第3章 遠雷③

 魔女の家での学びと労働の日々が続いた。

 その時の私にとって、エルザとの一対一の座学は苦痛でしかなかった。エルザは厳しく、常に私に高い水準での学習効率を求めた。それがエルザの言っていた、「人の一生は短い」という言葉に基づくものであるというのは理解できたが、私の学習容量を一切考慮に入れない授業ペースに次第に疲れを感じるようになっていた。

 「これは昨日覚えたはずの文字だぞ。なぜ書けないんだ。」

普段は感情を感じさせないエルザの話し方は次第に苛立ちを見せ始めた。私は師匠からの叱責に心身ともに緊張で疲れ果てていた。エルザからの指導通り、間違えた文字を書き直しながら、紙の上の文字を涙で滲ませたものだった。私は目を腫らし、鼻をすすりあげながらも、しかし文字の書き取りをやめることはしなかった。エルザ師匠の教え方は厳しく、つらいものだが、それでもこの学びが渡り烏への復讐へとつながるのだと思うと、簡単に投げ出すわけにはいかなかった。7日間のつめこみ授業を終え、私は全ての文字の読み書きができるようになっていた。

 エルザは私の学習帳をめくりながら、かすかに鼻から息をはいた。 

「その年でこれだけ書けるようになったのなら上等な方だ。明日からは物語を題材にした国語らしい授業をしてやろう。」

そう言うと、昼食を準備するために厨房へと向かっていった。

 午後からは馴染みの労働だった。掌にできては潰れる豆の痛みに耐えながらも、私はエルザに指示されるままの家事を黙々とこなした。

 厳しい学びと苦しい労働だけの生活であれば、幼い私の心は簡単にくじけていたことだろう。だが、エルザ師匠との日常の中には楽しみもあった。それはエルザがしばしば夜の時間に実施する天体観測の手伝いだった。はじめのうちはエルザに指示されるままに作業の補助をしている程度だったが、私の中で次第に夜空に浮かぶ星々への関心が強まっていった。エルザは自分の観測作業を終えた後は、自由に天体遠眼鏡を使う時間を私に与えてくれた。私は次々と遠眼鏡の角度と焦点を切り替えながら、視野の中に浮かび上がる惑星たちの個性様々な姿に心躍らせたものだった。

 ある夜の観測の時のこと、遠眼鏡の操作に夢中になっている私にエルザ師匠が尋ねてきたことがあった。

「お前はなぜ、星を観るのが好きなんだ?」

 私は暗闇の中に浮かびあがるエルザの輪郭に目を向けながら、感じるままを答えた。

「綺麗だからです。星の光とか、表面の模様とかが。」

 そして遠眼鏡のレンズに目を戻す前に、彼女に質問を返した。

「エルザ師匠は…なぜ星を観るんですか?」

 エルザが微かに首を傾げたような気配がした。

「そうだな…宇宙の理を研究することが私の仕事であり、そして、この世界の外側への道を…」

そう言いかけてエルザはため息をついた。

「…いや、あとはお前と同じだよ。私も星々の輝きに魅せられている。ただそれだけだ。」

 私はしばらく闇の中に浮かぶ彼女の輪郭を見上げていたが、やがて、天体遠眼鏡へと目を戻した。その日のエルザはいつもより長く、私に自由観測の時間を与えてくれた。

 エルザの日常はというと、私への授業や家事、休憩の時以外はいつも調べ物や書き物をして忙しそうにしていた。エルザが作業をするときは主に書庫奥の机の上だった。掃除の際、私はしばしば机上の物をのぞき込んでいたが、散らかった机の上には、天体の動きや配置を記録した書類の山にまぎれて、この国の領土を記した地図が置いてあった。地図の上には3つの地点に印がつけられており、それが過去五年間に渡り烏に襲われた村の位置を示すことを理解した。地図の上には乱雑に書き付けたメモが重ねられており、エルザがこれまでの少ない情報から、渡り烏の足取りや、その目的を探ろうとしていることがうかがえた。魔女集会の日以来、1度だけエルザの元へとアストラエアからの書簡を携えた梟が来たことがあった。いずれも王都近隣の村には異常がなく、渡り烏が動いた気配は見られないという知らせだった。


 エルザの弟子になってから、ひと月ほどの時間が経とうとしていた。

 私はすでに読み書きを習得し、簡単な内容の物語ならば問題なく理解できるようになっていた。家事についてもエルザからの叱責は少なくなり、それなりにそつなくこなすようになってきた。そのころから、私はよく悪夢にうなされるようになっていた。内容は決まって、燃え盛る故郷の村の中を両親の名を呼びながら彷徨い続けるというものだった。炎と家屋の残骸に縁取られた迷宮の中をさまよううち、村人を虐殺したあの黒い影が視界の中にちらついた。渡り烏を見かけるときはいつも誰かを血に染まる黒い槍で串刺しにしている光景だった。私はその姿を見かけるたびに、回れ右をして恐怖に追い立てられながら悪夢の中を彷徨し続けた。

 ある夜、夢の中でもがき苦しむ私に呼びかける声があった。気が付くと、書庫の薄闇の中にエルザの青い瞳が浮いていた。

「このところ、よくうなされているな。悪い夢でも見ているのか?」

 枕元に座る彼女は私が身を起こすのを手伝ってくれた。

 私は全身にかいた汗の冷たさに震えながら、かすれた声をだした。

「村が燃えてます。やつが、渡り烏が、人を…」

 エルザはしばらく黙って私の背中をさすっていたが、やがて枕もとを離れると温かいお茶の入った杯と、一冊の本を持ってきた。

 私が落ち着いた頃合いを見計らって、エルザは枕元のランプに火を入れると、その年季の入った表紙を私に見せてくれた。

 それほど分厚い書物ではなく、古いものだったが、題名は美しい金文字で装飾され、丁寧な装丁が施されていた。

「これは『ほのおのまじょと』…」

「『炎の魔女と失われた王国』だ。とても古い物語だが、眠れないのならば、この話を聴けば気もまぎれることだろう。」

 そう言って本を開くと、普段よりも落ち着いた声音で音読を始めた。エルザの澄んだ声が、狭い書庫の中で微かにこだまして私を空想の世界へといざなっていった。


 はるか昔、地上における人類と凶竜の戦いが終わり、人の子たちの国が興ってまだ間もない頃の時代、「白の都」と呼ばれる美しい都市を治める一人の王女がいた。その国は誕生してから三代にわたり女の王を戴いて繁栄してきた。歴代の王女は「魔法」と呼ばれるこの世ならざる神秘の力を用いて国民を助け、守り、その国土は小さいながらも豊かで穏やかな文化を育んでいた。三代目のその王女は母親ゆずりの美貌と、そして国民の生活が困窮すれば直ちに魔法で助けるという慈悲深さから、民からおおいに慕われていた。また、戦場では自ら前線に立ち、その剣の鋭さで敵将を討ち取るという勇猛さでも知られていた。

 王女の名を聞きつけ、多くの近隣国の男の王たちが彼女に婚姻を求めてきた。男たちは甘い言葉をささやき、高価な贈り物をし、王女の心を射止めることに躍起になった。しかし、王女は、男たちの目当てが彼女自身ではなく、また彼女の国でもなく、彼女の魔女としての力であることを見抜いていた。王女は、自らを剣の立ち合いで打ち負かした者と婚姻を結ぶと宣言した。多くの男の王が王女との剣の試合に名乗り出たが、しかし、誰一人として、王女の剣の前に勝利した者はいなかった。ほとんどの王たちは諦めたが、婚姻を申し出た王の中で一人、王女の力を手に入れることに執心する者がいた。その王は自らの帝国の版図を広げ、世界を征服する野望を秘めていた。その王は『古き災厄』と呼ばれる凶竜種の生き残りと契約し、竜人の軍隊を率いて王女の国土に進行した。王女は自ら剣をもって敵を迎え撃ち、戦場を駆けた。しかし、竜人の軍隊に王女の兵士たちは次第に押され、とうとう、白の都は包囲されることとなった。国民を戦に巻き込むことに心を痛めた王女は、自らの身と力を差し出すことを条件に、白の都への侵攻をやめるように敵国の王に申し出た。竜人兵を率いる王はこれを承諾し、王女は敵へと下った。しかし、竜人の王は王女の身柄をその手に収めた後、白の都へと侵攻を開始した。白の都は瞬く間に蹂躙されていった。裏切られたと知った王女は拘束を解き放つと白の都へと取って返し、城の天守を死守した。しかし、最後には城の門も破られ、王女を守る最後の騎士たちも殺され、とうとう王女は独りになった。王女へと剣を突きつけ、勝利を宣言する竜人の王に、王女は怒りを爆発させた。自らを薪とする魔女の怒りの炎は、敵国の王を、竜人兵を巻き込み、城の天守を焦がした。王女、いや、魔女の怒りの炎はそれでも納まらず、最後には白の都すべてを飲み込んだ大火となり、天を舐めるほどの巨大な炎の柱が立ち上るのが近隣国から見て取れた。かくして、魔女が治める白の都とその国は歴史から姿を消し、その存在は伝承の中でのみ語られるものとなった。


 最後の一文を読み終えると、エルザはパタリと本を閉じた。それほど長い物語ではなかったが、ほかの子供向けの物語のように幸せな終わり方をする物語ではなく、むしろ暗い気持ちにさせられる結末だった。しかし、私の脳裏には白の都の壮麗な景色や、戦場を駆ける美しい王女の姿が鮮明に想像された。

「悲しいお話ですね。」

布団の中から枕元に座るエルザを見上げながら、私は率直な感想を口にした。

本の表紙を撫でていたエルザは小さくため息をつくと、私の髪をくしゃりと撫でつけた。

「…そうだな。だが、この物語は一つの教訓とも取れる。大きな力を求める者はその力に焼かれ、力を持つ者もその力によって災厄を呼び、やがて自らの力によって滅びる。過ぎた力や、報復心というのはいつか人の身を亡ぼす、ということだ。」

そう言うとランプの灯を消し、枕元から立ち上がった。

「少しは落ち着いたか?明け方までまだ時間がある。休みなさい。」

 書庫から出ていこうとするエルザの方に目を向け、私は尋ねた。

「この物語は、本当にあった出来事なのですか?」

 扉に手をかけたまま、エルザは答えた。

「この物語が書かれたのは遠い昔のことだ。物語が書かれるきっかけになった出来事はあったのだろうが、それが真実かどうかを確認する術は、もはや無い。」

 扉が閉まる音が聞こえた後、ほどなくして私も眠りに落ちた。


 翌朝、私が目を覚ました時には既に着替えを終えたエルザが旅支度をしていた。エルザは普段の黒一色の装束ではなく、金糸の刺繍が施された深い紺色ローブを纏っていた。眠気眼をこする私に彼女は小さな革鞄を投げてよこした。

「朝食の前に荷づくりをしろ。お前が持つのは着替えだけでいい。」

 私は事情も分からぬまま着替えを済ませ、数少ない着替えを鞄の中に詰めた。

 荷づくりを終えたエルザと一緒に朝食の席に着きながら私は彼女に尋ねた。

「どこかへ出かけるんですか?」

「王都へ出かける。仕事だ。」

 そう短く答えると、彼女は食事前の祈りを始めた。

 

 季節は春から初夏に移り変わり始め、街道沿いの緑は濃さを増していた。

 エルザと共にアンナの背中で揺られながら、私は以前に王都を訪れた時のことを思い出していた。去年の暮れのこと、私は父にせがんで王都での式典に連れていってもらったことがあった。高い城塞に連なる無数の尖塔や、大通りを行きかう人々の活気、都市の中心に位置する王城の威容に、生まれてから小さな村の中でしか過ごしてこなかった私はただ圧倒された。もう一度あの景色を目に収めることがことができるのだと思うと、私の胸は高鳴った。

「王都までは二日ほどかかる。今夜は中間の町で宿を取るぞ。」

エルザは王都がある方角を杖で指しながら言った。

私は頷きながら、今回の旅の目的を師匠に尋ねることにした。

「エルザ師匠が朝に言っていた仕事ってなんのことですか。」

「言葉通りの意味だ。お前が私の家で過ごすために労働をして対価である食事や住まいを得ているのと同じように、私も王都で働いて収入を得ている。それだけのことだ。」

 私は思わず頭上にあるエルザの顔を振り仰いだ。

「師匠も働いているのですか?」

 エルザは腕の中の私を見下ろしながら、微かにあきれた声を出した。

「当たり前だ。日々の食事や薪を購入するための金はどこから出ていると思っている。まさか私が魔法で金貨でも作りだしているとでも思っていたのか?」

 内心、そのように無邪気な発想を持っていたのが正直なところだったが、私はエルザの言葉を聞いても、魔女が世間一般の人々と同様に職業を得て働いていることが想像できなかった。

「…師匠はどんな仕事をしているのですか?」

「私の職業か。そうだな、わかりやすく言うなら教員だ。私は王都の王立大学で非常勤講師を務めている。明後日は三か月に一度の出張講義の日だ。」

 私は驚いてまたエルザの顔を見上げた。

「エルザ師匠はほんとうに『せんせい』なんですね!」

エルザは私の頭をクシャクシャと撫でつけた。

「当然だ、私は魔女だぞ。普通の人間では考えられないほどの知識をこれまでの長い人生でため込んできたんだ。加えて私たちは一度得た知識を忘れたりはしない。魔女が就く職業としては最適なものだと思うがな。」

 エルザは珍しく口元を和らげていた。普段魔女について彼女が語るときは声に自嘲的な響きが混ざっていたが、自分の職業を明らかにした時の彼女はどこか誇らしげに見えた。

 私は初夏の日差しを照り返す街道に視線を戻しながら、王都へ向かう期待がさらに高まるのを感じた。


 王都へ向かう道中、セントヘレナという小さな宿場町で宿泊し、翌日の昼過ぎに私たちは王都の城門へとたどり着いた。

 王都『ミナス・アノール』の城門前には関所が設けられており、一般の人々をはじめ、行商人や役人、農民、兵士など、職業や社会的階級に応じて入場口が分けられていた。関所の各所には鎧を纏った兵士たちが人々の列へと目を向けていた。

 私とエルザは馬から降りると、『役人』と書かれた看板の検閲所に向かった。

 エルザは帽子を取ると、懐から手のひらほどの大きさの革張りの手帳を取り出し、手慣れた様子で検査官に提出した。

 検査官の若い男はエルザからの入城許可証を受け取りながら、にこやかな表情であいさつした。

 「こんにちは、エルザ・ランディア教授。今回の入場の目的は何でしょうか。」

 「いつもと同じ、王立大学での出張講義です。」

 検査官は形式に乗っ取り、許可証の中身を確認すると、入場許可印を押した。

 「結構です。こちらの少年は?」

検査官は関所のカウンターから身を乗り出して私を見下ろした。エルザが私を連れていることをとがめているわけではないようだが、私は緊張で顔が強ばるのを感じた。

「この子はカニンガム教授の親類の子です。一度王都を見せておきたいという教授の相談があって連れてきました。入城手続きに関しては保護者同伴という形でお願いしたい。」

「なるほど、それでしたらこちらの入城記録に貴女と、その少年の名前を記載してください。臨時の入城許可証を発行いたします。」

私は検査官が指し示す場所に拙い文字で自分の名前を書き込んだ。その横にエルザがサインすると、検査官は私に小さな皮張りの手帳を手渡した。なかには王印が押された入場許可証が入っていた。

「それではご入城ください。王都で過ごす日々が充実したものとなりますように。」

検査官は私に微笑みかけた。

エルザは検査官に軽く会釈すると、私の手を取って歩き始めた。

振り替えると、検査官の男はまだカウンターごしに手を振っていた。

ミナス・アノールの城門は行き交う人々と馬車の波でごった返していた。私たちは城門横の一般人向け厩舎にアンナを預けると、都の中心街へと足を向けた。

 白い大理石で舗装された王都の目抜き通りは多くの露商でにぎわっていた。エルザは王立大学教員の制服を翻しながら、人込みの中を進んでいった。私は周囲の景色を眺めながらも、師匠の早い歩調についていくのに必死だった。

「今夜はどこへ泊るんですか。」

エルザは正面を見たまま答えた。

「王都での滞在中は王立大学に勤めるカニンガム教授の家に厄介になる。彼の家に向かう前にどこかで昼食にしよう。」

露店にならぶ珍しい品々に気を取られる私を引きずりながら、エルザは黙々と歩を進めた。城門から続く大通りを抜け、中央広場を囲む街角の食堂にて私たちは昼食にありついた。広場中央の噴水を眺められる屋外の席は昼下がりの陽光に温められ居心地がよかった。食事の注文はエルザに任せ、私は広場から見上げる位置にそびえたつ王城の姿に心を奪われていた。大理石の城壁は新しい蝋燭のように艶やかな白い光を発しており、中心にそびえる天守閣は真っ直ぐ空に向けて掲げられた剣のようだった。

料理が来るまでの間、エルザは鞄の中から取り出した書類に目を通し始めた。王立大学の紋章が刺繍された制服と、眼鏡の組み合わせは理知的な彼女の姿をさらに際立たせており、ほかのテーブルに座る人々も時折エルザに視線を向けていた。

「なんだ?私の顔に何か付いているのか?」

私からの視線が気になったのか、エルザ師匠は書類から目をあげて眼鏡をわずかにずらした。綺麗に磨かれたレンズが陽光を反射して煌めいた。

「いいえ、そういうわけではないです。何を読んでいるのですか?」

彼女を無遠慮に眺めていたことに引け目を感じた私は話題を作ることにした。

「これか?この書類は明日の出張講義のための原稿だ。まる一日の講義になるから、いつも話すことを決めてから講義に望むようにしている。」

そう言うと、原稿の中身を私に見せてくれた。びっしりと書き込まれた原稿の中には、普段エルザの机の上で見る記号や図表なども見てとれた。

「師匠は大学で何を教えているのですか?」

原稿をエルザに返しながら私は尋ねた。

私からの質問に珍しくエルザの口元が緩んだように見えた。

「私の専門は天文学と宇宙物理学だ。授業では普段私が天体観測した結果や、宇宙の法則に関わる計算結果などを学生たちに教えている。今回は…」

そこまで言ってエルザはかけている眼鏡を軽く指先で押し上げた。

「お前に手伝ってもらった観測結果も授業の中で公開するつもりだ。ここ最近はかなり良質の観測結果が得られたからな。」

 それを聞いた私はエルザの大学での講義景色に少なからず興味を覚えた。

「師匠、僕も…」

エルザへ要望を申し出ようとした調度そのとき、目の前に料理が乗った皿が置かれた。大皿の上には丸く焼かれたパンのようなものが3段に重ねて乗せられていた。一番上の段には半分溶けたバターが薄くきつね色に焼き上げられた緩やかな曲面の上をゆっくりと滑り、甘い香りが私の鼻をくすぐった。

私は初めて見たその食べ物にすべての興味を奪われていた。

「なんだ、月見焼きを見るのは初めてか?」

エルザはというと、一緒に運ばれてきた小さな壺から焦げ茶色の蜜をその月見焼きとやらの上に垂らしていた。エルザは自分の分に蜜をかけ終わると、私に蜜壺を渡しながら説明してくれた。

「これは小麦粉と卵、牛乳を混ぜ合わせて焼き上げたものだ。一般的にはハチミツをかけて食べるらしいが、この店の偃月樹から採った蜜はこの店の名物になっている。さあ、食べてみろ。」

私はナイフとフォークで月見焼きの一角を大きめに切り取ると、思い切り頬張った。普段食べているパンよりもはるかに柔らかな食感に、バターと偃月樹の甘さが染み込んでいた。気が付くと、私は口いっぱいに月見焼きを詰め込むことに夢中になっていた。

「あまり急いで食べると喉に詰まらせるぞ。」

エルザ師匠から窘められてしまったが、彼女自身も口を動かすことに専念しているようだった。

あっという間に皿の中身を平らげた私は、食後のお茶をすすりながら感動に浸っていた。

「こんなにおいしいもの、生まれて初めて食べました。」

エルザは私の鼻先についた蜜を拭きとりながら、少しあきれた声を出した。

「まったく、お前というやつは分かりやすいやつだな。私が出す食事にはそこまでかぶりついたことはないだろう。」

「すみません、でも、あまりにも美味しかったから、つい…」

慌てて謝る私の頭をエルザはクシャクシャと撫でつけた。

「まあ、いいさ。お前が満足したのならな。」

その時のエルザははっきりと笑顔を見せていた。彼女と出会ってから、それが初めて見た魔女の笑顔だった。


偃月屋での食事の後、私たちは王都の中央市街地を離れ、カニンガム教授夫妻を訪ねるために居住区へと向かった。一般市民の居住が許されている住宅地は、商店や役所、政治庁舎が立ち並ぶ市街地よりも高い土地に設けられており、私たちは川の流れに逆らう方向で王都の中を流れる運河沿いに移動していた。王都内を巡回する荷馬車の上で揺られながら、私は後方に離れていく王城の尖塔を見送っていた。

「王都ってすごく広いんですね。」

思わずつぶやいた私に、エルザは編んだ自分の髪を撫でながら答えた。

「そうだな、この国の人口の1割が居住しているということを考えれば、とてつもなく大きな城塞都市だと言えるだろう。かつては居住区もなく、ただ王城とそれを囲む城壁だけの砦だったが、ここまで繁栄した都市になったのは3代前のセオデン王の功績だ。彼は政治に関してはいまいち振るわなかったが、都市設計だけは天才的な感覚の持ち主だったからな。」

どこか懐かし気に故人を語るエルザ師匠だったが、後日聞いたところによると、セオデンとは150年前に都を収めた王の名前だった。普段何気なく共に過ごし、知識を授けてくれるエルザ師匠だったが、彼女が語る遠い昔の話題を耳にしていると、魔女であるエルザは私のような普通の人間とは全く違う時間軸の中で生きていることを実感させられた。そして、時として私はそれを寂しく感じることもあった。


 王都での滞在先であるカニンガム教授夫妻の家に到着したときには、すでに日が傾き始めていた。カニンガム夫妻宅は王都の外れの高所に位置しており、そこからは都の市街地を見下ろすことができた。遠くにたたずむ王城は西日の中で黄金色に輝き、城壁下の市街地は影の中に沈み始めていた。

「言うまでもないが、この家では粗相をして迷惑をかけるなよ。カニンガム夫妻は優しい人達だが、そういう人にこそ礼節を尽くすことを忘れるな。」

「はい、エルザ師匠。」

エルザは頷くと、年季の入った木の扉を叩いた。

間もなく、家の中から返事が聞こえ、扉が開いた。扉の陰から現れたのは、柔和な表情をした初老の女性だった。

「まあ、いらっしゃい。エリザベス。首を長くして待ってたわよ。あなたー、エリザベスが来たわよー」

出迎えに出てきたカニンガム婦人は家の奥にいるであろう夫に呼びかけた。

「ご無沙汰しております、カニンガム婦人。今回もご厄介になります。」

エルザは丁寧にお辞儀をした。私は急いでエルザ師匠に習った。

「いつものことなんだから、かしこまらなくていいのよ。ところで、こちらのかわいい坊やは?」

カニンガム婦人は目じりいっぱいにしわを寄せて私に微笑みかけた。

「この少年は訳あって、今は私の家で預かっています。仔細は後程説明しますので。」

エルザに肩をつつかれ、私はもう一度お辞儀をして自己紹介した。

「ラルフ・ラングレンといいます。よろしくお願いします。」

「まあ、きちんとご挨拶ができて偉いわね。さあ、どうぞ中に上がって頂戴。」

「お邪魔します。」

私とエルザは同時に挨拶すると、玄関をくぐった。

「やあ、いらっしゃいエリザベス。」

玄関先の階段の上からあごひげを蓄えた男性が下りてきた。

「お邪魔します、カニンガム教授。今回もご厄介になります。」

「なあに、学生や教員ばかりが話し相手の日常じゃ、退屈なものでな。君が来てくれるといつも刺激があって楽しいのだよ。して、こちらの少年は?」

私は急いで頭を下げた。

「初めまして。ラルフ・ラングレンと申します。今は訳あってエルザ師匠の家に厄介になっています。よろしくお願いします。」

今度はきちんと自分で挨拶した。

カニンガム教授は丸メガネの奥の目を細くして私をみた。

「おや、エリザベスが人の子の面倒を見るとは珍しいな。こちらこそ初めまして。私の名前はエリック・カニンガム。王立大学で考古学を教えている者だ。どうぞよろしく、少年。」

そういって身をかがめると手を差し伸べてきた。

私は深いしわが刻まれながらも、力強い彼の手を握り返した。このときは子供に対して対等に挨拶をするカニンガム教授のことを珍しく感じた。

「さあ、腹が空いた頃合いだろう。食事にしようじゃないか。」

私とエルザは荷物を客間に置くと、ダイニングへと通された。カニンガム夫妻宅は王都居住地の標準家屋であり、けっして広いとは言えなかったが、老夫婦二人が住むには十分とのことだった。

昼食を軽く済ませたこともあり、エルザと私はカニンガム婦人の手料理におおいに舌鼓を打った。エルザが日常的に作る料理も私にとって不満があった訳ではないが、カニンガム婦人の作る郷土料理はさらに洗練されたものであり、久々に純粋に食事を楽しむことができた。

「私が思うに」

普段のカニンガム教授がどのような話し方をするのかは知らなかったが、そのときの彼は葡萄酒の杯を片手に饒舌だった。

「王立大学の教員には頭の固いやつが多すぎる。君が提唱した宇宙拡大論についても、半世紀も前の理論でしか応酬することしかできない。彼らは新しくものを考えるということを放棄してしまっているのだよ。」

カニンガム教授から勧められる葡萄酒を受けながら、エルザも今夜は珍しくよく話していた。

「まったくです。かつては盛況だった宇宙物理学の分野はもはや化石学問扱いです。世界の外側へと目を向けることこそ、我々が立つ大地の理解へとつながることだというのに。」

老教授は杯を持つ手でエルザを指差した。

「エリザベス、やはり私は君を王立大学の常勤講師として推薦したいと考えている。君のような叡知の塊をお飾りの顧問のままにしておくのはあまりにも惜しい。今の学会にも、そして学生たちにも、君からの刺激を与えてやらなければ変わるものも変わらんよ。」

エルザは杯を口につけながら苦笑した。

「お言葉はありがたいのですがエリック、私の役目は人間への手助けとして、あくまで学問の世界にヒントを残すことだと思っています。それに、今の時代の人間が私たちのような奇異な存在を受け入れるとは思えません。」

カニンガム教授は杯の中身を一息に干すと口元を拭った。

「そういうところだよ、エリザベス。君はこの世界における自分自信の役割を正しく理解している。だからこそ、君のような才能のある探求者を眠らせたままにしておくのは人類の進歩を遅らせることになると思うがね。」

それを聞いたエルザは自分の杯の中身を見つめながら、長い睫毛をわずかに伏せた。

「人類の進化は早い遅いの問題ではないのです。肝心なのは、人間が自らの力で進歩できるかどうかなのです。魔女のような超人間的な者の主導を受けたところで、それは人類の成長とは呼べない。かつての魔女狩りのような悲劇を繰り返すだけです。」

カニンガム教授は杯をテーブルに置くと、背もたれに体重を預けて嘆息した。

「確かに、人類の知識レベルが現状のままではそうかもしれん。だが、いずれ科学という名の叡知が魔法という超常現象すらも記述する日が来るだろう。君たち魔女が振るう力は、あくまで科学が目指す答えであり、いずれたどり着く終着点への道しるべとなるはずだ。ただの救い手ではなく、人類全体を教え導く存在として、もう一度歴史の表舞台に立つべきだと私は思うがね。」

それを聞いて、エルザは首を横に振るばかりだった。

「魔法など、所詮は戦うための道具に過ぎません。私たち魔女も、結局はこの世界において兵器としての役割しか求められなかったのです。過ぎた知識や力はいずれ人類全体を滅ぼすことになりかねないと、私は思います。」

なおも反論したがる夫を婦人がやんわりと制した。

「議論が盛り上がるのはけっこうなことですけれど、夜もふけて来ましたし、そろそろ皆さんお休みになりなさいな。あなたもエリザベスも、明日は大事なお仕事でしょう?それに、子供はもう寝る時間です。」

カニンガム婦人は私を見て微笑んだ。

私とエルザは夕食のお礼を言うと、席をたった。


「エルザ師匠はどうしてせんせいになろうと思ったのですか?」

湯船の中から顔だけを出しながら、私はエルザに尋ねた。カニンガム夫妻宅には屋内風呂が設けられており、私とエルザはカニンガム婦人の勧めに甘えて旅の疲れを癒していた。

エルザは下着を着たまま、湯を張った桶に長い銀髪を垂らして洗髪していた。普段から体を動かしているからか、あるいは魔女になる前は身体を鍛えていたからか、エルザの身体はよく引き締まっていた。

「私が教師の道を選んだのは、ただの成り行きだ。魔女であるがゆえにひとところにとどまることはできないが、教師ならばどこへ行こうとも職には困らないからな。」

師匠の返答は思っていたよりもシンプルなものだった。

成り行きで大学教員になれるものかどうかは分からないが、少なくとも、仕事の話をしている時のエルザはどこか楽しそうに見えた。

「お前はあるのか?将来就きたい仕事は。」

エルザは洗った髪を絞りながら、片目を閉じた顔を私に向けた。エルザが私の具体的な将来について話題にしたのはこの時が初めてだった。

師匠からの質問にたいして、その時の私は答えを持っていなかった。湯の表面を見つめながら、私は自分の心だけがやけに冷たいのを自覚していた。

「今はまだありません。渡り烏を倒すことしか、考えていませんから。」

わずかな時間、髪を触っていたエルザの手が止まったが、表情を変えないまま彼女はただ

「そうか…」

とだけ答えていた。


その夜は私とエルザは客間を寝室として借用した。

寝台を師匠と分け合ったのはこの時が最初で最後となったが、疲れているにも関わらす、私はなかなか寝付くことができなかった。

静かで規則的な息を立てるエルザの寝顔を眺めながら、私は死んだ両親のことを想い出していた。

父は寡黙な性格で、躾に関しては普段はあまり口うるさく言われたことは無かった。朝早く起床し、農作業に没頭し、日が沈んだ頃に帰宅するという生活をただひたすら繰り返していた。来る日も来る日も働き、食事後の時間と睡眠以外に父が休んでいるところを見たことがなかった。

母はまめな性格で、私にとっては何かと口うるさい存在だった。遊びに関しては危ないことはするな、家事は手伝え、食事に関して好き嫌いはするなと、私を束縛する言葉ばかりの記憶が大半だった。

だが、食後の家族との団らん、就寝前の絵本の音読、両親に挟まれた寝台の温かさを思い出すと、私の目からは大粒の涙が流れ出していた。エルザ師匠を起こすまいと私は嗚咽を押し殺すことに懸命になった。目を固く閉じて布団の中で体を丸めていたが、気が付くと、いつしか頭の横にエルザの手が乗っていた。薄闇の中にぼんやりと浮かぶ青い瞳を見つめ返しながら、私はエルザという新たな保護者のすぐ隣にいながら、家族を失った喪失感の中に沈んでいた。


 

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