはさておき、春の訪れを祝うように、鶯たちが彼ら独特の鳴き声の練習を始めているところだった。

 私は馬上で揺られながら、口笛で鶯たちの鳴き真似をした。口笛の吹き方は早いころから父に習っており、大人になった今でも得意だった。

「ふーん、中々上手いじゃないか。」

 頭上からエルザの声がした。エルザの話し方はいつも感情がこもっていない単調な印象だったが、この時は少しばかり上機嫌な声音だった。

 エルザに褒められて気をよくした私は、しばらく鶯の鳴きまねに夢中になった。

 谷の底は次第に幅が狭くなり、やがて傾斜のある山道へと変化していった。木々が密集し始めたあたりでエルザは馬を停めた。エルザは馬から降りると、私を乗せたまま、手綱を引いて山道を登りだした。山道を登っている間は、アンナの蹄の音や、木々の間を飛び回る鳥のさえずり以外には何も聞こえなかった。エルザは歩調を変えることなく、緩やかな山道を淡々と登り続けていった。

 途中、山道近くを流れる沢の脇で休憩した時、私はエルザに訊ねてみた。

「昨日、エルザさんが使ったのって魔法ですよね?」

 エルザは昼食代わりの焼き菓子を手渡しながら、私をジロリとにらみつけた。魔法のことを尋ねるとエルザは不機嫌になるとは予見していたが、意外にも素直に答えてくれた。

「…いや、昨夜私が使ったのは『呪術』と呼ばれるものだ。魔法よりも原始的で、主に炎を操る術のことだ。術式も簡単なものだし、種火さえあれば詠唱の必要もなく行使できる。まあ、魔女にとっては初級の術といったところだ。日常生活でも役に立つし、昨日みたいに獣を追い払う際にも使える。手の込んだ魔法術よりもよほど便利なものだ。」

 私は焼き菓子をかじりながら、エルザの話に聞き入っていた。エルザの説明はおとぎ話の中のことのようにしか思えなかったが、彼女自身の所感が入ると、何故か身近なものとして感じられた。私は好奇心に任せて質問を重ねた。

「じゃあ、エルザさんが得意な魔法ってどんな魔法ですか?」

 エルザは編んだ自分の髪を撫でながら(彼女の癖の一つだった)少しばかり宙を眺めた。

「そうだな、私のもつ魔法属性は『熱』と『光』だ。得意な魔法もそういった要素を生み出す炎の魔法、ということになるだろう。最も…」

 そこまで言って、エルザはわずかに声の調子を落とした。

「私が造る炎はすでに暗く染まっているがな。」

「?それはどういう…」

 さらに質問する前に、エルザは私の口元についた焼き菓子のかすを払い取ると、立ち上がって出発を告げた。


 太陽が西に傾き始めたころ、私たちは魔女集会なるものの開催場所である『黄昏館』に到着した。

 黄昏館の門の手前には谷を越えるための短い石造りの橋が架けられており、橋の欄干からは、小さな滝から伸びる渓流が見下ろせた。

 エルザの説明によると、黄昏館とはかつてこの地を治めた小国の王の別荘として建てられたものを、魔女集会の長が改修したものらしい。むき出しのレンガ組の外壁や、ウロコ紋様の瓦ぶき屋根以外にはこれといった装飾はなく、その外観は王族の住まいとしては質素なものだった。おそらくお忍び的な用途でも使われていたためだろう。側近や護衛を含めて多数の滞在者を想定してか、建物の大きさはかなりのものであり、ちょっとした田舎の宿屋の様相を呈していた。黄昏館は、その名前の通り、黄昏時の夕闇に沈み始めた山林の中で、時が止まったかのように静かに佇んでいた。

 エルザは門の前で立ち止まると、小さくため息をついてから私を見下ろした。

「黄昏館に入館する前に一つだけお前に言っておくことがある。いいか、館の中で誰に会おうと、絶対に聞かれたこと以外には答えるな。お前からほかの魔女たちへの質問も禁止だ。」

 私はエルザの青い目を見上げながらこくりとうなずいた。

 エルザは格子門の取っ手に手をかけたが、開ける前にまた私を見下ろして言った。

「要するに、お前は何もしゃべるなということだ。必要なことは私からすべて話す。約束できるな。」

 私はまたはっきりと首を縦に動かした。

 エルザはゆっくりと門を開けた。私はエルザのマントのはじを握り、ぴったりと彼女の横を歩きながら、館の敷地内へと入っていった。

 門の先には石畳が敷かれ、館の正面玄関に向かって伸びていた。

 エルザはアンナを引いて、門のわきにある厩舎の方へと向かった。すでにほかの参加者も到着しているのか、厩舎の中にはすでに何頭か馬がつながれていた。エルザはアンナを厩舎に収めると、私の手を引いて黄昏館の玄関へと向かった。

 エルザは木彫りの装飾が施された大扉の足元を、杖の石突で二回叩いた。しばらくたっても返事はなく、扉が開かれる気配もなかった。エルザは慣れた様子で扉を押した。鍵はかかっておらず、古い扉は素直に私たちを迎え入れた。

 扉をくぐると、その先には薄暗く、広い空間が広がっていた。外にはすでに夕闇が迫っているにも関わらず、館の正面広間の中を照らしているのは壁に備えられた蝋燭の灯だけだった。広間の天井は二階分の高さまであり、広間の中心に配置された階段が、二階の各部屋につながるバルコニーへと延びていた。心もとない灯が天井までわずかに届き、巨大なシャンデリアを浮かび上がらせていたが、使われなくなってから長い時間が経っているようだった。扉を閉める音を最後に、館の中は森閑とした静けさに沈んだ。

 出迎えの者も待たないまま、エルザは私の手を引いて二階へとつながる階段を上ると、バルコニーを伝って、玄関から見て右側の棟へと足を踏み入れた。

 右手にはめ込み窓、左手に宿泊者用の部屋と思われる扉が等間隔に並んだ薄暗い廊下を、私はエルザに手を引かれるまま進んでいった。館内には人の気配は感じられず、私とエルザの足音だけが響いていた。誰ともすれ違うこともないまま、長い廊下の先、行き止まりの手前にある角部屋の扉の前でエルザは足を止めた。

 エルザは懐から小さなカギを取り出すと、扉を開錠した。

 部屋の中は暗いままだったが、エルザは勝手知ったる様子で入り口わきに置いてある棚からマッチを取り出すと、部屋の中に配置された燭台に火を灯していった。ベッドや肘掛け椅子、洋服棚、化粧机など、宿泊に必要な最低限の家具以外には何もなかったが、一人用の部屋にしては広いと感じた。

 エルザは荷物棚に鞄を収めると、マントと帽子を取って、洋服棚の中にかけ、私の方を振り返った。

「集会は明日の朝からだ。今夜はこの部屋で休むぞ。」

 私はエルザの言葉に頷きながら、部屋の入り口で突っ立ったままだった。ようやくたどり着いた屋根の下での宿だったが、その時の私にとって、黄昏館全体の雰囲気は、居心地の良いものには感じられなかった。

 エルザは小さくため息をつくと、ベッドの端に腰を下ろした。

「包帯を変えてやる。服を脱いでここに座りなさい。」

 私は彼女の指示に従い、下着以外の衣類を脱ぐと、彼女の隣に座った。

 エルザは私の体に巻かれた包帯を慎重にはずしていった。初めて包帯の下をのぞいた私だったが、水ぶくれや皮膚の変色に思わず声を上げた。腕や足を中心に大きくついた火傷の跡は大人になった今でも残っていた。

 エルザは水で濡らした布で傷口の周囲を拭くと、手の平に収まるほどの大きさのガラス瓶に入った無色透明な液体を私に見せた。

「これから傷口を消毒する。痛むとは思うが、我慢しろ。」

 この時の私は恐怖の表情を浮かべていたと思うが、エルザは一切気にする様子もなく、消毒液を清潔な布に染み込ませると、予告もなしに傷口にあてた。

 自分でも情けなくなるような苦悶の声が出たが、私は歯を喰いしばって耐えた。

 エルザは淡々とした手つきですべての傷口を消毒すると、今度は持参した軟膏薬を厚めに傷口に塗り、その上から新しい包帯を巻いてくれた。その間、何度か痛むことはあったが、私は目に涙を浮かべながらも耐えきった。

「これで終わりだ。よく我慢したな。」

 そういって最後の包帯を巻き終えると、エルザは私の髪をクシャクシャと撫でた。

 緊張から解放された私は、そのまま後ろ向きにベッドに倒れこんだ。壁にかけられた燭台の灯が揺らめき、壁に伸びたエルザの陰もかすかに揺れていた。

 エルザは私に部屋でおとなしくしているように言い含めると、部屋を出て行った。

 旅疲れのせいか、私の瞼はあらがえないほどの重さで閉じていった。


 一時ほどして目が覚めると、エルザが部屋に戻ってきていた。いつの間にか彼女はゆったりとした黒のローブに着替え、窓際の椅子に腰かけて熱心な様子で本を読んでいた。私が目覚めたことに気づくと、彼女は目の前にある小さな机の上に乗せた盆を見やった。

「腹がすいているだろう。夕食をもらってきたぞ。」

 そういって、また読書に没頭していった。

 私はもう一つの椅子に腰かけた。盆の上の皿には、焼いた鶏肉と茹でた卵、野菜を挟んだ白麦パンのサンドと、冷めた玉ねぎスープ、小さなリンゴが一つとお茶の入った杯が載っていた。どう見てもひとり分しかなかった。

「エルザさんの分は?」

「私はすでに済ませた。」

 エルザは本から目を上げずに言った。

 私は一人で黙々と食事にありついた。料理は冷めていたが美味しかった。食事をしながら、側の窓から外の景色をうかがったが、館の敷地は夜の闇に沈み、何も見えなかった。

 冷めたお茶をすすりながら、私は読書に没頭するエルザの横顔を眺めた。湯浴みでもしてきたのか、エルザの髪は微かに湿り気を帯びており、三つ編みにしていた髪はほどいて、毛先をひもで簡素に結っていた。知的な青の瞳は本の文字を追うために上下に細かく動き、たまに眉根を寄せている表情から、何事か考えごとをしながら読み進めているらしかった。

「何を読んでいるんですか。」

 手持無沙汰になった私は何気なくエルザに尋ねた。

「ああ、この本か。これは『現代天文術』という書だ。私の知り合いの天文学博士が書きあげたばかりの新書でな。星の観測に関する新たな手法の紹介と、その観測手法で得られた新しい発見が記されている。なかなかに興味深い書籍だ。」

 エルザは嬉しそうにそういうと、私にその本を差し出してきた。開いてみると、何かしらの道具や、点と線、多くの記号で記された図以外はすべて小さな文字で記述されており、幼い私には到底理解できなかった。その時わかったことといえば、この魔女は本がとても好きだということだった。彼女の自宅を思い出せば明らかなことではあったが、本に関して語るエルザはとても楽しそうに見えた。

「エルザさんは本が好きなんですね。」

 子供にとっては少しばかり重い学術書を返しながら、私は言った。

 今までに見たことがないほど柔らかい表情でエルザは頷いた。

「長い時を生きる私にとって、読書は欠かせない趣味だ。坊やも賢くなりたければ多くの本を読むことだな。…どうかしたか?」

 エルザが私の顔をのぞき込んできた。

 気が付くと、私の頬は涙で濡れていた。胸が締め付けられるような感覚になりながら、私は我知らずつぶやいた。

「母さんがよく、絵本を読んでくれました。」

 我慢しようとしたが、涙が止まらなかった。私は拳を強く握りしめ、嗚咽をこらえながら、今までにない感情が沸き上がってくるのを感じた。

 ただ、悔しかった。家族を、村の人全員を殺されたこと、住む場所を失ったこと、そして、ただ一人取り残されたこと。これから先、どうやって生きていけばいいのか、その時の私は将来のことなど何もわからず、内臓が冷えていくような不安と焦燥に耐えるしかなかった。

「…夜も遅い。今夜はもう休みなさい。」

 そういうと、エルザは私をベッドにいざなった。私はしゃくりあげながら、布団を胸元まで引き寄せた。薄暗い部屋の天井は涙で曇っていた。

 枕元に座ったエルザはそっと右手の掌を私の額にかぶせてきた。途端に急激な眠気に襲われた私は、泥のように朝まで深い眠りについた。

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